ある愛の葬列
作者: 碧
本文
_____アリスが死んだ。
パイプオルガンの音色が空気を震わせている。だけど荘厳な音色も、祈りの言葉も、周囲のすすり泣きすらも酷く遠い。
胸に抱いた白い花をそっと捧げる。
まるで儀式だ。そう、葬儀という名の死者を見送るただの儀式。
定められた手順を踏む私の瞳は渇いている。頬を伝う一筋の涙すらない。
だって……まるで実感がない。
アリスが死んだ……?
そう、自問するように瞳を伏せれば、脳裏に微笑むあの子の姿が鮮やかに浮かんだ。
咲き誇る花たちのただ中で、淡いピンクのドレスを着た幼いあの子が花冠を編んでいる。
「ディランお兄様!ベス!」
屈託のない笑顔。私たちを呼ぶ声。
私は笑いながらアリスと戯れ、ディラン様は本を手に私達を見守る。
「大好きよ、二人とも。ずっと三人で居られますように」
穏やかで美しい、まるで楽園のような光景。
瞼の裏に浮かぶその光景は、かつて確かに存在した遠い日の記憶。
優しくて可愛い天使のような女の子。
寂しがり屋で甘えん坊で、どこか夢見がちな……妹のように想ってた私の大切なアリス。
それなのに……どうして私はこんなところに居るの?
気付けば葬儀は終わっていた。
墓石の前に私は立ち尽くしている。
墓を見守るように哀し気に顔を伏せた天使像の前で。
「エリザベス」
私の瞳がディラン様を捉えた。
朧げだった周囲の音や景色、その中に彼を認識する。
アリスの実兄であり、私にとっても兄のような存在である彼は喪服を着ていて、表情には憂いが深く影を落としていた。
彼を見た途端……心が深く騒めいた。
まるで唐突に現実に呼び戻されたように唇が震え、乾いた瞳が熱くなる。
「……どうし、てっ…………?」
無意識に漏れた声にディラン様が悲し気に目を伏せる。
すぐ側まで来た彼の胸を力なくトンと叩いた。一度、二度……ギュッと胸元を縋るように握りしめる。彼の手が肩を抱いてくれた。
「なん、で……」
伴わなかった実感が、時間差で追いついてくる。
不意に指先がチクリと痛んだ。
献花の白薔薇に紛れていた棘、傷ついた指先が今更ながら痛みを訴えた。
だけど足りない。込み上げる胸の痛みには到底届きはしない。
最後の別れをしながら手向ける花。
だけど顔を見て別れを告げることすら出来なかった。
墜落死したアリスの死体は酷い有様で、黒い棺は蓋が閉められたままだったから。だから尚更に信じられない。
「嘘よっ、全部悪い夢……アリスが、あの子がっ死んじゃったなんてっ……」
「……ベス」
なのに……辛そうに肩を掴む手が、彼の目元の隈や沈痛な表情が、あの子の不在が…………その事実を突きつける。
頬を一滴の雫が濡らした。
ぽつぽつ、ぽつぽつと曇天から滴る雨粒が喪服を濡らす。
どんよりと黒い雲。内包するその重みに耐えかねたかのように堕ちた雫は次の雫を呼び、やがて慟哭のように雨が降りしきる。
ああ、空が泣いている。
降りしきる雨に打たれながら、そう思った。
あれから二週間近く。
エリザベスは以前と変わらぬ日々を送っていた。
教材を胸に抱き、ノロノロと廊下を歩く。窓の外では小鳥が鳴き、数人の令息令嬢が中庭で戯れている。
あの日……降りしきる雨は空の涙で、世界がアリスの死を悲しんでいるのだと思った。
だけど世界は何一つ変わらない。
あの子が居なくたって日は登るし、夜が訪れれば朝が来る。
大粒の涙を流していた令嬢たちが笑っている、鈴の音のような声を上げて。
「持つよ」
小走りに駆け寄ってきた青年が腕を伸ばした。
教材を持ってくれた彼、エリザベスの恋人でもあるニックは気づかわしそうに顔を覗き込む。
「また下級生のクラスに行ったんだって?」
「……」
無言で頷けば、押し殺したような溜息が聞こえた。
「エリザベス、気持ちはわかる。悲しいのはみんな一緒だ、けどいい加減……」
「一緒なんかじゃない」
押し殺した声にニックが止まる。
ゆるゆると顔を上げれば、目を見開き僅かに後退した彼に……自分は今、どんな表情をしているんだろう?と他人事のようにエリザベスは思う。
「お願い、放っておいて」
「エリ……」
「ごめんなさい。心配してくれて、ありがとう」
それだけ言い残し、彼の手から教材を取り返しその場を後にする。
頻繁に下級生クラスを訪れては、アリスの話を聞き回る行動は話題になっていた。
二人が姉妹の様に仲が良かったことを知っている生徒たちは、アリスの死後こそ誰もが気にしなかった。だが、日が経つにつれ徐々に遠巻きにされるようになった。
誰もが前を向こうとしている。
アリスの死から立ち直ろうと。
その中でエリザベスだけが取り残された。否、心配する周囲の手を撥ねのけ、自らの意志でそこにしがみ付こうとしている。
アリスが死んでも、世界は何一つ変わらなかった。
だけど……アリスが居なくなったエリザベスの世界は灰色だ。
日が昇り、夜が訪れ、朝が来る。
色を失った灰色の世界に取り残されたまま。
「ねぇ、ちょっと噂を聞いたのだけど……」
友人の一人が 躊躇(ためら) いがちに袖を引いた。周囲を見渡し、そっと耳元に口を寄せてくる。
「なんでもアリス様に付きまとってた生徒が居たんですって」
下級生に従弟がいるその友人の話に身を乗り出した。
可憐だったアリスに男子生徒が想いを寄せるのは珍しくない。だが今回は相手の生徒が悪い意味で注目を浴びる相手だったようだ。根暗で、貧乏貴族の三男のくせに……と子息たちの間で嘲笑のネタになったらしい。
「お一人の時を狙って、こっそりと話しかけようとしてたらしいわ」
「その生徒の名前は?」
「確か……キリアンとか言ったかしら?」
名を聞くとすぐにエリザベスは立ち上がった。そのまま教室を出ていこうとする彼女の手を友人が慌てて引く。
「ちょっと、無茶はしちゃダメよ」
確かに心配が宿っているその瞳に「ありがとう」と返し、そっと手を引き抜いた。
アリスは墜落死だった。
時計塔の上から堕ちたのだ。
どうして時計塔なんかに居たのか、誰かと一緒だったのか。彼女の死から考えない日はなかった。
そしてもう一つ……頭を離れないことがあった。
死の少し前、アリスは酷く怯えていた。
誰かの視線を感じるの。持ち物が無くなっていることがある。後をつけられた気がする……声を震わせ、不安そうに怯えていたアリス。
だからこそ彼女の死をただの事故とは思えなかった。
週末、ディランの訪問があった。
彼はアリスの死後も、時折こうしてエリザベスの様子を見に来てくれる。
「チーズケーキを買ってきたよ。君が好きな店の」
ソファを勧めれば、腰を下ろすなり膝の上で指を組んだディランが口を開いた。
「何かあった?」
「え?」
突然の問いに思わず目を見開く。
咄嗟に思い浮かんだのはキリアンのこと。誰かが学園での様子を彼の耳に入れたのだろうか?と思いつつ素直に口を開いた。
なにせ彼はアリスの兄だ、関係のない話ではない。
とある子息がアリスに想いを寄せていたこと、こっそりと彼女を窺ったり、後をつける様子を周囲が目撃していること。キリアンのことを話した。
瑠璃色の瞳をギラつかせ、熱を帯びて語るエリザベスにディランは僅かに眉を寄せる。
「彼がアリスを呼び出して突き落したのかも」
「落ちつきなさい」
「だってっ、あの男が犯人かも知れないのよっ?!」
向かいのソファに座っていたディランがエリザベスの隣へと移った。落ち着かせるように手を重ねられる。
「証拠は?」
静かな声と瞳にたじろぐ。
「それは……これから…………」
「君に危険なことをさせるわけにはいかない。必要なら私が誰かに進言しよう」
「……」
思わず俯けば、零れ落ちた髪が頬を滑り表情を隠す。
嗅ぎまわるエリザベスの机の中に『ヨケイナ コトヲ スルナ』そう書かれた片言のメモが入れられていたのはつい三日前。
すっかり大人の男の人の手が、顔を上げさせるように頬へと触れた。
「少し痩せたね。ちゃんと食べているのかい?」
「……ディラン様だって」
唇を尖らせ言い返せば、苦笑いが返される。
「人のことを言えた義理じゃないか。でも自分を大切にしなさい。あの子が悲しむ」
そう言って、ふっと自分の言葉に自嘲するようにディランは切なげに瞳を細めた。
「アリスはもう居ないのにな」
独り言のような呟きに胸を突かれた。
長い指が、頬にかかるエリザベスの髪をそっと耳にかる。
「だけど……もし死後の世界というものがあるのなら、あの子は君を心配している筈だ。なにより、私が君を心配だ。ベスは……もう一人の妹みたいな子だからね」
ポンポンと軽く頭を撫でた手が離れ「あとでケーキもお食べ」と微笑む彼に胸が温かくなる。
誰もがエリザベスを慰めた。
両親もニックも友人も、エリザベスを心配してくれた。
だけど「あの子のためにも」とアリスの名を口にしながら、誰もが彼女を忘れていく……。
それでも彼は、目の前のディランだけは未だ同じ悲しみの中に居て、その上で心から心配してくれている。
元の席へと戻ろうとする彼の腕を小さく引いた。
「なら、一緒にお茶をしましょう?ケーキ、食べるの付き合ってください」
「喜んで」そう答える眼差しは、妹を見る兄のように優しかった。
力強く腕を引かれた。
「きゃっ!」
倒れ込む身体は地面に投げ出されることはなかった。背後から抱き留められる体制のまま、目の前を何かが過ぎる。
ガシャンッッッ!!!!!
陶器の割れる音が盛大に響いた。
「あいつだっ!誰か……!!」
声の主が上空を指さす。まるで止まっていた時が動き出したように周囲が騒がしくなった。指の先で、バッと身を翻す男の姿が一瞬だけ見えた。
あれは……キリアン。
呆然とそう思ったところで、身体が反転させられる。
「怪我は?!」
「あ……」
状況についていけず、エリザベスはパチパチと数度瞬きをした。
「どうして……ここに?」
まず漏れた疑問はそれだった。
空から落ちてきた鉢植え、逃げ出したキリアン。ゆっくりと動きだした思考が、自分はあの男に狙われたのだろうと結論を出す。
そうして“彼”が助けてくれたことも。
「あの子の私物を取りに来たんだ。君にも会いたかったから私が直接ね。…………無事で良かった」
どうやら紛れ込んでいたアリスの持ち物が出てきて、学園側から連絡があったらしい。そうして訪れた学園でエリザベスの姿を見つけ、声を掛けようとしたところで異変に気付いた。
彼が間一髪間に合わなければ、鉢植えはエリザベスの頭部に直撃していただろう。
安堵の息と共に抱きしめられた腕の中、ドクドクと早鐘を打つ鼓動が聞こえた。
声を荒げたいのを抑え、拳を握りしめる。
「証拠がないからですか?」
だけど険のある声音まではとても隠せなかった。
目の前に座る役人が難しい顔で小さく首を振る。
「彼が犯人でないからです」
きっぱりとした断言に息を呑む。
すぐさま反論をしようとすれば、言葉を押しとどめるように掌を差し出された。
「いいですか、まずは事実をお伝えします。あの男、キリアンは貴女を目掛け鉢植えを落とした。これは故意によるもので、重大な罪です。彼は貴族籍を抜かれ、平民となります。次に、彼がアリス嬢を突き落したのではないか……という疑惑ですが、これについては彼の関与は否定されました」
「何故……?」
「アリバイがあるからです」
「そんなのっ……いくらでも偽証できるでしょう?」
「わざわざ偽証するとは思えません。なにせ……彼は虐めを受けていたのですから」
意味が掴めず「え?」と間の抜けた声が漏れた。そんなエリザベスを役人は少しだけ厳しい瞳で見据える。
「貴女の証言通り、キリアンはアリス嬢に好意を抱いていたようです。こっそり遠目から覗いたり、彼女が落としたペンを密かに自分の物にしたこともあると認めました」
役人は遣り切れなさそうに、はぁと小さくため息を吐いた。
「ただ……アリス嬢が亡くなったその日、キリアンは複数の子息たちに暴行を受けていました。彼女への恋慕が理由のようです。わざわざこんなアリバイを偽証しますか?今回、彼が貴女を害そうとしたのは……アリス嬢の話題が再燃することを恐れていたそうです」
言葉が出なかった。
はく、と喉を震わすエリザベスに役人は「勿論、それで彼の行為が許される理由にはなりません」と続けたが、そんなものは何の慰めにもならない。
殺してやろうと思っていた。
証拠がないからと正当に罪に裁けないというのなら、自らの手で罰してやろうと。
それなのに……キリアンはアリスを殺した犯人でなかった……?
「じゃあ……アリスを殺したのは誰なの……?」
空虚な呟きだけが、答えもなく部屋へと落ちた。
灰色で虚しい日々は、遅々として時間が進む。
「もういい加減にしろっ!」
両肩を掴むニックの表情は険しかった。
指が力強く肩に食い込んでいる。彼らしくもない乱暴な扱い。
「こんなことをして何になるって言うんだ?」
「さぁ?」
どうにもならないことなど、初めから知っている。
それでもエリザベスは探していた。
キリアンの代わりを______。
復讐出来る相手を_______。
ニックの表情が歪む。
思わず、といった様子でポツリと落とされた呟き。
「今の君はまるで亡霊だ」
唇が引き攣るように震えた。それは笑みだった。
言い得て妙だと思った。
天国にも地獄にも、どこへも行けずに……もしかしたら自分が死んでいることにすら気付いておらず彷徨う亡霊。なんて自分にぴったりなんだろう。
「どれだけ悲しんでもアリス嬢は帰ってこない」
「知っているわ」
「もう、戻らないんだ」
「ええ」
睫毛を伏せて頷き、息を一つ吸うと見据えるようにニックを見上げた。
「……笑えるの」
唇の端に歪んだ笑みを乗せ、エリザベスは言葉を紡ぐ。
「ふとした瞬間、友人たちと笑い合うことがあるわ。ケーキを食べて美味しいと思う。新作の本やドレスを待ち遠しく思ってる…………。アリスを喪ってあんなにも絶望していたのに、私は笑えるのよ」
「それは……」
「ええ、だって私は生きているんですもの。死んでしまったあの子と違って」
泣きそうな顔で、エリザベスは微笑んだ。
肩に置かれた彼の手をそっと払う。あんなにも強く掴んでいた手は呆気ないほど簡単に外れた。
「私は生きているから…………これからもきっとどんどん忘れていくわ。貴方やみんなが言うように「忘れて」いくの。必死に繋ぎ止めようとしても絶対に……。どうして?どうして憶えていることさえ許されないの?あの子が死んで、まだ1年も経たないのよ?なにもなかったように忘れられていくなんて……アリスが可哀想だわっ……」
頬を涙が伝う。
それを拭うこともないまま、エリザベスはニックの瞳を真っすぐに見つめる。
「別れましょう」
それはもう何度も紡いだ言葉だった。
その度に首を振っていたニックだが……もう戻れないと悟ったのだろう。小さく「……わかった」と呟いた彼へ心の底から感謝を込めて「ありがとう」と呟いた。
去って行く背を見ながら彼の優しさと献身に、楽しかった想い出に別れを告げる。
様々なモノを置き去りにして時は過ぎ、いつしか卒業は目前だった。
馬車を降り、枯葉を踏みながら屋敷までの短い道を歩く。ベルを鳴らせば顔見知りの使用人が応対してくれた。勝手知ったる屋敷だ、案内を断り数冊の本を手に廊下を進む。
目的の部屋のすぐ側で話し声が聞こえた。
どうして足音を潜めたのか、盗み聞きをするように耳をそばだてたのか。自分でも説明出来ないけど、それはある種の予感だったのかもしれない。
息を詰め、ほんの少しだけ扉を開く。
音を立てないように慎重に開いた隙間から、声はより鮮明に聞こえた。
「忘れることなど出来るわけがないだろう」
表情は見えずとも、その顔が苦痛に歪んでいることがわかるような声音だった。
「私はあの子を、アリスを殺したんだぞ…………?!」
息が、止まるかと思った。
片手で口を、もう片方の手で落ちそうな本を支えたエリザベスは、反射的に踵を返し、足音を立てずに急いでその場から離れた。
廊下の途中で紅茶や焼き菓子を乗せたワゴンを運ぶ使用人と出会った。
「あら、エリザベス様。いまお茶のご用意を」
「ごめんなさい。急用を想い出したわ。この本を返しておいてくれる?」
使用人の言葉を遮り、手にした本を押し付けるようにして屋敷を去る。
逃げるように飛び乗った馬車で、ドクドクと高鳴る鼓動を感じながら馬車の背もたれへと身体を預ける。
全身の鼓動が煩くて、思考がちっとも働かない。
脳裏にディランの声が何度も何度も蘇った。
ディラン様が、アリスを殺した……________?
机に肘を付き項垂れていたディランはふと頭をあげた。視線が薄っすらと開いた扉の隙間を捉えた。
閉め忘れたのだろうか?と立ち上がり、何の気なしに扉へと歩み寄ったディランは何かが落ちているのに気づいた。屈んで拾い上げる。
栞…………?
花の透かし彫りがされた栞には見覚えがあった。
「…………」
ディランは無言で栞を胸ポケットへとしまった。
扉の前で立ち尽くす彼に従者が「どうかいたしましたか?」と声をかけるが「いや」と首を振る。部屋へ戻ろうとしたところで、カートを押す使用人の姿が見えた。
「ああ、ディラン様。つい先程エリザベス様がお見えになりました。何やら急用がおありだからと、こちらの本をお預かり致しました」
「……ああ、ありがとう」
やはりエリザベスはここに居たのだ、と扉の向こうの廊下へと視線を向けた。
屋敷に戻るなり、鍵を掛けて部屋へ閉じこもった。
着替えをするのさえももどかしく、ソファに腰かけクッションを抱きしめる。力を入れ過ぎたクッションが腕の中で歪む。
本当にディラン様がアリスを殺したの……?
何度自問しても到底信じられそうもなかった。
彼らは本当に仲の良い兄妹だった。アリスは兄が大好きだったし、ディランだって妹を可愛がり大切にしていた。
それは幼い頃から側に居た自分が一番よく知っている。
彼がアリスを殺す理由なんて想像も出来ない。
「…………でも」
ほんの僅かな違和感。思い出すのは彼がケーキを手土産に訪れた日のこと。
キリアンがアリスを突き落したのかもしれない、そう告げた時の彼の表情。
あの時の彼はあまりにも冷静だった。
「ディラン様は……キリアンが犯人でないと知っていた…………?」
アリスの墜落死は事故として処理された。
それを信じられずエリザベスは第三者の関与を疑った。
だけど彼はそうでなかった。
「まさか……本当に、ディラン様が……?」
俯く動作に長い髪が頬へ落ちる。視界を塞ぐ髪の奥、昏い影を落とした瑠璃色の瞳は何処か異様な輝きを湛えていた。部屋の隅に置かれた姿見に映るその表情に、エリザベス自身は気づかない。
「……確かめなきゃ」
酷く余裕のない乾いた声が、静かに部屋に響いた。
本当ならすぐにでも会いたかったが、彼の前で冷静に振る舞うには感情の整理が必要だった。そうこうしている内に日が過ぎ、結局ディランと再び会ったのは約二週間後だった。
「今日はカフェに行きません?流行りのお店があるんです」
二人っきりだと感情的に問い詰めてしまいそうだった。だからあえて人目のある店を選んだ。
可愛らしい内装のカフェは沢山の女の子たちで賑わっていた。
運ばれてきたケーキを食べながら、何気ない会話をする。表情が強張らないように笑みを張り付け、タイミングを見計らって問いかけた。
「アリスはどうして時計塔なんかに行ったのかしら?」
「さぁ?誰かと約束をしていたわけでもなさそうだから……景色でも見に行ったのかな?」
「一人で?」
困った様にディランが笑う。
さも、自分たちも不思議に思っている……と言わんばかりの表情に不審な点はない。声音に動揺も。
だけどエリザベスはディランの左手が無意識に右腕を掴んだのを見た。
渇いた口を潤すようにカップに口をつけ、意識して微笑む。
「…………確かに。時計塔からの夕暮れは素敵だものね。悩み事でもあって、気晴らしに一人で立ち寄ったのかも」
その言葉に、彼の表情がほっとしたように見えるのは気のせいか……。
「あの日、私はニックとジェラートを食べに行ったの。行かなきゃ良かった……アリスと一緒に居たら、そしてら事故なんて起きなかったのに」
嘆くように小さく首を振り、「ディラン様は?」と問いかける。
「私は……」
口を開いた彼の姿をじっと見る。一つの違和感も見逃す気はなかった。
「酒を飲んでいたよ」
男性にしては長い睫毛が、後悔を表す様に憂い気に伏せられる。
「あの子の訃報を聞いた時、私は酒を飲んでいた。妹のことなんてなにも知らずにね。……ほら、ベスも知っているだろう?サイモン、彼に誘われてね」
「そうなんですか」
口の中がカラカラに乾いていた。表情を取り繕いながら、なんとかそれだけの言葉を返す。
嘘だ……そうエリザベスは思った。
瑠璃色の瞳は縫い付けられたように、ディランの左手を凝視している。
嘘や何かを誤魔化そうとするとき、ディランは無意識に右腕を押える。それは彼の昔からの癖だった。
その動作を……彼が今した意味は…………。
どうして……?その言葉を飲み込むように、すっかり冷めて香りの失せたカップの中身を飲み干した。
ディランとカフェに行った翌日、エリザベスはとある店を訪れていた。
メモを頼りに歩き、目に入った看板を見上げるように足を止める。意を決して扉に手をかければベルの音が鳴った。
「いらっしゃいませー…………って、エリザベス嬢?!久しぶり!」
所々汚れたエプロンをつけた男性が顔をあげ、驚いた表情を浮かべたあとで朗らかに笑った。
「お久しぶりです」
「どうしたのー?贈り物探し?あっ、もしかして俺に会いに来たとか?」
茶化すように笑うサイモンの言葉にピクリと肩があがる。
どこか貴族らしくない性格の彼は完全に冗談で言ったのだろうが、そのものズバリだ。誤魔化す様に愛想笑いを浮かべながら、エリザベスは掌より少し大きいぐらいの小箱を取り出した。
「これの修理をお願いすることは出来ますか?」
「ん?どれどれ……」
手に取ったサイモンが蓋を開け細部をじっくりと観察する。
彼、サイモンが営むのは時計屋だ。名のある貴族の子息ながら「俺、三男だし」と早々に家を出て、子どもの頃からの夢を叶えた変わり者でもある。
時計を持つのは殆どが身分のある男性、女性が持つことはほぼない。だかこそ先程サイモンも「贈り物?」と問うたのだ。
顔見知りとはいえ、直接交流がある程に親しくはない。
エリザベスが彼を訪ねる“理由”として持ってきたのは宝石箱だった。
「音が途中で外れてしまって……」
壊れたオルゴール付きの宝石箱。
時計とオルゴールは似た構造もあるし、販売だけでなく修理も行ってるこの店に来る理由にはなる。
勧められた椅子に座り、修理をするサイモンを眺めながら邪魔にならない程度に会話を交わす。
エリザベスが彼に会いに来た本当の目的は昨日のディランの話を確認する為だ。
「サイモン様は、最近もディラン様と会われているんですか?」
細い工具を器用に操りながら、ん~とサイモンが顔をあげた。
「最近は会ってないなぁ。最後に会ったのは……もう十カ月ぐらい前か……。まっさか……アリスちゃんがあんなことになるとはなぁ……」
「十カ月前……ちょうどアリスの事故があった時ですね」
「そうそう、久々に会って……その一週間後だろ?知らせ聞いた時はマジで吃驚したよ」
「……一週間、前?」
声と表情を強張らせたエリザベスに気づくことなく、弄っていた工具を置いたサイモンは「よしっ!」と声を上げて螺子を巻いた。
滑らかなメロディーが響き出す。
軽やかで可愛らしいその音色に、幼い頃それをプレゼントしてくれた相手に想いを馳せた。
エリザベスは憑かれていた。
大切な親友で可愛い妹のようなアリスが死んでからの灰色の日々。亡霊のように生きていたエリザベスが手に入れた活力、それが真実を知ること。
かつてキリアンを追い回していた時のように、瑠璃色の瞳は光を取り戻していた。
健全な明るい光とは違う、どこが仄暗くギラついた光。
そのことに気づくこともなく、皮肉にもエリザベスは生きる気力を取り戻していた。
「ディラン様!」
声を弾ませ、エリザベスはディランへと駆け寄った。
そのまま腕を回して抱き着けば、抱きしめ返してくれる感触に胸に頬を埋める。
トクトクと響く鼓動、耳に響く彼のそれより……自身のそれは僅かに早いのを自覚していた。淡く熱を帯びる頬に高鳴る鼓動。
それはまるで…………恋のように。
「今日は差し入れを持ってきましたの。サンドイッチとそれからクッキー」
「ありがとう。嬉しいよ」
意識的に瞳を伏せ、心と表情を入れ替えたエリザベスは満面の笑みを浮かべた。手にしたバスケットを差し出せば、柔らかに微笑んだディランがそっと額に唇を落とす。そんなやり取りも慣れた。
あれから……エリザベスは真実を知るために、ディランにもっと近づくことを決めた。そしてそれには幼馴染や妹の親友という関係よりも、恋人が一番良かった。
彼に不信感を抱かれないよう、時間をかけて距離を縮めた。少しずつ、少しずつ、ただの好意ではなく恋慕を示して。そうしてついに告白が実ったのが一カ月前。
今の二人の関係に名前をつけるなら“恋人”だ。
「すごく美味しそうだ。ベスは本当に料理が上手だね」
バスケットを開いたディランは感嘆の声をあげた。
「ディラン様のお好きなスモークサーモンのサンドイッチもありますわ」
「本当だ。じゃあ早速……。君はサーモンと、あとはトマトかな?」
示されたサンドイッチを皿へと取ったディランは、続いてエリザベスの分も取り分けてくれる。
穏やかで、優しい時間。
ディランと過ごす時間はどうしようもなく心地良かった。
目的すら忘れてしまいそうな程に________。
「紅茶のおかわりはいるかい?」
ポットを掲げる彼に、少しためらい「ええ、お願いします」と答えた。ソーサーを受け取る指先が僅かに触れる。
「大好きです」
「急にどうしたんだい?」
「言いたくなっただけ」
はにかみながら口に手を当てふふっと笑う。
ソファから少しだけ身を乗り出したディランの指が頬へと触れた。撫でるような優しい触れ方に、そっと顎を上げて瞳を閉じる。
「私もだよ」
唇に触れた柔らかな感触が離れていく間際、甘い声音が返された。
愛しい、大好き…………!
どうして、なんで…………?!
嘘つき、嘘つきっ…………!!
沢山の感情が激流のように胸の中を暴れまわっていた。
真実を知るために目的を持って彼に近づいた。だけど相手は元々、兄の様に慕っていた人で……それは恋心とは違ったけれど、淡い憧れのようなものは昔からあった。
だから余計にわからない。
トクトク、トクトクと高鳴る鼓動。
温かな腕に包まれながら、確かに感じる安らぎと愛しさ。頬を淡く色づかせ火照る身体、なのに頭の何処かが酷く冷えているのも自覚する。
全てが演技なのか、本当に恋をしているのか。
いつしかエリザベスは自分の心も、ディランに抱く感情すらわからなくなっていた。
「私……昔からアリスが羨ましかったわ。こんな素敵なお兄様が居てズルい!って、よくそう思ってた」
「可愛い弟ならいるだろう?今はもう恰好よくて頼りになる、かな?」
「全然!喧嘩だってしょっちゅうよ」
「それも仲が良い証拠だよ」
「でもディラン様たちは喧嘩なんてしなかったじゃない」
そう言ったエリザベスはさもいま思い出したように「あ、でも」と彼の顔を見て続けた。
「……珍しく喧嘩したことがあったでしょう?」
「アリスから聞いたのかい?」
問いには曖昧な笑みで誤魔化した。
正確にはアリスではなく、使用人から聞いた話だった。
その中の一つで、心に引っかかった話がある。
「そういえば、あれは……お嬢様が亡くなる一カ月ぐらい前でしょうか?お二人が喧嘩をなさってたことがあったんです」
「喧嘩?あの仲のいいご兄妹が?」
「そう、珍しいでしょう?お嬢様が泣きながら部屋から出て来て吃驚したわ」
「それは珍しいわねぇ。私もこのお屋敷に勤めて長いけど、お二人が喧嘩なさったのなんて見たことないもの」
そんなメイドたちの会話が頭を離れなかった。
彼らが喧嘩したことなど見たこともなければ、アリスから話を聞いたことすらない。
そのアリスが兄の部屋から泣きながら出てきた。
気になるのは当然だった。
「どうして喧嘩をしたの?」
エリザベスが首を傾ければ、ディランは困ったような笑みを浮かべた。
「喧嘩だなんて大層なことじゃないよ」
「でも珍しいわ」
「少し、注意をしただけだ。あの子はちょっと幼くて夢見がちなところがあったからね。もう少し大人になりなさいと諭したのだけど……叱られなれてないあの子には堪えたのかもしれない」
「そう」
そしてそのままカップの取っ手を掴む右手。
彼の左手は降ろされたままで、右腕を掴みはしなかった。
部屋に戻ったエリザベスは着替えを済ませ、使用人を下がらせるとベッドにぽすりと横になった。仰向けで天井を見上げたまま無言で考える。
結局、何に対する注意だったのか内容は詳しく聞き出せなかった。
でも彼は嘘は吐いていない。
「もう少し大人に、ね…………」
呟いて、コロリと横向きになる。手足を曲げて胎児のように丸くなる。
「大人に……」
呟き、ブルっと頭を振って嫌な想像を振り払った。
右手の人差し指でそっと自らの唇へと触れた。柔らかな感触に、重なった彼の唇を思い出す。
いまエリザベスの脳裏に浮かんでいる疑惑は、醜悪な……正に 下衆(ゲス) の勘繰りといえるものだった。
優しい兄に可愛い妹。理想的な仲の良い兄妹。
どれだけ考えてもディランがアリスを殺そうとする程に憎んでいたとは考えられない。たとえ衝動的なものだろうと彼が激昂する姿など想像も出来なかった。
ならば逆に愛が強すぎたとしたら…………?
アリスは可憐で美しい少女だった。
妹を愛し、慈しんでいたディランのその愛が…………“妹”に対する愛を超えてしまったのだとしたら?
「…………っ!」
エリザベスは唇を噛みしめ、伸ばした手でクッションを掴むと投げつけた。宙を切ったクッションが部屋の中央へと落ちる。
ぐちゃぐちゃな胸の内を持て余し、両手で顔を覆った。
「どうして……どうして死んじゃったのよっ、アリスっ……!」
いつも側に居た親友、大切な半身のような存在。
アリスの喪失はエリザベスの心を少しずつ狂気へと染め上げていく。
親愛に恋慕、愛しさと哀しみ、嫉妬と憎悪、孤独と虚無。
エリザベスという器に溢れかえる沢山の感情。
それらを一つの鍋で煮詰めたように、ドロドロとした感情はやがて彼女を支配していった。
狂気を纏った感情が消えることなく、やがて五年の時が経った。
こじんまりとしたお伽噺に出てきそうな小さな家。そこでエリザベスはディランの妻として暮らしている。
ゴホゴホと咳き込む音に、足音を鳴らして駆け寄り丸められた背を撫でる。
「大丈夫ですか?」
「……ああ、もう平気だ」
覗き込むエリザベスを安心させるように浮かべられた笑み。
無理をしているのがわかるその顔は頬がこけ面やつれしている。痩せた手足も枯れ枝のように細く、車椅子に腰かけるディランの姿は様変わりしていた。
「いつもすまない」
なのにそう気づかう笑顔はかつての優しい笑顔のまま。
「今日の夕食は何にしましょうか?最近、少し食欲が落ちているし食べやすいものがいいわね」
「何でもいいよ。君の作るものはいつも美味しいからね」
「何でもいい、が一番困るのに」
拗ねたように口を尖らせれば「ごめん、ごめん」と笑ったディランは「でも本当のことだから」と優しくエリザベスの手を掬い上げた。
「この手は魔法の手だね」
瞳を細めて言う彼に、ツキリと胸が痛み思わず手を引きそうになるのを堪える。「ありがとう」と代わりに笑った。
王都から少し離れた小さな町の小さな家。
使用人はおらず、エリザベスとディランの二人暮らしだ。最初は料理以外の家事に大いに手間取ったが、今では大抵のことは自分で出来る。力仕事など不得手だが、両家の使用人が時々顔を出すのでそう困ることもなかった。
「ベスには苦労させてばかりだ」
「そんなことないわ」
車椅子をテーブルの脇まで寄せたエリザベスは「お茶の準備をするわね」と泣きそうな顔を隠すように背を向けた。
ディランをあんな風にしたのはエリザベスだった。
伯爵家の嫡男だったディランは、体調不良により家督を継がないことを宣言した。家は遠縁の親族が継ぐ予定だ。彼の余命は長くない。
最後の時間を静かに過ごしたいと、今はこの家で二人きりの静かな暮らしを送っている。
紅茶の缶を出そうと戸棚を開けた。
戸棚の一番奥には隠された小瓶がある。
その中身は毒だ。
ひっそりと、緩やかにディランの身体を蝕む毒。
ディランの体調不良は病でもなんでもなく、致死量に満たない極わずかな毒をエリザベスが与え続けた結果だった。
小瓶が隠された容器から目を背けるように茶葉を取り出し、戸棚を閉める。
正気と狂気の境目はあまりにも脆い。
今や完全にエリザベスはディランを愛していた。
夜中、苦し気に咳き込む彼の背を撫でながら……どうか彼を連れて逝かないで、怯えながら神に祈る。痩せた手を握りしめ、涙を流すことだってある。
ディランはエリザベスの世界のほとんどを占めていた。
彼と交わす何気ない会話が、共にあるだけの生活が酷く愛おしかった。
温かなお茶を飲みながら、アリスの想い出話をする時間が何よりも幸せだった。
それなのに…………。
「私はあの子を、アリスを殺したんだぞ…………?!」とその声が脳裏に響く度に、アリスが居ない悲しみに、胸を突く空虚さに、嫉妬に、憎しみに、不意にどろりと湧き出る感情に抗えずに毒を盛ってしまう自分が居る。
いっそ誰かに止めて欲しかった。
罪に問われ死罪になってもいい。
お願い、彼を殺してしまう前に…………誰か私を殺して。
「お買い物に行って来ます」
「いってらっしゃい。気を付けて」
もうこの生活にもだいぶ慣れたのに、毎度「気を付けて」と案じる言葉をかけてくれるディランに笑みを返して家を出る。
もはや長時間歩くことも出来ない彼はこの家から出ることはほぼない。
買い物をしていると後ろから声をかけられた。
振り向けばそこに居たのは身なりのいい男。
「やっぱそうだ!こんな所で会うとは思わなかった」
「えっと……?」
口ぶりからするに顔見知り。薄っすらと顔に見覚えがある気はする。
「覚えてない?ディランの友人でレックっていうんだけど。一度話もしたことあるよ」
説明にああ、と思い出した。確かに偶然会って紹介されたことがあった。
立ち話をしながら近況を少し語り、「じゃあそろそろ……」というところでレックが「そうだ」と口を開いた。
「身体のこともだけど、少しは心境的に持ち直した?その……妹のこと」
「はい。完全に忘れることはできませんけど」
「だよなぁ。アリス嬢が亡くなったって連絡受けた時、あいつの取り乱しようはすごかったし。仲、良かったもんな」
「え……?」
レックの言葉に思わず目を見開く。
「連絡を受けた時、一緒に居られたんですか?」
エリザベスの問いかけにレックはなんてことなさそうに「ああ」と頷いた。
「友人の誘いで泊りがけで出かけてたんだ。宿に使用人が駆け付けて来た時は吃驚した。まだ若いのに可哀想になぁ」
もはやレックの声はエリザベスに届いていなかった。
慌てて別れ、逸る気持ちを押えられずに家へと急ぐ。
あの日、ディラン様は旅先に居た……?
それなら…………アリスを突き落したのは……ディラン様じゃ、ない?
ヒュッ!と喉が鳴った。
だってそれなら…………私がしたことは……。
令嬢として生活していた時よりもずっと質素でシンプルなドレス。それでも足に纏わりつくドレスが煩わしかった。走って、走って……ぜぇぜぇと荒い息にも気づかぬまま、もどかしく鍵を開ける。
ドアを開くと…………立ち上がり、水差しを手にしたディランが居た。
驚いた顔の彼と目が合う。そして何気なくそれた視線がテーブルの上を捉え……息を呑んだ。
「な……んで……?」
目を見開く、喘ぐように声を漏らしたエリザベスにディランは柔らかく笑う。
「おかえり。随分と早かったね」
そう言うと彼は自らの為に用意しただろうコップに水を注ぎ、エリザベスへと差し出してくれた。それを半ば無意識に受け取りつつ、ぎこちない動きで彼を見上げる。
「なんで……?」
テーブルの上、コップが置かれていた横にある錠剤。
それはエリザベスがディランに盛っていた毒の解毒剤だった。同じものを持っているから間違いない。
「随分と息が切れてる。まずは座りなさい」
彼が引いてくれた椅子に座る。
もう何が何だかわからなかった。
「なん、で。どうして……それ」
まさか…………ディラン様は、私が毒を盛ってるのを知っていた?
「知ってたよ」
言葉にならない疑問を読み取り、ディランが答える。あまりに穏やかに、優しく。
「ああ、別に死ぬのが嫌なわけじゃないんだ。正直、この苦しみから解放されたい気持ちもあるしね」
筋が浮く喉に枯れ木のような手を当て、眉を下げたディランは笑う。
「けど…………この頃、君は一人になるのを恐れているような気がして」
その言葉に目を見開く。
「いつ、から……?」
「最初から」
「どうして……?」
掠れた声、馬鹿みたいに「なんで?」「どうして?」とその言葉ばかり繰り返している。
「君になら殺されてもいいと思った。それだけだよ」
「私、は……アリスの復讐のために…………。貴方が、あの子を殺したんだって思って……」
「その通りだ。私があの子を突き落した」
「違うっ!!」
瞳を伏せ肯定するディランに、エリザベスは立ち上がって叫んだ。その衝撃に隣の椅子に置いていた買い物かごが落ちたけど、構わず続ける。
「貴方はあの時居なかったっ!!レック様たちと一緒にご旅行に行かれていたのでしょう?!」
小さく目を見開いたディランは、その言葉にエリザベスが血相を変えて帰って来た理由を悟ったようで軽く天井を見上げてああと息を吐いた。
どうでもいい嘘がバレてしまったような軽い溜息。
「なんだ彼に会ったのか」
「答えてっ!ちゃんと全部教えてよっ!!」
エリザベスはディランに掴みかかった。両手で掴んだ彼の両腕は悲しい程に細く頼りない。
そのことに動揺しながらも覆いかぶさるように彼の瞳を見つめた。逸らすことは許さない強さで。
「お願い、お願いだから……」
懇願にも似たその声に彼の瞳が哀しそうに翳り、やがて「いいよ」と小さく頷いた。
何から話そうか考えるように数秒瞳を閉じ、テーブルの上に肘を付いて両手を組んだディランは開口一番に言った。
「あの子はね、アリスは…………自らあそこから飛び降りたんだ」
「嘘よ……」
「嘘じゃない。アリスは自殺したんだ」
自殺、その言葉が頭の中をグルグルと木霊した。
エリザベスが考えなかった唯一の可能性だった。
口さがない誰かが口にしても、そんな筈がないと否定し続けてきた可能性。
それこそ兄であるディランが彼女を殺害した可能性以上に。
「そしてあの子の背を間接的に押したのは私でもある」
それは恐れていた言葉でもあった。
あんなにもアリスを殺した犯人を突き止めようとしつつ、エリザベスが聞くのを恐れ続けていた言葉。
アリスを突き落したのはディラン様じゃなかった。
だけど、ディラン様に関することでアリスは自ら死を選んだ。
拳を強く握り、ごくりと唾を飲み込む。恐る恐る、口を開いた。
「それは…………ディラン様が、アリスを……妹としてじゃなく愛していたから?」
その問いに……彼は大きく目を見開いた。
思いがけないことを聞いた、まさにそんな表情をした彼はその衝撃が抜けると肩を揺らして笑いだし、やがて右手で顔を覆うように前髪ごとくしゃりと掴んだ。
「そんなことを思っていたのか」
小さな声が響き、次いでその口が「それなら良かったのに……」と言葉を紡いだ。
手をどけたディランの顔は無表情だった。
そのままテーブルに手を付いて立ち上がり、棚に歩み寄ると何かを取り出した。それを手に再び席へと戻る。
ディランがゆっくりと包みを開く。
中には綺麗な包装紙に包まれた何か、そして手紙が二通と見覚えのある透かし彫りの栞が入っていた。
「返すのが遅くなってすまないね。君の落とし物と、それから旅行のお土産だ」
「これ……」
「私の部屋の前に落としていたよ。 君(・) も(・) あ(・) の(・) 日(・) 聞(・) い(・) て(・) い(・) た(・) よ(・) う(・) に(・) 「アリスを殺したのは私」だ。物理的にあの子の背を押していなくてもね」
「……っ!」
息を呑む。
「言っただろう?「最初から」だって」
何度目かもわからず瞳を見開くエリザベスに、ディランはあくまで静かに笑みを返えした。
「じゃあ、私が立ち聞きしたことも知ってたのね。私が疑惑を抱いた切っ掛けから。なんで?なんですぐに否定してくれなかったの?!」
「君が生きていたから」
「……?」
意味がわからないエリザベスの頬を、かさついたディランの指が撫でる。確かめるような、愛おしそうな仕草だった。
「あの時、君は生きる気力を失くしているように見えた。私は怖かったんだ。エリザベスまでアリスのように消えてしまうんじゃないかって」
「なに、言って……」
「キリアンを憎んでいる時、君の瞳は輝いていた。異様な程にね。だけど彼が犯人でないことがわかり、君は以前よりもっと危うくなった。まるで亡霊のようだった。だけど新たに憎むべき相手を手に入れたベスの瞳は輝いていた。瞳をギラギラと輝かせる君はどうしようもなく 生(・) き(・) て(・) いたんだ」
彼の言葉に思わず片手を目に添えた。
そんなギラついた瞳をしている自覚なんて全くなかった。
呆然とするエリザベスを見てふっとディランは笑う。
「冷静そうに見えて、ベスは意外と感情が出やすいからね。妖しいまでのその輝きに私は魅せられ、同時に酷く安堵したんだ。復讐が君の生きる理由になるなら、それを活かそうと思った。君の疑惑を育て、憎しみを私へと向けた。 こ(・) の(・) 癖(・) も(・) アリスと君が昔教えてくれただろう?」
そう言ってディランは左手で右腕を掴んで見せた。
「……っサイモン様のことも……!」
復讐の為にしたたかに振る舞っていたつもりが、全てディランには筒抜けだった。それどころか敢えて誘導されていたのだとエリザベスは知った。
そっと引き寄せられ、座ったまま抱き寄せられる。
「私の所為でアリスは死んだ。だから……そんな私が殺され、君の心が晴れるなら、それでもいいと思ったんだ。それでエリザベスが立ち直ってくれるなら本望だった。なのに、今の君は私を殺すのを恐れているようだから」
彼の視線がそっと解毒剤を見る。
毒の効果を消す解毒剤、だけど毒に蝕まれ過ぎた彼の身体が回復することはもうない。精々新たな毒の効果を抑えるだけ。
そしてそれは自分の為ですらなく……。
自らの犯した取り返しのつかない間違いに、止めどなく涙が頬を濡らした。喉を鳴らしつつ、散々繰り返した言葉をまた紡ぐ。
「どうして……アリスはどうして……?」
差し出された手紙。
そこに記された筆跡に息も出来ないぐらい驚愕する。
「アリスからの手紙だ。私と君に。死後に私の元に届くよう投函していたらしい」
腕で雑に涙をぬぐい、震える手で封を開けた。
少し丸っこくって癖のある可愛らしい字を、夢中で追う。
アリスからの手紙、遺書ともいえるそれにはこれまでの楽しかったこと、嬉しかったことなどが綴られていた。
そして_______。
お花畑で遊んだ幼かった日のことを覚えてる?
まるで楽園みたいな特別で素敵な想い出。
わたし、ずっとベスとお兄様と三人で居たかった。
いつまでもずっと、ずっと一緒に居られるって思ってたの。
わたしが男の子だったらベスと結婚できたかしら?
わたしがお兄様の妹じゃなかったらお兄様と結婚できた?
ベスを誰にも取られたくない。
ディランお兄様を誰にも取られたくない。
だからごめんね?
わたしの世界が壊れる前に、わたしが居なくなることにしたの。
そうすれば二人が離れていくこともない。
それに、わたしのことで悲しんでくれる間は貴女の心に居られるでしょう?
大好きなベスへ。
ずっとずっと大好きよ。わがままなわたしをどうか許してね。
手紙の枠外、最後の最後で付け足したのだろう。走り書きの文字で小さく『せめてお兄様とベスが結ばれれば……それなら許せたのに』と書いてあった。
全て読み終え、エリザベスは暫く動くことさえ出来なかった。
ああ……と、ほろりと涙が頬を滑る。
そんなエリザベスを痛ましそうに見たディランが彼の名が書かれた手紙も差し出す。内容は似たような文章だった。
「アリスが私や君を好いているのはわかっていた。わかってる……つもりだった。エリザベスがニックと付き合いだした時、あの子は酷く動揺したよ。間の悪いことに、同じ時期に私にも縁談の話が持ち上がっていた。そこで初めてあの子の愛情と執着がただの兄や親友に向けるには大きすぎるものだと気付いた」
「貴方はそれを宥めた。それが、アリスが泣いてた理由。自殺のことを隠したのは……私の為でもあったのね」
思い当ってしまえば、色々なことが腑に落ちた。
あの頃、エリザベスは付き合い始めたニックに夢中だった。
アリスが誰かに付きまとわれていると、怯える様子を見せるようになったのはちょうどその直後ではなかったか?
切っ掛けはキリアンだったのかも知れない。そして彼女はそれを大げさに口にした。
全てはエリザベスの関心を買う為に。
「バカみたい」
渇いた呟きが落ちた。
引き攣った笑みが漏れた。顎を伝った涙がポタポタとドレスを濡らす。
自分がアリスを殺したのだとディランは言った。
事実、彼は自分の言葉が彼女の背を押してしまったのだと悔いていた。何一つ間違ったことは言っていないし、していないにも関わらず。最愛の妹の死を止められなかったことを嘆いていた。
そんな彼が真実を継げなかったのは、エリザベスの為だ。
何故ならアリスが死を選んだ最大の理由はエリザベスにこそあるのだから。
それなのに…………意味のない復讐心に囚われたエリザベスは。
「……みんな……バカみたいじゃない……」
簡単に死を選んだアリスも、
復讐を心の拠り所としたエリザベスも、
自分を犠牲にするディランも、
誰も彼も救いようがない程に愚かしい。
不意にチクリと指先が痛んだ。
血も出ていないそこは、アリスの葬儀で薔薇の棘を刺した場所と同じ。
まるであの日の見えない毒が、静かに巡ったようだとそう思った。
愛という猛毒が、身体中を巡って今日に至ったみたいだと。
そっと身を乗り出し、エリザベスはディランに口付けた。
驚く彼を見ながらゆっくりと唇を離す。
『せめてお兄様とベスが結ばれれば……』
本当に……どうしてもっと早くこんな関係になれなかったのだろう?そうエリザベスは思う。
ディランの、それからアリスへの愛に比べれば、かつてのニックとの恋などおままごとにも等しい愛だった。
そんなものの為に全てを失ったなんて……そう思うと同時に、今日を迎える為に必要だったのだとも思う。
エリザベスは椅子から立ち上がると、零れた買い物かごの中身を拾った。艶々のリンゴをドレスの裾で軽く拭う。 箍(たが) が外れてしまったのか、いっそ不思議な程に心は晴れやかだった。
「エリザベス?」
「いいリンゴでしょう?アップルパイを作ろうと思って買ってきたの」
アップルパイはアリスの大好物だった。
リンゴを手にキッチンへと向かう。流し台の横にリンゴを置くと、棚を開いてアップルティーの缶と小さな小瓶を取り出した。
「とびっきり美味しいのを作るわ。ティータイムをしましょう?貴方の好きな紅茶を淹れて、アップルパイを食べながら、沢山アリスの話をするの。沢山、沢山。おかわりはあの子の好きだったアップルティー」
エリザベスの手元を見たディランの瞳が見開かれる。
次いで柔らかで優しい笑みが顔中に広がった。
「迎えに行ってあげましょう。あの子は寂しがり屋だもの」
「そうだね」
毒の入った小瓶。
少量ずつでなく一定量を使えば一度で致死量となるそれをテーブルに置きながら言えば、穏やかな肯定が返される。
それに微笑み返しながら、エリザベスはベッドの横にある車椅子を運んだ。
「さ、疲れたでしょう?少し寝たら?」
「いや、ベスが料理するとこを見ていたい」
「でも……もう、わかったわ。じゃあ窓際にしましょうか。日差しが気持ちいいもの」
否定しようとして視線に負け、ディランを乗せた車椅子をキッチンが見える窓辺へと寄せた。ついでにブランケットを彼の膝へとかける。
静かな部屋の中に包丁の音が響き、やがてバターと砂糖の溶ける甘い香りが辺り一面に広がった。
良い色に焼きあがったアップルパイを取り出し、 微睡(まどろ) んでいたディランを起こす。
ヒクヒクと鼻を動かし「すごく美味しそうだ」と笑う彼の車椅子を押しながら「自信作です」と胸を張った。
ソファに並んで座り、アップルパイを取り分けた。
自分たちの前に一つずつ、そして対面のお皿に一つ。
紅茶と焼きたてのアップルパイを楽しみながら、幼い頃からの想い出を語り合う。笑いながら、拗ねながら、じゃれ合うように宝物のような日々を語る。
アップルパイを二つずつ食べ、紅茶を二杯飲み干す頃には随分と時間が経っていた。喋りつかれた喉を潤すように新たな紅茶を淹れる。
仄かなリンゴの香りに瞳を細め、小瓶の中身を二つのカップに全て垂らした。
それからエリザベスとディランは何も言わずに、どちらからともなくキスをした。
温かな日差しが差し込むとある午後。
まるでお伽噺に出てきそうな小さな家で、ソファで男女が眠っていた。
寄り添うにに肩を寄せ合い、手を繋ぎ幸せそうに眠る二人。
二人の前には空っぽのお皿とカップ、そして向かいには中身の減らないカップと美味しそうなアップルパイが一つ。
風を運ぶように開け放たれた窓の先、小花が咲く小さな庭には白い蝶の群れがあった。
淡く儚い白が、まるで葬列のようにふわりふわりと飛んで行った。