作品タイトル不明
12-8 志摩 神島8
あのあと少し眠った。
目覚めた時には周囲はもう明るくて、夜番から昼番に護衛が変わっていた。
すっかり体調が戻った次郎三郎に手伝ってもらって、身支度を整える。
食欲はないが出された握り飯を食べるか否かで迷っていると、開け放たれた部屋の外で動きがあった。
さりげなく握り飯をわきによけ、白湯を手に取る。
弥太郎がいないので、薬湯がない。あの苦さがないと心もとない。
そんな事を考えていると、ざわざわと騒ぎが大きくなってきた。
「申し上げます」
しばらくして、小姓が庭先に駆け寄ってきた。
「沖合に船が」
「どこの船だ」
土井の問いかけに、小姓は口ごもる。
立ち上がった土井は駆け足で、己の目で確認しに行った。
「英虞衆の件、どうなるでしょうね」
次郎三郎が遠ざけた握り飯をもう一度孫九郎の前に押し出す。
孫九郎はちらりと日焼けした次郎三郎の顔を見た。
夜にはいなかったはずなのに、まるで何があったか知っているかのような口ぶりだ。
きっと申し送りで聞いたのだろう。
孫九郎は昨夜のことを思い出し、気恥ずかしくなってきた。
何が「英虞衆に任せるつもりはない」だ。
志摩は今川家の領地ではないし、英虞衆は家臣ではない。口にするのは早計だった。
この分だと、井伊殿や承菊の耳にも届いているだろう。
早まったなと思いつつ白湯をすする。
「なるようになる」
次郎三郎はじっと孫九郎の表情をうかがってから、「そうですね」と、何かに納得したように頷いた。
「九鬼が失敗したとしても、他の海賊衆が英虞湾を取ることはないでしょう」
最近鋭い見識をみせる次郎三郎が、床に置いた握り飯の盆を手に持って、直接孫九郎の膝上に差し出した。
太陽が高くなる頃、井伊殿と承菊が戻ってきた。
何故か、英虞湾方面から。
ふたりともほくほくと上機嫌で、小舟から下りる足取りも軽い。
「どこへ行っていた」
孫九郎が問うと、ふたりはそろってニヤリと笑った。
外面はよくとも実際は癖のある承菊だが、勘助や井伊殿のような頭を使う奴とは気が合うのかもしれない。
「いやあ、まれにみる良縁です」
「まことに」
良縁?
さっぱり状況がわからず、回答を求めて二人の背後を見るが、船頭役をしていた九兵衛は引きつった顔で笑うだけだ。
「英虞湾に行っていたのか? 何をしに」
あくまでも志摩は北畠家の勢力下だ。介入するなら孫九郎に伝えるべきではないのか。
そう言おうとして、昨晩それらしきことを口にしたのを思い出した。
え? まさかもう動いたのか?
孫九郎の言葉は夜が明ける前に二人に伝わり、昼にはもう一仕事終えたというのだろうか。
「ご安心を、片付きました」
承菊がにこりと眩いばかりの笑顔で言った。
「九鬼と越賀の娘との縁組みを整えてまいりました」
「……えっ」
越賀というのは確か、英虞湾の、和具と争っていたもう一方顔役だ。
「和具の奥方の姪だそうで、なかなかよい嫁御でございます」
「御屋形様が仲を取り持ったという形にしております」
英虞湾で再び水軍が起ったわけではないのか? 九鬼が「たすけて」というのは、まさか嫁取りのことだったのか? ……そんな馬鹿な。
孫九郎は何をどう聞けばいいのかわからず、交互に二人を見た。
どうやら、心配していた事態にはならなかったようだが、それはそれで消化不良な結末だ。
いや、戦にならなくてよかったと考えるべきだろう。
「……では、終わったのか?」
「はい、当面は」
承菊は「ふふふ」と、背筋がぞわりとする含み笑いをしながら頷いた。
井伊殿もニヤニヤと、あの意地の悪い顔で笑っている。
……どう見ても、何かよからぬ仕掛けをしてきました、と顔に書いてある。
孫九郎は内心で覚悟を決めた。後始末が必要だと確信したからだ。
「正直に言え。何をしてきた」
二人は顔を見合わせ、今度は井伊殿が口を開いた。
「熊野牛王の起請文を書かせました」
孫九郎はぎゅっと眉間にしわを寄せ、うんうんと頷いている二人に「頼むから事前に相談してくれ」と内心で懇願した。
広げられた紙を見て、孫九郎は思わず息を止めた。
薄茶けた硬い和紙だった。
だが、ただの紙ではない。表には黒い鳥が無数に群れている。
いや、鳥ではない。近づいて見ると、一羽一羽が崩れた文字だ。
羽を広げた烏のような形が、紙面を埋め尽くしている。
その間に、朱の印が禍々しいほどの鮮やかさで押されていた。
紙そのものに、呪が封じられているように見える。
文字とも違う。絵とも違う。経文をばらばらに砕いて鳥へ変えたような、不気味な文様だ。
長く見ていると、紙の黒がじわじわと指先へ染み込んでくるような気がした。
孫九郎は呼吸を整え、紙を裏返した。
裏面には、表の異様さとは打って変わって、太い墨文字が並んでいた。
一、御船手の船筋、英虞湾にて妨げ申すまじき事
一、敵方へ兵糧・鉄・武具・材木など渡すまじき事
一、湾内にて狼藉働きし者、隠し置くまじき事
約定は三つ。だが問題は次だ。
若し違背に及ばば――
そこから先には、熊野三所権現、那智山権現、伊勢大神宮、日本国中大小神祇と、神仏の名が息苦しいほど並べ立てられていた。
破れば罰が下る。
そう書いてあるだけなのに、墨の奥からにじみ出てくる威圧感が肝を冷やす。
文の最後には連名。英虞衆の、主だった者たちの名だ。
その下に据えられているのは花押だけではない。黒ずんだ血判。人の血だ。
ある者は指を押し当て、ある者は爪で引っ掻くように筋を残している。
それはまるで、海そのものへ差し出す詫び状のように見えた。
孫九郎は隅々まで目を通して、長くため息をついた。
これは降伏状ではないのか。
どこにも今川家という文字はない。
だが誰もの念頭に、その名があっただろう。
つまり今川家は彼らの従順を引き受ける代わりに、彼らを庇護する義務を負う。
……そこまでするつもりはなかったのに。
いまさら、そんなことは言えなかった。