作品タイトル不明
第334話 モンタギュー
ユーリ・ホウの軍団が城壁に差し迫って一週間ほど経った頃、ラインハルト・ディヴァーはアルフレッドに呼び出された。
「モンタギュー殿が?」
ラインハルトは内心で驚いた。モンタギュー・リヒターは王虎部隊の指揮官だ。アルフレッドにとっては第一の忠臣で、全幅の信頼を置いている。慈悲というものを母親の腹の中に置いてきたのではないかと疑ってしまうほど残忍な男だ。しかし勇敢で、死をまったく恐れぬ猛将でもある。
彼が捕らえられて捕虜になったという話は、当然ながら寝耳に水だった。
「では、王虎部隊は壊滅したと?」
「……わからん」
アルフレッドは、さすがに深刻そうな声色だ。肘掛けに肘をついて、歪な左手の掌底にこめかみを預けながら、なにかを思案している。顔面は真鍮の仮面に覆い隠されているため、顔色を窺うことはできない。
「とにかく、モンタギューを捕虜にしている、とだけ言ってきている。王虎部隊とは連絡を取れんからな」
そりゃそうだ。とラインハルトは思った。王虎部隊は、長く伸びた敵兵站を叩くために後方に置いてきた。
いってみれば、絶対の忠臣が率いる、最強の軍をあえて手放し、裁量に任せたわけだ。
こちらから王虎部隊に連絡を取る手段は、残念ながら存在しなかった。
王虎部隊を置いていくという方針が決まったあと、ラインハルトは大急ぎでアレジーンに早馬を飛ばし、伝書鳩を連れてきていた。しかし運の悪いことにアレジーンの 鳩舎(きゅうしゃ) は管理不足で、たった六羽しか鳩がいなかったのである。教皇領との連絡に三羽を割いたため、王虎部隊に割り振れたのは残り三羽にすぎない。
伝書鳩は鳩の帰巣本能を利用した連絡手段なので、アレジーンの 鳩舎(きゅうしゃ) を巣として認識している鳩が、文字通り帰巣する動きしかしない。王虎部隊に預けた鳩は、文書をくくりつけて放せばアレジーンの 鳩舎(きゅうしゃ) に戻ってくる。しかし、その逆をしても王虎部隊に向かうことはない。つまり、遊撃隊として常に動き回っている王虎部隊に、こちらから連絡を取ることは不可能なのだった。
命がけの伝令でも放てば別だが、包囲を掻い潜ってアレジーンを抜け出した上、居場所のわからない王虎部隊を捜し当て、包囲を突破して戻ってくるという動きが必要となるので、いくらなんでも現実的でない。
「しかし、モンタギュー殿が捕虜になるほどの激戦があったのであれば、幾らなんでも鳩を放ちませんか?」
その時に使わなかったなら、じゃあいつ使うのだ。という話だ。
思いもしない奇襲をかけられ、伝書鳩に預ける文章を書く暇がないほど一瞬で壊滅してしまった、という場合もあるだろう。しかし、王虎部隊に関しては考えにくかった。極めて荒っぽく風紀の悪い連中ではあるが、夜間に眠りこけた立哨を斬首するような軍規の厳格さは維持している。
通りがかりの村で民家に押し入って夫を殺して妻を犯す。それは許されるが、そのまま昼まで寝ていて翌日の当直をすっぽかしでもしたら、それはきちんと処断される。そういった軍なのだった。
「あれに預けた鳩は、たった三羽だ。届かなかった可能性は十分にある」
伝書鳩には帰還率というものがあるため、複数羽を放つのが基本だ。距離にもよるが、三羽というのは一つの知らせで使う数としては少なかった。五羽も放てば大抵は届くが、三羽ではやや心もとない。
「それで? 連中は、モンタギュー殿をこちらの眼前で処刑するつもりですか?」
モンタギューは、アンジェリカ勢からしてみれば許しがたい凶行を繰り返してきた。それこそ、一千回八つ裂きにしても飽き足らないほどの憎悪を向けられているはずだ。いっそ生かして捕虜にされたこと自体、意外なほどだった。
「お前が弟を生かしたことが功を奏した。まだ生きているなら交換したいと提案してきた」
なんと。
目が覚めるような話だった。レオナールが捕虜になったという情報を、こっそり市井に流していたことが功を奏した。ラインハルトは、これが千載一遇の好機であることを瞬時に理解した。
これで、レオナールを牢から出してやることができる。アルフレッドにとっても、モンタギューが手元に戻るのは嬉しいだろう。すぐさま兵を与えて、部隊を編成させるはずだ。寄せ集めの急造部隊にはなるだろうが、ああいった猛将が率いる隊というのは、ただそれだけで粘り強く戦う。
「行ってこい」
「えっ」
「お前が行ってくるのだ。会談には、あの売女が来るらしい。俺が行けば流血沙汰は避けられん。それで、お前を指定してきたというわけだ」
ラインハルトは身の毛がよだつ思いがした。城壁から出て、敵中で会談する? 怖かった。そんなことはしたくない。
同時に、いくらなんでもこれは断れない。と悟ってもいた。
弟の人質交換についての話し合いに、兄が出向く。それはなんの異常もない、誰が考えても当然至極、それはそうなるだろうという自然な流れだ。父親の葬式で長男が喪主を務めるのと同じくらい当たり前のことで、尋常に考えれば断る理由がない。
「それは……向こうは、代表者を暗殺するつもりでは? 一体、どこで会談を」
「ふん、南の 出撃口(サリー・ポート) の近く、矢がわずかに届かん場所だ。主門の近くなら討ち取れる可能性もあるが、あそこではな……」
出撃口(サリー・ポート) は大人が横並びで二、三人通れる程度の幅しかない。それ以上大げさな門になると、破られる危険も大きくなるし、守りきれないとなったときに塞ぐことも難しくなってしまうからだ。
幅の広い主門であれば、会談が始まった瞬間に大量の兵を出し、怒涛の勢いでアンジェリカの首を討ち取れる可能性がある。しかし幅の狭い 出撃口(サリー・ポート) ではそれができない。口のすぼまった瓶から液体を注ぐようなもので、広口のバケツで思い切り浴びせかけるような用兵ができないわけだ。
アンジェリカのほうも、その危険性を踏まえてわざわざ出撃口を選んだのだろう。
というか、そもそも出撃口は小さく、城壁に隠れるように設けられている。外観や上空から見ただけでは存在自体わからないよう偽装されているので、この提案はアンジェリカがアレジーンの構造について熟知していることを意味していた。以前訪れたことでもあったのか、城塞マニアかなにかなのか、博識なことである。
「どうする。まず安全と思うが、気が進まんか」
アルフレッドは言った。ラインハルトの怯懦の気質を知っており、気遣っているのだ。
本来であれば、断れる種類の命令ではない。というか、決死の使者になることを命じているわけではないのだから、断る理由がない性質の命令であることは、ラインハルトも理解していた。
しかしこの件、レオナールの助命がかかっている。
「いえ、行きます」
勇気を奮って、ラインハルトは言った。弟を救わねばならない。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「では、これで決まりですね」
ラインハルトは苛立ちを抑えきれず、わずかに荒げた声を出した。心底うんざりした、嫌気の差したような気分が、声に乗ってしまっている。長くこういう仕事をしているが、ここまで苛立たされる交渉は初めてだった。
アンジェリカは、まずレオナールとモンタギューでは釣り合いがとれないという指摘から交渉をはじめた。
しかし、こちらにはレオナール以外の捕虜などいない。そもそも捕虜を移動させるのは負担が大きい。縄を打って歩かせるのでは歩兵の行軍についてゆけず、それに合わせれば全体の行軍が遅くなるし、そうでないなら馬車に牢をしつらえて移動させなければならない。その場合でも、昼夜問わず監視のために人員を割く必要もある。そういった理由から、アレジーンに籠もる方針を決めたあと、アルフレッドはレオナール以外の捕虜を全員殺してしまっていた。
なので、レオナールの他にもう数名オマケをつけて交換しよう、という交渉は、そもそも成り立たなかったのだ。
それなのに、そこから捕虜を隠している、隠していないの話が始まり、ワインを水で百倍に薄めたような中身のない問答が続いた。
ひとしきりそれが続いた後、「では金銭で差を埋めよう」と言い出した。そこからありえないような額の要求がされ、値切り交渉が続いた。その交渉がまとまりかけたところで、「改めて考えてみると、やはり納得できないな」と切り出され、まるで今までの経緯がなかったことのように金額を元に戻された。
それを二度繰り返したあとは、引き渡し方法の交渉がはじまった。
そこでもナンセンスな条件が提示される。まず、こちらから金銭を預けたレオナールを先に送って、その後モンタギューが送られてくるという手順だった。そのプロセスだと、言うまでもなく、レオナールと金銭を安全に受け取ったあとモンタギューを返すかはあちらの気持ち次第となる。
確かにラインハルトはレオナールを帰してやりたい。だが、いくらなんでも全部前払いという条件に乗ったのでは、まるで詐欺師の詐取に協力した内通者のようではないか。そもそもそんな結果を持ち帰ってもアルフレッドは納得しないだろう。自分の立場を危うくするだけだ。
それからも散々中身のないやりとりをしたあと、ラインハルトは問題大有りではあるが、持ち帰っても裏切りを疑われない程度の条件をまとめた。
その時点で、午前中に終わると踏んでいた会談は、既に夕方に近づいていた。本来なら数十分で終わるはずの交渉が、ほぼ丸一日かかった計算になる。その中で、建設的な話し合いと辛うじて言えるような時間は、おそらく百分の一もなかったはずだ。苛立ちもしようというものだった。
「では捕虜交換に先んじて、今日にでも使者を送らせてもらいます。モンタギュー辺境伯の身柄を確認させてください」
「駄目だな」
また、だめか……眼の前の女の考えていることが、ラインハルトには分からない。ここまで頭のおかしい女だっただろうか。
ラインハルトの印象では、かつてのアンジェリカはもっと理知的で、怜悧な女だったように思う。気高く、高潔で、王たることを望んで自らを律している女だった。だからこそ、レオナールも心酔したのではないか。
途中、ひょっとしてこれは自分を疲弊させる交渉術なのか、とも思った。ただただ疲れさせ、同じ質問を繰り返し、判断力を失わせるのは尋問の常套手段だ。
しかし、交渉としてひたすら足下を見ているようにも見える。
実際、アルフレッドにとってモンタギューは忠臣である以上に、親と子のような関係である。モンタギューを救うためであれば、アルフレッドは大抵の条件は受け入れるだろう。この交渉でも、本来は事前に設定しておくべき妥協点について、何も言われていなかった。
アルフレッドは、仮にこちらに捕虜が百人いたとすれば、百対一の交換でも受け入れたに違いない。その中に重要人物や将官がどれだけ含まれていても、モンタギューには代えられないとアルフレッドは考えるだろう。
だが残念ながら現状はそうではなく、レオナール一人との交換という場所から交渉は始まった。足元を見られても仕方がない、釣り合いが取れていない、天秤を合わせるのが難しい交渉であるのは事実だ。
しかし、ラインハルトの目には、アンジェリカには良い条件を取り付ける以上の、なにか別の目的があるように思えた。
「……さて、なにが駄目なのですか? 捕虜交換でお互いの捕虜の顔をあらかじめ確認する。別人を渡される恐れがある以上、これは誰がどう考えても、必須の手続きかと思いますが」
「こちらもレオナールの顔を確かめていない。そちらは、既に殺されているレオナールを、生きているかのように偽っているのかもしれない。我々に確かめるすべはない」
なにを言っているのだ、この女は。
「では、そちらも使者を派遣すればよろしい。引き合わせた上で、使者は丁重にお返しします」
「ああ、確かにそちらは安心して我々の陣営に来れるだろうな。我々は徳によって人々を治めようとしているし、使者を殺すことは意に反する。しかし、あなたたちはそうではない。恐怖と死によって人々を支配しようとしている。そのような方針の城に送るのでは、使者は生きて帰れない可能性が極めて高い。我々の陣営には、死んでしまっても構わないというような者は一人もいないのだ」
「ハア……」
心底気の滅入るウンザリとした気分からか、極限まで達した苛立ちによってか、ラインハルトはあからさまな溜め息を漏らしてしまった。紳士的であらねばならない外交の場では非常識なふるまいであったが、反省の気持ちは生まれなかった。目の前の女は、そうされて仕方がないことをしている。
殺されるかもしれないから、使者を送れないだと? こちらには殺す理由などないし、普通に帰すに決まっている。
だいたい、そんなことを言い出したら、話が進まないではないか。阿呆なのかお前は。本日何十回思ったか知れない内心の罵倒を、ラインハルトは繰り返した。
中身のない話をして他人を苛立たせる才能というものが、もし存在するのであれば、アンジェリカには間違いなくその才能がある。
しかし、いい加減、なにかがおかしい。この女には、なにか別の狙いがあるのではないか。
「あなたは、一体何をしたいのですか? レオナールはあなたにとっても重臣でしょう。それが、あのような 人非人(にんぴにん) の治める城に収容されている。一刻も早く助け出してやりたいとは思わないのですか」
ラインハルトは、精神の疲弊からか、つい口を滑らせた。アンジェリカは、ぴくりと眉を動かす。アルフレッドを人非人と表現をしたことに驚きを覚えたのだろう。
「そもそも、レオナールは貴様らディヴァー家の思惑に従って私の下に送り込まれた人材だろうが。もし主が倒れても、自分だけは助かろうと……歴史上一度たりとも剣を取らず、常に 謀(はかりごと) で生き残ってきたディヴァー家の郎党。実に貴様ららしい、不愉快な企てだ。そんな連中が、いざ窮地に陥ったら私の良心をなじるのか」
ラインハルトは、なんとも思わない。怯懦であれ。難事に際しては剣でなく 謀(はかりごと) で解決せよ。幼少の頃から刷り込まれてきた家風をそのまま言われただけである。罵倒とすら思わなかった。
揺れない心で、ラインハルトは考える。何かが変わった気がした。アンジェリカの口から放たれたその言葉は、今までの中身のない 空言(そらごと) ではなく、しっかりと 実(じつ) が詰まっている感じがする。
「だとしても、レオナールはあなたのために危険を冒し、捕虜となったのだ。なんとも思わないのですか」
「だから、こうして取り返そうとしている」
「そのための熱意が感じられない。レオナールは、私が無謀を叱責したら、あなたに認められたくてやったと言っていましたよ」
ラインハルトが言うと、アンジェリカは今日初めて表情に感動を宿した。心を傷つけられた少女のような、あどけない表情が浮かんだ。
しかし、すぐにその表情は消え去り、為政者の顔になった。
「貴様はレオナールの兄として言っているのだろうが、私にとってはどの将も、いや兵も同じだ。同じように、私に認められようと、身を粉にして頑張っている。戦塵にまみれて、刃の林をかき分けるように戦い、大勢の者が命を散らしてきた。その中で、レオナール・ディヴァーだけを特別扱いしろと? 恋心でも抱いて、率先して解放して、帰ってきたなら抱きついて涙でも流せばいいのか? 私はそんな人間ではないし、そんな人間であったなら、いままでやってこれなかった。そして、それはレオナールも承知しているはずだ」
ラインハルトはふいに、レオナールのことを哀れに思った。こんな顔のいい女のところに送られ、長い期間使われていれば、異性にのみ抱く特別な感情が湧きもするだろう。
もちろん、それは男の側の勝手だ。女が応じる義理はない。一般的な通念に照らせば、弄んでいるとも言えないのだろう。だが、男からの一方的な感情を断ち切らないことで、それを利用しているようには思えた。
仮に、アンジェリカが婚姻していたら? 偶像性は薄れ、今ほどの求心力は生まれなかったに違いない。きっと、この女はこの戦乱が終われば、当たり前のように王配を迎えて子を成すのだろう。そのときにはもう、戦場に男たちを向かわせる、崇拝のような偶像性は必要ないのだから。
そして、その王配はきっとレオナールではない。そのことが、無性に哀れだった。
ラインハルトには、アンジェリカのことは分からない。評判通りの清冽な正義感、真っ直ぐな人となりは間違いではないのだろう。しかし、その行いは邪悪だ。本人が狙ってやっているのか、あるいは天然のものなのか。天然であるからこそ、男たちはそこに偶像性を感じるのかもしれない。だが、もしそうだったとしても、この女が放つ光輝は邪悪であるとラインハルトは感じた。
「雑談で時間が削がれたな。こんな話をしている場合ではない。では、交渉の続きに移ろう」