軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

2-1 駿河 駿府 出陣

その日は快晴だった。

甲斐への出陣式から十日後。大軍が進む大通りは、いったいいくら予算をかけたのだと問い詰めたくなるような華やかさで、侍大将が通るとそこかしこから歓声が上がる。

……わかっているとも。孫九郎の人気は『そこそこ』だ。見物人たちは孫九郎を年若い今川家の当主だと認識しているが、それよりもっと注目される奴がいる。

本陣の後方を守る黒備え。そう、渋沢だ。

キャアアアアアアッ!

渋沢軍が旗印を上げると、さながら世界的スターが現れたかのような絶叫が上がる。

女だけではなく野太い男の歓声も混じり、拍手や足踏みで群衆のボルテージが一気に跳ね上がった。知らぬ者が見れば、そここそが本陣だと思うに違いない。

ちらりと振り返れば、相変わらず恐ろし気な頬あてをつけた渋沢が、有象無象の声援など聞こえぬとばかりに背筋を伸ばしている。

武装で美貌の片鱗すら見えないし、手を上げて歓声に返事をしているわけでもないのに、見物人たちの興奮は最高潮だ。

わざとらしく両手で耳を塞いだ谷に向かって、渋沢が何かを言う。

だが真横にいたとしても、その声は歓声に紛れて届かないだろう。

孫九郎は、相変わらずの状況に感心すればいいのか、憐憫の目を向ければいいのかわからず、そっと視線を外した。

ひときわ甲高い歓声が上がる。そこに今川館の女中たちの姿をみつけて、気づかないふりをしたのは孫九郎だけではないだろう。

ここ数年で、女難が女災までレベルアップしている。

いや女だけではない。アラフォー男のカリスマは、男女を問わずますますうなぎのぼりだ。

異様な熱狂をみせる町を抜け、見送りの者たちがいなくなってから、渋沢はようやく肩の力を抜いた。

目に見えて生き生きと馬を駆り、有能な男らしく部下たちに指示を出し始める。

これまで、歓声がうるさすぎてまともに指揮が通らなかったのだ。

いつもの事ではあるが、気の毒すぎる。

「後続の小荷駄隊が遅れております」

馬の為の小休止中、ぼんやりとその様子を観察していると、藤次郎が進言してきた。

孫九郎は少し顔をしかめ、渋沢軍よりも後方に続く長い物資の列に目を向ける。

「遅れているとはどの程度だ?」

「たいしたものではありませぬ。町を出るのに手間取ったようで」

まだ行軍ははじまったばかりだ。遅れをなんでもないとスルーするのも、足並みがそろうように行軍速度を落とすのも良くない。

「気を付けてやれ」

孫九郎のその言葉に、「はっ」と声を上げて頭を下げたのは藤次郎ではなく、その背後の男たちだ。最近下級武士から優秀なものを召し上げ、藤次郎に使わせている。

「……邪魔が入る恐れは大いにあります。用心に越したことはありませぬ」

「そうだな」

二年ぶりの孫九郎直々の派兵だ。周囲の者たちが張り切る気持ちはわかるし、悪意ある者が動き出すきっかけにもなるだろう。

孫九郎はいまいち気乗りしないままに、こぼれそうになる溜息を飲み込んだ。

この戦国の世で、二年間戦をせずにいられたのは幸せなことだと言ってもいいのだろう。本音を言えば、一生このままでもよかったのだが。

「本日のこれからの行程を申し上げます」

「うん」

生真面目な藤次郎の声を聞きながら、ぼんやりと鮮やかな初夏の風景を眺めた。薄く雲が流れる真っ青な空。濃い緑色の大自然。

周囲はむさくるしい連中に囲まれているので、遠くの風景に目を楽しませ、長い移動への覚悟を決めた。年々体力がついてきていても、何日にもわたって行軍を続けるのは楽なことではない。

「聞いておられますか」

危うくあくびが出そうになって、慌てて「聞いてる聞いてる」と声を上げる。藤次郎は呆れたように首を振り、手に持っていた冊子をぱたりと閉ざした。

「桃源院様に頭からバリバリ食われぬよう、対策を練るべきかと存じますが」

「対策なぁ」

孫九郎はあくびを飲み込み、「桃源院様」というビッグワードにビクリと身をこわばらせた周囲に苦笑した。

道中、由比に立ち寄り、桃源院様にご機嫌伺いをするのは秘密でも何でもない。先触れもすでに出している。

「御年の割にお元気な御方よ」

血縁的には祖母にあたるかの御方は、年老いてなお家中に影響力を持ち、達者に盤面を操ろうとしている。だが、いい加減もう引っ込んでいてほしい。

孫九郎に従う家臣の多くが、桃源院様だけではなく先代の子ら、かつて政敵だった者たちへの処遇が甘すぎると考えているのはわかっている。

だが、養子家からの出戻りである孫九郎が穏便に今川家を継ぐためには、それらの反発を抑える必要があった。強硬な手段を取っていたら、多くの禍根を残していただろう。

とはいえ、甘い顔を見せていれば増長するのは、誰を相手にしていても同じこと。

『穏便に』という言葉は、互いに配慮ができる間柄でしか通用しないのだ。

「……三度のならいでよろしいのでは」

考え込んでいる孫九郎に向かって、控えめな口調でそう言ったのは真田次郎三郎だ。色黒の肌はそのままに、ぐっと伸びた背丈が彼の叔父を思い起こさせる若武者になっていた。

勘助や承菊とよく話しをしていることが気になるが、実直で頭のいい有望株の青年だ。

「それでいうならとっくの昔に三度など越えて……失礼致しました」

藤次郎は軽口まじりの皮肉で返し、周囲の顔色がますます悪くなる。

孫九郎はパタパタと手を振った。

親族だと実感したことはほとんどなくとも、実際には近しい血縁だ。そんな相手が、もっとも大きな敵対派閥だというのは、皮肉なものだというべきか。戦国あるあるだと言うべきか。

だが逆を言えば、はっきりそうとわかっているだけ対処のしようもある。