軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

2-7 駿河 行軍初日 興津宿5

孫九郎は己を、基本的には温厚だと思っている。それは戦後の長い時間をかけて形成された気質だ。現代の日本人は平和の中で「そうあるべき」と教育されるのだ。

つまり何が言いたいかというと……トラブルはできるだけ避けたい派だ。

明らかに激怒している勘助を前にして、本能的な回避行動をとろうとした。

「いかがした勘助」

フレンドリーに呼びかける孫九郎を、信じがたいものを見る目で見る者たちの中には、興津衆もいる。

「清水湊に行くよう申しつけたはずだが」

相手をこれ以上刺激しないようにと、精いっぱい気をつかったのだが、返ってきたのは物理的に人を殺せそうな目つきと、低い唸り声だった。

「……」

怒ってる! めちゃくちゃ怒ってる!

心当たりは全くなく、無意識のうちに視線が泳ぐ。

「だがまあ、来てしまったのは仕方がない。この者たちの調べに立ち会え」

おどろおどろしい凝視を受けて、板間の中央に集められた者たちは震え上がった。

申し訳ないが、ひねくれ者の怒りを浴びるのは任せる。

たっぷりの間を開けて、周囲を混乱と恐怖に陥れながら、勘助はようやく口を開いた。

「船は燃えました」

えっ?

孫九郎は、勘助の口から吐き出された驚愕の第一声にのけ反った。

燃えた? 高富丸が?

井高屋らは、孫九郎ほど勘助のひび割れた声に慣れておらず、おそらく聞き逃したのだ。よくわからなかった様子で忙しなく視線を動かし、勘助をできるだけ視界に入れないようにしている。

孫九郎は、どうやって怒りの矛先を躱すかではなく、清水湊に停泊していた大型の商船が燃えた事のほうに意識を集中させた。

「他に被害は?」

勘助は無言のままかぶりを振った。

報告は正確に! はっきり伝えてくれないとわからないじゃないか!

注意しようとして、ちらりとこちらを一瞥した勘助の表情を見て口を閉ざした。

ああそうか。すでにこれも尋問の内か。もしかするとフェイク情報なのかもしれない。

衆目の中、勘助が廊下から室内に足を踏み入れた。

下座のほうから近づくにつれ、ガコン、ガコンと木の義足が鳴る。その度に、井高屋と船長らがビクビク震え上がる。

そんな井高屋の肩を、田所兄がぎゅっと握った。至近距離まで近づいた勘助を見上げ、後ずさることも顔を背けることもできずにいる。

勘助は更に脅すように、その傷だらけの顔面を井高屋に寄せた。

「ワシはその方らを追ってきたのだ。いざとなったら船乗りごと証拠隠滅を図るとは」

「な、何の事で……」

井高屋は震える声でそう問い返そうとして、息を飲んだ。

ようやく先ほどの勘助の言葉の意味を理解したようだ。

一気に顔から血の気が引き、ガタガタと震え始める様子は、船が燃えるなどまったく予想していなかったように見える。これが芝居ならたいしたものだが……。

「火をつけた者はわかっているのか?」

「例の生き残りです」

孫九郎の問いかけに答えたのは、いつのまにか勘助の真後ろにいた田所弟だった。

田所兄弟の単体ならまだしも、二人そろっていることにものすごく嫌な予感がする。

これから大きなことが起こるのではないか。そんな危惧を抱いたのは孫九郎だけではないようで、藤次郎ら古くからの側付きたちの表情も険しい。

「どういうことだ? 高富丸の船乗りが火をつけたということか?」

孫九郎の、ちょっとわざとらしかったかもしれない念押しに、井高屋は「そんな! そんなまさかっ!」と、歯の根も会わない様子で震えている。

この男が何も知らずに清水に来たとは考えられない。だが、商船が燃やされたという知らせが寝耳に水だというのは、本当かもしれない。

そこから先は、尋問のプロがいるのだから田所兄弟に任せることにした。こういう時には、基本は個別に聞き出すのがセオリーだ。

「ところで、船が燃えたというのはまことか?」

ショックを受けた様子で連れていかれる男たちの背中を見送ってから、孫九郎は小声で聞いてみた。

勘助は、どうとでもとれる表情で肩をすくめた。

相変わらず怖い顔だが、先ほどよりは怒りを収めたように見える。

やはりはけ口を用意してやって正解か。

まだ顔色が悪いのは馬酔いだろう。あの恐ろし気な息遣いは、よほど急いで駆けつけてきたせい……うん、きっとそうだ。そう思うことにしよう。

片腕に力が入らず、片足のない勘助にとって、長時間の馬移動は堪えるだろう。そもそも、どうして興津宿まで来たのだ。清水までのほうが移動も楽なのに。

勘助はようやく息が整った様子で長くため息をつき、懐から少しよれた書簡を取り出した。

座り込んでしまって立つ気もなさそうな男の手から、土井が書簡を受け取って孫九郎のもとに運んでくる。

見覚えのある文字だった。だが身近なものではない。すぐに思い当たらないのは、それほど頻繁に見るものではないからだろう。

走り書きのような……いや、崩しの多いかな交じり文字。女の手のように見える。……女?

「奥女中をしていた阿川の娘が書いたものです」

「お雪か?」

「はい」

彼女は確か一年ほど前に、親がすすめる相手に嫁ぐため今川館を下がっている。お相手の容姿が渋沢より劣るのは仕方がないと、幸せそうに文句を言っていたのを覚えている。

孫九郎は嫌な予感を覚えながら内容を改めようとして、真っ先に目に飛び込んできたものに顔をしかめた。

「……血に見えるが」

「某もそう思います」

丁度手に触れるあたりに、飛び散った血の跡がある。どう考えても尋常ではない。

新婚の彼女に一体何があったのか。

急ぎ開いた書簡を一読し、ぎゅっと眉間にしわを寄せた。

内容は、到底無視できないものだった。

嫁ぎ先の家門が、孫九郎へ謀反を企てているというのだ。

「……賤機山で襲い掛かってきた女の名は何と言ったか?」

「静山です」

そうだ。桃源院様の傍に控えていた時は、そう呼ばれていた。

孫九郎の直感がしきりに警報をならしていた。そこに危険があるとわかっているのに、正確な位置がわからない、そんな感じだ。

「小原ではないのか?」

不意に、これまでおとなしく座っていた左馬之助殿が口を開いた。

どきり、と心臓が脈打ったのは、お雪の嫁ぎ先が小原家だからだ。

位の高い女房は通称で呼ばれることが多く、静山という女が別の名を持っていたとしてもおかしくはない。

あの時、孫九郎を刺そうとしたのは、もともと憎々しく思っていた相手が、左馬之助殿まで遠くにやってしまうと考えたからだと自白していた。

本当にそうか? 左馬之助殿に正妻がいることなど、誰もが知っていた。今更孫九郎がその正妻へ配慮するようにと言ったとしても、そんな事だけで小刀を抜くだろうか?

女の細腕で届くわけもなく、失敗前提だったとしたら?

「御屋形様が今川館をお出になり、馬廻りの警備や忍びの目が外に向いた瞬間を狙われました」

勘助がカチカチと奥歯を鳴らしながら唸った。

まさか今川館が落とされた? ……いやそんなはずはない。大きな軍勢がこちらに向かっていれば、さすがに報告があるはずだ。だがその相手が、味方だというなら話は別だ。

「謀反が起こったと言うのか?」

小原家か? この近くに所領を持つ、譜代といってもいい駿河の国人だ。

「牢に入れられていた一部の囚人が、静山の手引きで脱獄しました」

孫九郎は、聞き取りづらい勘助の報告を咀嚼しながら、平然とこちらを見ている田所兄弟に目を向けた。

謀反なのかもしれないが、深刻度は低そうだ。ただ、田所家も出払った時を狙われたというのは違和感がある。あの家は、従軍する者よりもそのほかのほうが多いからだ。

目が合って、田所兄がニタリと嫌な感じで笑う。

……ああそうか、泳がせて自由にさせている段階か。そのうちいいタイミングで竿を引くのだろう。

それはきっと、孫九郎の役割だ。