軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

1-10 駿河 今川館2-7

「兄上様! 兄上様!」

可憐に揺れる鈴のような声。

振り返ると、少し前に見た幸の笑顔がそこにある。

夢だ。すぐに分かった。何故なら幸は、太郎殿としっかり手をつないでいたからだ。

二人はまるで姉弟のように……いや、似合いの初々しいカップルのように見えた。

「うっ」と思わず声をあげてしまったのは、兄としての気まずさだ。

夢だとわかっていても、居たたまれない気持ちは拭えない。

「小さな鯉に、茜と名付けました!」

「う、うん。そうか」

夢の中の幸は、無邪気に鯉に名前を付けたと教えてくれた。それがまるで、別の意味を示唆している気がして、「いやまだ早い!」と言いたくなる。

だが互いに目を見交わし、幸せそうに微笑み合う姿を見ていると、まるでそれが必然なような気がしてきた。

目が覚めたのは、まだ日が昇り切っていない早朝だった。

「無理だろう」

起き抜けにそう突っ込みを入れた孫九郎に、「はい?」と問い返してきたのは宿直の南だ。

孫九郎は、何でもないと首を振った。

夢の中では仲良く見えた二人だが、実際の相性は悪い。まともに会話が成立した様子もなかった。

それなのに何故あんな夢を見たのだろう。

幸は孫九郎の妹だが、今川家の血を引いているわけではないので、太郎殿の正妻候補にはならない。福島家の側室腹という出自では、身分的にも及ばない。

もし本当にふたりが思い合っていて、結ばれたいと相談されたのなら取れる方法もあるが……

「……ないな」

しばらくの思案の末、そう結論付けた。

そうこうしているうちに、孫九郎の目覚めにあわせて周囲が動き始める。

夜番と昼番が交代し、小姓たちが身支度のために動き回る。

やがて閉ざされていた襖があき、障子に取り替えられ、籠った熱気にするりと早朝の風が吹き込んだ。

「御目覚めでございますか」

側付き筆頭の三浦藤次郎が、いつものようにきちんとした身なり、端正な所作で礼を取りながら挨拶をする。

濡れ布巾で顔を拭い、夜着から直垂に着替え、髪を結いなおすのは小姓の仕事だ。

藤次郎は厳しい目で彼らの動きを監視しながら、本日の予定をそらで読み上げていく。

分刻みというほどではないが、隙間のない時間割だった。これをもとに警護班が動くから、勝手な真似はできない。

今日もまた、今川館の中だけで執務のようだ。北条からの忍びの件もあるから、やむを得ないことだ。

そこまで考えたところで、「……北条か」と無意識のうちに呟いていた。

つらつらと細かな連絡事項を告げていた藤次郎の言葉が途切れる。

孫九郎はそれに気づいて顔を上げ、周囲からの視線が集まってきていることに気づいた。

意図した呟きではないから、何故見られているのかわからず首を傾ける。

藤次郎ははっとした様子で咳ばらいをして、再び報告を始めた。

その時はそれだけだったのだが、妙に視線を浴びる日だった。

悪意あるものではない。……ご飯粒でも顔についているのか? 寝ぐせとか?

「違いますよ」

しきりに口の周りをさすっている孫九郎を見て、笑うのは弥太郎だ。

薬湯の湯呑を下げるふりをして顔を寄せ、耳元で囁く。

「とうとう北条への生殺しをやめる気になったのかと、皆が浮足立っております」

な、生殺し?

言われていることの意味が分からずにぎょっとすると、如才ない公務員のような顔をした忍び頭がくすくすと含み笑った。

その時にはすでに、起き抜けの独白のことなど覚えていなかったので、いったい何故そんなことになっているのかさっぱり分からなかった。

執務室に向かって、どたどたと複数の足音が近づいてくる。

速足のいくつかと、特徴的な義足の音だ。

孫九郎はその時になってようやく、長綱殿の策略について考えたことを思い出した。

執務室は、広めではあるが広間と呼べるほどではない。

主だった家臣、孫九郎が信頼する者たちが雁首を並べれば、ぎゅうぎゅう詰めで手狭だ。

だが誰もが文句を言わず、上座下座で揉めるわけでもなく、到着した順に詰めて神妙な顔をして並ぶ。

孫九郎は脇によけられた文机に未練の目を向けてから、仕方がないと脇息に肘を乗せた。

「集まれと言うたわけでもないのに、こういう時には息があっているのだな」

「……面白い話を小耳にはさみました故」

ニマニマと、傷だらけの悪相を歪めているのは勘助だ。

集まってきたのは今川館詰めの武官と文官が半々で、そのほとんどが中小の国人領主あるいはその子らだ。

孫九郎が内政を重視するワーカ―ホリックなので、近年今川家における文官の地位が高まっている。当主あるいは嫡男が戦働きを主とするなら、次男は今川館に出仕するなど、これまでにない働き方が当たり前になっていた。

そして実力主義がいきわたりつつあり、優秀な文官はかつてないほど引っ張りだこの大人気だ。

大きな顔をして孫九郎の近くに座を占めている勘助をはじめとして、多くは本来身分が足りずに今川館の主殿にも上がれない者たちだった。

実力でここまで来た者たちは武官も文官もなく「できる男」の顔をしていて、そういう奴らから一斉に見つめられると尻が落ち着かない。

「北条を攻めるとか」

そう言って笑う勘助を睨んで「そんなつもりはない」と言ってやろうとしたのだが、周囲からの熱烈な凝視に開けかけた口を閉ざした。

「確かに、北条殿が倒れた今が好機。余計な真似をする坊主は、伊豆の妖怪に対処させましょう。坊主は坊主同士、うまくかみ合うはずです」

もう何年も直接見ていないが、長綱殿は相変わらず童顔で年齢不詳だろうか。

最後に今川館で出会った時のことを思い出し、あまり楽しい記憶ではなかったのでもう一人の「妖怪」の顔を思い浮かべ、想像の中でにっこりと晴れやかな笑顔を返されて辟易した。