軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

7-1 相模 相模川東岸

「……これはすごいな」

孫九郎の声などかき消えてしまいそうな轟音が、響き渡っている。

濁流は暗い土砂の色をしていて、上流で巻き込んだいろいろなものを怒涛の勢いで海に運んでいく。

相模川の水かさは、往路で渡った時とは雲泥の差だった。

白い乾いた石の河川敷だったところが、すべて泥色の濁流で覆われている。

雨が数日続いただけでこれだ、梅雨時期などかなりの被害が出るだろう。

基本的に河川敷が広い川というのはそういう性質が強く、いったん増水が始まればあっという間に暴虐な牙をむく。

風も少ない穏やかな晴天にもかかわらず、濁った川の水量は多く、今なお岸を削る勢いで流れているので、渡河をあきらめる判断をするしかなかった。

地元の船頭によると、あと何日かこの調子だろうとのことだ。

「どうされますか、少人数ならなんとか渡るというのも」

「いや」

渋沢の言葉に、孫九郎は食い気味に首を振る。

何度かこういう状況で川に転落したことがあるだけに、できれば安全になってから渡りたい。

……酔いやすいのもあるし。

それに、渡河の際の分断を狙うとか、孫九郎だけ先に渡ったところを襲うとか。敵が考えそうな策はいくつもある。

ここは、通常の渡河が可能になるまで待つべきだろう。

幸いにも、情勢は今すぐどうこうなるようなものではない。

小田原には勘助も承菊もいるのだから、任せて大丈夫だ。

え? 左馬之助殿? ……そうそう、左馬之助殿もいることだし。

「では陣を張って、増水が収まるのを待ちましょう」

「あの」

誰がやり始めたのかわからないが、孫九郎の側付きたちは、意見があるときには小さく挙手をする。今回右手を挙げているのは真田次郎三郎だ。

「引き返した方が良いのではないでしょうか」

「 何故(なにゆえ) 」

渋沢の鋭い返しに、小姓組の何人かが怯む。だが次郎三郎は臆さず「はい」と頷いた。

「川の増水はいつおさまるかわかりません。この様子では、小田原までのあといくつかの川も同様でしょう」

いったん退いて、軍勢を整えるべきだと言いたいらしい。

孫九郎は顎に手を当て思案した。

天気がいいからと相模川のほとりまで来たが、これほどの増水だとはおもわなかった。

もちろん今川領内の大型の川でも、たびたび氾濫は起こっているので、気構えはあった。

だがこの辺りの河川は毛色が違うようだ。

規模的には大井川や天竜川のほうが広いが、それと比べても濁流の勢いが半端なく強い。

同じ感覚で渡河するのは危険だ。

「それに」

次郎三郎はふっと口元を手で覆った。

「地の利のある敵が、何か手を打ってこないとも限りませぬ」

すっと渋沢の目が細くなった。

次郎三郎はやはり臆さずに、手を下ろす。

「御屋形様に万が一があってはなりませぬ」

周囲の空気が、一瞬で引き締まった。

三浦半島に千の兵を置いてきた。清水家の支配が落ち着くまでの措置だ。

島に砦を作るにも人手が必要だし、それを守る兵も必要だ。

だがその分、小田原に帰還する孫九郎の軍は手薄になっていた。

それまでの、どこかのんびりしていた雰囲気がなくなり、男たちの表情が険しくなる。

この近辺に、手薄になったとはいえ千を越える兵を相手どれる軍勢はいないはずだ。

いや、いないはずだというその認識が甘いかもしれない。

「引き返すと言っても……」

土井が不安そうに周囲を見回し、もと来た道の方向を振り返る。

普通なら、近くの大きな町を目指せばよいのだが、この近くと言えば……藤沢か鎌倉だ。

どちらも、寺社勢力によりほぼ自治に近い状態にある。

もちろん、この数の軍勢がすべて町中に入るわけではなく、近くに野営地をつくる。基本的には水と物資の補給のためだ。それでも……気が進まない。

あの坊主どもは、撤退する北条軍に兵糧を渡したのだ。

預かっていただけとも考えられなくはないが、北条は鎌倉の外れに玉縄城を持っていた。備蓄の蔵にするならそこのほうが良かったはずだ。

にもかかわらず、玉縄城は燃やし、井戸も埋め、荷は運び出したが些少だった。

まだ今川軍はそこまで迫っていなかったにもかかわらず、だ。

つまり玉縄城の廃城は、我らの目を欺くための策だった。

そして見事、北条一門は十分な兵と兵糧を持って撤退した。

この地の寺社勢力は、その手助けをしたわけだ。

「近づかぬが吉だ」

顔をしかめた孫九郎を見て、同じことを考えたのだろう次郎三郎も渋い顔になる。

「確かに。僧兵は油断なりませぬ」

孫九郎自身は宗教は自由だと思っているし、この時代では嫌われがちな本願寺派であっても差別をする気はないが、武装してその地域を支配し、自治をしているというのであれば、もう立派な領主だと思う。

少し考えて、もう一度遠くの緑の稜線を見る。

「玉縄城か」

北条軍は撤退の際に燃やしたと言うが、土塁を崩し堀を埋めるまではできなかっただろう。

何もない河原よりは、まだ守りやすいのではないか。

いずれもう一度城を作るにせよ、廃城のままにしておくにせよ、確認に行くのも悪くない。

しばらく話し合って、水かさが減るまでの数日、玉縄城跡地に陣を張ることに決めた。