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【電子書籍化】出稼ぎ令嬢が騎士団長のお弁当係になった訳

作者: 彩瀬あいり

本文

時刻は昼を過ぎたところ。場所は王宮の外れにある備品室。

エルーシャが大口を開けてサンドイッチにかぶりついたとき、床を軋ませる足音が聞こえた。

音の方向へ顔を向けると、そこには騎士団の制服を着た男が立っており、ものすごい形相でこちらを見ている。

たしかこの方は、若くして団長に昇格したフランシス・ナタール。御年二十五歳、独身。

伯爵である親のコネを使わずに入団し、地方の下っ端団体からのし上がってきた叩き上げの騎士。

名ばかりの坊ちゃん団長が多いなか、ひさしぶりに実力派の団長が就任したと、使用人たちのあいだでもっぱらの噂となっている。

話題の内容はそれだけではなく、彼の容姿がとても素晴らしく美しいことも、噂が駆け巡る要因のひとつだろう。

武よりは芸事が似合いそうな美男子。

艶やかな金の髪。宝石を嵌め込んだような碧眼。憂いを帯びた眼差しを向けられた令嬢たちを軒並み失神させた殺人兵器だとか。

伯爵家の次男で美丈夫でありながら、女性の影はない。

未婚の令嬢たちが騒ぐのも当然といえた。

ごくり。咥内に入っているパンとハムを咀嚼して飲み込む。

そしておもむろに二口目にとりかかったエルーシャに対し、フランシスはくちを開いた。

「いや喰うのか」

「昼食なので」

「こんな場所で?」

「他に思いつかなかったものですから」

フランシスが不審がるのも無理はなかった。飲食にはまったく向いていない場所である。

そんなところでメイド服を着た女が、およそ淑女らしからぬ仕草で食事をとっているとなれば、あやしいことこのうえない。

しかしエルーシャにだって言い分はあった。お行儀はよろしくないけれど、時間節約のため、食べながら事情を説明する。

エルーシャは地方から出稼ぎに来ている貧乏男爵令嬢。弟の学費を稼ぐために王宮メイドとして働いている、十八歳の勤労子女だ。他の貴族令嬢のように、行儀見習いやら箔付けのためだとかで就労しているのとは訳が違う。

とはいえ貴族としての体面もあるので、そんなことは表立っては言えない。たとえなんとなく察せられているとしても、本人が明言しないかぎり、それは正ではないのだ。

仕送りのために節約しているエルーシャは、王宮の食堂を利用することができない。

あそこは王宮職員向けに開かれているので、価格がお財布に優しくないのである。たまの贅沢ならばともかく、日常的な利用には向いていなかった。

そのため持参して食べている。食堂のメニューを食べるわけではないので、そこの席に座るわけにもいかず、さりとて第三者の前で粗末な自作ランチボックスを広げるわけにもいかない。

人目を忍んで食べられる場所を模索した結果、滅多にひとが訪れないここに行き当たったというわけである。

「――なるほど、理解はした」

「わたしの行為は咎められますか?」

「いや、処罰の対象にはならんだろうが、しかし」

「そういえば団長さんはどうしてここに?」

誰も来ないと思って利用していた場所である。王宮でも端にあり、用事がなければ足を向けることもないはずのここに、なぜ騎士団長がやってきたのだろう。

エルーシャの問いに、フランシスは狼狽した。目が泳いでいる。

「パ、パトロールだ。普段、誰も来ないような場所であっても、火が出ないともかぎらんからな」

「そういえば」

「そ、そういえば?」

「はい。以前、簡易コンロを見つけたことがあるんです。翌日来たときにはなくなっていたので、気のせいだったのかな? って思ったんですが、あれはつまり誰かが火を使っていたということでしょうか」

「そのことを、誰かに言ったか?」

「いえ、伝えておりません」

なにしろエルーシャとしても、隠れてこっそりの行動だ。普段誰も使用しない部屋に火気器具があると報告して、「なぜおまえはそこに行ったんだ」と問われたら、返事に困る。だから誰にも言わなかった。気のせいだったということにした。

しかし王宮の治安を守るのも騎士団の仕事。その 長(おさ) に知られてしまっては、もう言い逃れできない。

観念して罰を受けようと考えたエルーシャの耳に、「よかった、まだバレてなかった」という声が届いた。

ここにいるのはふたりだけ。

エルーシャではないということは、声の主は。

「バレてなかったって、どういうこと? あれを置いたのは団長さんだったんですか?」

ぎくりと、非常にわかりやすく動転したフランシスに、エルーシャの脳内に「助かった」の声が木霊する。

どうやらこの団長殿には、後ろ暗い事情があるらしい。よもや火を放とうとしていたわけではないだろうが、コンロを用いたなにかをしていたことは明白。それも誰にも知らぬように。

考えてみれば、この備品室。倉庫のわりには机や椅子があり、ちょっとした休憩スペースに最適である。だからこそ、「ここで食べよう」と思ったわけだが、エルーシャがそう感じたように、他の誰かが同じことを考えたとしても不思議ではないのだ。

「つまり団長さんもお仲間だったということですね」

問いかけではなく、断定で言い切ったエルーシャの弁に、言い逃れは不可能と考えたか、フランシスはくぐもった声で同意した。

フランシスの業務は多忙を極めていた。

前団長は不正行為をしており、しかし実家の力で揉み消し表面上は勇退したことになっている。

職を追われたことを根に持ち、まともな引継もないまま辞めてしまったため、フランシスとしても「で、俺はなにをすれば?」状態。

現場のことはわかっている。

しかし、団長というのは管理職であり、事務作業が発生する。ただ剣をとっていればよかった時代とはまったく違う、同じ騎士団でありながら新しい職なのだと思い知った。

「ストレスが溜まるんだ」

「はあ」

「俺はストレスが溜まると過食に走るところがあり」

「はあ」

「だからこうして隠れて」

「べつに隠れる必要ないのでは?」

食欲旺盛。結構なことじゃないか。男性騎士がたくさん食べて、咎められることもなかろうに。

首を傾げるエルーシャに、フランシスは眉を顰める。

「自分で言うのもどうかと思うが、俺はこの容姿だ。紅茶を傾けて軽食を取っているような、そういった印象を持たれがちで」

「まあ、たしかにそうですね。高位貴族のお茶会に参加して、ご令嬢たちにうっとりされているのが似合っていらっしゃいます」

「そうなんだ。だが生憎と俺はがっつり派なんだ」

「がっつりは」

ぐっと拳を握ったフランシスが吠える。

「きゅうりのサンドイッチで腹が膨れるか? いや、否定するわけではないが、エネルギー変換率は低いだろう。せめて厚切りのハムを挟むべきだ。きゅうりよりレタス。そこにトマトと塩気のあるベーコンを挟んだパンなんて最高じゃないか! 肉、やはり肉しか勝たん!」

「ハンバーグステーキの中からとろけたチーズが出てきたら言うことなし、みたいな」

「なんだそれは神か。付け合わせはポテトフライでお願いしたい」

「皮付きで?」

「いいなそれ」

一見すると穏やかな印象を持つフランシスが、妙にギラギラとした眼差しで熱く語る。ものすごいギャップだ。

「あー、なるほど。団長さんのイメージ戦略の問題なんですね」

前の騎士団長は横柄な男だった。強い者には媚びを売り、弱い者には高圧的というタイプで、平民の使用人たちの評価はすこぶる悪かった。

城の中ですらこうなのだから、城下の者たちにどんな態度を取っていたのか、想像に難くない。

エルーシャが知るかぎり、騎士団の評価は悪化していた。

だからこその新団長就任だ。

部下からの評価は高く、容貌から女性人気も集められる。

粗野で横暴な野郎集団という印象を払拭すべく、フランシスは担ぎ出されたのだろう。

「多くのひとが集まる食堂では、それなりの振る舞いをする必要があるから、好きなものを好きなように思いっきり食べられない。だから、こっそり食べていたということでしょうか」

「……そうだ」

難儀なことだ。体を資本とする男性が、がっつりモリモリお肉を食べて、なにが悪い。

だが、エルーシャも末端ながらも貴族令嬢なので、見目麗しい殿方を鑑賞対象として捉える気持ちはわからなくもない。女性使用人たちが「素敵よね」と噂するのとは、すこし性質が異なる。貴族令嬢のそれは、憧れと同時に捕食対象。あわよくば縁組をと思っている。

皆が羨望する殿方を自身の傍に置くことで虚栄心を満たしつつ、貴族令嬢界隈において、自身の存在価値を高めんとしている。女性の社会は嫉妬の塊。

いまはまだ誰とも特別な仲になっていないフランシスには、ひとまず『美しい存在』であって欲しいのだ。

その優美な蝶を自身の指に止まらせるまでは、全女性の憧れであってほしい。

であるからこそ、射止めたときの騒ぎは大きくなるし、乗じて自分の名前も噂になる。あのフランシスの心を捕らえた自分に酔えるというわけだ。

「大変よくわかりました。では存分にゆっくりなさってください」

「やけに理解が早いな」

「ひとの目が気になるのはわたしも同じなので。あの――」

「なんだ」

「わたしもここを使ってもいいでしょうか?」

せっかく見つけた穴場ポイント。別の場所を選定するのは難関である。

「無論かまわない。だからこのことは黙っていてくれ」

「承知しました。ではお互いに食事をしましょうか」

エルーシャは巾着から新しいサンドイッチを取り出した。持参した水筒からスープをコップに注ぎ、いざランチを再開。

今日はいつもより遅れて休憩に入ったとはいえ、戻るのがあまりに遅いと心象が悪くなる。さっさと食べて持ち場につこう。

フランシスはしばし迷ったのち、エルーシャの対面に座り、持っていた紙袋を机上へ置く。

取り出したのは紙に包まれたなにか。ガサガサと包みを剥がしかぶりついている。

見るとはなしに見ていたエルーシャは、思わず目をぱちくりと瞬かせた。

そのさまを見たフランシスは不服そうな顔をしてエルーシャに言う。

「なんだ」

「あ、いえ、すみません。さきほどのお言葉があったので、味の濃いボリュームたっぷりのものが出てくるのかと」

「……忙しくて買う時間がなかったんだ」

「あー、そういう」

フランシスの手にあるのは、ただの棒パン。切り目を入れてクリームを挟んだり、あるいは具を挟んで食べる、言ってみれば基礎となるパンだ。

そのままかじるだけなら、味も素っ気もない。シンプル以前の問題である。

「昨日、退勤明けに寄った店の売れ残りだ。これしかなかった」

「いっそ寮母さんとかに頼んで作ってもらったらどうですか?」

「特定のひとりだけに料理を提供するのは、規律が乱れるから容認できない」

許可が下りたら、我も我もと人数が増えてしまい、寮母の負担が増えてしまう問題もあるだろう。

げっそりした様子のフランシスは本当に疲れて見えて、エルーシャは差し出がましいと思いつつ、つい言ってしまった。

「あの、ものすごく失礼ですが、交換します? こっちはまだくちをつけていないので」

包みを外したばかりのサンドイッチを見せる。

今日はいつもより具沢山だ。というのも、残りものをすべて使い切っておこうと思ったから。

肉屋で安く売っていた魔物のバラ肉を濃いめのソースで煮詰めたもの、細く刻んだキャベツを薄い平焼きパンに乗せ、ゆで卵を混ぜ込んだタルタルソースを落として、再度パンを乗せて挟んだサンドイッチだ。

その他、余ったくず野菜を煮込んでコンソメで味を調えた野菜スープも、朝食の残り。

貧乏節約メニューだが、味のないパンよりはましだと思う。

「いや、しかし、ならば君はどうする」

「団長さんのパンを食べます」

「これをか。持ってきておいてなんだが、本当にただの棒パンだぞ」

「デザートにしようかと思ってカスタードを持ってきているので、それを塗って食べますよ」

ジャムの瓶を再利用して使っているそれを取り出し、蓋を開けて提示する。氷の魔石を敷いていたので、傷んではいないはずだ。これも半分ほどに減っており、今日中に食べきって終わるつもりでいた。

「甘い匂いがするな」

「そりゃカスタードですから。あ、甘いもの苦手ですか?」

「いや、普通に食べるが」

「よかった。嫌いなひとは匂いだけでも気持ち悪くなるって言いますし。それで、どうされますか?」

「……君の迷惑でなければ、交換してくれるとありがたい」

「じゃあ、はいどうぞ」

包み紙ごと差し出すと、フランシスの手が伸びてきて、それを受け取った。

近くで見ると意外とゴツゴツした指だ。艶やかな容姿に反するそれに、この男が『実力派の騎士団長』であることをあらためて認識させられる。

よく見るとがっしりした体格をしているし、ご令嬢主催のサロンで優雅に茶を飲んでいる貴公子にはまったく見えない。噂とはあてにならないものだ。

実物との差異に幻滅するひともいるのだろうが、エルーシャは逆に好感を抱いた。労働者の体は嫌いじゃない。

フランシスはサンドイッチにかぶりつく。

意外と大きなくちで噛みきり、咀嚼したのちに嚥下するのを見守るなか、彼は頷いた。

「旨いな」

「それはよかったです。やっぱり体を動かすひとは味の濃いものを好みますよねえ」

「その傾向はあるな」

「ちょっと日が経っているので余計に味が浸透していて。残りの細かいやつはスクランブルエッグの味つけにするか、ライスと混ぜて炒めるか、どっちにしようか迷っているところです」

自室の保冷庫に残っている肉の欠片を思い出しながら、エルーシャは言う。今晩のメニューどうしよう。

「――待て。もしやこれは君が作ったのか?」

「パンは買ってますよ」

作れなくはないだろうが、手間と時間を考えると、買ったほうが安くつく。独り暮らしなんてそんなものだ。

「そういえば女性寮は、女性騎士にしか解放されていないのだったか」

「はい。わたしはメイドとして雇われているので対象外ですね」

「他のメイドたちは――、そうか、貴族令嬢は自身のタウンハウスから通っているし、平民も通いだな」

「ですから、王都に部屋を借りてます。お城の文官さんが仲介して、社宅扱いにしてくれてます」

再雇用年齢のおじいちゃん文官は、出稼ぎに来ているエルーシャに同情的で、「寮に入れてあげられなくてすまんのう」と言い、親身になって住まいを探してくれたのだ。

家賃は給与天引で、自分で払いに行かなくてもいいようになっている。不動産屋は、若い娘を下に見てくることが多いので、そういう仕様にしてくれたらしい。

「大変だな」

「でも、平民ならわたしぐらいの年齢で働くのも普通ですし。王宮だけあってお給料の滞納もなく、安定して仕送りができています。節約もしてますしね。あ、こんなしょぼいサンドイッチで本当にすみません」

「なにを言う。立派なものだ。俺は料理は得意ではないんだ。野営のときも、味付けはしなくていいから火が消えないかだけ見ていろと、いつも言われていた」

伯爵家のご子息なのだから、それで十分な気もするが、ひたすら申し訳なさそうな顔をするフランシスがおもしろい。他人を思いやって行動ができる、いいひとだ。下っ端メイドにもこうして声をかけ、褒めてくれる。上司として申し分ないじゃないか。

褒められたことで気分を良くし、エルーシャはスープも分けてあげる。今朝も飲んできたし、いつも同じようなものを作っているので、惜しいものでもない。

フランシスは笑みを浮かべて受け取ってくれ、水筒の中身をすべて空けてくれた。

「ありがとう、君は命の恩人だ」

「そんな大袈裟な」

「ボリュームがあって食べ応えのあるものだったので、本当に助かった。ひさしぶりに『食べた』という気持ちで食べ終えることができて嬉しい」

ものすごく満足顔で言われて、彼の本当の気持ちなのだろうと伝わった。

ここまで言われて卑下するのも逆に失礼に当たると思い、エルーシャは軽く礼を執った。

「わたしも楽しかったです。独り暮らしですし、昼食はいつもこうしてこっそり食べていることもあり、誰かと一緒に食事をするという行為がひさしぶりでしたから」

「身勝手なことを言うのだが」

「なんでしょう」

「君の昼食をこれからも分けてくれないだろうか」

「――は?」

「いや、代金は支払う。食い逃げなんてしない」

そういう問題ではない。

エルーシャは料理人でもなんでもない、ただのメイドだ。自分で食べるのには困らない程度のものを作っているだけであって、他人に食べさせる前提では考えていない。

そんな素人が、伯爵家のご子息に手料理を振る舞う?

(ムリムリムリムリ)

そんなバカな、である。

手を振って辞退しようとするエルーシャの両手を捕まえて引き寄せ、フランシスが身を乗り出す。

「難しく考えなくていいんだ。今日のように、君が自分で食べようと思うものでかまわない。俺は貴族とはいえ地方で平民と一緒に寮暮らしをしていた。味覚はわりとそちらに寄っていると思う」

「たしかにさっき言っていたのは、わりとジャンクフードだなって思いましたけども」

「そういった類のものを欲する心があるんだ」

「でしたら買ってきましょうか?」

「既製品には飽きた」

意外と我儘だった。

こんなところは高位貴族らしい傲慢さが垣間見える。

「さっきの肉が旨かったんだ」

「安い細切れ肉ですけど!?」

しかも魔物肉。たぶん貴族は敬遠する類のもの。

ブランド化してもてはやされている家畜の牛や豚と大差ないほどの肉質だが、魔物というだけで価値が下がるのは否めない。平民にとっては「旨いうえに安い」ので大助かりだが。

エルーシャはそんな肉の中でも加工後の端切れを集めた訳アリ商品を購入している。お値段がさらに安いので、お財布に優しい。

「魔物肉に抵抗はないぞ。地方の騎士団に所属していたと言っただろう」

「あー、訓練で狩って食べるんですね」

話には聞いたことがある。自給自足。食料調達も訓練の一環らしい。

あるものを駆使して、そのなかでおいしく食べられるもの、という考えは好きだ。わりと楽しいとさえ思う。出稼ぎと称して王都に出て独りで暮らし始めて、そういったことに目覚めた。

弟の学費を稼ぎたいのはたしかだけれど、それはそれとして、節約術が楽しくなってしまった。お金は大事なのだ。

そう、つまり。

(団長さんの分も作るとなれば、わたしの食材管理が狂ってしまうじゃない。だってこのひと、めちゃくちゃ食べそうだしー)

渋るエルーシャにフランシスが言った。

「メニューに口出しもしない。君が試してみたいものを作ってくれたら、それでいいから。使う食材の代金は俺が持つ。手間賃を含めて支払おう」

「わかりました、お受けいたします」

反射的に言葉がくちをついて出てしまった。

仕方がない。

お金は大事だった。

日々の食事にかけるお金が激減した。

フランシスは「俺のほうがよく食べるから」と言って、エルーシャが購入した食料品について、その代金をすべて支払ってくれるのだ。昼食用に購入した食材を使用して、朝食や夕食を作ってもかまわないとさえ言ってくれている。

普段のエルーシャなら躊躇するような肉だって、フランシスが「食べたいから買って調理してほしい」と言うので購入する。

とても美味しかった。

いい肉は熱をかけても固くなりすぎないと知った。濃い味をつけなくても甘味を感じ、肉本来の旨さとやらを実感する。

こんなに柔らかくて厚みのあるお肉を食べたのは、実家で暮らしていたとき以来だ。だからたぶん五年ぶりぐらい。

本日は、こんがりと焼いて切れ目を入れた極太の腸詰めにトマトソースとマスタードをかけたパン。瑞々しいレタスを敷いているので、さっぱり食べられる。

フランシスにはそれをみっつ、エルーシャはひとつ。

いつもの備品室で、向かい合って座って食べる。

野菜が足りないので、別容器にはひとくちサイズのトマトを詰めてきた。ヘタを取ってあるので、ゴミも出ない。

指で摘まんで食べるのはお行儀が悪そうだが、フランシスは気にしたようすもない。やはりこの方は意外と粗野だ。

「この腸詰め肉は変わった味がするな」

「香草が練り込んであるみたいですよ。これは一本そのままの形で使うより、切って焼いたほうが、香りが立っていいかもしれませんね」

「いやしかし、噛み切った瞬間にくちの中に香りが広がるのも悪くないと思うぞ」

「それも一理ありますね。でもまあ、今度は切って使ってみます。刻んで焼いて、オムレツの具にするのもおいしそうだなあ」

「なんだそれは、旨そうだな」

「試してみて美味しかったらお持ちしますね」

「頼む」

フランシスは、ただ「旨い」と食べるだけではなく、意見もくれる。エルーシャだけでは思いつかなかった視点があり、実行してみると美味しかったことも多く、彼の舌は信用できると感じていた。やはり貴族男子だ。

「こちらは今日の間食です」

「楽しみにしている」

保冷の魔石を入れた袋を渡す。

昼食と夕食の間に食べるものが欲しいという要望により始まった中間食である。

エルーシャの朝食や夕食に使用した余りを再利用しており、本当にただの軽食だ。万が一、他者に食べているところを見られてもダメージが少ないものをと考えて渡している。

だが、同じ騎士に見つかったところで、たいして問題はない気がするが、どうなのだろう。

「君にはこれを」

「ありがとうございます」

交換するように渡されるのは甘味。王都の貴族御用達の有名店の菓子である。

次男とはいえ、王都へ戻ってきた伯爵家のご子息には、それなりの貢物があるようだ。

甘味は嫌いではないが、それよりは腹持ちがいいものを食べたいフランシス。

普段の食事以上の贅沢品には手を出さないけど、女子らしく甘いものは好きなエルーシャ。

ふたりの欲求が合致した結果、こうなっていた。

騎士団長のお弁当係を始めて、そろそろ二か月が経った。痩せっぽちだったエルーシャも、食費の心配をせずに飲食できるようになったため食事量が増え、乗じて体重も増えた。女子としては如何ともしがたい事態だ。

けれど、体力が増えたと思うし、顔色もよくなったらしい。

お世話になっている、おじいちゃん文官には「エルちゃん、最近は元気そうでなによりじゃ」とニコニコされた。どうも心配されていたらしい。

メイド長にも似たようなことを言われた。

彼女には、仕事を始めた当初からお世話になっている。今年デビュー年齢を迎える娘がいることもあり、いろいろ親身になってもらっていた。

そんなエルーシャは、十八歳になっても社交界デビューをしていない。そこにお金をかけるぐらいなら、嫡男である弟の教育資金に充てたいというのがエルーシャの願いだったからだ。

両親は気に病んでおり、なにかにつけて「そろそろデビューの準備とかどう?」と手紙を書いてくるけれど断っている。メイド業はわりと楽しかった。

けれど最近では、ちょっとだけ後悔する気持ちも湧いてきた。

貴族令嬢の社交なんて面倒くさいだけだと思ってきたし、今だってその気持ちは変わらないけれど、デビューをしているか否かは、貴族の世界においては大きな壁となることを痛感したのだ。

デビューしていないと、そもそも貴族令嬢として認められない風潮がある。

エルーシャのように、資金ぐりに乏しい貧乏下位貴族が、爵位を継ぐ男子に集中して教育を施し、姉妹はそれなり、ということは珍しくない。

けれど、そんな家であってもお金を借りたりして、娘をデビューだけはさせる。

出会いの場さえ作れば、婚姻で外に出ることができるだろう。実家に縛られることもなく、新しい家で女主人として暮らすことができるかもしれないから。

貴族令嬢のデビューは十三歳から十八歳までのあいだにおこなうのが一般的。

エルーシャはもう後がないし、なんだったらもう十八歳を半分以上過ぎているので、刻限間近である。

いままでなら「もうメイドとして正式に就職しよう」と思っていたけれど、揺らぐ気持ちが出てきてしまった。

その理由はわかっている。

フランシスだ。

あの麗しの貴公子、騎士団長さまとの出会いが、エルーシャの心の底に沈んでいた乙女心を呼び覚ました。

きっかけは先日のこと。

間食用の付け合わせソースを袋に入れ忘れていたことに気づいて、彼を追いかけた。呼び止めて手渡していたところで、ドレス姿のご令嬢たちがやって来たのだ。

こちらを一瞥することもなくフランシスに声をかけ、自分たちの茶会に参加してくれないかと誘いをかける。

フランシスは穏やかに断っていたが、その顔は人形のように作りものめいた笑顔。

令嬢たちはまったく気にしたようすもなく、甘えるように彼の腕を引き、さらに強請っていた。

居たたまれなくなったエルーシャは一礼をし、背を向けて立ち去ったが、令嬢たちの誰かの声が耳に刺さった。

――なにあのメイド。フランシス様、メイドに雑用でも申しつけていたのですか?

メイドの仕事は楽しい。

箔付けのために勤めているご令嬢メイドたちと比べて、ちゃんと仕事をしてくれて助かると褒められている。給金に色もつけてくれた。

使用人たちとの関係も悪くないと思っている。

エルーシャって貴族令嬢っぽくないから話しやすいよねと言ってくれて、それはとても嬉しかったし、いまだって仕事を円滑におこなえてよいと思っているけれど。

あのときは急に自分がみじめに感じてしまった。

両親の厚意を断ったのは自分なのに。

デビューしなかったのは自分の意思なのに。

ふと、「弟がいなかったら、わたしも普通にデビューしていたのかな」なんて考えてしまったことがものすごく嫌で。

消えてしまいたくなった。

落ち込んだところで日は昇るし、仕事は待ってくれない。

ルーチンと化した昼食作りを終えて仕事に向かうと、夜会の説明があった。奇しくもデビュタントの夜会、その準備と人員配置について。

メイドとして働いている貴族令嬢たちは軒並みデビュー済。むしろだからこそ出仕し、出会いを求めている次第だ。

そんな貴族階級のメイドたちは、当日はドレスを着用して会場に入る。後輩たちのお手本として、来たる未来の姿のひとつとして、成人して立派に働いている姿を見せるためらしい。

これは強制ではないので、普通にお仕着せ姿で仕事をしても問題はない。エルーシャはいつもそうしており、今年も同じだと思っていたけれど、戸惑いが生まれた。

今年のデビュタントが最後のチャンス。

(……でも、そもそもドレスがないわけで。用意するにはお金が必要だし、でもそんな余裕あるわけないし、付き添い人もいないし)

今から連絡を取ったところで、地方領地にいる両親が王都へ来るには間に合わない。ドレスの手配なんてもってのほか。事前に意思を示しておけば調整もしてくれただろうけれど、仕事に邁進していたのはエルーシャ自身だ。誰のせいでもなく、自分のせい。

朝礼を終え、持ち場に向かうエルーシャに、メイド長が声をかけてきた。

「エルーシャ、あなたはどうするの」

「ど、どう、とは?」

内心を見透かされたような心地になるエルーシャに、メイド長は言う。

「わたくしは今回、娘のデビューに付き添うため、来賓側へまわります」

「おめでとうございます」

「ありがとう。それでね、あなたも一緒にどうかしらと思っているのよ」

「――はい?」

「うちは、上の子がふたりとも男だし、周囲にも女の子が少なくて。デビュタントに際して、娘がとても緊張しているのよね」

「それとわたしになんの関係があるのでしょうか」

「デビューする仲間がいれば、すこしは気持ちに余裕ができるのではないかしらと思ったのよ。娘も、あなたもね」

わかるような、わからない理屈。

上限ギリギリのエルーシャと、十四歳になったメイド長の娘さんとでは、いろいろと違うような気もするが。

「で、ですが、当日は仕事が」

ドレスを着るご令嬢メイドたちは、どうせ仕事なんてしないのだ。デビュタント会場に来ているご令嬢の親族で、未婚男子がいないかどうかを見定めるのに必死だろうし、会場警備を担っているであろう騎士団もお目当ての対象。

人手不足が予測されるであろう夜会に、エルーシャが持ち場を離れるのは無理ではないか。

すると、話を聞きつけた平民の使用人たちが、わらわらと集まってくる。

「あら、いいじゃない。出席なさいよエルーシャちゃん」

「現場はどうにかなるから大丈夫だって」

「むしろエルーシャのために頑張るぞ」

「そうそう、当日は綺麗な姿を見せて楽しませてちょうだいな」

「いやー、娘の旅立ちを見るようで感慨深いなあ」

押せ押せムードである。

うろたえるエルーシャにメイド長。

「あなたがずっと真面目に仕事をしてきたこと、わたくしたち皆が知っています。お祝いさせてちょうだいエルーシャ」

「……うれしいです、ありがとうございます。でも、準備もなにもないですし」

「あら大丈夫よー。わたしたちを誰だと思ってるのよ。針作業ならお手の物よ」

「貴族御用達のドレスショップの経営者、うちの親戚なのよ。サイズさえわかればなんとかするわ」

「着付けと化粧なら任せて。エルーシャの彼を骨抜きにするわよ」

そうだった。彼女らはお城勤めで、各分野のプロフェッショナルなのであった。

しかし聞き捨てならない。

彼って。

彼って誰のこと。

「もう、隠さなくったっていいのよう。いつもランチデートしてる彼よ」

「んな、ななな、なぜそのひみつを」

「だって毎日大きな荷物抱えて昼休憩に行って、あれだけあった荷物がなくなった状態で戻ってくるんだから、わかるでしょ」

「エルーシャちゃん、ここ最近すごく楽しそうだし、なにより可愛くなったし」

「あーこりゃ彼氏ができたなって、皆で話してたのよ」

ちがう。彼氏じゃない。お付き合いなんてしていない。そういう間柄ではない。

頭に出てくる数々の否定の言葉。

けれどそのなかに「相手への好意を否定」するものがないことに気づいてしまって、エルーシャは固まった。

あれ? あれれ? それってつまり。

(――私、団長さんのこと、好き? そういう意味で、好き?)

じわじわと顔が熱くなっていく。

毎日ご飯を作って持っていくことは、正直面倒なことになったという気持ちが大きかった。

フランシスは優しい貴公子の顔をしているけれど、その中身はわりと強引だ。あたふたするエルーシャに有無を言わさず約束を取りつけ、「では明日から頼んだ」と去っていった。

ぶっちしてもよかったけれど、相手は騎士団長である。あの調子だとメイドの休憩室までやってきて「なぜ来ない」と文句を言ってきそうで怖かったので、やむなくお弁当を持って行った。

いつしか楽しさが上回ってきた。

フランシスがどんな感想を言ってくれるのかが楽しみで、笑顔で「旨い」と言ってくれることがとても嬉しかった。褒められて喜ぶとか、自分はちょろい。

節制するあまり、いつしか食事は「とりあえずお腹に入るものでいいか」になっていたが、フランシス用にもお弁当を作るようになってからは味を気にするようになった。すこしでも彩りをと、食材にも配慮するようになった。

お昼の時間が楽しみで、休憩時間がもっと長ければいいのになと思うようにもなった。

騎士は休日が不規則なので、たまに会えない日もあって。

そんなときは、ひとりで昼食を取る。すこし前までは普通のことだったのに、自分の前にフランシスが座っていないことが寂しくて、食があまり進まなかった。

「あらー、ひょっとして無自覚だったのかしら」

「相手の男、殺す」

「エルーシャは嫁にはやらんぞ」

「いつからあんたの娘になったのさ」

「親元離れた女の子と四年も一緒に仕事してるんだ。もう娘みたいなもんだろうがよ」

料理長の言葉があったかくて胸に染みて、エルーシャはますます泣けてしまって、しばらく動けなかった。

だけど誰も咎めなかったし、気づかってくれた。

結局その日は、まともな仕事にならなかった。

己の恋心を自覚したところで、フランシスとの関係が変わるわけでもない。

ただエルーシャの気持ちに 邪(よこしま) なものが加わっただけだ。

一緒に過ごす昼休憩の時間。

自分が作ったお弁当を食べてくれて、引き換えに贈り物を受け取っていること。

女性人気は高いけれど、誰とも懇意にならないし、常に一定の距離を保って誤解を生じさせないよう徹底している、美貌の騎士団長さま。

そんな彼と一番親しい女性はきっと自分だろうという優越感。

身分の違いはわかっているし、いずれこの恋は破れてしまうとわかっていても、この時間は忘れたくない。王都での素敵な思い出として、大切にしまっておこうと思っている。

周囲の厚意で、遅まきながら社交界デビューをすることになったと伝えたとき、弟を優先するあまり出遅れた事情を知っているので、とても喜んでくれた。麗しの笑みは眼福で、いいものを見たなーと嬉しくなる。

「当日、俺も会場に行く」

「たしか騎士団は、毎年お仕事で参加されてますよね」

「全員ではないがな。デビューするご令嬢の関係者は、来賓側になれるよう配慮するし」

「それは助かるでしょうねえ」

団長さんはどっち側ですか? とは聞けなかった。

警護側でも来賓側でも、どちらでもいい。同じ会場にいるのだとしたら、それもまた素敵な思い出である。

デビュタントの準備も順調だ。

いったいどんな奇術を使ったのかわからないが、早々にドレスも届いた。

まだ仮縫いということで、女性使用人だけで集まって品評会開始。既製品の型にアレンジを加え、レースを縫い付けたり、裾の長さを変えてみたり。

恥ずかしながら、こういった方面の審美眼に自信がないエルーシャは素直にそれを申し出て、周囲の忠言に従った。我ながら可愛く仕上がったと思う。

そうして迎えたデビュタントの日。式典ホールに赴くと、いつもとは違った装いのメイド長と、小柄な令嬢の姿がある。一緒にいるのは父親だろう。デビューの際、エスコート役は親族――その中でも父親が多いという。これまで何度も見てきた光景だ。

エルーシャの両親は結局間に合わず、丁寧に詫びる手紙が速達で届いた。メイド長がこれまでの経緯とともに、当日のエルーシャの世話を請け負う旨をしたためてくれていたので、彼女たちに対するお礼の書状もあった。

デビュタントボールには間に合わないが、一度は王都へ出てくるとも書いてあった。ひさしぶりに会えると思うと嬉しい。

同僚のみんながどれほど心を砕いてくださったのか。

職場がとても恵まれていること、できればこのまま勤めていこうと思っていることを伝え、数年後に弟が王都の学校へ入学する際の、足場固めをしていくつもりである。

今日はその始まり。エルーシャにとって、さまざまな意味でのデビューだ。

「見違えたのう、エルちゃん」

「あ、文官のおじいちゃん」

式典用の礼服を着て立っているのは、あの文官さんだ。どうしてここにいるのかと疑問に思っていると、メイド長の義父であることがわかった。つまり彼は今日、孫娘のデビューを見守りに来たのだろう。

「いやいや、今日の儂はエルちゃんのエスコート役じゃぞ」

「はい?」

「引退したジジイで悪いが、付き合ってくれるかの」

「助かりますが、いいんでしょうか」

両親も親戚も不在のエルーシャは、ひとりで歩くつもりだった。

どうせ上限ギリギリ最年長デビューの女である。ただでさえ目立っているのだから、もうなんでもありな心境だったが、隣にいてくださるのはありがたい。王都に出てきてから、とてもお世話になっている方だ。メイド長に次いで、こちらの生活における保護者役といっても過言ではなかった。

「この年になって、こういう機会があるんじゃから、役得というもんじゃて」

「申し訳ないね、エルーシャ嬢。父の我儘に付き合わせてしまって」

メイド長の隣に立った男性が微苦笑を浮かべた。

「これでも父は前宰相だから、君の立場は悪いようにはならないと思う。いいように使ってやってくれ」

「おまえに言われんともわかっとる。面倒な輩は追い払ってやろうぞ。なあに、弱みはいくらでも握っておるからな」

「職権乱用は控えてくださいよ父上……」

「ぜん、さいしょう、かっか……?」

聞いてない。そんなの聞いてない。

たしかに文官の偉いひとも丁寧語で接して、気を使っていたけれど。単に、年配者を敬っているのだとばかり思っていたが、そうではなかったらしい。

おかげで入場してもエルーシャは目立たなかった。

むしろエスコートをしているおじいちゃんのほうが目立っていたし、国王陛下も驚いていた。

あっけなく挨拶は終わり、あとはダンス。

こちらに関しては壁の花でいようと最初から決めていた。

プロフェッショナル集団な同僚たちのおかげで、付け焼刃とはいえダンスのステップは思い出したけれど、だからといって手を取る相手もいない。

夜会におけるファーストダンスは大切だけど、デビュタントボールのファーストダンスともなれば、その比ではない。

キラキラした世界は若きご令嬢にお任せ。滑り込みセーフのエルーシャは、これまでどおりドレス姿で参加する使用人のポジションに徹しようと拳を握ったとき、目の前に誰かが立った。

騎士団の制服――白地に金の刺繍が入った、祭典用の騎士服を着用した男性。

「団長さん!」

「よかった。見つけた。どこにいるのか探したんだ」

「なにか御用でしたか?」

「ダンスに誘おうと思って」

「――はい?」

呆気にとられた。

なんだか今日までのあいだ、いろいろと予想外のことが起こりまくっているけれど、これはそのなかでも特大級だ。

ここで「誰を?」と問うのは無粋である。

さすがにそこまで空気が読めないわけではない。ただ、ひたすら予想外なだけで。

「気をつかってくださって、ありがとうございます。でも、あの、大丈夫ですよ。もともと壁の花になるつもりだったし」

「その花を手折るのも俺の自由だと思わないか?」

「まあ、たしかにそうですが」

「だから取りに来た」

さらにずいと近づかれ、エルーシャは一歩後退した。背中が壁につく。

「だ、団長さん、特定の女性と噂になるのはまずいのでは。こういう場では言い逃れができないというか、噂が駆け巡るというか」

「そうだな。手っ取り早く噂を広めるに相応しい場だと思ったから、こうしている。エルーシャ嬢」

「はい」

「君の手を取るのは俺でありたい」

あの備品室での出会いのように、フランシスがエルーシャの手を握る。

ただあのときと違うのは、彼のくちびるがエルーシャの指をかすめることだ。一本ずつ丁寧に、触れるか触れないかギリギリの距離でかすめていくので、吐息が妙になまめかしい。

なんだこれは。

エルーシャの頭は茹で上がる寸前だ。

「団長さん、あの」

「君はかたくなに俺の名を呼ばないが、今日ぐらいは解禁してもよくないか」

「でも団長さん、立場というものが」

「フランシスだ」

「団長さ――」

「フランシス」

「だ――」

「フランシス」

「……フランシスさま」

「なんだろうエルーシャ」

観念して名を呼ぶと、団長もといフランシスは笑みを浮かべる。

こちらが思わず見とれてしまうほど、麗しい微笑み。うっかり目撃したらしいどこかのご夫人が「まあ」と扇で口許を隠しつつ頬を染めた。

きっとエルーシャの顔も似たようなもの――いや、それよりももっと赤い、湯がいたタコのようになっているに違いない。

「小童が、エルちゃんを困らせるでないぞ」

「おや、翁。健在でしたか」

エルーシャを庇うように出てきたのは、前宰相の文官おじいちゃん。フランシスとは旧知の間柄なようで、丁々発止のやり取りを繰り広げる。

「さっきから見ておれば、おぬしは肝心なことを言っておらんではないか、不甲斐ない男めが」

「なんですか失礼な」

「攻め入るばかりでは能がない。なんのために言葉があるのか、まだ身についておらんのか」

「言葉?」

そこでなにかに思い至ったらしいフランシスが、改めてエルーシャに目をやり、嘆息した。

「すまなかった。たしかに俺は追い詰めてばかりで、言葉が足りていなかったようだ」

エルーシャもほっと息をつく。すこしは冷静になってくれたのならなにより。これ以上の騒ぎになる前に一旦撤退を試みよう。

そう思ったとき、フランシスが膝をついてエルーシャに言った。

「君を愛している。どうか俺と結婚してほしい」

「はい? 唐突すぎやしませんか」

「そうだろうか。君のドレスも手配したし、ご両親に手紙を送り、王都へ招待もしている。おっと忘れていたな。この日のために用意したアクセサリーだ。あと指輪も」

すかさず手を取られ、するりと指輪を嵌められる。

なぜかピッタリだった。

「どうして、サイズ……」

「君の手をいつも握っているからな。なんとなくわかる。調度品に傷をつけないように、メイドの仕事をしていると指輪ができないと言っていたから、渡しそびれていたんだ」

「いつから準備してたんですか」

「さて、いつだったか。だが、こういうのは早いに越したことはない。狙った獲物は逃がさないようにするものだろう。俺は料理はダメだが、狩りは得意と褒められていた」

ざわざわと周囲が囁く声は大きくなっていくが、具体的になにを言っているのかよくわからない。たぶん脳が拒否をしているのだろう。

ぐらりと傾いだエルーシャの体をフランシスが抱き止める。

「それで、返事は」

このひとは、本当に強引だ。

一見すると優男のような顔立ちをしているくせに、言うことはどこまでも直情的で男前。

だけど、いまだけはちょっと自信のなさそうな表情を浮かべているところが、なんというか、そう。

年上のくせに可愛く思えてしまったのだから、これはもうエルーシャの完敗だ。

認めよう。だって自分だってこの御方のことが好きなのだから。

「わたし、まだまだずっと働きたいんですけど、それでもいいですか?」

「そんなことは当たり前だ。仕事をやめさせようものなら、君の同僚たちに怒られるじゃないか」

給仕にまわっていた使用人のひとりが、強く頷くのが目の端に映った。

「第一、俺はあの場所で、君とともに過ごす時間が、これまでの人生の中で一番穏やかで、やすらぎと楽しさと、とにかくすべての感情を抱くことができる、かけがえのないものだと思っているんだ。あれはなくせない」

「はい。わたしも、フランシスさまと一緒に過ごすあのひとときが、とても大切です」

エルーシャが心からの笑みを浮かべると、フランシスはやや顔を赤らめて呟いた。

「せっかく白いドレスなのだし、いっそもう今日が結婚式でもいいのではないか? ちょうど元宰相の翁もいるし、見届人になってもらって」

「いえ、それはどうかと思います」

エルーシャは断固として否定しておいた。

こうしてエルーシャは王宮で仕事を続けながら、慌ただしい日々を送っている。

以前と変わった点としては、騎士団長の昼食の他に、朝食と夕食とお酒のおつまみ作りが加わったことだろうか。

今日もエルーシャはメイド業の傍らで、愛しの騎士団長のお弁当係を続けているのだ。