作品タイトル不明
13-2 三河 渥美半島 田原城2
雨の音がひと際大きく響いた。
続く沈黙のあいだ、息を詰めていた者は何人いただろう。
「国司がそう仰せだ」ではなく、「許すまい」……だ。大きく出たようでいて、言い切ってはいない。
孫九郎は伏せた視線の先で、鈴木孫一が大きく息を吸う音を聞いた。
この状況で、呼吸を止めず、荒げず。……胆力がある男だ。
だが、その態度がどう受け取られるかを、見誤ってはいないか。
「左様にございますか」
承菊が静かに言った。いつものあの、初見殺しのにこやかな口調で。
「では鈴木殿は、国司様の御内意を預かっておいでですか」
そして、言葉で刺した。
国司……つまり北畠だ。熊野もその勢力下にあるという意思表示なら、こちらも動きを考えねばならない。
鈴木の呼吸が、そこで初めて乱れた。
息を止めたわけでも、荒げたわけでもなく、その肺が大きく二度、忙しなく動いた。
「そこまでは申しておらぬ」
少しだけ顎を上げ、広間の上座に座る承菊を真正面から睨み据える。
「だが志摩は国司様に従っている。今川家が介入するのは」
「鈴木殿は国司様の被官でございましたか」
間を置かぬ承菊の詰問に、鈴木はむっと唇を引き結んだ。
北畠の名を出すが、家臣とも使者とも名乗らない。ずいぶんと都合のいい口を利く。
「某はただ、あとで知らなんだでは済まぬ立場におりますゆえ、顔を出したまで」
「なるほど」
承菊は柔らかく微笑んだ。
もはやその笑みを、好意と受け取る者はいない。
鈴木は身構え、承菊は構わず続けた。
「知らなんだでは済まぬ……ですか。まこと便利なお立場にございますな」
「海では勝手は通らぬ」
「それは陸でも同じでございますよ」
承菊がわずかに声を弾ませた。鼻で笑ったようだと感じたのは、孫九郎だけではないだろう。隣の戸田が居心地悪そうに身じろぎ、井伊殿がにやりと唇をゆがめる。
「そちらの方々もです」
承菊はそこで、鈴木の後ろで息を殺していた志摩衆へ目を向けた。
「英虞衆と九鬼殿を抜きに、皆さまお揃いで」
一斉に血の気が引く音まで聞こえる気がした。取り繕うこともできず、慌てて居住まいを正している。
孫九郎はとうとう辛抱できずに噴き出し、咳払いで誤魔化した。
慌てて口を押えたが、承菊も志摩衆も、そろってこちらに顔を向けた。
そこで初めて、鈴木が気付いた。
面識はないので、すぐにはわからなかったのだろう。だが孫九郎の年齢はよく知られている。そこから連想するのは難しくない。
鈴木の顔色は変わらなかった。
ただ、こめかみに汗が伝うのが見えた。
「英虞の不始末は、英虞だけのものにあらず……と、思うたまでのこと!」
その何とも言えない間に耐えかねたのか、志摩衆のひとり、神島でも見た顔の男が、場違いに大きな濁声で発言した。左右の男たちがびくりと震え、とっさに耳を押さえたぐらいの大声だ。
「なるほど」
承菊も口元に手を当てた。
「不始末を共に負おうとは、殊勝でございますな」
「……ち、ちが」
「なかなかできることではございませぬ」
一条家の若君を人質に取り、一線を越え、今川の返り討ちにあった。起請文まで入れたのは英虞衆だ。
他の志摩衆も熊野衆も、本来なら英虞のしくじりを見て、空いた海をどう食うか考える側だろう。
それがこうして雁首を揃えた。英虞の代わりに、今川が入ってくることを警戒しているのだ。
孫九郎は笑いをおさめ、真顔を保った。
今川の水軍を英虞湾に入れるつもりはない。航路の安全が確約されればそれでいい。
だがそんなこちらの思いは、微塵も理解されていなかったようだ。
「我らまで割を食うのは、筋が違う」
大きく首を振った別の志摩衆が、意を決した口調で言い放った。
「ほう」
承菊の口元は、非常に感じのいい笑みを浮かべたままだ。
「不始末を共に負うつもりはないと?」
鈴木がすかさず口を挟んだ。
「和具ひとりのやらかしで、熊野の海すべてを決められては困る」
「英虞衆とともに沈む気はない、利は寄越せと」
承菊は、歌うような軽やかな口調で、随分とストレートに言った。
「つまり、こう仰りたいわけですね」
座が静まった。
詫びだけなら、ここまで面子は揃わない。
九鬼が英虞湾を抑え、今川の庇護に入れば、旨みはそちらへ流れる。そう思ったからこそ、雁首揃えてここに来たのだろう。
乗り遅れれば外される。誰がふるい落とされ、誰が残るか……落とされる側には立ちたくない。
そんな思惑が透けて見える。
「まあ、それほど心配せずともよい」
唐突に口を挟んだのは、井伊殿だった。
最上座で一連のやり取りを眺めていたが、とうとう宥め役の出番だと思ったようだ。
「御屋形様は、志摩の海を焼き払いたいわけではない」
その意図して作られた明朗な口調に、ひとり、ふたり、息をついた気配がした。
誰も動かない。雨音だけが、庇を叩く。
「ええ、ですが」
さほどの間を置かず、再び承菊が口を開いた。
「若君を人質に取った一件を、海辺によくある荒事のひとつとして流すなど論外」
井伊殿の取り成しに気を緩めたからこそ、客人たちは顔が引きつるのを隠せなかった。
「誓紙が入ったのは、英虞衆が愚かだからではありませぬ。越えてはならぬところへ、手を掛けたからです。そこを取り違えられては困る」
あまりに穏やかなその口調に、かえって誰も口を挟めなかった。
「もちろん、"話し合い"ができる方まで遠ざける気はございません」
そこで一度、言葉を切る。
「ご自分がどちら側に名を連ねるおつもりか、それだけは、よくよくお考えを」
伊勢国司北畠家につくか、今川家につくかの選択だ。
選べと言ったわけではない。だが、今川側につかぬのなら"外す"という宣言でもあった。
「脅しか」
「いいえ」
鈴木が、じっと承菊を見た。怒った顔ではない。
承菊も鈴木を見る。好意的に見えなくはないが、この場の誰ひとり、そうは受け取るまい。
「先のことを申し上げているだけにございます」
広間に落ちた沈黙は、もはや雨音より重かった。
鈴木も、志摩衆も、次の一言を選びかねている。
孫九郎は黙ってそれを見ていた。
さて……ここから誰が腹を見せる。