軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

11-2 駿河 清水湊1

ああ、ひどい目に遭った。

胃袋を内側からひっくり返された気分だ。

たった一日と半分の航路が、まるで永遠のようだった。

次からは、いや次があるかはわからないが、次からは絶対に弥太郎の薬湯を飲んでから乗る。

寝ている間に移動が住むなら、負担も少ないはずだ。……多分。

小田原を出発した翌日の昼頃、清水湊に到着した。

真昼間の明るい湊で、大勢の目にさらされながらの下船になった。

孫九郎はふらふらの体で船から下りた。

かろうじて自分の足で下りることができたが、傍目にも真っ青な顔だろうし、まっすぐ立っている事すら難しい。

しっかりと固い陸に降り立ったはずなのに、まだ揺れている気がする。

「大丈夫ですか?」

平気な顔の弥太郎が、心配そうに声を掛けてくる。

大丈夫ではない。大丈夫なように見えるなら、目が悪い。

だがこれは病気ではなく、一過性の酔いだ。時間がたてば回復する。

まだ桶を手放せない孫九郎は、震える息を吐いた。

普通に呼吸するだけで吐きそうだ。

「すぐ清水を出るぞ」

「少しお休みになられては?」

そういう渋沢も、船は苦手だと言っていたのに、酔った様子はない。

船べりから吐いていた者の多くも、一日も船に揺られると慣れたようで、今では普通の顔をして周囲を警戒している。

それに比べて……。

またいつものように、己の不甲斐なさが込み上げてくる。

いや、誰にも向き不向きがある。ここで凹んでいても仕方がない。

「……いや、少しでも休んだら起き上がることが出来なくなりそうだ」

孫九郎は、周囲からの視線を気にしないようにしながら正直に言った。

「今川館に早馬を出しましょう。ここまでなら、奥平様が来てくれるはずです」

そう言った真田次郎三郎の顔色は悪いままだ。桶こそ持っていないが、いつものようにシャンと背筋が伸びてはいない。

山育ちの彼に船での高速移動は辛かったようだ。休んでいいと言いそうになって、それがまさに周囲が孫九郎に向ける目だと思い至る。

「……そうか。そうだな」

「興津殿が早足で湊を駆けていきました。すぐに宿を用意してくださるかと」

孫九郎は頷き、改めて清水湊の賑やかな入り江を見回した。

九兵衛の家門は清水氏だが、清水湊とは関りない。それなのに、勝手知ったる湊とばかりに、巧みな操船で桟橋のギリギリに船をつけてくれた。

水深が深い良港とはいえ、ところどころに岩はあるので、簡単にできることではない。

現に大型の商船は、入り江の沖合に停泊している。

直接荷揚げをしている船が一隻。興津衆の水軍の船が数隻。

孫九郎は平穏無事な湊の様子に、ほっと息を吐いた。

例の船は“燃えた”そうだが、そのことが商売の邪魔になっていないようで安心した。

孫九郎は促されて歩き始めた。若干身体が斜めになっている。……いや、そう感じているだけかもしれないが。

手すりなどない波止場なので、ふらついてみっともなく海に落下しそうだ。

用心しながら足元を見て歩いた。最初は不安を感じたものの、しばらくして眩暈も収まってきた気がして顔を上げる。

息を飲むほど青い空が目に入った。

陽光が照り返す入り江の、初夏の美しい光景に目を細める。

出入りする商人や船乗りたちの、威勢のいい掛け声が一気に耳に飛び込んできた。

ふわふわと、酒に酔ったようだった頭が、きれいに覚める。

「……よし」

一呼吸おいて、頷いた。

足元はまだおぼつかないが、うねる海に洗濯機のように搔きまわされていた思考が静かに定まった。

「御屋形様!」

湊の陣屋にたどり着く前に、何処かへ駆けて行った興津佐兵衛に大声で呼ばれた。

大勢が行きかう通りだったので、一斉に視線がこちらに向いた。

穴が開くかと思った。

不機嫌な谷が前に出て、孫九郎の視界を塞ぐ。

「も、もうしわけございませぬ」

若き興津の当主を知らぬ者はこの湊にはいない。彼がぺこぺこと頭を下げているのもまた目を引く。

孫九郎は苦笑をして手を振った。

「話は中で聞こう」

「あれが」「駿河の」……などなど、そこかしこから囁く声が聞こえてくる。

悪口じゃなければいいけれど。

見られることも、噂されることも今更だけど、船酔いで酷いありさまの時ぐらい勘弁してほしかった。

だって……まだ桶を持っているんだぞ。桶持ち大将とか呼ばれるようになったらどうしよう。

そんなどうでもいいことを考えながら番屋に入ると、いつの間にか先回りしていた弥太郎が濯ぎの水を持って待ち構えていた。

上がり框に腰を下ろすと、すぐに脚絆の紐を解かれる。

ゴムなどという便利なものはないので、ずり落ちないようしっかり結ばれている。解かれた瞬間、血が通う感覚がした。

そわそわと立っている佐兵衛の後ろから、叔父の喜之助が姿を現した。

足を洗われている孫九郎に丁寧に頭を下げる。

更にその後ろから、ほんのわずかに見えた男の顔は、意外なものだった。

四年ぶりの顔だ。

「そのほう……天王寺屋か?」

ナイスミドルのイケオジ、日向屋と同じ堺衆だ。

相変わらず鮮やかな青い羽織を着た男は、孫九郎に名を呼ばれてほっとしたような顔をした。

孫九郎は複数の商人と親しく文をやり取りしているが、その中に天王寺屋は含まれていない。

「お久しゅうございます。覚えていてくださりましたか」

「忘れるものか」

堺衆であるこの男が、清水湊にいること自体に問題はない。

だが……よくない予感はした。