作品タイトル不明
10-2 相模 小田原城2-2
三の丸に入る前から、その怒声が聞こえていた。
内容まではわからないが、相当に激しい言い争いだ。
片方は聞き覚えのない男の声だが、もう片方は勘助だろう。
何をやっていると顔をしかめた孫九郎の肩に、ぽんと気安く手が置かれた。
振り返る。
満面の笑顔の承菊を見て、なおいっそう顔が渋くなる。
「嬉々として憎まれ役をやっております故、知らぬふりをなさってください」
孫九郎は言い返そうとして言葉を飲み、ため息をついた。
「……相手は相模衆か?」
「小田原城の普請の割り当ての話でしょう」
多くの相模衆が裏切り、今回は裏切らず従った者たちにしわ寄せが来た。
割り当てというのは、人手だけではなく材料費などを含む。
蜂起しなかった者たちの負担は相当なものだろう。
すべてを相模衆に負わすのはかわいそうかもしれない。
「ここは厳しく行きませんと」
思った瞬間にそう言われて、ぎゅっと唇を引き締める。
わかっている。甘い顔を見せても舐められるだけだ。
相模の国は敗戦国だ。いずれ今川領と年貢や賦役を同じにするのだとしても、今はまだそれは早い。
従順に頭を垂れ、従うようになってからだという勘助の方針は間違っていない。
「それとも、一度すべてを直轄領にして、相模衆を飛ばしますか?」
「いや」
ひくり、と頬が引きつった。
承菊の口調は極めて温和だが、こいつの言う“飛ばす”とは、物理的に首を飛ばすか、領地を取り上げて放逐するかの二択だろう。
……それはちょっと。
「ご心配なさらずとも、いずれ空いた領地に代わりの者が来ます。負担は緩和されるでしょう」
当初の予定では、左馬之助殿の下に相模衆を置き、国ごと任せるつもりでいた。だが、思いのほか多くが離反してしまったので、かわりの者を連れてこなければならない。
誰に任せるかを決めるのは、最終的には孫九郎の判断になる。
しばらくして怒鳴り声が聞こえなくなった。
それほど待たず、義足を引きずって歩く勘助の足音がする。
取次ぎから、孫九郎が来たことを聞いたのだろう。
やがて、勘助の側付きが素早く障子の向こうで膝をつき、一礼する。
その影が、孫九郎の側付きと小声で会話を交わし、すぐに障子がすっと開く。
軽く首を垂れたその男を見て、身構えた。
ここにはいないと思っていた顔だったからだ。
勘助の子飼いの忍び、赤目だった。
人払いがされた。
珍しいことではなく、勘助と承菊がそろえばたいていよからぬ話になる。
遠目に口の動きがみられないように視線を遮り、屋根裏や床下にまで注意が払われる。
もちろん、部屋に近づいてくる者の動向も見張られている。
そんな中、勘助は相変わらずの尊大さで足を投げ出して座り、赤目が差し出した白湯を舐めるように飲んだ。
大声を出したので、喉が渇いたのだそうだ。
「面白いことがわかりました」
勘助が笑いながら言った。獰猛な笑みだった。
孫九郎は幾分引きながら、「そうか」と返した。
勘助の言う「面白い」は、承菊ほど裏を読み解く必要があるものではないが、容赦なくひどいことが多い。
「吉原宿です」
続く勘助の言葉は、予想していたどんなものとも違っていた。
もちろんすぐに思い出した。
興国寺城に入る前、一泊した吉原宿近くの寺で、大人数に向けて毒が盛られた件だ。
致死毒ではなく腹下し系のものだったから、今川軍の足止めが目的だったのだと予想している。
ふっと思い出して赤目を見た。この男は山内上杉家に潜入していたはずだ。
……いやまさか、山内上杉家が今川軍の足止めをする理由はない。
孫九郎がじっと、特徴が薄い忍びの顔を見つめていると、赤目はしばらく落ち着かなげに身じろいだ。
勘助が了承するように頷くと、ほっとしたように息を吐く。
「はい。小耳にはさんだのは川越城でございます」
「扇谷上杉家ですか」
ぞわり、とするような声が耳元でした。
承菊は何を考えているのか顎に手を当て、ぎゅっと口角をあげた。
「毒を使って、足止めを?」
勘助が、牙のように見える八重歯をむき出しにして頷いた。
「北条を相手にするのも苦労しているのに、より大きな今川が来るのは困ると思うたのだろう」
「あるいは、先に小田原を落とそうとしていたのやもしれませぬ」
「今川が来る前に江戸で北条軍を下せば、勢いのままに相模を取ることもあり得た」
「笑止。所詮は絵に描いた餅です」
承菊が「ふっふっ」と笑う。勘助も不気味に肩を揺らしている。
……こいつら、怖いって。
孫九郎はそっと腕をさすった。同じことを、赤目もしていた。
目が合ったが、互いにすっと視線を逸らせる。
「要するに、扇谷上杉家には、我らを駿東で足止めする理由があった、ということだな」
孫九郎はそう言いながら、太田殿の顔を思い出す。
そういう手段を嫌いそうな男だった。いや、太田殿が関わっていたとは限らない。どの家も、一枚岩ではない。
「上手く行かなかった毒のことについて、大声で叱責していたのを聞いたそうです」
勘助の言葉に、孫九郎は首をかしげる。
不発だった事件だ、大きな話題になったわけでもない。それについて知っているだけで、犯人に近いと断定してもいい。だが……
「ずいぶんと迂闊だな」
孫九郎のつぶやきに、その場にいる全員が頷いた。
間者の耳にわざと聞こえるように言ったのなら感心するが、そんな事をする理由は思い当たらない。
「御屋形様」
勘助の口元は笑みを浮かべているが、片方だけの目は炯々と光っていた。
「次は致死毒をつかえと命じていたそうですよ」
幼少期から命を狙われ続けている。毒を盛られた回数など、数えきれない。
今更そんなことに怯えはしないが、羽虫にたかられたような面倒くささはあった。
孫九郎は長々と溜息をついた。
扇谷上杉家の当主とは長年文を交わしてきたが……そんなもので“友好関係”は築けなかったようだ。
「どうされますか」
さらに強く腕をさすっていると、承菊にそう問われた。
顔を上げると、真正面にいる勘助と目が合った。
二人の凝視には強い圧力があって、ぐっと喉の奥に何かの塊が詰まったような感じがした。
そんな目で見るなと、言ってやりたい。
だが、ここで有耶無耶にしてはいけないのはわかっている。
「毒殺を狙ってくる相手は敵だろう」
少し考えた末にそう言うと、ふっと勘助のニヒルな笑みが緩んだ。