軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

05 幼い私が憧れていたもの【テオドール視点】

ターチェ伯爵邸のメイド長に案内された客室は、それほど華美ではなく落ち着いた内装だった。しかし、見る人が見ればここには最高級のものが集められているとわかる。

急に押しかけたにしては、歓迎されているようだ。

控えていたメイド長に下がるように伝えてから、私はソファーに身を沈めた。身体は疲れ切っているのに、眠気を感じることはなく脳裏には先ほど夜会で行われた婚約破棄の場面が浮かんでいる。

私の婚約者であるはずの王女殿下と弟のクルトが、人目をはばからず愛し合うようになってからというもの、いつかこんな日が来ることはわかっていた。

でも、心のどこかで 真摯(しんし) に王女殿下を支え続ければ、いつか私の努力を認めてくださるのではないかという淡い期待もあった。

しかし、今思えば、王女殿下と私が婚約したこと自体が間違いだった。

生まれたときから両親にうとまれていた私は、物心つく頃には公爵家を出ようと決めていた。

私がそう思うようになったのは、私とクルトの家庭教師をしていた人の影響だ。彼は穏やかな男性で 博識(はくしき) だった。おそらく、私の置かれている環境に気づいていた。

うとまれる長男、愛される次男。

公爵家の使用人達ですら私とクルトで態度を変える中、彼だけは平等だった。大人しく授業を受ける私をほめ、不真面目なクルトを注意した。だから、ひと月もせずにクビになってしまった。

公爵邸を去るときに、彼はわざわざ膝を折り、幼い私の目線に合わせてからこういった。

「本は誰にでも平等です。読書は体験であり対話です。あなたは決して一人ではありません」

それからの私は読書に没頭した。幸いなことに公爵家には、一生かかっても読み切れないほどの本があった。現実世界では、一言も話さない日が多かったけど、本を読むことにより、さまざまな体験をして、多くの賢人と対話ができた。

その結果、このままだと私はいつか父に殺されるかもしれないということに気がついてしまった。

両親は、溺愛しているクルトになんとしてでも公爵家当主の座を譲りたいはず。だとすれば、長男の私は邪魔でしかない。

殺されるなんて嫌だった。だってまだ、読んでいない本がこんなにたくさんあるのに。

成人した私は父に『公爵家を継ぐことを放棄し、王家に仕える役人になりたい』と 懇願(こんがん) した。これが父に初めていったワガママだった。

このときばかりは、両親も喜んで私に笑みを向けてくれた。その後、またすぐにうとましい私の存在を忘れた。

役人勤めは楽しかった。初めは『コネで入ってきたバカな公爵令息のお守りなんてごめんだ』という顔をしていた仕事仲間達は、すぐに私が即戦力になると認めてくれた。

認められたことが嬉しくて昼夜問わず夢中で仕事をしていたら、半年もたたないうちに国王陛下に謁見を許された。それだけではない。第一王女アンジェリカ殿下の婚約者に任命されてしまった。

役人の中では、王女殿下のワガママは有名だった。王女殿下の後始末で残業することも少なくない。ようするに私は婚約者という名の『王女殿下の後始末係』に任命されてしまったのだ。

予想外の出来事だったけど、これなら父も喜んでくれるだろうと報告すると、信じられないほど冷たい視線を向けられた。

「どうして、クルトではなくお前が……。お前など生まれてこなければ良かった」

呪いの言葉と共に、地獄の日々が始まった。

何を思ったのか、両親は私の評判を落とすことに 躍起(やっき) になり、社交界で私のありもしないウワサを流し続けた。

その内容は、私がクルトに嫉妬してつらくあたっているだの、王女殿下とクルトは愛し合っていたのに、私が無理やり王女殿下を奪っただの、あり得ないものばかり。

こんなウワサ、いったいだれが信じるのだろうか?

あまりのバカバカしさに呆れながらも私は仕事を続けていた。

王女殿下のワガママはさらにひどくなっていき、対応に追われる日々。睡眠時間を削って仕事をしていると、そのうち寝ようとしても眠れなくなっていった。日に日に疲労だけが溜まっていく。

その間に、クルトが王女殿下に近づいてウワサを真実に変えたようだ。愚かな私はそんなことに少しも気がついていなかった。

胃のあたりがいつも重く、食が細くなっていった。それでも、仕事はいっこうに減らない。

大好きな読書も、もう長い間できていない。

いったい、私は、なんのために生きているのだろう?

そう思っていたとき、王女殿下から夜会に参加するように言われた。いつもは「絶対に来ないで!」ときつく言われていたのに。

その後、夜会で行われた婚約破棄は、私にすれば甘い誘惑で、これを受け入れればこの苦しいだけの日々がようやく終わるのだと思えた。だから、婚約破棄を受け入れた。

もうすべてが、どうでも良かった。ただ、楽になりたかった。

それなのに――。

私や衛兵を助けるために王女殿下の前に飛び出したシンシア様の手は震えていた。

――テオドール様、今のうちに逃げましょう

――テオドール様が罪人になるのはおかしいです

――テオドール様、私と婚約してください!

シンシア様が紡ぎだす言葉は、信じられないほど心地好い。思い返すたびに、乾ききった私の心が温かい何かで満たされていくような気がする。

――えっと、あのその……ひ、ひとめぼれです?

あのときは疑問形で返されてつい笑ってしまった。楽しくて笑うなんていつぶりだろう。笑ったとたんに、ぼんやりとしていた意識がはっきりとし、私は強烈に生きたくなった。そして、どうせこれからも地獄のような日々を生きていかないといけないのなら、私を助けてくださったシンシア様のために生きたいと思った。

――テオドール様が悪い人ではないことくらい、初めて会った私でもわかります

――テオドール様は、サンドイッチはお嫌いですか?

――あっそうですよね。大変な目に 遭(あ) われたばかりですもんね

だれかに心配してもらえることが、こんなにも嬉しいだなんて知らなかった。私はふと、自分が眠いことに気がついた。

また、シンシア様の声が聞こえる。

――おやすみなさい。

長い間忘れていたけど、それは幼いころの私が憧れていた言葉だった。母は、クルトが眠るとき毎日のように優しくこういうのだ。

『愛おしいクルト、おやすみなさい』

そして、母はクルトの額にキスをする。

私にはだれも言ってくれなかった言葉を、シンシア様はいとも簡単にくださる。それだけで、私は生涯シンシア様に誠心誠意お仕えできる。

シンシア様がくれた温かい言葉の数々を思い出し、私は幸福感に包まれながら眠りに落ちていった。