軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

和泉灘 1-10

小舟が囲むのは日向屋の商船だけだ。

その異様な光景は、誰の目にもおかしく映ったはずだが、誰もがそれを“見てはいけない”と思っただろう。

余計なことに巻き込まれて困るのは、天王寺屋も同じはず。

だが律儀に、ギリギリまで船を寄せてくれた。

これだけたくさんの船が一斉に沖に出ようとしているので、不自然には思われないだろう。

現に、一刻も早く和泉灘に出ようと小舟の傍まで寄る商船もあった。

「ぶつかります!」

船頭のひとりが叫んだ。

同時に、船腹に小舟の尻が当たって天王寺屋の商船が大きく揺れた。

小舟のほうから、罵声が聞こえてくる。

「申し訳ございませぬ! 風がっ」

船頭が船べりから下に向けて言い訳を並べ、ペコペコと頭を下げている。

一見、天王寺屋の重い船がうまく風を掴めず操舵を誤ったように見えるだろう。

八雲が与平に動くなと指で指示を出し、するすると帆柱に上った。

白い帆は目立つが、夜に紛れるような着物を着た忍びは暗がりに溶け込んでいる。

日向屋の商船は沖へ、風上へと舳先を向けていた。

その船尾に、手が届きそうなところまで迫る。

多くの者の目には、二つの商船が接触したかに見えただろう。

八雲はさっと身軽に日向屋の商船に飛び移った。他にも数人が後を追う。

そこから何が起こったのか、離れたところにいた与平にすべてが見えていたわけではない。

陸からの風が強く吹き付け、帆を下ろしたままの商船はどんどん沖合に流されて行く。

最初はまだ小舟に囲まれていたが、いったん抜けると後は一気に速さを増した。

そこで日向屋の船は上手く風を掴んだ。

天王寺屋の船は、横から風を受ける形になっていたので旋回が必要だった。

本当なら、そこで安心してもいいはずだ。無事に堺湊を出ることができたのだから。

だが与平の目には、日向屋の船の甲板で起こっている騒ぎがはっきり見えていた。

船尾に鈴がいる。鈴がいるということは、その後ろにいるのはお姫様か。二、三人が一塊になって、誰かと向かい合っている。

八雲らも見える。戦っている。

どうやら土佐からのお迎えは、お姫様たちにとって味方ではなかったようだ。

「急げ!」

与平が頼むまでもなく、天王寺屋の番頭が船頭を急かした。

本来なら、旋回したぶんかなり離されていたはずだ。

こちらの船頭の腕がいいのか、あちらがわざと船足を落としたのか、素人目にもわかるほど距離が詰まってくる。

「おおい!」

番頭が声を張った。素晴らしくよく通るいい声だ。

まだ距離があったが、船尾にいる者たちがこちらに気づいたのがわかった。

鈴が、がばっと背後のひとりにしがみついた。

そしてそのまま、船尾の縁から海に飛び込んだ。

「ああっ」

「人が落ちたぞ! 小舟を下ろせっ」

大勢が悲鳴をあげた。

与平は奥歯を食いしばって、船縁を掴んだ。

懐が重い。八雲に押し付けられたお役目のせいで、身動きが取れないのが辛い。

食い入るように見つめた先では、船尾に残った者たちが切りつけられている。

抵抗しているが多勢に無勢だ。

八雲はどうした? 間に合わないぞ!

夜なので、女物の着物を着た鈴以外は埋没してしまってよく見えない。

だが、子供のような小さな塊を抱きかかえて船縁を越えようとした男が、背後から切りつけられて海に落ちるのは見えた。

子供、おそらく若君は……敵の手がむんずと掴んでいる。捕まったか。

敵の歓声が聞こえる。

まるで戦利品のように、掲げるように持ち上げられている。

その背後に、八雲。

スッと後ろから首を掻かれて、若君を抱き上げていた男は倒れた。

与平に見えたのは、そこまでだった。

何故なら天王寺屋の商船が日向屋の船を追い越してしまったからだ。

その時には、日向屋の船は帆が全く機能しておらず、潮の流れに立往生していた。

風はある。やはり日向屋の船頭がわざとやっている。

遠くで、ゴリッと身が縮むような音がした。船底を擦る音だ。

こんなところで座礁だと?

すでに岸は遠く、達者な者でも泳いでたどり着くのは難しい距離だ。

日向屋の船は、そこだけ罠のように存在する浅い岩場に船をぶつけたようだ。これもわざとか?

「ふ、船が沈むぞ!」

こちらの船乗りが叫んだ。

暗い夜の海で、船が沈む。それはすなわち、死を意味する。

大きな船だからといって、ゆっくり沈むとは限らない。底が抜けたら、すぐだ。

その日は風が強く、潮の流れも速かった。

天王寺屋の商船が積んでいる小舟は少なく、夜の海に投げ出されたすべての者を掬い上げることはできなかった。

鈴とお姫様は助かった。

八雲は、小舟に乗ろうと見苦しく揉めている武士たちを海に放り投げ、若君を日向屋の船乗りに預けたそうだ。

……その後の消息は分からない。

与平は急に心細さを感じて歯噛みした。

八雲が死ぬはずがない。諦めずに岸まで泳ごうとするはずだ。

騒ぎのいまだ収まらない甲板上で、立ち尽くしながらそう強く自身に言い聞かせる。

「困ったことになった」

近づいてきた天王寺屋の番頭が、顔をしかめて言った。

「無理な回しをしたせいで、舵がうまくきかなくなった」

そんな事を言われても、与平に船の事はわからない。

櫓を使って岸まで行けなくはないが、この近くには海賊の拠点があるので用心が必要なのだそうだ。

ならば、もう少し生存者を探してはどうだろうか。

そう言いたいのを堪え、可能な限り安全に伊勢に向かうよう頼んだ。