作品タイトル不明
13-7 三河 渥美半島 渥美半島 高師2
「あにじゃ!」
張りのある元気なその声に、笑みがこぼれる。
掛けてくるその姿は、少し前までのやつれた少年のものではない。
「姉上様がひどいのや、麿の毬をくれとゆうのや」
「万千代殿!」
ぱたぱたと、軽い足音。
現れたのは、上気した頬の愛姫様。
「……あにさま」
愛姫様は真っ赤な顔で、きょとりと周囲を見回した。
孫九郎の背後には、井伊殿や承菊、側付きはもちろん護衛たちもいる。誰もがまだ泥がついた、汚れた身なりのままだ。
大人たちは如才なく、膝をついて頭を下げる。
愛姫様は狼狽した様子で立ち尽くし、さっと片手で頬の傷を隠した。
「申し訳ございませぬ」
孫九郎はそう言って、顔に当てた手をそっと握った。
「まだ戻ったばかりで、身なりも整いませず」
「あにじゃ、きいてたも」
元気な万千代君の声が響く。
「姉上様が」
「万千代殿!」
真っ赤な顔をした愛姫様が、むっと唇を突き出して声を張った。
「そ、そのようなことは言わずともよいのや!」
なんだなんだと姉弟を交互に見る。
愛姫様はぱっと身を翻し、万千代君の手を掴んだ。
背けたその顔は、耳の後ろまで真っ赤だった。
「おじいさまが、お話しがあると仰っておりました」
「はい。あとでお伺いいたします」
弟を引き連れ、風のように駆け去っていくその姿は、公家の姫というにはアグレッシブだ。
だがそれは、かつてのお転婆な愛姫様を知っている孫九郎にとっては、ようやく調子が戻ってきたなと安心できる要素だった。
「御屋形様」
くすくすと小さく笑う声と同時に、聞き慣れた男が姿を見せた。
「藤次郎」
相模から別行動をとっていた三浦藤次郎だ。
引き上げる者たちを連れ、駿河まで帰還するよう命じてあった。
「そういえば昔、廊下を転がるように走っておられました」
そうだった。急カーブして部屋に入り、控えていた藤次郎の頭に打掛の裾がかぶさったこともあった。
たぶん……いや絶対に、愛姫様は思い出してほしくないだろう。
だが側付きたちにとって、その思い出は悪い方には働かないはずだ。
孫九郎は思い出して、少し笑った。
「女童の頃だ」
「お変わりないようで安心いたしました」
そうだな。
あれからいろいろとあった。順風なお暮らしではなかっただろう。
それでも変わらない万千代君とのやり取りを見て、胸のつかえが少し緩んだ。
「万千代君の毬を、愛姫様がご所望されたそうで」
「毬? 先ほどもそんな話をしていたな」
「御屋形様と楽しまれた、鍛錬用の蹴鞠だとか」
「姫がご所望なのか?」
蹴鞠の毬を? お世辞にも美しい装飾の品ではなく、蹴飛ばしてボコボコになったやつだが。
「良いものを見繕って差し上げよう」
色とりどりの絹糸で巻かれた毬は、朴念仁の孫九郎の目にも美しい芸術品だ。
得心しながら頷くと、藤次郎は苦笑しながら首を振り、気のせいでなければ背後の連中がため息をついている。
「道中はどうであった」
なんとなく分が悪い気がして、しばらくそばを離れていた男に問いかける。
「雨で足止めを食らったりはしなかったか」
「それはございませんでしたが、朝比奈様と行き会いました」
「ほう」
年に数度しか顔を合わせることがない男だが、信頼がおける駿東の守護者だ。
そして、信濃への派兵にも同行していた。
なにぶん距離があるのと、孫九郎の移動が多いのとで、信濃の続報は聞いていなかった。
悪い状況ならすぐにも知らせが届いているはずだから、何もないのが無事の知らせだ。問題ないはずだ。
「太郎殿と幸姫様が大げんかをなされたとか」
孫九郎は首を傾げ、微妙な表情をしている藤次郎をまじまじと見上げた。
「幸が?」
幸は駿府にいたはずだ。
「……太郎殿と?」
そして武田太郎殿は甲斐。
初対面から相性が悪すぎる二人だが、距離をおいて揉めるほどの仲ではない。
「はい。お葉の方の病状優れず、夏を越えることができるかわからぬと医師に言われたそうで」
久々に藤次郎の顔をみて、どこか浮ついていた孫九郎の心が沈んだ。
春になる前から、幸松と幸の母親であるお葉の方が病に臥せっているとは聞いていた。
「そんなに悪いのか」
「戦場に出ているのだから、知らせる必要はないと、最初は幸姫さまも仰っておられたそうです」
だが、志郎衛門叔父上に説得されて、渋々信濃へ向かったのだそうだ。
「待て、叔父上にそう言われたのか?」
「はい」
「幸が直接知らせよと?」
「……はい」
藤次郎もおかしいと思っていたようで、若干返答が遅れる。
幸は武家の娘だし、馬で掛川から駿府まで来るほど、いわゆる“姫”と呼ばれる奥向きの女性たちよりは活発だ。
だからといって、今川家の領地の外に出すのはどうなのだ。
もちろん護衛は付けただろう。安全にも配慮しただろう。
それでも万が一はある。
……何かあると思うのは、気のせいだろうか。
孫九郎はもはや福島家の者ではなく、直接問いただすことに遠慮がある。いや聞けばいいと思う。今目の前に志郎衛門叔父がいるなら、そうしていただろう。
だが掛川城とは、遠慮が疎遠につながりかねない程度には距離があった。
孫九郎はちらりと、一条家の姉弟が消えて行った屋敷の奥を見た。
状況が落ち着いたら、寒月様含めお三方を連れて今川館に戻るつもりでいた。
土方には数日滞在することになるだろう。
「……叔父上の顔を見に行くか」
その間に、掛川城に行こう。