軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第一話:仕様変更(リスタート)

「四十二歳のおっさんエンジニアなんて、コストの無駄。今日でリストラね。あ、これ離婚届だから」

元妻の 美咲(みさき) が放ったその一言が、俺の人生のシステムを完全に終了させた。

二十四年もの間、俺は美咲の父親が経営するIT企業で、実質的なシステム開発のすべてを一人で担わされてきた。仕様書もない、納期は明日、バグが出たらすべて俺の責任。そんな地獄のようなデスマーチに耐え、高卒から馬車馬のように働いて会社を大きくしたのは、他でもない俺だ。

高校生の頃に父親が難病を患い、その莫大な治療費を稼ぐために母親が昼夜問わず働き詰めになり、最後は過労死した。だが、俺には年の離れた妹がいた。妹を大学に行かせ、普通の幸せを掴ませるためなら、どんな泥水だってすすれると思ってやってきた。

なのに、父親から社長の座を引き継いだ美咲は、金持ちの不倫相手と共謀し、俺にすべての業務の引き継ぎ資料を作らせた上で、俺をゴミのように会社から追い出した。

六月の、ひどく土砂降りの夜だった。

傘も持たず、着の身着のままで放り出された俺は、ネオンの光が歪む駅前通りのアスファルトを、ただ力なく歩いていた。

定期的に連絡を取り合っていたかつての同級生が気づかう連絡をしてくれたが、それさえ心には残らなかった。

叩きつける雨が体温を容赦なく奪い、スーツは肌にべったりと張り付いている。靴の中まで水浸しで、一歩進むごとに冷たい不快感が脳を刺した。

だが、肉体の不快感など、胸の奥を渦巻く絶望に比べれば無に等しかった。

(俺の二十年間は、一体なんだったんだ……)

両親の命、自分の青春、エンジニアとしてのプライド。すべてをあの会社に、あの女に捧げてきた。その結果が、路頭に迷う四十過ぎの無職。あまりの理不尽さに、涙なのか雨なのか分からない水滴が視界を遮る。

その時だった。

パァァァン! と、激しいクラクションの音が夜の雨を切り裂いた。

視線を向けると、大型トラックが猛スピードで交差点を曲がろうとしていた。深夜の水膜でブレーキが効かないのか、車体が不自然に滑っている。

その直線上――横断歩道の真ん中で、ポツンと立ち尽くす小さな影があった。

ひどく腰の曲がった、みすぼらしい衣服をまとった老婆だった。大きな荷物を抱え、迫り来るヘッドライトの光にすくみ上がったように、一歩も動けなくなっている。

「危ない――っ!」

考えるより先に、身体が動いていた。

自分の人生なんて、もうどうなったっていい。そんな投げやりな思考が背中を押したのかもしれない。俺はぬかるむアスファルトを蹴り、猛然とダッシュした。

水しぶきを上げながら老婆の元へ飛び込み、その細い身体を力の限り前方へと突き飛ばす。

視界が、トラックの巨大なフロントグリルで埋まった。

鼓膜を震わせる凄まじい制動音。直後、身体が宙に浮き、激しい衝撃とともに俺の身体は路面に叩きつけられた。

「ガハッ……、つ、あ……」

骨が砕ける音が内側から聞こえた。肺から空気がすべて絞り出され、口から熱い鉄の味が溢れる。指先ひとつ動かせない。あぁ、俺はここで死ぬんだ。こんな惨めなまま、終わるんだ。

急速に冷えていく意識の中、目の前に影が落ちた。

さっき助けたはずの老婆だった。不思議なことに、トラックに撥ねられたはずの彼女は傷ひとつなく、それどころか、その周囲だけ雨が避けているかのように静寂に包まれていた。

老婆は泥だらけの俺の前にしゃがみ込み、じっと俺の目を見つめた。その瞳は、深海のように底知れず、不気味なほど澄んでいる。

「優しいお兄さん。自分を捨ててまで、人を助けるかい」

老婆の声は、雨音にかき消されることなく、俺の脳内に直接響いた。

彼女はしわがれた手で、俺の血に染まった右手をそっと包み込む。その瞬間、手のひらに、ずっしりとした金属の重みと、生き物のような脈動が伝わってきた。

見ると、それは奇妙な鈍い輝きを放つ、『金色の古い懐中時計』だった。時計の表面には、見たこともない複雑な幾何学模様が刻まれている。

「これはね、失った時間を買い戻す時計だよ。あんた、このままじゃ終われないだろう?」

老婆がニヤリと、深いしわを刻んで微笑んだ。

カチ。

時計の針が、明確な音を立てて逆回転を始める。

その瞬間、時計から溢れ出した圧倒的な光が、俺の視界を、世界のすべてを真っ白に塗り潰した。

最後に耳に残ったのは、すべてを奪っていった美咲の冷え切った笑い声と、老婆の「いってらっしゃい」という静かな囁きだけだった。

◇ ◇ ◇

「 蓮(れん) ! いつまで寝てるの! 遅刻するわよ!」

声が聞こえた。

女性の声。妙に若く、張りがある。けれど、聞き覚えがありすぎる声。

(母さん……?)

寝ぼけた頭でそう思い、次の瞬間、凄まじい違和感が全身を駆け抜けた。

母さんが俺を起こす?

四十二歳のおっさんの部屋に?

いや、そもそも母さんは、俺が十代の頃に過労で亡くなっているはずだ。

俺はバッと目を開けた。

知らない天井――ではなかった。むしろ、知りすぎている天井だった。

白い壁紙の隅に、薄く残った黒い擦り跡。小学生の頃、ロフトベッドを移動させようとしてぶつけた跡だ。

顔の横にある枕は妙に低い。布団が軽い。

何より、自分の身体が、変に軽い。

「……は?」

口から出た声が高かった。

四十二歳のくたびれた男の掠れた声ではない。まだ変声期の名残を引きずった、少年の声だ。

俺は弾かれたように跳ね起きた。

視界に飛び込んできたのは、木製の学習机。青いデスクマット。その下に挟まれた、手書きの中学校の時間割表。

棚には昔集めていた漫画。床には学校指定の黒いスポーツバッグ。

全部、覚えている。ここは俺の実家の子ども部屋だ。

もう何年も前に取り壊され、跡形もなくなっていたはずの、俺の原点。

「いや、あり得ない。夢だろ……」

社会人生活で長年培った現実主義が、目の前の光景を否定しようとする。昨日はすべてを失って、大雨の中で倒れ込んだんだ。だからこれは、死ぬ前に見る都合のいい走馬灯か何かに違いない。

そう思った瞬間、部屋のドアが勢いよく開いた。

「ちょっと、本当に遅刻するわよ。何ボーッとしてるの」

入ってきたのは、エプロン姿の母親だった。

ただし、俺の記憶の最後にある、病床で痩せ細った姿ではない。白髪もなく、深く刻まれていたはずの苦労のしわもない、元気だった頃の母親だ。

「母さん……生きて、若っ……」

「はあ? 朝から変なこと言わないでよ。熱でもあるの?」

怪訝な顔をした母が近づき、俺の額にそっと手を当てた。

手のひらの、じんわりとした温かさ。皮膚が触れ合う確かな感触。

夢にしては、あまりにも生々しすぎる。

「熱はなさそうね。早く着替えなさい。朝ご飯、冷めるわよ」

パタパタと足音を立てて母が部屋を出ていく。

俺は布団の上で固まったまま、自分の両手を見つめた。

小さい。指が細い。長年のキーボードの叩きすぎでタコができていた指先も、深夜労働で荒れ果てた手の甲も、そこにはなかった。

ベッドから足を下ろし、床に立つ。視線が明らかに低い。

俺はふらつきながら、壁にかけられた姿見の前に立った。

鏡の中にいたのは、黒髪を寝癖で跳ね散らかした、中学生の俺だった。まだ大人になりきっていない、あどけなさの残る顔。

そこに、四十二歳のシニアエンジニアである俺の意識だけが、そっくりそのまま入っている。

「落ち着け。落ち着け、佐藤蓮」

深く呼吸をし、乱れる心拍数を抑える。

トラブルが起きた時こそ冷静になれ。感情のままに騒ぐ人間から順にシステムは破綻していく。デスマーチの現場で嫌というほど学んだ鉄則だ。

まず、現状を確認する。

机の上に置かれていた時計に目を凝らす。

一九九五年三月十四日、水曜日。

俺は、小さく息を呑んだ。

一九九五年。中学一年生。

世界を変える世紀の新OS『ウインズ95』が発売される、まさに直前のあの年だ。

窓の外からは、近所の子供たちの賑やかな声が聞こえる。階下からは、出汁の効いた味噌汁の匂い。テレビから流れる、懐かしい朝のニュース番組の音。

全部が、とうの昔に失ったはずの、愛おしい過去のものだった。

「……本当に、戻ってきたのか」

じわじわと、現実が脳のニューロンを書き換えていく。

あの不思議な懐中時計は本物だったんだ。俺は、四十二歳の記憶と技術を持ったまま、人生のスタートラインへと逆行した。

頭の中で、未来のタイムラインが高速で展開される。

宝くじの当選番号なんて覚えていない。競馬の万馬券のデータもない。だが、これからIT業界で何が起きるか、どの技術が世界を支配するか、そのロードマップなら完璧に頭の中に構築されている。

これから始まるインターネットの爆発的普及。検索エンジン『グーグリア』の誕生。ECサイトの巨人『アマザン』の台頭。

未来知識はある。しかし、今の俺はただの十二歳の中学生だ。金もなければ、社会的な口座も信用も、何一つ持っていない。

「なら、まずはこの日常から確実に攻略するだけだ」

前世のような、ただ搾取されるだけの無能な大人には絶対にならない。

まずは、数年後に発症するはずの父親の病気を未然に防ぐため、健康管理と医療資金の確保。そして、エンジニアとしての経験を駆使し、子供の身分でも動かせる方法で軍資金を稼ぎ出す。

慢心と強欲ゆえに、いつか勝手に自滅していく元妻の会社には、もう一秒たりとも俺の技術は使わせない。

代わりに、俺にはどうしても果たさなければならない約束がある。

思い出すのは、四十二歳の俺がすべてを失い、泥水の底を這っていた、あの絶望の雨の夜。俺の窮地を知り、連絡をくれた同じ中学の同級生―― 白雪(しらゆき) 華(はな) 。

彼女は後に天才イラストレーターとして世界的に大成功を収めるのだが、前世のあの夜、不器用で、ひどく震える声で俺にこう言ったのだ。

『――佐藤くん、私、たくさんお金持ってるから。……だから、全部あげる。お願いだから、死なないで』

「今度こそは、彼女に報いたい」

前世で最後まで俺を気遣ってくれた華に報いたい――いや、今度は俺が彼女を前世以上に幸せにしたい。

胸の奥で、静かな怒りと、それ以上の熱い決意がパチパチと火花を散らした。

制服のシャツに袖を通し、鏡に向かって小さく頷く。。

一九九五年三月十四日。

俺の、新しい仕様(人生)のプログラミングが、ここから始まる。