軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第059話 平凡でもない日常

早朝、俺は港に赴いていた。

「じゃあ、気をつけろよな」

俺はハロルに言った。

「ああ。それじゃあな」

桟橋に付いている渡し板から、ハロルは船に乗る。

ボロボロの、使いふるしの船だった。

これはレンタルの船で、返さないと違約金が発生する。

ハロルは、どうせ新造の船を買うなら、クラ人が作った最新鋭の船を買いたいと言った。

俺もそれには賛同したが、その結果、この航海にはざっとみて金貨八百枚分、八十万ルガほどの資金がかかっている。

もちろん一般の船員たちは知らないが、創業以来せっせと貯めてきた予備資金のほとんどすべてが、黄金の形でこのボロ船の船倉に入っている。

円に直せば、八千万~一億円以上の金額になる。

リスクマネジメントの専門家が聞いたら、真っ青になるような話だ。

ハロルの見立てによれば、ボロ船の船体に問題はないという話だが、実は欠陥があって船が沈没ということになったら、どうなるのか。

船員はアイサ孤島の往還船経験者で占め、つまりは肝のある連中を選んだわけだが、反乱を起こさない保証もない。

それに、俺はグレートブリテン島の緯度経度なんて知らないから、初回はやはり運否天賦になる。

座標は解るのだから「迷子になって同じ所をぐるぐる」とか「行ったり来たり」がなくなり、更には「食料が半分尽きたら帰ってくる」という技が使えるようになるわけだから、安全性は向上するはずだ。

だが、不安なことは不安だった。

そもそも、ゴラが確かな観測をしてくれなければ、それも意味を成さない。

座礁の危険もある。

「じゃあ、いってくるぜ!!!」

船上の人となったハロルが、大声で言って、桟橋へ係船してあるロープを解くように言った。

手こぎのタグボートが離岸を手伝い、桟橋から離れると、マストに帆が張られた。

そして、ハロルの乗った船は、ゆっくりと離れていった。

***

最近は、ハロル関係で忙しく、右往左往していた俺であったが、ハロルが出港すると、やることがふっつりと無くなってしまった。

ハロルがちゃんと真新しい船に荷を積んで帰ってくるのか。

考えると、非常に不安だった。

だが、もう船は出てしまったのだから、考えても仕方がない。

俺はとぼとぼと街を歩き、自然と学院の敷地に入った。

今日は休日なので、学校の用事はなかった。

だが、やはり学院くらいしか来る所はなかった。

「……寝直すか」

俺はひとりごちた。

寝よう。

幸い、季節は春で、温かい日差しは、絶好の昼寝日よりに思えた。

昨日一昨日と雨も降っておらず、土は濡れていない。

そのへんの樹の下で寝るか……。

俺は学園の半分を占める森に入って行き、適当に日当たりの良い木を選ぶと、根本に尻もちをついて、幹に背を預けた。

こんな堅いベッドで寝られるものかな。

そう思っていたが、よほど疲れが溜まっていたのか、すぐに眠気がやってきた。

***

夢の中で、俺はお爺の家で、お爺の講義を聞いていた。

俺はうすらぼんやりとした意識の中で、自分がまだお爺のことを覚えていたことに、少し驚いていた。

「不確定性原理というのがあるらしくてな。わしもよくは知らんのだが、なにやら物理畑の連中によると、物体の大本の状態を完全に正しく知るのは不可能なんだそうだ」

俺は、そのときお爺の実家におり、その講義を聞いていた。

高校生のころの話だ。

大学を引退したお爺は、孫に講釈をするのが大好きだった。

俺が聞き上手だったのもあるだろうし、単純に孫が可愛かったのかもしれない。

俺はもう高校三年生だったから、不確定性原理のことも概念と結論くらいは知っていて、おそらくお爺よりもよく知っていた。

なにしろ、お爺は経済学が専門で、解析方面で数学を使うことはあっても、物理学については完全に畑違いだった。

俺はこの学者肌の祖父のことが大好きだった。

父親に反感を持ち、学者肌のお爺を慕うあまり、俺は何故か学者に憧れた。

そして、理系大学に進んだあとも、一心に学者になりたいと願い、大学院の門を叩いた。

高校生などという人種は、成長したようでまだまだ未熟で、だからしょうがないとは思うが、あの頃の俺は、自分というものが見えていなかった。

その結果がアレだった。

俺はまったく学者に向いていなかったのに、憧れだけで道を選び、重要な選択を誤りに誤った。

向いていない大学で、向いていない研究をし、なにも成し遂げることができなかった。

だから、大学を追い出され、学者としての道を絶たれた時も、俺は大して残念とも思わなかったし、戻りたいとも思わなかった。

むしろ、ソリの合わない妻とようやく離婚できた男のように、どこか解放された気分すらあった。

「最小単位の状態を正確に理解できなければ、最小単位の繋がりでできた大きな単位を、完全に理解することはできない。物理学でも、世界の正確な形を完璧に捉えることは原理的にできんらしい。わしは、自然科学も社会科学もおおもとのところは一緒なんだなぁ、と思ったものだ」

祖父がこのとき言っていた内容は、つまりは観察者効果のことだ。

素粒子、例えば電子のような存在を観測しようとすると、観測行為そのものが電子を変位させてしまうために、正確な観測結果は得られない。

銅像を観察するために光を当てても、銅像はビクともしないが、これが超高出力の熱光線だったら、銅像はぐにゃぐにゃに溶けてしまい、どういう形だったか分からなくなる。

形を観測するための行為で、形そのものが崩れてしまうために、観測する前の形が分からなくなるわけだ。

おおまかにいえば、そのようなことが起こってしまい、素粒子の観測には必ず誤差が生まれる。

「経済学というのはな、人間一人ひとりの日常の生活を学問する学問なんだ。最終的には、人間社会の動きを極めて正しくトレースするモデルを作ることを目標としとる」

経済学者にもいろいろあるのだろうが、お爺の最終的な研究目標はそれだったのだろう。

「だが、人間には個性がある。一人ひとりが違う生き方をしとる。それが一億も二億も集まった社会を、正確にトレースするモデルなぞ、人間に作れると思うか」

お爺の専門は行動経済学だった。

行動経済学というのは、単純化された経済モデルで使われる、いわゆる合理的経済人から離れ、主に心理学などを使い、現実のリアリスティックな人間の行動を分析し、経済学に落とし込もうという、学際的な経済学の分野だ。

「わしは、もう何十年も一緒に暮らしているのに、婆さんのことが未だにわからんことがある。他人のことを本当に理解するというのは、心底ままならんものなんだ。それなのに、社会というやつは、人間が一億も二億もおる。国際社会でいえば五十億も六十億もおる。長年連れ添った、自分の嫁さんのこともよくわからんのに、社会の形をまっとうに知るなんて、人間の短い人生でできることではなかったのだ」

そう言ったお爺の顔は、なんとなく淋しげだった。

お爺は、俺から見れば目が眩むほどまばゆいと思えるような、学者として立派な成功を収めていた。

だが、お爺のいう学者としての偉業というのは、そういうものとは質が違ったらしい。

例えて言うなら、未解の真理という茫漠の闇のなかに潜り、どれだけ価値あるものを拾ってきて、白日のもとに晒すことができたか。それが学者の値打ちなのだ。というようなことを、考えていたように思う。

だから、お爺は社会的に立派と思われている自分の業績には、価値を見いだせなかったのだろう。

「わしは学者としての道を間違えた」

と、お爺は良く言っていた。

経済学というのは、どうしても通貨が表面に出てきてしまうため、金の動きを探るだけの学問というイメージが強いが、本来は人間という動物の経済活動すべてを取り扱う。

経済活動というのは、つまりは人間の飲み食い住み動く、全ての行動を総括的に表現した言葉だ。

俺はお爺を見て、学者になりたいと思い、だが生き様をみて社会科学の道を志すことをやめた。

お爺は、大学を定年で退いたあと、経済学から離れ、人からも離れ、政治経済のニュースを見ることもやめ、田舎で夫婦で土いじりをしながら暮らした。

そして、お婆ちゃんが死ぬと、後を追うようにして死んだ。

***

ふいに、現実に押し戻されるように目が覚めた。

頭がすっきりしてくるにつれ、あれが夢だったことを認識する。

よくもまあ、お爺の顔なんてものを覚えていたもんだ。

似顔絵でも書いておきたいな、と思ったとき、目の前に人がいるのが分かった。

金髪の女の子だ。

金髪の女というのは、俺の知り合いには三人しかいない。

女王陛下、その娘1、その娘2だ。

それ以外には、街を歩いていても見かけたことはない。

「カーリャか」

娘その2だった。

目の前でかがみこんで、スカートを抑えながら、俺のツラをじーっと見ている。

「やっと起きたわね」

「お前、ずっと見てたのか」

「そうね、三十分くらいは」

三十分も寝てる男を眺め続けていたわけか。

ドッラとかも、部屋に入ると寝台で寝ているキャロルをじっと見つめていて、ゾッとすることがあるから、シャン人のアホ特有の習性なのかもしれないが、こいつの場合は真っ昼間からだ。

暇人すぎると言いたくなる。

「暇人だな」

「相変わらず失礼ね」

「暇なのか」

「私が暇だと思って?」

暇じゃなかったらどうしてぼーっと眠ってる男のツラを見続けるなんて真似をしているんだ。

「忙しいなら、用事を済ませたらどうだ」

「あなた、デートしてあげてもいいわよ」

やべぇ、こいつ話通じねえ。

暇だから誰かに遊んで欲しいのか。

なら忙しいなんて言わなきゃいいのに。

「遠慮しておく」

俺は立ち上がって、尻についた汚れを払った。

こいつと遊ぶつもりはない。

ありもしない噂を補強する要因がひとつ増えるだけだ。

「なんでよ。付き合いなさいよ」

「そんな本をもって、どこへいくつもりだ」

カーリャは脇にあの本をもっていた。

ピニャが書き、コミミが印刷し、俺が製本販売したやつだ。

つまり、俺とドッラの情事が内容の本だ。

んなもんを白昼堂々持ち歩くなボケと言いたい。

「……なによ、気にしてるわけ」

カーリャは、さすがにしまったと思ったらしい。

バツの悪そうな顔をしている。

「別に気にしちゃいないが、エロ本は堂々と持ち歩くな」

「エロ本じゃないわよ。あんたちゃんとこれ読んだわけ」

誰が読むか。

俺は発作的に頭をひっぱたきたくなったが、こらえた。

「気がおかしくなりそうだから読んでいない」

「じゃあ読みなさいよ。これって文学なんだから。なんなら貸してあげるわ」

やべぇこいつキマっちゃってる。

完全に頭イッちゃってる。

「……じゃあな」

俺は逃げた。

あっという間にカーリャをまくと、寮のほうにかけこんだ。

***

寮の食堂へ行くと、ドッラが一人で飯を食っていた。

休日は他所で飯を食う連中が多いのに加え、今は昼飯時を少し過ぎている。

人が居ないのは道理というものだ。

それにしても、よりにもよってこいつがいるとは。

ドッラは、常人の三倍も四倍もあろうかという量の飯を一人で平らげていた。

モクモクと腹の中に入れている。

見ると、Tシャツみたいな袖付きのシャツは、汗で濡れているようだ。

先ほどまで訓練をしていたらしい。

休日なので、自主訓練ということになる。

ご苦労なことである。

俺は食堂のおばちゃんにセットの食事を注文すると、席についた。

昼食時を少し逃してしまったので、焼きたてのパンや焼いたばかりの肉はでてこないが、そのへんは我慢するしかない。

俺は冷えた昼食の乗ったトレーをもらうと、ドッラとはだいぶ離れた席に座った。

しばらく飯を食っていると、飯を食い終えたのか、ドッラが席を立った。

こちらに向かってくる。

くるな。

くるな。

あーあ、きちゃった。

ドッラは俺の目の前の席に座った。

「……おい」

話しかけてくる。

なんか暗いんだよなこいつ。

俺もネクラだから暗いのはいいけど。

なんというか粘りのある暗さというか。

どうせキャロルのこと好きなんだったら、夜中にじっと顔見てたりしないで、いっそ下着盗んだりすればいいのに。

プライドが邪魔するのかそういうことは一切しないんだよな。

そういうところが粘り気があるというか。

夜中キャロルの顔を見てるのは、おそらく俺しか知らないし、誰にも言っていない。

それでも、同じような行為をしている場面をピニャに描写されたというのは、偶然とは思えない。

やっぱり、そういう湿り気をもった暗黒のオーラが漂っていて、他人からもそれがわかるんだと思う。

それを、特に観察力の優れたピニャが拾い上げ、形として著した。

ドッラがわかりやすいのか、ピニャの洞察が人並み外れているのかわからないが、そういう理由あってのことで、単にピニャの事実無根の妄想だったとは思われない。

「なんか用か?」

つい2~3年前くらいまでは、アホのように武術の練習に付き合えとか勝負しろとか言ってきたもんだったが、それも最近では鳴りを潜めている。

久しぶりに勝負を挑んでくるんだろうか。

「殿下のことで話がある」

違った。

「ああ、そう」

ついに告白でもすんのかな。

夜中にツラを熱心に見ているより健全だと思うけど。

キャロルも、寝相が悪くて寝ている姿は目を半開きにして二目と見られない顔をしている。とかならいいのに。

寝相は良くて、たまに寝返りをうつくらいだもんな。

「お前、殿下のことをどう思ってる」

「はあ? 別に」

「ただの友達か」

「まあ、そんなところかな」

友達だとは思ってるけど。

しかし、なんなんだこいつは。

そういえば、普段より思いつめたような顔をしてる気がする。

「殿下はお前のことを思慕しておられる」

なんか変なこと言い出した。

はあ?

シボ?

「何をわけのわからんことを」

こいつ意味わかって言ってんのか。

馬鹿のくせに小難しい言葉を使いやがって。

「事実なんだ」

「根拠はあるのか」

「根拠だ!? そんなもんがあるわけないだろ!!」

ドッラはやおら立ち上がって大きな声をあげた。

おいおいおい。

突然キレんなよ。

「まあまあまあ落ち着けって」

「俺は落ち着いてる!」

落ち着いてねえやつほどそういうんだよ。

「とりあえず、座れ。なにがあったか話してみろよ」

俺がいうと、ドッラは渋々椅子に座った。

熱が冷めたわけではなく、ぐらぐらと沸騰している湯に少し水をかけたら、ひとまず沸騰がおさまった。みたいな感じだ。

「俺にはわかるんだ。殿下がお前を好いているのが」

ああ。

これ、特になにがあったわけでもないパターンだな。

思いつめちゃって勝手に妄想が暴走してる感じだ。

「まあ気が合うところもあるし、そう見えるのかもな」

「そうじゃないっつーのが……」

また気が昂ってきたようだ。

「待て待て待て」

「もういい。お前に相談したのが馬鹿だった」

これは相談だったのか。

初めて知った。

「相談だったのかよ。キャロルと付き合うための恋愛相談か」

「この大馬鹿野郎」

まさかこいつに大馬鹿野郎と言われる日が来るとは。

世の中わからんもんだな。

俺が呆然としていると、

「俺は部屋を移る」

と宣言した。

部屋をうつる?

部屋に戻る、じゃなくて移る?

あ?

それって辻褄があわねえぞ。

「なにいってんだ。別の部屋いったらもうキャロルの寝顔は見られねえんだぞ」

ドッラは、俺への対抗心を燃料にしつつ、キャロルの寝顔を夜中眺めることで癒され、日々の厳しい訓練に耐えている。

それがなくなったらコイツはどうなってしまうのか。

ほぼ確実に、一生キャロルとはお別れだ。

会ったり話をしたりすることはできるだろうが、こいつの性格上、親密な関係になることはまずムリだろう。

生活が荒れたり、変な女にでも騙されて人生棒に振ることになるかも。

寝顔をみるとかは同室だから許されていることで、部屋を出たあとに、キャロルが寝ているところに忍び込んで寝顔を見ていたら、これは相当にレベルの高い変態の所業としか思われない。言うまでもなく大問題だ。

「結ばれないなら結ばれないなりに、キャロルがいなくなるまで幸福を噛み締めろよ」

「だが、このままだと俺は間違いを起こしてしまうかもしれない」

「あぁ」

それが心配だったのか。

自制心が保たれなくなるとか。

それはあるかも。

俺も社を作る前は、ほぼ毎日寮に泊まっていたが、ここ一年は外泊が多いので、それで辛くなってきたのだろう。

俺が自制心の防波堤になっていたというのに、俺がホイホイ外泊するせいで、歯止めがきかなくなりかけている、と。

「それだけじゃない。俺は殿下への想いを断ち切らなければ」

「別に断ち切る必要は」

ドッラは、実のところ、わりとキャロルの花婿としてふさわしい立場にいる。

ドッラがキャロルと結婚するというのは、夢物語ではない。

王族の婿というのは、通常は近衛第一軍あるいは巫女筋から取られる。

魔女と接近しすぎないよう、シヤルタでは魔女家から男をもらってくる、ということは普通しない。

外国の王族から取られるという場合もあるが、これは今ではキルヒナしか相手国がいなく、キルヒナには女王陛下に男の子どもは居ないので、今のところ可能性はない。

巫女筋というのは、他国から流れてきた王族の血筋だ。

王族が亡命というか難民としてやってきた場合は、普通の貴族と同じで、一般市民として受け入れられる場合もあれば、どこかの将家が引き取る場合もある。

だが、そこらへんの貴族と違い、やはり王族は王族なので、さすがに貧乏して野垂れ死にされると夢見が悪い。

なので、聖山の祭祀場に祭祀者として入る道が特別に用意されている。

シャン人の宗教は一種の多神教で、原始的な自然を擬神化する信仰を持っている。

そして、なにがどうなってそうなったのか知らんが、黒海を全ての海の源と考えており、 聖沼(せいしょう) と呼んでいる。

聖山では毎夜、黒海のほうに向かって、メッカに祈るムスリム宜しく、祈りを捧げているらしい。

さすがにその仕事は退屈すぎるので、王族がやってきた場合も、聖山に入るというのはあまり好まれない。

だが、それを選んだ連中も少なからずおり、聖山の祭祀者(巫女筋)の連中には金髪が多いらしい。

これは他国の王族の血筋なので、婿としては相応しいが、こいつらは宗教家なので学院にはこない。

つまりは、礼儀作法と宗教知識以外は特別な教育を受けていない種馬で、キャロルや女王陛下がそういう奴を婿にするとは考えにくい。

例外として、将家から取られることもあるが、これは恋愛が伴ってのことで、あくまでイレギュラーといえる。

なので、親が近衛の第一軍で、まあ順調にいけば第一軍に入るであろうドッラは、そこまで悲観する必要はない。

「キャロルと結婚できるという可能性もなくはないだろ。部屋を変えるのは、その可能性を遠ざけることにしかならない」

「……だが」

うーん。

ていうかさ、俺、思うんだけど。

「おまえ、なんつーかさ……性欲が溜まりすぎなんじゃないか?」

「なっ……!」

ドッラはうろたえた。

うろたえることはないだろ。

俺はこの前、俺らと同じ年齢で、すでに子持ちという鼻持ちならんやつと出会ったぞ。

「その様子だと、娼館に遊びに行ったりもしてないんだろ。性欲を発散しないからそういうふうに思いつめるんだ」

ドッラは歳を重ねて精悍な顔つきになってきている。

筋肉質でマッチョな体つきなので、嫌いな女性は嫌うだろうが、まあ娼館にいけばそれなりにモテるだろう。

まあ、要するに、さっさといって抜いてこい。ってことだ。

「関係ねえ」

そんなわけがあるか。

「関係なかったら、どうしてキャロルを襲っちまうかもなんて思うんだ。性欲が根本からなかったら、そもそもそういう発想がでてこねえはずだろ」

「…………」

ドッラはさすがに心当たりがあったのか、黙った。

「なあ、ドッラ。人間の三大欲求ってものを知ってるか」

「知らん」

俺が知っているだけで、ものの本に載っている話ではないので、これは知っているわけがなかった。

「人間には三つ大きな欲求がある。食欲と睡眠欲と性欲だ。性欲を我慢するってのは、腹が減っても食わない、眠くなっても眠らない、そういうのと同じくらい不自然なんだよ。腹が減っても食わなかったら、力がでなくなって、しまいには動けなくなる。寝ずに三日も過ごしてたら、これもまともな仕事はできなくなる。それと同じで、性欲も我慢してたら頭がおかしくなっちまうのは、当たり前のことなんだ」

俺はとってつけたような持論を展開した。

「………」

「今晩にでも行って来いよ。そうすりゃ多少楽になる」

「いや……」

ドッラは口を濁した。

「なんでだよ。娼館行く小遣いくらいもらってるだろ」

「いや、殿下はそういうのはお嫌いみたいだし」

……馬鹿かこいつは。

お嫌いみたいだしって。

んなもん知ったこっちゃあるかよ。

すでに付き合ってるってんなら気にする必要があるかもしれないが。

いや、すでに付き合っていようが、言わなきゃわかんねーんだから、やっちまえっつーの。

「ばーか、男の性欲が女にわかるもんか。こっちはこっちで勝手にやっときゃいいんだよ」

「いやな」

何を怯えたような表情をしてやがる。

デカい図体しやがって。

「じゃあキャロルの下着でもぬす……じゃなかった、借りて自分で処理しろよ」

そうだそれがいい。

好きな子のリコーダーぺろぺろする感じで。

「おまっ!」

「どうせ気付かねーよ」

「そんなことできるわけが」

「すぐ返しとけばわからねーって」

「馬鹿、不敬にもほどが」

「誰が損するわけでもねーし、いいだろうがよ」

「口を慎め」

「カタいなあ。そのくらい若気の至りで済むんだって。大人になりゃ笑い話なんだから」

軽口を叩きながらドッラを見ると、俺を見ていないことに気づいた。

チラチラと俺の後ろを目でみながら、目線でサインを送っている。

それも見たこともねーような情けねー顔で。

なんだか今日は気が緩んでいる俺も、さすがに気づいた。

あーあ。

参ったなこりゃ。

はぁ~~……どうやって誤魔化すかな。

「というのは冗談で~、やっぱりアレだよな。女性の気持ちを考えるとそんなことできっこないよなぁ。我ながら悪い冗談だった。ははは……」

「あ、ああ……」

注意して耳を傾けると、後ろから足音が微かにだが聞こえた。

「いやぁ、冗談でも口にしていいことと悪いことがあるよな。これから気をつけるよ」

はぁ。

ドッラも気が利かねえよな。

見えた瞬間に「あ、ドーモ」とか「これから飯ッスか」とか大声で言ってくれれば、俺もすぐに気づいたのに。

俺は背中に目がついてるわけじゃないんだからさ。

それにしても、いつから聞いてたんだ?

「ところで、ちょっと真面目な話があるんだよ」

俺は声のトーンを変えてドッラに言った。

「な、なんだ?」

「お前を男と見込んで頼みがあるんだ」

「ああ」

「この飯を片付けといてくれ」

言うやいなや、俺は椅子に座った体勢から、横に転がり落ちるようにして体を崩すと、地面を蹴った。

このまま全力疾走で逃げる!!!

蹴り足の力が体を運びはじめると、ガクンと首に衝撃が走った。

後ろの襟首を捕まえられ、ほぼ同時に右膝の裏に蹴りが入り、後ろに引きずり倒される。

とっさに起きようとすると、胸板を蹴って倒された。

「逃げるな」

蔑みの目で俺を見下ろしながらそう言ったのは、案の定キャロルであった。

胸のあたりを踏まれ、押さえつけられている。

さすがに毎日のように訓練してるだけあって、踏み方ひとつとっても堂に入っていた。

「やあ、キャロルじゃん。いたのか?」

俺はすっとぼけた。

「しらじらしい。気づいていたくせに」

「なんの話だ?」

しらは切り続けるものだ。

「この変態が」

冷たい言葉が降ってきた。

「ゴミ、クズ、アホ、とんちんかん、まぬけ、変質者!」

「よくも並べられるもんだな」

「お前が変態なのはいいとして、真面目にやっている騎士の卵を 唆(そそのか) すとは。なんて情けない」

俺が変態なのはいいのかよ。

「相談にのってやってただけなのに、ひどい言われようだ」

「なにが相談だ。あんなものは相談とはいわん! 苦しんでいる学友に、しょ、しょ、娼館へいけなどと!」

顔赤くするくらいなら言わなきゃいいのに。

それにしても、さすがに全部は聞いていなかったのかな。

俺はどっちでもいいが、前半聞かれてなかったとすると、ドッラは救われたな。

「男にとっては性欲の処理は死活問題なんだよ。間違いを起こさないように娼館へ行く。これは貴族として過ちを犯さないようにするための立派な行為で」

「それを断ったドッラに、お前はなんといった!」

あちゃー。

そこ突かれると痛いねー。

「あー、なんだったかな?」

「この野郎」

胸に体重がかけられた。

「イタタ……あれは冗談だって」

「私に気づいたから言い繕っただけだろ」

バレてる。

「ユーリくん、観念したほうがいいですよ」

おや。

「ミャロは腹がたたんのか」

同意を求めるように、キャロルが言った。

「男性の社会には男性の慣習がありますので、頭から否定するのはどうかと。遅かれ早かれ済ますものらしいですし」

さすがミャロだ。

わかってらっしゃる。

騎士院の学生は、ネットでオカズも漁り放題、寝るところは一人用の私室、というような夢の様な環境が与えられているわけではない。

教養院みたいに気の利いたエロ本部屋があるわけでもない。

発散する場所がないのだ。

金を持っていることもあって、娼館というのは非常に現実的な選択肢なのだ。

「ですが、下着うんぬんというのは、ボクとしても些か下劣な発想のように思えますね」

ミャロのほうを向くと、笑みはなく、地面に落ちているゴミを見るような目で俺を見ていた。

「お前は説教だ。根性を叩き直してやる」

「ドッラ」

俺はドッラに声をかけた。

くそ、こいつのせいで。

「あ、ああ」

「メシを片付けといてくれ。心苦しいからな……なんなら食ってもいいぞ」

「お前にしては感心な心がけだな。ほら、部屋に行くぞ」

俺は襟首をつかまれたまま連行されていった。