軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

5-4 相模 小田原城4

「も、申し上げます!」

そう大きな声で叫ぶ声が聞こえたのは、葵殿が手を白くなるまで握りしめた瞬間だった。

その手はどうする気かな。まさか殴る気じゃないだろうな。

少しばかりそんな心配をしたところで、注意が逸れる。

孫九郎が目を向けたのは庭先。

庭先といっても、ここは本丸曲輪なので、庭園というよりはもっと広く見晴らしがいい。

なので、その兵士が駆け寄ってこようとして、まだ距離があるうちから今川の兵に止められるのがはっきり見えた。

「……っ」

息を飲んだのは、葵殿。

孫九郎は小さく首を傾け、その声の主のほうを見た。

今川の兵ではないのは、装備からわかる。

旗指物こそないものの、黄色い色の鉢巻きを締めている。

「何事だ」

返事をしたのは、松永だ。

この数年で、できる好青年役人風だったのが、やり手の管理職っぽく進化している。

「ま、松永様! 三浦が!」

三浦と聞いて、孫九郎が思わず目を向けたのがうちの三浦兄弟だ。もとは福島家のいち家臣だったが、今や孫九郎の側近中の側近だ。

だが、松永の深刻そうな表情を見るに、その三浦ではない。

「新井城で蜂起!」

松永は眉間のしわを深くした。

孫九郎にはなじみのない城だが、どうやら三浦半島にあるらしい。つまりは、北条の下で圧政のうちにあった旧勢力が、この機会に立ち上がったということだろうか。

「兵はいかほどか」

孫九郎が問うと、北条の兵は「えっ」という表情をした。

「治部大輔様のご下問だ。答えよ」

何を驚かれたのかわからず首を傾けていると、松永により話は先に進められた。

兵は、そのあたりはあやふやだった。

新井城に旗がたち蜂起したのは確かでも、その実態はわかっていないようだ。

これはもしかすると、今川の足止めのために用意された罠かもしれない。

少し考えて、新井城の場所を聞く。

三浦半島の先端。小田原からだと相模湾を隔てた反対側だ。

「なるほど?」

孫九郎は、冷静にその兵を見つめた。

おろおろと視線を揺らす男に、疑いの目を向ける者はいないのかもしれない。

だが、地理的距離が少しはわかるようになってきた孫九郎は、頭の中にある実際の日本地図と比較して、新井城の蜂起がここまで伝わるまでに一日以上はかかると読んだ。

松永が顔をしかめたのも、それが理由だろう。

新井城が蜂起したのは、よほど足の速い忍びがいたとしても、小田原が落ちる数日前だったという計算になる。

要するに、北条が敗走したという知らせが新井城にまで届き、三浦衆が蜂起を決断したとして、その知らせがまた小田原に届くだけの時間はないということだ。

この仕掛けを託された者が焦ったか、あるいはそんな事にも気づかないと思われたか。

孫九郎の目配せで、再び兵は拘束された。

「お待ちくださいませ! その者が何をしたと言うのですっ」

葵殿が、ひどく憤慨した様子で口を挟んできた。

説明しても良いが、大勢が耳を大きくしているこの場所では駄目だ。

孫九郎のあいまいな苦笑を見て、葵殿はさらに怒りをたぎらせた。

「葵」

低く籠った、左馬之助殿の声がした。

珍しく落ち着いた声色なのは、実兄の通夜中だからというのもあるが、ここで騒ぎを大きくしたくないのだろう。

「何を騒いでおる。遠くまで聞こえておるぞ」

「父上!」

葵殿のよく通る声は、間違いなく左馬之助殿の血筋からだろう。

その直情的なところも、一本気なところも、嫌いな気質ではない。

だが、この手の人間は信念を曲げることはない。

左馬之助殿にひどく申し訳なさそうな顔をされたが、軽く首を振って返した。

誰かに嫌われることなど今更だ。

関係改善には、時間がかかるとわかっている。

葵殿にはものすごい表情で睨まれ、拳が真っ白になるほど握りしめられている。その拳を、こちらに振りかぶらないでくれるだけでいい。

「喪主が席を立ってもいいのですか」

「孫九郎殿がおらぬようになったからか、坊主どもは半刻ほど休憩するそうだ」

「一日中お経を唱えているのは大変でしょうから」

「わしは早う弔ってやりたい」

それはあれだ、死後数日たっているので、かなり腐臭が強くなっているからだろう。

季節はもう夏。死体が腐らず長持ちする季節ではない。

相変わらず率直な口でそう言う左馬之助殿に、孫九郎は小さく頷きを返した。

「時間があるのでしたら、軍議をしましょう。少し動きがあります」

「本丸でか?」

左馬之助殿がちらりと見たのは、通夜がとり行われている本丸大広間の方向だ。

そこには、小田原に残った北条衆の主だったところが集まっている。

それは亡き主君を弔う為のものだが、同時に、今川への従順の意を示すものでもあった。

松永いわく、面従腹背の輩がまだ大勢いるようだが。

「勘助が二の丸におりますのでそちらで」

「……二の丸か」

左馬之助殿は、ひどく複雑そうな表情をした。

そこは、長綱殿とその母親が長く住んでいた区画なのだそうだ。

孫九郎もあまりいい気はしなかった。

だって……ものすごく怨念がこもっていそうじゃないか?

事故物件を気にするようでは、この時代を生きていけないが、長綱殿とあとひとり……うちの承菊だけは勘弁してほしい。

どちらもまだ死んでいないって?

……死んでないから怖いんだよ。