作品タイトル不明
14-2 遠江 高天神城1
留守居の倉辺は、長年源九郎叔父の側付きをしていた男だ。
故に、福島家の事情を熟知している。
倉辺は孫九郎の表情をみて、きゅっと唇をひきしめた。
覚悟を決めたような顔だった。
この男に聞けばわかると思ったのは、間違いではなかったようだ。
「掛川に何が起こっている」
遠回しに聞いても仕方がないので、ストレートに尋ねた。
しばらく、倉辺も静殿も黙ったままだった。
孫九郎は二人をじっと見た。
言えないというよりも、言いたくないというような顔だった。逡巡している、といったほうがいいかもしれない。
ジリジリと、ろうそくの芯が揺れる。
それに合わせて、二人の表情に陰影が刻まれる。
「……倉辺」
「は」
「話しにくいことか?」
しばらく、静かな夜風の音だけが聞こえた。
「御屋形様」
たっぷり数十秒後、口を開いたのは静殿だった。
彼女を呼んだのは、この話が極めて女性的な、デリケートな問題だった場合、倉辺よりも説明に適しているかもしれないと考えたからだ。
真田の女である彼女が、福島本家の異変に気づかないはずはない、という思いもあった。
「わたくしどもは新参故、どこまでお話してよいか判断が難しゅうございます」
孫九郎は黙って続きを促した。
「掛川では、お葉の方様の不義の噂がまことしやかにささやかれております」
話してよいかわからないと言った割には、随分とストレートな台詞だった。
「二年前にお生まれになられた若君が、ご家老、中村殿の娘によう似ていると」
「福島家にもお葉殿の実家にも中村の血は入っている。多少似ていたとしても不思議はない」
「もちろんです。噂です」
「……噂か」
孫九郎は顔を顰めた。静殿が頷き、倉辺の表情も渋くなる。
二年前に生まれたお葉殿の子は、ひどく病弱に生まれた。一度だけ会う機会があったが、熱があったので遠目にだった。
近くで見たわけではないので、似ているといってもどれぐらいかはわからない。もしかすると露骨に似た特徴があるのかもしれないし、実際はそれほどでもないのかもしれない。
「幸は甲斐にまで使いに出された」
お葉殿の不義の噂については、昔から漏れ聞こえるものだ。今更だ。
それ以上の何かがあったから、幸を駿府からさえ離したのだと思う。
「江坂の叔父上が母と娘を遠ざける理由は?」
ちらり……と、二人は視線を交わした。
意図したものではなかったのかもしれないが、まるでそこに、触れてはいけない醜聞があるかのように見えた。
「外聞を憚ることなら、なお知っておきたい」
孫九郎の言葉を受けて、しばらくして静殿が口を開いた。
「御方様のご意向があったと伺っております」
「お葉殿の体調がすぐれぬとは聞いた。ならば余計に、子を側に起きたいと思うのではないのか?」
「御屋形様」
静殿がスッと居住まいを正した。
それは厳しい声ではなかったが、同時に孫九郎の背筋にも緊張を走らせた。
「家老中村殿が隠居し、弟殿が後任に着きました」
倉辺の視線が、さっと膝先に落ちたのが印象的だった。
静殿はその様子をそっとうかがってから、続けた。
「福島の殿のかつてのご側室のお一方が、そのお方のお子だったと聞き及んでおります」
「……それは」
思い出したのは、この城で異母兄と呼んだ子の顔だ。
だがあれの母親は商家の出だった。
いや孫九郎が生まれる前にも、側室の間で何かがあったとは聞いている。その事にかかわってくるのか?
「申し訳ございませぬ、わたくしは信濃から来たばかりの新参者にて、ご家中の不文律なども存じ上げませず、我が主の御身の回りに障りがあってはならぬと」
つらつらと言い訳じみたことを続ける声を、手をあげて制する。
「このこと、田所家は」
孫九郎の問いに、すぐには返答がなかった。
「ふっ」と詰めていた息を吐いたのは、倉辺だ。
「ここ数か月、田所家のご兄弟は東の方に詰めておられました。御隠居様は、三河で腰を悪くされて以来、寝込んでおられます」
田所の翁が? ……知らなかった。
「漏れ聞こえた話で推察しますに、江坂様は家老の交代の際に何事かお気づきになられ、調べを進めるうちに、ひどい噂が流れてしまい」
噂。また噂だ。
今度は「どんな噂か」と問う前に、二人の表情で酷い内容なのだとわかった。
「若君の父親が江坂様だと」
孫九郎はきゅっと両目を閉じた。
そんな事はない。あり得ない。
断言できるし、父もそう思うだろうが、醜聞は流れた段階で悪者を決めつける。
幸の時は松平の流言だった。今度はその新しい家老か。
……やってくれるじゃないか。
福島家は孫九郎の家族だ。一番柔らかい部分だ。好き勝手させるつもりはない。
「田所の不在をつかれたか」
「はい、そう思います」
倉辺の返答は落ち着いていた。こちらを見る目にも揺らぎはなかった。
この男のことはよく知らないが、源九郎叔父が留守を預けたからには信頼がおけるのだろう。
孫九郎は頷き、もしかすると志郎衛門叔父は、このことを父に誤解を与えないよう伝えるために、幸に書簡を託したのではないかと思った。
あるいは、ほんとうに身の危険があったのかもしれない。
中村家は、福島家中のもっとも大きな派閥だ。福島屋敷の中にも、一族の者が大勢いる。
「静殿」
孫九郎はしばらく思案した末に、口を開いた。
「真田の忍びは、動けるか」
はっと息を飲んだのは、静殿ではなく、その息子の次郎三郎だ。
静殿はすぐには答えなかった。
新参の者が忍びを抱え、今なお動かせることを肯定するのは、リスクだ。
あるいは、すでにもう動かしているのかもしれない。だとすればそれを告げるのも、分が悪い。
「……はい」
だが彼女は、隠さず頷いた。
孫九郎はそれを、真田の忠心だと受け取った。