作品タイトル不明
5-3 相模 小田原城3
静かな読経の声が続く。
静まり返った大広間には強めの香が焚かれ、それでも誤魔化しきれない腐臭が漂っている。
時折動くのは僧侶だけだ。死者の親族である左馬之助殿と葵殿が上座に、その後ろには北条家の家臣たちが静かに控え、粛々と読経を聞いている。
北条殿は、ここ一か月以上寝たきりの状態で、だんだん弱ってきていた。
葵殿によると、足手まといになるから置いていけと言ったのはご自身からで、最後まで小田原を守るつもりだったそうだ。
結果論、今川軍が到着する数日前に息を引き取ったのだから、その行動が正しかったか否かはわからない。
北条殿を連れて行かなかったから、長綱殿らが気づかれず小田原を落ち延びることが出来たというのは、あるかもしれない。
最前列で、左馬之助殿は微動だにしない。
親族が座るその次の列で、葵殿が黙って手を合わせている。
藤次郎が目配せをしてきたので、孫九郎は静かに立ち上がった。
囁かれたのは、小田原湊に脱出していた、左馬之助殿のご正室らについてだった。
彼女たちは、通夜に参列することを拒否した。
今川家に対する抵抗でもあるし、亡き北条殿への鬱屈した感情でもあるのだろう。
忘れてはいけないのは、側室が一人とその娘が北条殿に手討ちにされたということだ。彼女たちはここ小田原城で、二年間監視され続けた。扱いがいいものではなかったのは想像がつく。
「承菊からの知らせはまだか」
援軍は三千ほどと聞いていたが、それは半日前の情報で、追加の報告はまだない。
数が多いなら、小田原城で受けるのも手だと思う。
孫九郎の問いに、藤次郎はちらりと広間のほうを見てから、声を潜めた。
「烏合の衆ではあるようです」
烏合の衆ということは、つまり山内上杉家からの援軍ではない?
首を傾げると、藤次郎は孫九郎を廊下の更に先へと誘った。
読経の声が聞こえなくなるまで距離を置いて、こちらに向き直る。
「援軍は、北条家がまだ小田原にいると思っているようです」
「……引く気はなさそうだということか?」
「はい」
他国からの援軍なら、普通、駆けつけた先の城が落ちたとわかれば撤退する。
自国の兵を失ってまで、同盟国の城を取り戻す気概はないはずだ。
あるいは、小田原城を今川家に渡すリスクを考えたか?
拡大路線を続ける強国が、関東に一歩進出してきたと思えば、今のうちに皆で追い返そうと手を組むのもわからなくはない。
だが、こちらは合わせて一万の軍だぞ。
これに対抗できる勢力があるとすれば、山内上杉家ぐらいなものだろうが、彼らが大きな軍事行動をとっているという情報はない。
精々数千の援軍程度では、小田原を取り戻すのは無理だ。
孫九郎は軽く顎に手を当てた。
「勘助はどこだ?」
「本丸は線香臭いと、二の丸に。小田原城の防衛をお考えのようです」
「治部大輔様」
声を掛けられる前から、護衛達が警戒していたので、その接近には気づいていた。
厠に行くふりでもしたのだろうか、通夜の席を離れて孫九郎を追ってきたのは松永だった。
久々に会った男の顔は、記憶にあるものよりずっと険しく、ここ数年が彼にとって楽なものではなかったのだとわかる。
ふと、長綱殿らが小田原を捨てることを知っていたのかと、問いそうになった。
松永ほど目端の利く男なら、気づかないわけがない。
知っていて、あえて何も言わなかったのだろう。
この男はもともと、北条家に強い恩義があるわけではなく、孫九郎が口利きをして、左馬之助殿の家臣になった。
左馬之助殿の為と考えれば、今の結果は望んで選んだものだろう。
警戒をして、押しとめようとする谷を制して、孫九郎は松永の接近を許す。
松永は丁寧に一礼してから数歩距離を詰めたが、それ以上近づいてこようとはしなかった。
「小田原に残った者の多くが、左馬之助様に従うでしょう。ですが、松田家、末広家、高田家の動きが怪しいです」
記憶にあるよりも幾分低い声が、聞き取りやすく言葉を刻む。
それははっきりと、孫九郎側に立つという姿勢だった。
「そうか」
孫九郎は頷いた。
少し考えて、手招く。
護衛達は良い顔をしなかったし、それは松永も同様だ。
だが気にせず、孫九郎のほうから近づいて、すっかり京訛りの抜けた男に顔を近づけた。
「小田原は左馬之助殿に一任する予定だ。足元を固めよ」
不穏分子がいるのなら、彼らの手で押さえるべきだ。
囁く声は小さかったが、松永には十分に伝わったようだ。
北条一門である左馬之助殿の名のもとに、相模西部をまとめろという指示だ。残る北条衆にとっても、悪い話ではないだろう。
「こちらの勢力範囲内はどこまでになるのか、後で報告を上げよ」
「山内上杉と関東の諸家で兵が上がったと聞いております」
「……まあ、それは」
孫九郎はそれほど心配していなかった。
十分に対抗できる兵力を連れてきているし、何しろ承菊が采配を振るっている。
これだけ条件が整っていて、あの男が下手を打つイメージがわかない。
とはいえ、長綱殿らがどこに落ち着くかを含めて、注意深く見ていかなければならないだろう。
「これはどういうことですか」
不意に、ひどくくぐもった女の声がした。
孫九郎はちらりと、松永ははっと息を飲んで顔を上げる。
こちらも厠に立ったのか、孫九郎と松永が席を外したことに気づいたのか。
青ざめ、こわばった顔でこちらを見ていたのは、葵殿。
「松永、そなたは今川の間者だったのか」
そんなわけないだろう、と言ってやりたいのが半分。
このまま彼女が何を言うのか聞いてみたい気が半分。
だが賭けてもいいが、葵殿にこちらの会話は聞こえなかったはずだ。
雰囲気を見て、そう結論付けたのだろうが……。
早合点が過ぎ、考えなしに大きな声を上げた少女を、どう扱ったらいいものか。
孫九郎は小さく息を吐き、首を左右に振った。
それを見た葵殿が、両手を胸元あたりで拳に握った。