作品タイトル不明
第335話 凍てつく城
交渉がまとまった頃には、日付が変わっていた。頭はかすみがかり、どんよりと濁っている。
アンジェリカは交渉の席から立つと、わずかによろけて卓に手を突いた。さしもの女傑も、これほど長時間の交渉となると疲労の色を隠せないようだ。
「最後に、一つ。これをレオナールに返しておいてくれ」
アンジェリカは懐から短剣を取り出し、机に置いた。シャン人が使う反りの入った短刀ではない。まっすぐな両刃の短剣だった。おそらく突いて使うものだ。
よく見ると、柄にはディヴァー家の紋章が入っている。ということは、レオナールの持ち物だったのだろう。返しておいてくれ。ということは、借りていたのか。簡単にでも借用の経緯を聞いておきたかったが、これ以上少しも会話をしたくなかった。
「それと、一言だけ伝言を。すまない、私を想え、と」
それだけ言い残して、アンジェリカは天幕から去っていった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
出撃口(サリー・ポート) をくぐって中に入ると、ほっと緊張がほどける思いがした。城壁の外にいたことで、やはり緊張していたのだということを自覚する。
「ラインハルト殿」
ファビアンが立っていた。今はもう奪われて久しい、ルオーク伯領の伯爵だった男だ。若輩だが血筋が良く、今籠もっている軍勢の中でも、かなり地位は高い。
「すまないが、後にしてくれないか。本当に疲れる交渉だったんだ。少し眠りたい」
これくらい言う資格はあるだろう。今この一瞬においては、全人類の中で最も疲れているのは自分だという確信があった。少なくとも、上位五人には食い込んでいるはずだ。
「それを押してお尋ねしたい」
他人の心労を気にも留めぬ口調で、ファビアンは言った。様子がおかしい。ファビアンは穏和な男だ。こういう時、空気を読まずに我を通すような人間ではない。
というか、よく見れば静かな怒気を感じる。周りの兵の気配も、いつもと少し違う。目に見えないほど細い針が、無数に宙に浮いて漂っていて、動くたび肌に刺さるような……わずかに殺意を帯びたピリピリとした空気が場に満ちていた。
「どうした?」
一体、なにがあった。なにかあったはずはないのだが。
もし軍事衝突があったのなら音が聞こえたはずだし、その時点で双方の護衛が血相を変えて動き出し、会談は中断されていたはずだ。
軍事衝突に限らずとも、たとえばアルフレッドが急死したとか、そういった重大な伝達事項があったのなら、使者を送ってきたはずである。 出撃口(サリー・ポート) はずっと開きっぱなしだったし、伝達の手段はいくらでもある。
「アルフレッド王が堤防を切り、ルオーク一帯を破滅させたというのは、 真(まこと) の話か?」
ラインハルトは驚きのあまり、目を見開くところだった。見えない手で心臓を鷲掴みにするようにして、辛うじて動揺を抑え込む。
なぜ、それを。
あの作戦は、その存在自体が機密だ。そうしたのはラインハルト自身である。
人夫を含め作戦に携わった者は何十人もいるが、誰も作戦の全貌は知らない。個々の作業内容だけを指示して分担させたので、誰かが口を滑らせても計画の全貌が露見することはないはずだった。
もちろん、結果を見ればこちら側がやったことは自明だ。現地ではそういうことになってもいるだろう。だが、アレジーンまで情報が伝わっていないのなら、それは起こっていないのと同じことである。実際、どこかで堤防が切れたらしい、という情報は入っていたが、皆大して気に留めていなかった。
「一体、何の話だ」ラインハルトは、胸中に抱いた強い疑念を顔に出さずに言った。「王がそんなことをする理由がない。誰からそんな話を?」
ファビアンは一枚の紙切れを突き出した。
安っぽい植物紙の紙切れを受け取ったラインハルトは、目をしばたたかせながらそれを見た。疲労からか、視界が霞んでいる。松明のうすい光の下で読むには、何度も眉間を揉む必要があった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
十二月七日未明、ククルスル川の堤防切られ、溢れ出た川水はハイゼン州、ルオーク一帯を呑んだ。悲惨という言葉では収まらぬ。 皆滅(かいめつ) である 。鏖で(みなごろし) ある。我らが慈しんだ彼の地には、今や誰一人生きる者はいない。人々が生き、笑い、耕し、商いをした地は、今や尽く川泥に覆われている。泥の中では、なんの罪なき人々の躯が川魚の死骸と入り混じり、汚泥と共に腐っている。
被害はそれに留まらぬ。おおよそガロア州ベリダ=ハイガスルッヘからオーラント州メリまでの豊かな農土は水に流された。今やククルスル川の流れは変わり、偉大なるクッセの拓きし農業用水は尽く枯れた。四百年に渡り我が国の食を支えてきた穀倉地帯ヘケレは、来年穂を垂らした小麦で満ちることはないだろう。
事故ではない。事故であれば乾季の今、これほどの被害が出ることはなかっただろう。アルフレッドは、ハイネ農業貯水池、ガロ調整池、レーニツヒト記念堰を破壊し、計画的にこの惨劇を引き起こした。元は我らが軍を一網打尽に押し流すため。そして我らが察して退くと、何の意味もなく堤を切った。
諸君が忠を捧ぐるアルフレッドは、なにゆえ民をこれほどまでに虐げるか。自ら統べると宣した豊土を川泥で覆い尽くし、養うべき民草を尽く川水に溺れさせて殺す。全土に満ちる民の怒号が聞こえぬか。親を失った子の、子を失った親の哀叫が聞こえぬか。
諸君は、祖先が拓き、累代手をかけた土地を穢されても怒らぬか。麦一つ実らぬ荒れ地を渡され、恨み骨髄に徹した民に睨まれながら、なお貴族であることを望むか。ならばアルフレッドを奉じ続けるがよい。ティレルメの人々は、誰一人としてそのような者を貴種であると認めぬであろう。
私、アンジェリカ・サクラメンタはアルフレッドに従ったことを責めぬ。
しかし、この所業を知ってなお従う者は鬼畜の一党である。
私、アンジェリカ・サクラメンタは、諸君が未だ人であることを願う。そして人であるならば、改悛を願うものである。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
表裏に印刷された一枚の紙を読みながら、ラインハルトは最悪の事態になっていることを知った。
同時に、アンジェリカが不毛な議論を続け、無為に時間をかけていた理由も理解した。ラインハルトをアレジーンから遠ざけておきたかったのだろう。
鷲の数羽が上空からこれをバラまいたところで、紙が一枚頭上から落ちてきて、頭に乗ったことを攻撃とみなす者はいない。
また、これを読んだところで、これは何を置いてもラインハルトに急報せねばならぬ、と判断できる者がいるだろうか。これは怪文書などではなく、なんとしてでも隠蔽せねばならない事実であると判断できる者がいただろうか。いや、いなかった。計画の全貌を知らされていないのだから、真偽の判断などつくはずがない。
ラインハルトは、自分を睨むファビアンを見た。
これが蔓延しているのか。この視線が、雰囲気が、この城塞都市全域に蔓延しているのか。それら一切を覆すのは、谷を満たす濃霧を 扇(あお) いで晴らすのと同じくらい不可能であることのように思えた。太陽が差すことがあれば、あるいは霧が晴れることもあるのだろう。しかし、アルフレッドは太陽の真逆にあるような、 暗澹(あんたん) とした男だった。
「少なくとも、私は聞き及んでおらぬ」ラインハルトは嘘を言った。「アルフレッド王の御意は確かめられたのか」
「ええ、リンデン公が。明確な回答なく、同様の紙をお見せしたところ激昂なされ、手を付けられなくなったと聞き及んでいます」
ラインハルトは内心で安心した。激昂したのであれば、まだ根も葉もない中傷であると言い張ることができる。
ラインハルトが同様の問いを発した時のように、「それがどうかしたか?」などと言われたら、もう隠蔽のしようがなかった。あの時の問答があったせいで、露見したら問題になる行動だったのだという理解が一応は生まれたのだろう。紙一重だった。
「そうか。では、私が直接事実を確かめる。貴殿は、諸侯にその旨伝えてくれ。このような挑発じみた文面、王の怒りは凄まじいはずだ。下手なことを言えば、何をされるか分からぬ」
ラインハルトがそう言うと、ファビアンはわずかに怖気付いたような顔をした。これはアルフレッドが妙な発言をしないよう人を近づけさせないための策略だが、実際何をされるかわからないのも事実だ。
「了解いたしました。なるべく早く、お願い申し上げる」
ファビアンは、わずかに溜飲を下げた様子で言った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「……はあ」
ラインハルトは軟禁部屋のソファに座った。割合、豪華な部屋だ。つい数日前までは牢屋に入れられていたのだが、今は柔らかなベッドのあるこの部屋で、きちんとした食事を与えられている。
「お疲れのようですね。兄上」
レオナールが言った。髪は整髪され、髭も剃っていた。なぜ急に待遇が変わったのかといえば、モンタギュー・リヒターとの捕虜交換が控えているからだった。牢屋で体調を崩し、万が一死なれでもしたら捕虜交換が成り立たなくなる。
おそらく、あれも嘘だろう。冷静になって考えてみれば、モンタギューが黙って捕まるはずがない。戦上手のユーリ・ホウのことだ。王虎部隊をあっさり捕捉して、逃げられぬよう追い込み、壊滅させたということはありえなくはない。だがモンタギューは一兵でも道連れにするために死ぬまで戦うだろう。そういう男だ。
「捕虜交換の話は嘘だったようだ」
「……どういうことですか?」
「ほら、読んでみろ」
ぺら、と昼前に会談が始まった直後投じられた 伝単(ビラ) を投じた。
レオナールは黙ってそれを読む。
「空き巣みたいなもんだ。その噂が広まる間、俺をアレジーンから遠ざけておきたかったのさ。そのためだけの 空言(そらごと) だ」
思わず、チッ、と大きな舌打ちが出た。
疲れ切った心身を怒りが満たす。あのアマ。最初から成立させるつもりなぞなかった癖に、益体もない議論を散々続けやがって。はじめから聞く耳を持たない相手に延々と無駄な説得を続け、真剣になって妥協点を探っていた自分に苛立つ。時間の無駄という言葉があるが、あれこそまさに時間の無駄だ。あの女は、こちらにとって貴重な時間を無駄にさせたかったのだ。
あの女が内心で嘲笑い、滑稽な道化師のように自分を見ていたのだと思うと、ふつふつと煮えたぎるような怒りが湧いてきた。
「……そうですか」
「そうだった、預かりものがある」
ラインハルトは、懐から短剣を取り出し、机に置いた。わずかに重荷が外れたような、清々した気分になった。
ラインハルトはこういった、人を殺傷するためだけに作られた刃物が嫌いだった。
刃物とは本来、人の生活を良くするために発明された道具だ。だから、調理のための包丁、狩りのためのナイフや、藪を払うための剣鉈はいい。それは自然な道具だし、嫌いではなかった。
だが、人を殺すためだけに、衣服を貫いて腸をえぐるためだけに作られた両刃の短剣は、気味が悪かった。人類がグロテスクな欲求を叶えるために創造した、醜悪な道具のように思える。だから身に帯びたことはないし、抜いたことさえ数えるほどしかない。
レオナールは、見覚えがあるものなのか、驚いた顔で机の上の短剣を見ていた。
「貸していたのか?」
「……え、ええ。貸していたというか……さしあげたつもりだったのですが」
アンジェリカとて、短剣一本に困るほど貧乏ではあるまい。それに、この短剣はわざわざ借り受けるほど高級なものには見えない。貴族が常時身につけるような見栄えのする代物ではなく、なんというか……用心のために机の引き出しにでも入っていそうなものだ。
「その……アルフレッドの生存が判明した後、彼女に自死を提案したことがあったのです。その折に渡したものを……まさか、未だに持っていたとは」
自死……だと?
それを送ってきたということは――。
「では、あの女はお前に、死ねという意図で……それを?」
ラインハルトは瞠目した。なんという女だ。自ら男を死地に送り出しておいて、捕虜になったら自ら死ねと 刃(やいば) を送る。まさか、それほど非情な女だとは思わなかった。
「さあ、どういう意味なのでしょうね。仮にモンタギュー・リヒターがいないとなると、そういう意味なのかもしれません」
むろんのこと、モンタギューがいなければ捕虜交換は成立しない。騙られていたことが露見すれば、アルフレッドは怒り狂い、レオナールを惨殺するかもしれなかった。これまでの類例から考えれば、自死を選んでおけばよかったと後悔するような方法で、嬲り殺しにされるのは目に見えている。
ただ、真実騙りであったのかどうかは、こちらからは察知のしようがない。向こうが言い張れば曖昧となり、その間は生かされ続ける可能性もあった。
「まてよ。最後にあの女、なにか言っていたな。 言伝(ことづ) てのようなものを……」
あれはなんだったか。聞いてから、激しい怒りを覚えた気がする。
「なんですか。兄上」
催促される。しかし、脳が疲れていて思い出せない。そもそも、会談が終わってからも雨あられと厄介事が降ってきたせいで、記憶が上書きされてしまっている。ごちゃごちゃに箱に押し込んだ衣類から、奥の一枚を引っ張り出すような抵抗があった。脳が疲れていて引っ張り出せない。
「駄目だ。思い出せん」
「兄上っ!」
あんな女の戯言、どうでもいいだろうに。
レオナールはさも重要であるかのように、声を荒げた。
ラインハルトが横目で軽く睨むと、疲れ切った表情が顔に出ていたのか、レオナールは申し訳なさそうに浮かしかけた腰を下ろした。
「……すみません、お疲れのところ」
その言葉を聞いた瞬間、記憶が蘇った。
「ああ、そうだ。すまない、だ。すまない、と言っていたな」
たしかにそうだった。いや、違う。違和感がある。
すまない。その一言だけだったら、何も思わなかっただろう。感謝されて弟は喜ぶだろうな。そう感じて、大人しく天幕を去ったはずだ。
それだけではなかった。続く一言があったから、憤慨したのだ。激しい怒りを抱いたまま、この女とこれ以上話しても無駄だ、と思いながら、天幕を出たのだ。
「そうですか……ありがとうございます」
すまない、の一言だけで終わったと思ったのか、レオナールはなにやら感じ入った様子だった。ラインハルトは淀んだ思考で、記憶をゆったりとかき混ぜるように探った。
続いた言葉は、なんだったか……。
レオナールは、唐突に黙り込んだ兄を見て、いぶかしげな顔をしている。
あの女は、この弟に、なにを言い放ったのか。いいやがったのか。
ああ。そうだ。
「私を想え、だ。すまない、私を想え。と言っていた。想ってくれ、だったかな。忘れた」
ラインハルトはソファを立った。私を想え、だと? とんでもない女だ。
レオナールは危険な任務を自ら志願したと言っていたが、それだってアンジェリカが認可したから出向いたのだろうに。だったら、仮にも王を気取るのであれば、責任があるはずだ。
それを、自死するための短剣を渡しておいて、私を想え、だと? 惑わせておいて、自分を想って喉を突けとでもいうのか。ふざけるのも大概にしろ。
「そう……ですか」
感極まった様子のレオナールを見ながら、その手に握る短剣を奪うのも面倒になり、ラインハルトは背を向けた。
あんな悪女に騙されて、この期に及んでも目を覚まそうとしない愚かな弟を、これ以上見たくなかった。