軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

前編

わが国の騎士団の精鋭二人が、治癒士の少女マリアンテを中心とする三角関係を作っているというのは、王宮では当然の常識だった。

治癒士、マリアンテ・リリベルは十八歳。容貌可憐な心優しい少女で、いつもにこやかな笑顔で周囲を癒す人気者。

そんな彼女を巡る男はヨシュア・カレンデュラとハル・シオニア。

二人とも騎士団の「双璧」と呼ばれる優秀な騎士で、ヨシュアは堅物、ハルは軽薄と気質は真逆だったが、女の好みは同じだった。

マリアンテが王宮の治癒室で当直にあたる日には、いつも治癒をしてもらいにやって来る。

そう、今日も——。

■ ■ ■

治癒室の扉が大きな音を立てて開いた。

「マリアンテ、治癒を頼む」

堂々とした足取りで入ってきたのは騎士服をまとった若い男だった。黒髪に黒い瞳の端正な顔立ちに、見上げるほどの長身。妖魔討伐において騎士団の双璧をなすと謳われるヨシュア・カレンデュラだ。カレンデュラ伯爵家の次男である。

ヨシュアは十ほどの寝台が並ぶ治癒室を見回し、そのうちの一つに目を止めた。そこに腰かけたこちらも騎士服の若い男が、ニヤリと笑いながら手を振った。

「やあヨシュア。悪いけどマリアンテは今、俺を治療してくれてる。あとにしてくれるかい?」

金髪に翠瞳、お伽話の王子様然とした優雅な美青年だが、ニヤニヤした表情がそれを裏切る。なんでも王族の庶子と噂されるが、シオニア伯爵家の養子として育てられた過去を鑑みれば、それもあながち嘘ではないのかもしれない。

こちらは騎士団の双璧の一、ハル・シオニアだった。

そうしてその腕に包帯を巻いているのがマリアンテ。この国では珍しい銀色の艶やかな髪に、夢見るようなすみれ色の瞳で、ワンピース型の看護服にエプロンを重ねている。ヨシュアに顔を向けた彼女は、すまなそうに眉尻を下げた。

「ごめんなさい、今は手が離せないの。アイビーに治療してもらってもいい?」

マリアンテの細い手が、すっと治癒室の隅を指し示す。騎士二人の視線が、導かれるようにそちらに集まった。

治癒室の隅で、ヨシュアが開けっぱなしにした扉を閉めていたわたし——マリアンテの不肖の妹である、アイビー・リリベルのところへ。

「妹の方にか?」

ヨシュアがじろりとわたしを見下ろす。「氷壁」とかいう二つ名にふさわしい、冷たい瞳だった。黒真珠でも嵌めこまれていた方がまだ温かみがあるだろう。

閉ざされた扉が、外のざわめきをぶつんと断ち切る。わたしは儀礼的に笑みを浮かべた。

「わたしも治癒士ですので、よろしければこちらへどうぞ」

今の治癒室にはほかに利用者もいない。マリアンテたちの隣の寝台に案内すると、ヨシュアは苛々した様子で座った。寝台を囲む目隠し用のカーテンを引こうとすれば「不要だ」とそっけない。ははあ、とわたしは合点した。ヨシュアの目線は姉に釘づけで、わたしの方など見もしない。

「お怪我はどこに?」

ヨシュアは無言で腕をまくる。肘のあたりにわずかな切り傷があった。今日は彼の部隊は街の見回りの任務にあたっていたはずだから、その最中に怪我をしたのだろう。

とはいえこれは、妖魔につけられた傷ではない。

妖魔につけられた傷は魔を帯びるから治癒士の治癒が必須だが、ただの怪我なら施薬院に行けば必要な治療を施してもらえる。実際、これくらいの傷なら自分で薬を塗っておしまいという騎士も多い。

——それにもかかわらず、ヨシュアがここへやって来たのは。

ハルと楽しそうに会話する姉の笑い声が、うららかな陽の差す治癒室に明るく響く。そのたびに、ヨシュアの精悍な眉がぴくぴくと反応していた。

「はい、治療は終わりました」

たいした傷ではないのであっという間だ。消毒して傷薬を塗っておわり。ヨシュアはさっさと袖を直して立ち上がった。わたしには一声もかけることなく。

「ハル、行くぞ」

「えー、俺まだマリアンテと話してたいんだけど」

「お前は鍛錬の途中だろう。こんなところで怠けていては部下に示しがつかない。早く戻れ」

腕組みして睨みおろすヨシュアの威圧感に、ハルがふざけたようにマリアンテを見る。

「マリアンテ、助けてよー。真面目すぎて怖いよこの人。そう思わないかい?」

おおげさに怯えるハルの仕草に、マリアンテはくすくす笑った。小鳥のさえずりみたいな笑い声に合わせ、背中に垂らした長い銀髪が日差しを弾いてきらきら輝く。

「もう、これをあげるからがんばって」

エプロンのポケットから出てきたのは小さな飴玉だった。ぐずる子どもにあげるような、砂糖水を溶かして固めただけの代物だ。ヨシュアがふんと鼻を鳴らした。

「ハルを甘やかし過ぎだ」

「じゃあヨシュアにもあげる。これで平等でしょ?」

同じ飴が今度はヨシュアの手に渡る。ヨシュアはまんざらでもなさそうにそれを一瞥すると、騎士服の懐にしまった。「どうも」とぶっきらぼうに返す声が低く聞こえた。

——平等。

わたしは寝台から離れ、治療キットをしまいながら考える。

いい言葉だ。二人に差をつけず、等しく扱う。彼らに与えられた飴玉はまったく同一で、個数も一緒。偏りのない、素晴らしい采配と言えるだろう。

けれど。

わたしの人生には平等なんかなかった。

■ ■ ■

わたしの住むこの国には昔から妖魔が出没する。そして妖魔に負わされた傷を治せるのは、魔力を持って生まれ、魔法治癒学を修めた治癒士だけだった。

リリベル男爵家に生まれたわたしと姉も魔力持ちで、社交もそこそこに王宮に出仕すると、魔法治癒学を学んで無事に治癒士になったというわけだ。

魔法治癒士を束ねる魔法治癒隊のうち、わたしは第一部隊、マリアンテは第三部隊に所属している。第一部隊は妖魔討伐に赴く騎士団に付き添って前線近くに陣を張り、怪我した騎士をすぐに治癒しなくてはならない。一方、第三部隊は後方援護だ。主に物資の補給を務めている。

これは各自の性格などから適性を判断されるので、第一と第三で格差があるとかいうわけではない。第一部隊は花形とも言われるが、兵站の維持も大変で重要な任務である。

それでも治癒士として、魔を帯びた傷を癒す目的は共通している。

妖魔を倒す騎士たちのために。

騎士は主に貴族の次男、三男のうち、剣技に優れた者がなる。国を脅かす妖魔を斬る騎士たちは憧れの的だ。特にヨシュアとハルはその中でも水際立った活躍を見せており、王宮でも都でも、一挙手一投足に熱い視線が集まっている。貴族間の打算的な政略結婚から、町娘の純粋な恋心までよりどりみどり。

唯一彼らを特別視していないのは、姉くらいのものだろう。

美しい姉は心根も清らかなので、相手の肩書きやら容貌やらそんなものには左右されず、誰に対しても分け隔てなく接する。

たぶん、そういうところに彼らも惹かれたのではないだろうか。特別な男の考えることなんて想像もつかないけれど。

■ ■ ■

午前中の当直を終え、昼食を食べようと食堂に向かうと、後ろからぽんと肩を叩かれた。

「何……」

振り向こうとしたところで、頬にむにゅ、と柔らかなものが突き刺さる。

「ふふ、引っかかったわねっ」

ニコニコ顔の姉がわたしの頬を人差し指で突いていた。

「私も同じ当直だったんだから、お昼に誘ってくれたらよかったのに。アイビーったら薄情なんだから」

「お姉ちゃんは怪我人の治療で忙しそうだったじゃない」

あの騎士二人が消えたあと、軽い怪我を負った騎士たちが押し寄せて治癒室はてんてこまいだったのだ。たとえ双璧の想い人といえど、美しい女は美しさだけで耳目を集める。

姉が当直の日はたいていこうなるので、ほかの治癒士は姉との当直を嫌がり、いつしかわたしがペアを組むのが暗黙の了解となっていた。

「そうね……」

姉は胸元で手を組み、美しい眉をくもらせた。

「騎士団のみんな、怪我が多くて心配になるわ。やっぱり最近、妖魔の活動が活発化してるっていうのは本当なのかしら」

「うん……まあ……そうかもね……?」

今まで国境付近にしか現れなかった妖魔が、昨今は中心部の都も襲い始めたという知らせは王国民を震え上がらせている。そのため騎士団の巡回は頻繁になり、怪我が増えたというのも間違いではないのだろうが、姉のときだけ治癒室の利用者が増えるのはもちろん、皆、姉に治療されたいからだ。

食堂に足を踏み入れながら、わたしは姉の横顔を盗み見る。

治癒士どころか、この国で一番と言っていいくらい、姉は美しい。

透き通るような白い肌に、銀糸の髪。大きなすみれ色の瞳は長いまつ毛に縁取られ、さくらんぼみたいな唇がつやつや光っている。それらの配置は、この人を作るときだけ神様は特別力をこめたに違いないと確信させる完璧さ。

同じ姉妹だというのに、わたしとは正反対だ。中肉中背、両親から受け継いだ栗色の髪に茶色の瞳のとりたてて特徴のない凡庸なわたしとは。

こんなにも顔が違うことに深刻な背景はない。他国から嫁いできた父方の曽祖母が姉によく似た美しい人だったらしいので、隔世遺伝だ。安心安心。父も母も不貞をせずにわたしたちを育ててくれた。

逆に血のつながりなんてなかった方が心安らかだったのかもしれないけれど。

そうしたら、わたしはもっと納得できていただろうから。

何をって……。

全てを。

お昼どきの食堂は人でごった返していて、みんなお目当てのメニューや空き席を求めて殺伐としている。けれどすれ違いざま、誰もが一瞬だけ姉に視線を向ける。まるでそこに光があるとでもいうように。

しかし姉は当たり前といった風情で、そんなものにいちいち頓着しない。

「あ、今日はいちごのタルトがあるんだって。食べちゃおっかな」

メニュー表を前に、ぱっちりとした目を輝かせている。わたしは苦笑した。

「前に太るって大騒ぎしてなかった?」

「そうだけど、やっぱり食べたくなっちゃうわよ。ねえ、半分こしない?」

「わたしも太るから遠慮しておく」

「アイビーなら大丈夫よ。第一部隊だもん、第三部隊の私よりもいっぱい動くでしょ。はい、決定!」

わたしの答えを聞かず、姉はいちごのタルトを選び取る。しょうがないなあ、とわたしは肩をすくめた。姉の横暴には慣れている。姉は聖女みたいに美しい人で、心根も清らかだけれど、たぶん、妹にはちょっとだけ甘えている。それにわたしもいちごは好きなのだ。

ほかにもパンやメイン料理の皿を取って、わたしたちは食堂の真ん中あたりの空いた席を確保した。食前の祈りを捧げて食べ始めたところで、姉の隣に誰かが座った。

ハルだった。

「ハル、今日は一人なの?」

マリアンテが朗らかな声をあげる。当たり前のように姉の隣に座を占めたハルはこざっぱりとした様子で、爽やかな香水の匂いが漂ってきた。

「鍛錬が終わったあと、マリアンテと一緒に昼食を食べたかったから急いで来たのさ。きみを見つけられてよかった」

「食堂は混んでいるものね。気をつけないとはぐれちゃいそう」

魚料理をナイフとフォークで切り分けながらのんびり答える姉を見つめ、ハルは甘やかな笑みを浮かべた。

「そうだね。でも、どんなに遠くからでもマリアンテはわかるよ。俺の目には誰よりも綺麗に映っているからさ」

「もう、そんなこと言って、一体何人のご令嬢を泣かせてきたのかしらね?」

カトラリーを置き、マリアンテはハルの肩を軽くぶつ振りをする。それから愛らしい唇を尖らせ、わたしに向かって訴えてみせた。

「ねえアイビー、聞いた? ハルって調子のいいことばっかり言わない?」

ハルがちらっとこちらへ視線をよこす。翠色の瞳が、羽虫でも追い払うかのようなそっけなさで瞬きをする。

「妹ちゃんもいたんだね」

いましたとも、最初から。

まだ食べ物が口の中に入っていたので、会釈だけを返す。ハルは軽く目礼して——あるいは、己の手元の皿に目を落として、すぐさまマリアンテに顔を向けた。

わたしの答えを待たないまま、水が流れるように二人の会話は再開される。

「こないだ言ったことだけど、真面目に考えてくれたかい?」

「休日にお出かけしようって話? いいけど、ヨシュアも誘いましょうよ。たくさん人がいた方が楽しいもの」

「俺は二人でって誘ったつもりだったんだけどな」

「それは……また今度ね?」

姉が口元に人差し指を立てて微笑むと、ハルもまたしょうがないなあ、とでもいうように肩をすくめた。わたしと全く同じ仕草なのに、彼がやると板について見える。

二人の間で交わされる会話は、当然ながらわたしには関係のない話題だった。休日にどこへ行くかも知らないし、どれだけ人が必要でもわたしは誘われない。ハルとヨシュア、そして姉で構成された三角形の中に、不純物が交ざることは許されない。

そういうものだ。

無言で魚料理を咀嚼し、昼食後の予定を考えていたとき、近くを通りがかった第三部隊の治癒士が姉に話しかけた。

「マリアンテ、まだ食べてるの? 今日は昼食のあとすぐにミーティングがあるから、早めに会議室に行かないとだめだよ」

「わっ、そうだっけ。ごめん、すぐ行くわね」

「そうして。私は先行くから」

「うん、すぐ追いつくわ」

ちょうど魚料理の皿を空にした姉は、いちごのタルトをわたしの方にぐいと突き出した。

「ごめんアイビー、私もう行かなくちゃ。これ全部あげるっ」

「えっ」

「じゃあね、ハルもまたねっ」

「うん、またね」

姉は慌ただしく荷物をまとめると、ばたばたと席をあとにしてしまった。

わたしとハルを置き去りにして。

頬杖をついて姉の背中を見送っていたハルが、おもむろに座り直す。先ほどまでにこやかだった顔には、もうなんの表情も浮かんでいなかった。退屈そうにグラスを持って、ことさらゆっくり水を飲む。それが無言でいる言い訳のように見えるのは、わたしの気のせいだろうか。

「……」

「……」

にぎやかな食堂の、この一角にだけ、鉛のように重い沈黙が落ちた。

気まずい……。

まるまる一切れ残ったいちごのタルトを見つめ、何か話した方がいいのかとおそるおそる顔を上げたとき、ガタンと音を立ててハルが立ち上がった。

「じゃ、俺も用事あるから行くね」

「あ、はい」

まだ半分以上料理の残っている皿を持って、ハルは騎士団の団員が集まっている席へ移動してしまった。香水の匂いが残っていなければ、さっきまで彼がいたことなど幻ではないかと疑ってしまいそうな未練のなさだった。

ぽつん、と、わたしは一人、食堂の真ん中に取り残される。

周りではがやがやと人々が会話に花を咲かせている。そのざわめきがわたしを包みこんで、押し潰そうとしてくるようだった。呼吸が浅くなって、胸が苦しい。

のろのろとフォークを持ち上げ、銀のつま先を赤色のいちごに突き刺す。いちごタルトの一番美味しい部分。口に入れてみれば、ぐちゅりと果肉が潰れて、強い酸っぱさが舌に広がった。きつい酸味が舌を突き刺すようだった。外れだ。

ひどく時間をかけながらタルトを食べ進めていると、「アイビー!」と明るい声がわたしを呼んだ。

「忘れ物しちゃったから取りに来たの。って、あれ? ハルは?」

戻ってきた姉が不思議そうに目を瞬かせる。わたしはタルトを水で流しこみ、少し離れた場所でテーブルを囲むハルの背中を示した。

「あ……なんか、他の団員の方と食べるみたい」

「ええ? なんでわざわざ? アイビーと一緒に食べればいいのに」

わたしは本日二度目の苦笑を浮かべた。今度はずっと、えぐい渋みが出た。

いいわけがない。アイビー・リリベルには価値がないのだ。貴重な休み時間を沈黙で潰すわけにはいかないし、想い人と過ごせないなら気心知れた仲間と過ごすのが当然だ。そもそも、わたしは「いたんだね」程度の存在なのだし。

握りしめたフォークの先端が震えていた。なるべく音を立てないように、細心の注意を払ってフォークを置いた。

「それより、忘れ物って何?」

「これ」

姉が手にしていたのは、薔薇らしき花が刺繍された白い手巾だった。わたしはぎょっと息をのむ。

「花祭りの刺繍? こんなところに放置していたらだめだよ、お姉ちゃんの刺繍は価値が高いんだから。盗まれたりしたらどうするの」

「そんなことあるわけないわよ。アイビーは心配しすぎ」

「お姉ちゃんこそ楽観的すぎ。それをどっかの男に盗まれて、結婚でも迫られたらどうするの……」

花祭りの刺繍、とは。

雪解けを迎えるこの時期に行われる伝統行事で、春を祝するお祭りだ。

あらゆる建物の軒先に薔薇の鉢植えを置き、出歩く際には髪に薔薇を模した飾りをつけ、「よき祝祭を!」と声をかけあい、親しい人とそぞろ歩く。

そしてその祝祭の日、女性は意中の男性に薔薇の刺繍を施した白い手巾を手渡して気持ちを伝えるのだ。受け取ってもらえれば二人は晴れて恋人同士に。この行事をきっかけにして結婚する者も多い。大事なものなのだ。

畳んだ手巾をポケットにしまい、姉はくすくす笑う。

「本当に大丈夫よ。それよりアイビーも気をつけてね? アイビーの方が可愛いんだから」

「——は?」

テーブルに置いた手がぶつかり、フォークがガチャンと音を立てて床に落ちていく。慌てて拾い上げ、顔を上げたときにはもう、姉はいなかった。

■ ■ ■

昼食後、皆が出払った第一部隊の居室で待機役を務めていたわたしは、暇を持て余してちくちくと手巾に刺繍していた。

白い手巾に、薔薇の刺繍。花祭りで意中の人に渡すための、特別な花。

——アイビーの方が可愛いんだから。

そんなことは天地がひっくり返ってもあり得ない。だから、こんなふうに縫っていても意味がない。

わたしの刺繍など、誰も欲しがらないのだから。

姉と違って。

「リリベル、何やってるんだ?」

「ミナ隊長」

ふいに声をかけられて顔を上げると、凛々しい短髪の女性が私の手元を見下ろしていた。第一部隊の部隊長であるアンナ・ミナだ。二十年以上治癒士を務める猛者で、王からの信頼も厚いと聞く。

ミナ隊長はわたしの手巾に顔を近づけると、吊り上がり気味の目元を緩めた。

「ほう、花祭りの刺繍か。上手いものだな」

「あ、ありがとうございます……」

「懐かしいな。私も今の夫とは、花祭りで刺繍をあげて一緒になったんだ」

思い出を透かし見るように、ミナ隊長の目線が宙をさまよう。いつも頼もしい上司の思わぬ柔らかさに、わたしはほっと肩の力を抜いた。

「隊長もそうだったんですか。すごく堂々と渡していそうです」

「そんなわけがないだろう。こう見えても、二十数年前はいたいけな乙女だったからな。夫に渡すときにはそれなりに緊張したさ。刺繍も下手だったしな」

薔薇ではなく血飛沫に見えたくらいだ、と肩を揺らして笑う。それから軽く首を傾げた。

「リリベルは、誰かあげたい人はいるのか?」

何気ない口調だったから、わたしも軽口を叩くように応じた。

「いいえ、いません。そもそも欲しがる人もいないですから。姉のハンカチなら奪い合いなんですけどね」

姉、の一言に、さっきまで笑っていたミナ隊長の眉根が寄せられる。切れ長の目に鋭い光がよぎった。

「リリベルの姉……マリアンテ・リリベルだったか。あの双璧が奪い合っているという噂の治癒士」

「は、はは……らしいですね……」

「あれはよくないな」

やけにきっぱりとした口調だった。太陽に雲がかかったのだろう、居室に差しこむ日差しが曇り、ミナ隊長の顔に薄暗い影を落とす。

「いつまでも揺れているべきではない。本人に悪意はないのかもしれないが、いらぬ摩擦を生む。それに男を弄んでいる悪女、という風聞も聞こえてくるぞ。家族なら注意してやったらどうだ」

小暗がりに沈んだミナ隊長のかんばせの中、いつも治癒士を励まし叱咤してくれる眼差しが、まっすぐにわたしを捉えていた。

わたしはそっと顔をそらし、薔薇の刺繍を撫でつける。

「……姉のことですから、わたしが口出す筋合いではないですよ。それに、喧嘩みたいになったら嫌ですし。数少ない家族なんです」

は、とミナ隊長が息を詰める気配がした。よく磨かれた胡桃材の床に映るぼんやりした人影が、わずかに揺れる。少しの静寂のあと、静かな声で切り出された。

「そうか、リリベルのご家族はもう……」

小さく頷く。

十年前、わたしが六歳で姉が八歳の頃、両親は妖魔に襲われて亡くなった。家督は叔父が継いだから、わたしたちにはもはや居場所がない。実家に戻れば政略結婚の駒にはしてもらえるけれど、それがどれほどの救いになる?

だからわたしたちはここにいる。幸いにも、わたしたちには魔力があった。魔法治癒学を修めるだけの頭脳があった。もう後ろには退がれない崖の淵で、なんとか踏ん張って立っている。

その一点において、わたしと姉は志を同じくする同士だと思っている。訪れた不幸だけは平等だったと思っている。

姉ばかりちやほやされるのがなんだというのだ。見目麗しい男たちに無視されるのがどうしたというのだ。

それでも、姉だって、わたしと同じように悲しいはずだ。

「……悪かったな、リリベル。花祭りの成功を祈っているぞ」

ミナ隊長が呟き、足音もなく離れていく。看護服の裾がひるがえり、背中で結んだエプロンの紐が揺れる。

わたしはもう一度針を持ち直し、一つ一つ、刺繍を進めていった。