軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

5-8 相模 小田原城8

それが起こったのは、今川が小田原城入りをして十日ほどした頃だった。

深夜。

本丸北奥の臥所で眠っていた孫九郎は、軽く揺すられて目を開けた。

今夜の宿直は南ではなかった。小姓上がりの佐田小四郎だ。

「お休みのところ申し訳ございません」

年齢は孫九郎よりも少し上だが、ひょろりと背が高く、成長期の真っただ中。どれだけ伸びるのだと「タケノコ」の愛称をつけられている少年だった。

「……どうした」

出た声は低かった。孫九郎は何度か咳ばらいをしながら起き上がる。

「はい。山本様が三の丸にいらして欲しいと」

「勘助が?」

一気に目が覚めた。

小四郎の背後から、孫九郎の着替えをもった宿直が駆け寄ってくる。

部屋に入ってきたのは、昼番のはずの谷と真田次郎三郎だ。

特に次郎三郎については、夜はしっかり眠るようにと言ってあったのに。

何かが起こると、彼らの中で予期するものがあったのかもしれない。

用意された着替えは小袖に袴。藤次郎あたりが怒りそうなラインナップだが、時間が時間なのでそれでいい。

寝乱れた夜着から臥所を出ても大丈夫な程度の身支度をして、やわらかめの髪を整てもらった。

勘助がいる三の丸にたどり着いたのは、四半刻は経った後だ。

本丸から三の丸に向かうには、内側からでも結構な時間がかかる。

直線距離ではそれほどでもないが、曲輪ごとに空堀があり、渡れる箇所が限られているのだ。

小田原城攻めの際にその木橋が落とされたので、今は仮設の簡易な橋がかけられていて、夜通し篝火が焚かれている。

孫九郎が早足で通ると、今川の兵たちはさっと背筋を伸ばす。

もたついているのは北条兵。

これは練度の差というよりも、孫九郎という存在への慣れの差だろう。

三の丸に到着する前から、曲輪の中が緊迫した雰囲気なのが伝わってきた。

孫九郎が来たことに気づいて居住まいを正す者たち。

その中に渋沢の顔を見かける。三浦藤次郎もいる。こいつらは二の丸で休んでいたはずだから、孫九郎より先に駆け付けたのだろう。

比較的軽装なのは、今川側の者たちだけで、対面する北条衆のほうがきっちりと直垂を着こんでいた。さすがに武骨な防具はつけていないが、刀は持っていて、今川側の武装した兵たちが警戒している。

孫九郎はさっと室内を見回した。

一見して、渋沢やそのほか今川衆と、北条衆がいさかいを起こしたように見える。

だが、それらをすべて吹き飛ばしてしまうほどの血の臭いが、事がただの「いさかい」ではすまなかったのだと告げていた。

「孫九郎殿」

地を這うような声が聞こえた。左馬之助殿だ。

孫九郎はそっと呼吸を整え、それまでは人垣に阻まれて見えなかった「ソレ」に目を向ける。

斜めに垂れ下がった御簾の奥に、赤い打掛を羽織った女性。……いや、真っ赤な鮮血に染まった打掛だ。

「ち、父上」

左馬之助殿を見上げ、震えている女性は……葵殿だった。

初対面、女性というよりは少女に見えたのに、真っ赤に染まった打掛と乱れた黒髪、対照的に真っ青な顔が、彼女をやけに年かさに見せた。

「違うのです、これは」

「黙れ」

ことは少なくとも、小一時間以上前に起こったはずだ。

だが、娘の前で仁王立ちになった左馬之助殿は、今にもまた刀を振り上げそうだった。

「勘助」

緊迫した雰囲気の中、ひとり白けた顔をしているのは勘助。

孫九郎はその顔を見て、こいつの仕掛けだとすぐに察した。

「どういうことだ」

何があった、と問いかけるはずが、無意識のうちにそう詰問していた。

勘助は片方だけの目でこちらを見て、肩をすくめる。

「見てのとおりですよ」

否定しようとしないのは、孫九郎の憶測があっているからか。

「父上!」

葵殿の悲鳴。衣擦れの音とともに、両手を広げて誰かをかばおうとしている。

「諫言をする臣を手にかけるなどっ」

「……諫言?」

左馬之助殿の聞き取れないほど低い声は、わずかに震えていた。

「吐いた言葉は、二度と飲み込めぬと思え」

左馬之助殿が、意を決したように刀を握りなおした。ゆっくりと構えられた刀身が、ギラリとろうそくの光をはじいた。

駄目だ。葵殿ごと切る気か。

「そこまで」

先の事を考えるより前に、言葉が出ていた。

なんとか左馬之助殿をなだめ、刀を離させるまで随分かかった。

その間、葵殿は血まみれのまま震えていた。

孫九郎はふと、左馬之助殿の側室と姫を手にかけたという亡き北条殿を思った。

同じようなことがあったのかもしれない。

今となっては真相を知ることは難しいが、娘に刀をふりあげようとした左馬之助殿を見ていると、あながちそれも間違っていないかもしれないと想像する。

「落ち着きましたか」

孫九郎が問うと、左馬之助殿はたっぷり数十秒沈黙してから、溜めていた息を吐いた。

長い嘆息だった。

「……すまない」

左馬之助殿が切ったのは、葵殿と北条家の復権について密談していた者たちだ。

密談と言ってもかわいらしいもので、いずれ左馬之助殿には今川から独立してほしいが、その為には今川家の息が掛かっていない後継ぎが必要だというものだった。

要するに、葵殿の縁談についてだ。

願望を語るぐらいいいじゃないか。孫九郎はそう思ったが、口にはしなかった。

左馬之助殿にとってそれが、許せない裏切り行為だっただけだ。

父親たる己を介せず、年若い葵殿と密約を交わす……。確かに、かわいらしいと言うには目に余ることかもしれない。

しかも葵殿は諫言と言っていた。おそらくだが、問い詰めた左馬之助殿に向かって、孫九郎への悪口、あるいは今川に対する弱腰を指摘したのかもしれない。

そいつの目に、一万の兵は映っていないのだろうか。

左馬之助殿が許されているから、北条衆も許されると?

忘れないで欲しいが、十日前まで殺し合いをしていた仲だぞ。

「まあ、いいではないですか」

孫九郎は穏やかにそう言って、脇息に体重を預けた。

妄想を逞しくし、孫九郎や今川家の悪口を垂れ流すぐらいかまわない。

左馬之助殿の次の代が、今川系列である必要も感じない。

まだ起こしていない裏切りを責めるのは、酷というもの。

「独立したいならすればいい」

孫九郎の言いたいことを理解した者はどれだけいるだろう。

それはすなわち、今川に敵対するという意味だ。

実際に起こせば、今度こそ、一族郎党滅ぼされる未来が待っている。

はっとしてこちらを見た葵殿が、真っ青な顔になった。

すがるように父親のほうを見て、そのしおしおと俯く様子に息を飲む。

「……止めはしません」

孫九郎は、例の血まみれの御簾を横目で見ながら呟いた。