作品タイトル不明
13-6 三河 渥美半島 田原城~高師2
小川のせせらぎの音がする。いやせせらぎというには大きい。
昼前までの雨のせいで、水量が多いのだ。
孫九郎は濁ったその流れに近づき、川べりの岩に腰を下ろした。
「この度は格別のご高配を賜り……」
丁重な謝礼から始めようとしたので手を振り、護衛の向こう側に膝をついた忍びの男に目を向ける。第一印象は若干くたびれた風な商人。年のころは三十ほど。
会ったことはないと思うが、相手は忍びなので断言はできない。
「名は」
問いかけると、顔は伏せたまま若干間があいた。
「名は何と申す」
「……猪熊と」
猪熊? 細身の男にしては、ものすごく強そうな名だな。
実際に強いのか、はたまた親がつけたのか。そんなことを考えながら、頷きを返す。
「支度は整ったか?」
「はい。既に二十名……到着している者もおります」
三河で、隠れ里というには堂々と腰を据えた風魔忍びに依頼を出した。
三か月で土佐に侵入し、内情を探れと。
一条家だけではなく、周辺諸国、あるいは大内家にも。
周辺諸国や大内家に関しては、深入りはしなくてもよい。ただし、土佐一条家への出入りだけは目を光らせるようにと。
たっぷりの資金と、裁量を与えた。
北条家に戻った連中のほうが手練れなのだろうが、残った者たちが役に立たないわけがない。
商人に紛れ、船乗りに紛れ、あるいは僧侶に紛れて、諜報に向かうと返答があった。
それが十日前。
「村のことは心配せずともよい。責任をもって守る」
「はい」
「 三月(みつき) のうちに、なにがしか動く。こちらからの知らせを待て」
「はい。かしこまりました」
孫九郎は頷き、弥太郎に目配せをした。
弥太郎が預けてあった書付を懐から取り出し、猪熊に手渡す。
「土居侍従に会えた場合に伝えよ。今川治部大輔が愛姫様を正室として娶ると。書付は中納言様に。余人の手にわたったとて、知られて困るようなことは書いておらぬ」
ふと、土居侍従の嫡男、小次郎殿の顔が脳裏に浮かんだ。
八雲ともども海に消えた。無事だとは思えない。
同じように、目の前で平伏している猪熊も、命を懸けて諜報に向かうのだ。いや猪熊だけではない、彼の同胞たる女子供も含め、働き手はすべて出ると聞いている。
「必ず戻れ」
孫九郎は強く言った。
「戻ってくるのが、最も重要な務めだ」
猪熊は、それに返事はしなかった。
ただもう一度深く頭を下げて、商人らしい足取りで下がっていく。
孫九郎は黙って見送った。背中が見えなくなってもなお、藪が揺れるのをじっと見つめる。
やがて目を伏せ、小さく息を吐いた。
「主力がおらぬ時に厳しいか?」
弥太郎はしばらく黙り、首を横に振った。
「無理だと思うなら受けてはおりますまい」
「そうだな、できると言うた」
「ならばそうなのでしょう」
弥太郎の声は平坦だった。孫九郎はそれを、正しく受け取った。
楽な仕事ではない。命を落とす危険もある。
だがそれが、忍びの務めだと。
手を洗いに行くといって出てきたが、濁った水に手を入れる気にはなれない。
孫九郎はひと息ついて、立ち上がった。
「北畠のほうはどうなっている」
弥太郎らは伊勢志摩に注力している。こちらも人を入れた。
孫九郎はこの時代の人間以上に、情報が重要だと知っている。
「目立った動きはございません。ただ」
孫九郎は護衛の脇を通り抜け、歩きながらちらりと弥太郎を見上げた。
「北畠家と細川京兆家は姻戚関係にあります。御屋形様をあしざまに誹っていたという噂が」
悪口ぐらいどうということはない。国境を接しているあらゆる国で、恨みを買っている自覚はある。ただ……同じ公家の一条家と敵対する理由は? いや公家同士だからこその政争なのか?
「……大内家、京兆家、北畠家か」
すれ違いざま呟きを落とし、あとは黙々ともと来た道を歩く。
大きな動きが起こっているのはわかる。だが詳細が見えてこないのが不気味だ。
果たして凌げるだろうか。
……いや、なんとしても乗り切らなければならない。
「では参りましょう」
井伊殿が元気にそう言って、ぬかるんだ道を歩き始めた。
倒木を道から退けたが、土は泥になって続いている。
先を行く者たちの草履が、湿った音を立てて沈む。場所によっては踝まで。
孫九郎はしばらくそれを見送ってから、慎重に足を踏み出した。
脚を悪くしてはいけないので、馬は乾いた場所まで引いていく。
油断したら、人間も足を挫きそうだ。
夏の日差しが降り注ぎ、肌がジリジリと焼ける。
笠が必要だなと、容赦なく輝く太陽を見上げた。
今回はそれほどの災害ではなかったので、人的被害は出なかった。
だが、崖を崩すだけで道はふさがり、物流はとまる。
さらには足元がこれだけ悪いと、進軍速度は大幅に遅くなる。
この時代の不自由さは身に染みてわかっていたはずなのに、あらゆるところで何度も実感させられた。
もはや遠い記憶のはずなのに、分刻みの電車が当たり前だった感覚が、まだ残っている。
混まなければ車で数十分の距離が、こんなにも遠い。
「ぬかるみを出たところで、一度馬を休ませましょう」
土井が不満そうに足元を見ながら言った。
この時代の人間でも、不便は不便、不快は不快なのだ。
「日が沈むまでに高師に着くのは無理そうですね」
孫九郎は足元だけに集中して、返事はしなかった。