軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

13-4 三河 渥美半島 田原城4

鈴木らの足音が廊下の奥へ消えていった。

しばらく、誰も口を開かなかった。

雨は変わらず降り続いている。激しさは落ちたが、庇を叩く音はまだやみそうにない。

井伊殿が、大きく息を吐いた。

「……なかなかの男でしたな」

「はい」

承菊が、すっと背筋を伸ばす。会談中と変わらぬ涼しい顔だが、その肩からわずかに力が抜けているように見える。この男にも、気が張るということがあるのだろうか。

「内容はともかく、何かを知っていることは確かでしょう。虚勢には見えませんでした」

孫九郎は、鈴木が消えた廊下の先を見ながら、問いかけた。

「使えるか?」

「それは、あちらが立場を決めてからの話です」

「決めると思うか」

承菊は少し考えてから、口元だけで笑った。

「どちらにせよ、一筋縄ではいきそうにない男です」

雨音を背景に、二の丸広間の沈黙がしばらく続いた。

その場の誰もが、それぞれに思いを巡らせている。

孫九郎は視線を感じて真横を見た。

慌てて目を逸らされたが、背の高い戸田がこちらを見下ろしていたのがわかった。

……そりゃまあ、見はするだろう。状況も詳しくは知らせないままだったし。

「志摩衆はどうされますか」

井伊殿が組んでいた腕を解きながら言った。

孫九郎は上座に顔を戻し、瞬き数回分の間思案した。

「打算があったからにせよ、三河まで出向いてきたことは評価する」

だがあの者たちは、英虞衆よりもなお、距離的に北畠家に近い。

今川におもねる態度を見せたとしても、同じ顔を北畠にも向けるだろう。

「戸田殿のご意見は?」

井伊殿に話を振られ、戸田は目に見えて狼狽した。

しばし口ごもり、ひとつ深呼吸してから答える。

「三河の海賊衆はこれまで、伊勢湾の三河側のみで運行しておりました」

清水港を持つ興津家のように、戸田にも自前の水軍がある。といっても興津家ほど組織立ったものではなく、もとは渥美半島の漁師や荷運びたちをやんわりとまとめたものだ。

「神島から大湊の航路を使うことができるのなら、当家にとってありがたいことです」

「それは交渉しましょう」

承菊がにこやかな口調で請け合った。誰もが当たり前のように頷いている。

……大丈夫か? 志摩のことを任せる気ではいたが、こいつの“交渉”は結構なものだからな。

また大ごとになるのではないかと迷ったが、口を挟むのはやめておく。

伊豆の支配の時もそうだったが、裁量でまかせると非常にうまくやる男だからだ。

「志摩衆も熊野衆も、次に何を話して来るかで腹の色が見えます。こちらの態度は見せました」

見せたというか、非常に強い釘打ちだった。現に、鈴木以外は禄に口も利かずに帰った。

このあと額を突き合わせて相談して、今後どうするかの話し合いをするのだろう。

……結論は出ないと思うが。

「急かす必要はない。ただ、いつまでも待つわけにもいかぬ。頃合いを見て、こちらから使いを出せ」

それだけ言って、孫九郎は雨の庭へ目をやった。

あの男たちは今頃、この雨の中を帰っているのだろう。来た時と同じように葦原をかき分け、小舟で。

……ずぶ濡れだろうな。ご苦労なことだ。

風邪などひきそうにない面構えだったから、何ということはないだろうが。

「何を考えておいでですか」

少し笑ってしまったことに気づいたのだろう、承菊が小さく首を傾けた。

孫九郎はふっと、己の口角が笑みの形に緩んでいることに気づいた。

「別に」

広間中の視線を浴びて、口元を隠す。

「顔に出ております」

孫九郎は答えなかった。井伊殿が肩を揺らして笑うのが、視界の端に見えた。

雨が上がったのは、昼を少し過ぎた頃だった。

空はまだ重く曇っているが、風が出てきた。湿った空気が、少しずつ動いている。

田原城を出た。

門前は、ひどいぬかるみだった。朝からの豪雨が地面をすっかり緩め、草履で踏み出すたびに足が沈む。護衛の誰かが板を渡そうとしたが、孫九郎は手で制した。そのまま歩いた。

「御屋形様」

見送りに出た戸田が、丁寧に頭を下げた。

直垂に烏帽子、きっちりと整えた姿は、朝からまったく乱れていない。

雨上がり、既に気温は上がり始め、蒸し暑いのに。

「邪魔をしたな。礼は改めて」

「恐れ入ります」

儀礼的な言葉が返ってくる。付き合いが長いわけでもなく、腹を割った仲でもない。戸田もそれをわかっていて、過不足なく丁寧にしている。

先代の頃、今川は三河へ兵を向け、この男は敵方にいた。そんなかつてを知る年齢だ。周囲がすべて今川領になったから従っている。

孫九郎は向かいに立つ戸田の顔を見上げた。

その表情が一瞬だけ変わった。驚きとも、戸惑いとも取れる顔だった。

目の前の孫九郎の姿に、別の誰かを見たのかもしれない。かつての敵の、その面影を。

「しばらくは高師の屋敷におる故、何かあったら参れ」

「は」

孫九郎の言葉に、戸田は言葉少なく頷いた。

「次に会う時には、もっとくつろいだ格好でよい。井伊殿のように」

「それはなんですか、ワシがだらしないということで?」

明朗な井伊殿の反応に、戸田は当惑したように言葉に詰まった。それから、かすかに口元を動かした。笑ったのかどうか、判然としないが。

孫九郎は声に出して笑いながら踵を返した。

今日は船ではなく陸路だ。ぬかるんだ地面を踏みながら、門を出る。

背後で、戸田衆が一斉に頭を下げる気配がした。