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「ただ鐘を鳴らすだけの女」と婚約者に笑われました。では、王都の避難鐘は本日をもって沈黙いたします

作者: Sophia Rose

本文

「リディア。君との婚約は、少し考え直したい」

王都中央区、白鳩通りに面した侯爵家の応接室。

磨き込まれた硝子窓の向こうでは、夕暮れの王都が金色に染まっていた。尖塔の影が石畳の上に長く伸び、遠くで馬車の車輪が軽やかな音を立てている。

その穏やかな景色とは裏腹に、私の正面に座る婚約者――エルネスト・バルディ子爵令息は、いかにも深刻そうな顔をしていた。

けれど、その隣に座る妹のマリエッタは、隠しきれない笑みを浮かべている。

ああ、そういうことか。

私は膝の上で両手をそろえた。

「理由を伺っても?」

「君は……その、地味すぎる」

エルネストは、気まずそうに咳払いした。

「王都鐘楼庁の補佐官だったか? 毎日、古い塔にこもって、鐘の点検と台帳整理。社交界では話題にもならない。正直に言えば、僕の妻としては見栄えがしないんだ」

「お姉さまは真面目だけが取り柄ですものね」

マリエッタが、白い扇の陰でくすりと笑った。

「でも、エルネスト様にはもっと華やかな方がお似合いだと思うの。たとえば、舞踏会で注目を集められるような」

「マリエッタは明るいし、誰とでも話せる」

エルネストは、私から目を逸らしたまま言った。

「それに、君の仕事など、正直なところ誰でもできるだろう? 決まった時間に鐘を鳴らすだけだ。そんなもの、使用人に任せればいい」

私は黙って彼を見た。

「ただ鐘を鳴らすだけの女が、子爵家の次期当主夫人になるのは荷が重い」

その言葉に、父が重々しく頷いた。

「リディア。お前ももう少し、妹を見習いなさい。王都鐘楼庁の仕事も、マリエッタに譲るといい。あの子なら、もっと人目を引く形で勤めを果たせるだろう」

「お父様。鐘楼庁の任官は王宮直轄の資格職です。家の都合で譲渡できるものではありません」

「またそうやって、規則、規則と」

父は不機嫌そうに眉を寄せた。

「女が役所の理屈を振りかざすものではない。家のために動け」

マリエッタは楽しそうに身を乗り出した。

「お姉さま、安心して。私、鐘くらい鳴らせるわ。綱を引くだけでしょう?」

私は、そこで初めて小さく息を吐いた。

鐘くらい。

綱を引くだけ。

その認識で、王都の命綱を欲しがっているのか。

「分かりました」

私がそう答えると、三人の顔がぱっと明るくなった。

「では、私が管理している王都避難鐘の運用権限を、本日付で停止いたします」

応接室が静まり返った。

最初に笑ったのは、マリエッタだった。

「なあに、それ。意地悪のつもり?」

「いいえ。正式な手続きです」

私は鞄から、一通の書類を取り出した。

王都鐘楼庁、補佐管理官用退任届。

すでに必要事項は記入済みだった。

「私の職は、王都中央鐘楼に設置された十二鐘の管理、非常時鳴動符号の保管、各区避難鐘との連携、火災・洪水・魔獣侵入・疫病発生時の警報系統の運用です。責任者不在の状態で鐘を鳴らすことは、王都防災令第十七条により禁止されています」

「何を言っているんだ、君は」

エルネストが顔をしかめた。

「鐘など、鳴らせばいいだけだろう」

「違います」

私は静かに首を振った。

「一の鐘が三度なら北区火災。二の鐘が短く五度なら西門封鎖。三の鐘を長く二度、間を空けて一度なら河川氾濫。六の鐘が連続すれば魔獣警戒。鐘の順序を誤れば、避難民は安全な道ではなく危険な道へ流れます」

三人は、何も言わなかった。

「加えて、王都の鐘は勝手に鳴らせません。中央鐘楼から各区へ送られる合図札、衛兵詰所の確認印、治療院への伝令、城門管理局への封鎖指示。すべて台帳で連動しています」

私は書類を机に置いた。

「その台帳の最終承認者が、私です」

父の表情が、わずかに変わった。

「リディア。お前、まさか本当に辞めるつもりか」

「はい」

「家の恥だぞ」

「家の都合で王都の防災権限を妹に渡せと言われましたので、権限を王宮に返上いたします。譲渡はできませんが、返上はできます」

「そんな勝手が許されるものか!」

「許可は不要です。辞任は本人の意思で可能です。ただし、後任が正式任命されるまで、鐘の非常時運用は停止されます」

マリエッタが唇を尖らせた。

「大げさね。どうせ何も起きないわよ」

「そうだな」

エルネストも安堵したように笑った。

「たかが鐘だ。君がいなくても王都は回る」

「ええ」

私は席を立った。

「そうであることを、私も願っています」

その日のうちに、私は王都中央鐘楼へ向かった。

塔の最上階には、十二の鐘が並んでいる。

大きさも、音も、役割も違う鐘たち。

私は十年間、この鐘の音を聞き分けてきた。雨の日も、雪の日も、祭りの日も、眠れない夜も。

見習いの頃、老管理官だったローレン様は言った。

『鐘は人を救うが、鐘を鳴らす者は褒められん。間に合って当然、間違えれば罪。だからこそ、誇りを持て』

私はその言葉だけで、今まで働いてきた。

机の上には、王都避難鐘運用台帳が置かれている。

私は最後の欄に署名した。

――リディア・フォルネ。退任に伴い、個人保管符号鍵を返納。後任任命まで非常時鳴動を停止。

銀の鍵を置くと、胸の奥が少しだけ痛んだ。

鐘楼を出ると、王宮法務局の馬車が待っていた。

扉の横に立っていたのは、黒髪の青年だった。

王弟殿下の側近、カイル・レナード卿。

「リディア嬢」

彼は礼儀正しく頭を下げた。

「退任手続き、確認しました。王弟殿下より、あなたを王都危機管理局の臨時顧問として迎えたいとのことです」

「私を、ですか?」

「はい。中央鐘楼を十年間、無事故で運用した実務経験者はあなたしかいません」

無事故。

その言葉に、思わず視線を落とした。

誰にも気づかれない成果。

何も起こらなかった日々。

けれどそれこそが、私の仕事の証だった。

「ありがたく、お受けします」

カイル卿は少しだけ微笑んだ。

「今夜は王宮に宿泊を。少々、風が強くなりそうです」

その言葉通り、夜半から雨が降り始めた。

風は次第に強まり、王都の屋根を叩く雨音が激しくなる。

私は王宮西棟の一室で、眠れずに窓の外を見ていた。

嫌な雨だった。

春の終わりにしては冷たく、重い。

河川氾濫の前兆に似ている。

そのとき、扉が強く叩かれた。

「リディア嬢!」

カイル卿の声だった。

「北水門で異常水位です。西区の排水路が詰まり、下町へ水が流れています」

私は反射的に立ち上がった。

「中央鐘楼は?」

「運用停止中です。後任はまだ任命されていません」

分かっていたことだ。

分かっていたのに、胸が苦しくなる。

「王弟殿下は?」

「危機管理局へ。あなたの判断を仰ぎたいと」

私は外套を羽織り、部屋を飛び出した。

危機管理局の作戦室には、王都の地図が広げられていた。

北水門からあふれた水は、職人街を抜け、白鳩通りへ向かっている。

白鳩通り。

侯爵家の屋敷がある通りだ。

「中央鐘楼を鳴らせないなら、各区の手鐘で代替します」

私は地図に指を置いた。

「北区、東区、西区の衛兵詰所へ伝令を。鐘ではなく、青灯を二つ掲げてください。治療院には毛布と湯を。城門管理局には南門開放ではなく、東門誘導を命じてください。南は低地です」

「しかし、正式な鐘符号なしで住民が従うでしょうか」

若い役人が不安そうに言った。

「従わせるのではありません。分かる言葉で伝えるのです」

私は紙を取り、短く書いた。

――北水門増水。白鳩通り以西は二階以上へ避難。歩行困難者は東区施療院へ。南門へ向かうな。

「これを各詰所で読み上げてください。鐘の符号を知らない人にも伝わります」

作戦室にいた者たちが、一斉に動き出した。

その夜、王都中央の十二鐘は鳴らなかった。

けれど、衛兵たちの声が走った。

青い灯が雨の中で揺れ、治療院の扉が開き、商人たちは荷車を避難民のために差し出した。

王都は、沈黙した鐘の代わりに、人の声で動いた。

夜明け前。

白鳩通りの一部は、膝下まで水に浸かった。

侯爵家の屋敷にも水が入り、応接室の絨毯は泥水に沈んだらしい。

そして、父とマリエッタとエルネストは、避難指示を聞き逃して屋敷に取り残された。

助け出されたとき、三人はずぶ濡れで、震えながら王宮危機管理局に運ばれてきた。

「リディア!」

父は私を見るなり叫んだ。

「なぜ鐘を鳴らさなかった!」

私は濡れた地図から顔を上げた。

「私は昨日、王都鐘楼庁を退任しました」

「そんな屁理屈を!」

「屁理屈ではありません。正式記録です」

エルネストが青ざめた顔で私に詰め寄った。

「君が鐘を鳴らしていれば、僕たちはもっと早く避難できた!」

「エルネスト様」

私は彼の目を見た。

「あなたは昨日、私の仕事を『ただ鐘を鳴らすだけ』とおっしゃいました」

彼の口が止まった。

「鐘を鳴らすだけなら、どなたでもできたのでは?」

マリエッタが泣きそうな顔で首を振る。

「だって、そんなに大事な仕事だなんて知らなかったの」

「知らない仕事を、なぜ譲れと言ったのですか」

誰も答えなかった。

そこへ、王弟殿下が入室された。

灰色の外套を濡らしたまま、静かな怒りをまとっている。

「リディア嬢」

「はい」

「昨夜の避難指示により、死者は出なかった。危機管理局を代表して礼を言う」

作戦室の空気が変わった。

父が目を見開く。

エルネストは唇を震わせた。

王弟殿下は、今度は彼らを見た。

「一方で、フォルネ侯爵家は王都鐘楼庁の職務権限を私的に譲渡させようとした疑いがある。バルディ子爵家も同席していたな」

「そ、それは誤解です!」

父が慌てて叫ぶ。

「娘の将来を思って――」

「王都の避難制度を、家の都合で動かそうとした。それを誤解とは言わない」

王弟殿下の声は低かった。

「調査が終わるまで、両家の王宮出入りを禁じる。エルネスト・バルディ。君とリディア嬢の婚約については?」

エルネストが、すがるように私を見た。

「リディア、僕は……」

「昨日、考え直したいとおっしゃいましたね」

私は鞄から、もう一通の書類を取り出した。

「私も同意いたします。婚約解消届です。署名は済ませました」

「待ってくれ!」

「待ちません」

私は書類を王宮書記官へ渡した。

「王都の水は、待ってくれませんでしたから」

エルネストは何も言えなくなった。

数日後。

王都中央鐘楼には、新しい制度が導入された。

一人の管理官だけに権限を集中させず、複数人で運用する危機管理体制。鐘の符号は民にも分かるよう掲示され、各区の避難訓練も始まった。

私は王都危機管理局の正式職員となった。

肩書きは、避難連絡網統括官。

少し長い。

けれど、嫌いではない。

中央鐘楼の最上階に立つと、十二の鐘が朝日に照らされていた。

隣には、カイル卿がいる。

「寂しいですか」

彼が尋ねた。

「少しだけ」

私は鐘を見上げた。

「でも、もう私ひとりが黙って支える必要はありませんから」

「あなたは黙っていたわけではありません」

カイル卿は穏やかに言った。

「鐘が鳴らない日々を守っていた」

その言葉に、胸の奥が温かくなった。

遠くで、始業を告げる小さな鐘が鳴る。

それは避難の鐘ではない。

誰かを責める鐘でもない。

今日も王都が無事に始まることを知らせる、穏やかな音だった。

私はその音を聞きながら、静かに微笑んだ。

「では、今日の記録を始めましょう」

もう、ただ鐘を鳴らすだけの女とは呼ばせない。

私は、鐘が鳴らなくて済む朝を守る人間なのだから。