作品タイトル不明
13-10 三河 渥美半島 渥美半島 高師5
安濃津はかつて、日本有数の湊だった。
だが三十年ほど前の大きな地震で被害を受け、今なお復興には至っていない。
近くに代わりになる湊が複数あったことと、時代的に物流が増えていくタイミングでの脱落が大きく足を引っ張った。
そんな安濃津に、倉を作らせる。
孫九郎が建てるのではなく、畿内の騒動から資産を分配させたい堺衆がだ。
天王寺屋を介しての募集に応じたのは、六つもの店だった。
倉を建てる資金を半分こちらで持つと囁けば、「それならば」と更に乗り気になった。
安濃津は中伊勢、長野家の勢力圏だ。
堺衆がくることになって、懐が温まる長野家に否やはない。
そして、安濃津が勢いを取り戻すことにより割を食うのは、これまでその代替湊として荷をあつかってきた周辺の湊だ。
「意地の悪い事を考える」
一か月も経たずに覿面に現れた効果を見て、孫九郎は唸った。
堺衆が動かす荷の量は、伊勢の商人とは比べものにならない。それが六店も集まっているのだ。
荷が集まるところに商人もあつまり銭もあつまる。
商流のバランス崩壊は急激だった。
「それほどでも」
承菊が口元を押さえて笑った。
「まだまだこれからです」
孫九郎は報告書の帳面を閉じて、承菊に返した。
「北畠はどうしている。気づいたか?」
「すぐに気づいたのはやはり商人です。苦情を言おうにも相手は桁違いの 大店(おおだな) 、敵対するより迎合したほうがよいと判断しました」
つまり、今や伊勢湾の商人の多くが安濃津のほうを向いている。
孫九郎は、ふっと唇を緩めた。
承菊の狙いは、商業の活発化ではない。
それによって北畠が伊勢湾の商流からはじかれ、徐々に細っていくだろうが、それは先のお楽しみだ。
「……気づいていないか」
「気づいたとしても、どうしようもありませぬ」
承菊は「ふっふ」と声を漏らし、目を三日月形に細めた。
「長野家は肥えます。銭が集まれば兵を養えます。砦も増やせます。城の普請まで考えるやもしれませぬ」
もとより北畠は、己に従わない周辺の国人領主たちをよく思っていない。
その長野家が急に羽振りを良くしたなら、どう見るか。
「軍役を増やすか、人質を求めるか。いずれにせよ締めつけるでしょうな」
「従わねば?」
「兵を出すでしょう」
あっさりと言った。
まるで天気の話でもするように。
「長野は何もしておりませぬ」
承菊は帳面の表紙を指で撫でた。
「何もしておらぬ者ほど、疑われれば反発するものです」
孫九郎は頷いた。
安濃津は餌だ。本当に欲しいのは北畠と長野の不和。
承菊は湊を育てているのではない。戦の種を育てているのだ。
湊が栄えれば栄えるほど、その種は大きく育つ。
「伊勢神宮には寄進をし、東雲様を通して交友も深めています。邪魔をしてくることはないでしょう」
承菊は帳面の表紙をそっと撫でる。まるで、出来栄えを褒めるかのように。
「思いのほか順調です。もう少し時間がかかるかと思うておりましたが」
「そうだな」
北畠は公家だが、振る舞いは武家に近い。
長野が力をつければ警戒し、圧力をかけるだろう。大きくなることを危惧して、安濃津を奪おうと兵を動かすかもしれない。
“何も悪いことはしていない”長野は反発するだろう。身を守ろうとするのは当然だ。
果たして北畠は、本気の武家の抵抗にどう反応するか。
いつものような態度だと、その手ははねつけられるぞ。
長野は、これからも銭を生み続ける湊を、絶対に手放しはしないだろう。
「鈴鹿路へも、商人を呼び込もうと思うております」
承菊は非常に楽しそうだった。
庵原への復讐だけに心血を注いできた男が、他に何かを見つけることができたのなら、喜ばしい事だ。
「……好きにやれ」
言ってしまってから、承菊の目がキラリと光ったのを見て、少しだけ後悔した。
鈴鹿峠は畿内へ通じる要路だ。そこを往来する商人が増えれば、伊勢の商いはさらに活発になるだろう。
だが、その荷が向かう先もまた安濃津だ。
伊勢神宮への参拝者は減らないだろうから、すぐには気づかない。だが確実に北畠の財布は痩せる。
気づいた時、隣で肥え太った長野家を見て何を思う?
「実に楽しみです」
孫九郎は、聞こえなかった振りをした。
承菊は気にせず、クツクツと笑い続けた。
きらびやかな正装を身にまとい、一糸乱れぬ隊列が進む。
それはかつて、朝比奈軍が上洛した時と同等の、いやそれ以上の見事なものだった。
摂家の姫にふさわしい格をと孫九郎が命じ、それを聞いた今川家の重臣たちが競って飾り立てた。
ちなみに、連中が飾り立てたのはそれそれ自身の身の回りであり、姫君の行列に加わっても見苦しくないよう整えた、というのは自称。
もちろん孫九郎は一条家の方々にふさわしい支度をしたのだが、結果出来上がったのは、国内を移動するだけにしては目を見張るほどの大軍で、張り切った家臣たちの身なりも、さながら今日が自身の婚姻であるかのような見事さだった。
孫九郎はあきれて、ぴかぴかに磨き上げられた鎧兜の井伊殿を見た。
護衛も兼ねて、駿府まで来てくれるそうだ。
孫九郎は直垂姿だ。久々に烏帽子もつけた。……正直、頭が痛くなるので外したい。
「三河を離れてよいのか」
孫九郎の問いに、井伊殿はニカリと白い歯を見せながらぐっと親指を立てた。
最近孫九郎の周辺で流行っているゼスチャーだ。……教えるんじゃなかった。
「まだ結納もしておらぬし、婚姻は当分先なんだが」
「よいではございませぬか、これで一条様もなかったことにはできませぬ」
なんだと。この行列は寒月様への牽制だったのか?
孫九郎はまじまじと井伊殿を見上げた。その磨かれた前立てには、ぽかんと口をあけた間抜けな表情の己が映っている。
「伊勢志摩のことも、しばらくは静観です」
井伊殿はかわらず、ニコニコと上機嫌で言った。
「承菊殿もおりますし、愚息らもおります。急変があったとしても、数日なら持ちこたえます」
「……それは駿府から船で移動する前提ではないか」
孫九郎は腹部を押さえてげんなりとした。