軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

下京 1-3

慎重に距離を詰めながら、敵もまた動き始めているのを感じた。

ぞわりと背筋に冷たいものが走る。

命がかかる現場に立つのは、初めてではない。

本当に危うい時ほど、理性より先に本能がそれを察する。

こういう時に脳裏に過るのは、幼い日のあのお方だ。

病弱で、強く力をこめると骨を砕いてしまいそうなほど細く小さかった。

初めて菓子を頂いた日のことは、きっと生涯忘れることはないだろう。

忍びは下の者だ。素性がばれると忌避され、刀を向けられる。

だが、御屋形様を知る前には当たり前だったその事は、いつのまにか与平にとって当たり前ではなくなっていた。

幼い御屋形様は、何も知らぬげに我らに笑顔を向け、その態度は今でも変わらない。

忍びの名を親し気に呼び、無防備に背中を預け、差し出したものを躊躇いなく口に運ぶ。

その信頼は、与平らにとって山積みされた金よりも貴重なものだった。

そんな御屋形様が、特別に親しくなさっている一条家の姫君だ。

与平らにとって、命を懸けるのに十分な理由だ。

たとえ忍びだとはわからなくても、不用意に近づくと警戒されるのは当たり前だ。

与平が距離を詰めると、一条家の護衛たちはすぐに身構えた。

だが一定の距離を置いて地面に膝をつき、丁寧に頭を下げると、警戒しながらも聞く態勢に入ってくれた。

「恐れながら、追っ手がかかっているように見受けられます」

「……なんやと」

すぐに状況を把握して刀に手を掛けたのは、公家の近侍の恰好ではなく、武士らしい身なりの者たちだ。

「数は五十を越えております」

与平の言葉を聞いて、その顔からさっと血の気が引く。

「一刻も早く伏見に向かわれた方がよろしいかと存じます」

一条家の随員は三十を越えているが、女も交じっているのでまともに戦うことができるのは二十と少しだろう。

敵が五十以上なら全滅のおそれがある。

「……そのほう、何者じゃ」

一気に慌ただしくなったご一行の中から、若い男が進み出た。

身なりは公家寄りで、武士には見えない。だが芯があるはっきりとした声色だった。

「話している間はございませぬ」

青年はさっと周囲を見回した。

こちらに対しての警戒もあるが、まだ日も登らない早朝の暗さのほうに不安を感じたようだ。

与平はもう一度、頭を下げた。

「我らが気を引きます。応戦の心づもりを」

「待て」

必要なことだけを告げて立ち去ろうとした与平を、青年が引き留めた。

だが聞こえなかった振りをして、一気に距離をあけた。

忍びだと気付かれただろう。

だがそれよりも、はやくも始まった敵襲に対処する方が先だ。

もとより忍びは、前線で戦うためにあるのではない。

忍んで敵の内情を探るのが本分で、戦いは常に撤退を前提にしたものだ。

とはいえ、命を懸けることにためらいはない。

忍びの命でつりあうのなら、盾を務めることもやぶさかではない。

明け方の薄闇を背に襲い掛かってきた敵を、与平らは脇から突いた。

後ろからだと前に飛び出していく恐れがあるので、分断を狙ったのだ。

与平らの数は十に満たない。もっと手勢を増やしておけばよかった。

そんな事を思うのも今更で、乱戦に持ち込むと余計なことを考える間もなくなる。

守るべきお方を逃すために、いかに深く敵の首筋にかみつくか。

まるで本能のように、その事だけに集中し、与平は刀を振るった。

おかしい。手ごたえがない。

そう思ったのは、戦いが始まってすぐだ。

後から冷静に考えると、浪人の寄せ集めだったからだとわかるが、その時の与平は他にも伏兵があるのではと警戒した。

ドッと大きな物音がして、振り返る。

輿がある三差路の反対側から、更に大勢の軍勢がやってくるのが見えた。

挟撃か!

鋭く舌打ちする。

……与平ではない。近くで敵の攻撃をかわしていた鈴がだ。

年々楓に似てきた妹分の、聞くに堪えない罵声に怯んでいるうちに、男衆にも負けない素早さの鈴が走り出した。

何をする気かわからなかったのは一瞬。

すぐに、お姫様を助けにむかったのだと察したが、忍びごときにそんなことが許されるわけがない。

与平は躊躇った。他の男衆もそうだった。

その一瞬の間に、鈴は姫様までの距離の三分の一ほどを駆け抜けていた。

これはまずいと後を追ったのは与平と八雲だ。

他の者では追い付けない。

やはり八雲が一番早く、鈴のすぐ真後ろまで迫った。

だが同時に、反対側からの敵が、一条家の兵たちに切りつけ始めていた。

敵は、もはや目測で把握できないほどの圧倒的多数。

与平は鈴を止めるより、向かってくる敵を止めねばと刀を握りしめた。

「……えさま!」

場違いな子供の声がした。

そんなはずはないのに、与平の脳裏に御屋形様の顔が過った。

輿の上に垂れた布の端から、淡い桃色の着物が垣間見えた。

次の瞬間、複数の矢が輿に突き立った。

担ぎ手が射抜かれて、輿が川に向かって大きく傾く。

「っ、こんのぉぉぉっ!」

鈴が叫んだ。

輿が川にむかって滑り落ちるのを、止めようとしたのが複数名。鈴は真逆で、垂れた布に頭から突っ込んだ。

かろうじて保たれていた均衡が、鈴の突進で加速する。

ドボンとくぐもった水の音がした。

なんてことだ。

与平の足は一瞬止まった。いや、止まったのは心の臓かもしれない。

先を走っていた八雲が間を置かず川に飛び込む。

与平も続いた。