軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第299話 積み藁*

アンジェリカ・サクラメンタは、自身の限界に達しつつあった。

伝令は次から次へとやってくる。それは単なる命令を実行した報告であったり、前線が崩壊した連絡であったり、退却する方向へ送った偵察の報告であったりする。

たった数分で十も二十もやってくる連絡を、一人で処理しなければならない。その中にはもちろん重要でないものも含まれている。だが、中には聞き逃したら極めてまずいことになる重要な情報もあるので、聞き流すこともできない。情報の整理と分析に意識が飲まれ、極度の緊張と集中の渦中で頭は疲弊していた。

遠くから大きな爆音が聞こえてから、有り難かった砲撃の支援も途絶えた。

陣を捨てて撤退を始めたはいいものの、たった数キロの撤退は軍に全身を切り刻むような流血を強いている。

果たして、この調子で海まで撤退することはできるのだろうか……。

心を不安が染めてゆく。焦り、そして敗北の恐怖が心を侵食する。

ここで負けたら、私はどうなるのだろう。凌辱され、晒され、嬲り殺される。そうなる前に、いっそ全てを投げ出して自決でもしてしまおうか。それでも構わない気がした。

――いや、きっと、あの男なら、この状況だって乗り越えるはずだ。鼻歌交じりにやってのけるかどうかは、分からないけれど。

なら、私にやってやれないことはない。そうに決まっている。

「よし、敵突撃を防いだベリーヌ公の軍は下げさせよ。代わりにアンジュー伯を前線に出す。アレン公とソリエッタ候には退がりつつ前線を収縮するよう別途指示する」

アンジェは、頭の中の地図で駒を動かした。

「レオナール、各部署に伝令を」

「ハッ!」

レオナールは、すぐに手元で命令書をしたためはじめた。

「アンジェ様! シヤルタからの伝令が来ました! 上空にいます」

アンジェが上空を見ると、そこには明るい陽の光の中、空を大きく旋回する五騎の鷲が見えた。

五騎?

既に、使者と思われる一騎は集団から分かれて降りてきていた。使者なら、この一騎だけでいいはずだ。

アンジェの旗の近くに降りてくると、乗り手は腰に手をやって拘束具を外した。馬のようにひらりと降りるわけにはいかないらしい。存外、面倒な乗り物のようだ。

「アンジェリカ王でございますね」

と、降りてきた使者はテロル語で言った。高貴な家柄なのか、優雅な間で軽い立礼をする。

「そうだ」

「領地通行の許可証をいただきたい。仕上がっておりますでしょうか」

使者のテロル語は、ユーリ・ホウのそれと比べれば、かなり拙いものだった。

まあ、ユーリ・ホウの師は論災の異名で知られるイーサ・ウィチタだという。それと比べるほうが愚かなのかもしれない。

「さっそく、取りに来たか。もちろん、仕上げてある」

アンジェは、使者に文書の入った筒を渡した。

「確かに、受領いたしました」

使者は、その筒を軽く拝むように受け取ると、鷲の鞍に差し込み、ベルトを締めた。それで落ちない仕組みなのだろう。

「ユーリ閣下から伝言があります。もし退却に苦労しているようなら――」

苦労しているに決まっている。向こうがどんな状況か知らないが、こちらは切り刻まれながら撤退しているのだ。

「戦場を霧に包め、と」

霧?

そんなもの、できるものなら今すぐ作っている。祈れば神がそうしてくれるというなら、今すぐ跪いて天にかしずくだろう。しかし、そんなことをしても神はなにもしてくれない。

「なんの話だ? 天候など、人の身に作れるものではあるまい」

「閣下の言葉をそのまま伝えます。このあたりの農地には、積み藁が残っている。湿った積み藁に燃えさしを差し込めば、さぞかし白い煙を吹くだろう。とのことです」

積み藁! その手があったのか。と、アンジェは思った。まったく、考えもしなかった。なんてことを考える奴だ。

積み藁とは、麦を刈り取ったあとの農家が、麦束を山にして積んでおいたものだ。道中で何度も見たが、このあたりの積み藁は小さな物置小屋くらいの大きさがある。

麦穂から麦の粒を脱穀するための脱穀機は、農家にとっては高級機械だ。各村々が所有しているものではなく、専門の業者が村々を巡回して脱穀していく。

今は九月。九月といえば、刈入れが終わってすぐで、麦は乾燥していない。そして、少し前に雨も降ったため、積み藁は濡れている。条件としては、これ以上ない好条件が揃っている。

火を入れれば、水を含んだ真っ白い煙をもうもうと吹き上げるだろう。空気より重い煙は、地面を這うようにして戦場を包むはずだ。

全体を包めなくても、帯状に視界の効かない地帯を作れるだけで、撤退には大きな助けになる。敵の集団を視覚的に孤立した状態に置けるからだ。各部隊の指揮官の視界が寸断されれば、統制された行動はできなくなる。つまり、全ての攻撃が散発的になる。上手くやれば、同士討ちも狙えるかもしれない。風向きを考えて燃やせば、そう難しい仕事ではないように思えた。

「もしお望みなら、火炎瓶で敵陣中の積み藁を燃やしてくるよう言われています。いかがしましょう」

「頼む。今すぐやってくれ」

「御意」

使者は劇の登場人物のように、うやうやしく頭を下げると、鷲の荷物入れから赤い旗を取り出して、空に向けてバタバタと振った。それだけで、上空を飛んでいた五騎はバラバラに飛び去った。すぐさま任務を遂行しにいくのだろう。

「私はこれで戻りますが、すぐにもう一騎来ます。そいつは私よりもテロル語が上手なので、偵察の用にお使いください。役に立つはずですよ」

そう言うと、使者はひらりと鷲に乗って、手早くベルトを装着すると、

「それでは、失礼」

と言い残して、空に舞い戻っていった。

ユーリ・ホウを味方にした途端、値千金に感じる助力が、至れり尽くせりとばかりに次から次へと降ってくる。

なんという男だ。敵にしていた頃は、恐ろしい男だと思った。憎みもした。だが、一度味方にしてみると……これ以上頼もしい男はいない。

アルビオ共和国は、あの海賊どもは、こんな助けを得ながら戦っていたのか。

「騎兵は松明を持って、風上の積み藁に、片っ端から突っ込んでいけ! 煙幕に乗じて退却する!」

アンジェリカは叫ぶと、馬に乗った。

◇ ◇ ◇

アンジェは白煙に乗じて敵軍を振り切り、退却を始めることができた。

そうして敵軍を引き離してすぐ、アンジェはレオナールを呼んだ。

「お呼びですか、アンジェ様」

「お前、諸将を率いてこのまま進軍しろ。私は手勢を率い、敵軍に奇襲をかける」

アンジェがそう言うと、レオナールは正気を疑うような顔をした。

「何いってんですか。お姫様が自ら? そんなの聞いたことないです」

「他の部隊はみんな傷ついていて、奇襲なんかできないだろ。完全に温存されているのは私の騎兵だけだ」

アンジェ直下の近衛歩兵は、一度予備軍として投入してしまったので傷ついていた。しかし騎兵は、最後の手駒として手元に温存していた。なので完全に無傷だ。

「そりゃそうですけど、他に任せられるのもいるでしょう」

「無理だ。積極的な攻勢には使えん」

この作戦には、 一気呵成(いっきかせい) の勢いで敵軍をぶち抜く気迫が必要だ。敵と一戦を交えて退却中の軍は、どうしても士気が下がっている。唯一、意気軒昂で任務に耐えられそうなのは、アンジェ直下の近衛騎兵くらいだった。

「あの男なら、絶対にこうする。アルフレッドの偏執的な激情を利用して、ここで逆襲して痛打を食らわせる……そうするはずだ」

「またそれですか」

レオナールは呆れた様子で言った。

あの男ならこうするだろう。逆に、あの男ならこんな甘い判断はしない、と考えることもあった。

自分でも、ユーリ・ホウを意識しすぎているのは分かっている。だが、そういう考え方をすると、自分の判断を信じられるような気がするのだ。決断を下すべき場面で迷う自分を叱咤できる。

「議論はなしだ。アルフレッドは、絶対に死にもの狂いで軍の背中を追ってくる。警戒などせずにな。横っ腹に強烈な一撃を加えるチャンスなんだ。ここで追撃軍を混乱させなかったら、とても海岸までは辿り着けない」

アンジェリカは、追撃軍とまともに当たるつもりではなかった。ただ、一撃を食らわせ、拙速を尊び長く伸びた軍を奇襲し、壊乱させる。そうすれば、部隊を整えて再び追撃するまでの時間が稼げる。

そこで、レオナールは、

「じゃあ、僕が代わりに指揮しますよ」

と言った。

そんなことを言い出すとは。しかも、顔色を見るに本気で言っているようだ。死ぬかもしれないのに。

「駄目だ。私が率いたほうが士気が上がる。お前は人望がないからな」

笑いながら言うと、アンジェは剣を抜いて馬首を返した。

「征くぞ! 我が兵どもよ、ついてこい!」

アンジェは動き始めた。