軽量なろうリーダー

夜会で夫の愛人を刺そうとした伯爵夫人。でも不思議なことに、その場の全員が犯人を庇いました

作者: セトガワ トウ

本文

今日は特別な夜だった。

春の夜会──王都に住まう貴族たちが招かれる、年に数度の大きな催しだ。

有名な楽団が耳に心地良い曲を奏で、それに合わせるかのように紳士淑女が踊ったり、会話に興じる。

私は夫の腕に手を添えながら、少し深めの息を吐く。

「レミ、疲れてる?」

夫が小声で尋ねてくる。

夫であるライド・オルネイト子爵は、こういう場面でやけに目ざとい。

私がポーカーフェイスを気取っていても靴が少し当たっていることや、喉が渇いていることにすぐ気づく。

「ほんの少しだけ」

「よし、次の曲は休もう。飲み物を取ってくるよ」

「あなたは、踊りたいのでは?」

「妻が疲れているのに踊りたいとは思わないな。まともな神経なら、罪悪感で楽しめないだろう?」

ライドは当たり前のように笑った。

結婚して三年が経つ。

私たちは、仲のいい夫婦だと思う。

激しい恋物語のように燃え上がることはない。

けれど、朝食の席で同じジャムを選んだり、帰宅した相手に自然と目を向けたり、夜会で疲れた方を先に座らせたりする。

そういう小さな積み重ねの気遣いが、私にはすごく心地よかった。

だからこそ──

私はあの人の顔を見たとき、胸の奥にモヤモヤが張り付いた感覚になる。

「……ミレーヌ様」

大広間の入口近くに、一人の夫人が立っている。

ウィルディ伯爵夫人だ。

親しい、というほどではない。

何度か茶会で言葉を交わしたことがある程度。

けれど、彼女の印象はなかなかに強い。

いつも控えめで、声を荒らげることがなく、夫の隣にいるときは必ず一歩下がる。

笑うときも遠慮がちで、自分の話よりも相手の話を聞く人だ。

そしてここ半年ほど、社交界でひどく噂されている人でもある。

夫のウィルディ伯爵が……若い令嬢を連れ歩いているから。

相手は、リリシア・モイーズ伯爵令嬢。

明るい金髪に宝石のような青い瞳で、可憐にも清楚にも見える。

だが、彼女の評判は決して清廉ではなかった。

私は一月ほど前、別の夫人から相談を受けている。

その夫人は、まだ結婚して一年にもならない若い方だった。

彼女は青ざめた顔で、私に小さな手紙を見せた。

差出人はリリシア・モイーズ。

宛名は、その夫人の夫だ。

内容は……まあ、ひどいものだった。

『奥様には内緒で、少しだけお会いしたい。あなたのような方に守られたら、わたくしはきっと幸せです』

こんな文言だった。

その夫人は泣いていた。

夫が本気で相手にしたわけではなく、遊びだろう。

でも、若い妻にとっては十分すぎるほど残酷だった。

リリシア嬢は、そういうことをする。

既婚男性に近づき、相手の妻を傷つけ、それでも自分は悪くないという顔をする。

今、社交界で最も目立つ被害者がミレーヌ様だった。

「ねえライド」

「どうした?」

「あそこに、ウィルディ伯爵夫人がいらっしゃるわ」

ライドが視線を向ける。

ミレーヌ様は、大広間の端に立っていた。

薄紫のドレスは控えめだけど上品で、よく似合っている。

けれど、明らかに顔色が悪い。

その理由は簡単だ。

少し離れた場所で、ウィルディ伯爵がリリシア嬢を伴って入ってきたから。

夫が妻ではない令嬢を連れて、王宮の夜会へやって来る。

その事実だけで、周囲の空気がわずかに歪む。

しかもリリシア嬢は、伯爵の腕に自分の腕を絡めていた。

汚れの一点もない白いドレス。無垢を装うような、もしくは無実を主張するような。

伯爵はそんな彼女を見つめて、甘ったるく微笑んでいる。

その少し先に自分の妻がいることなど、見えていないかのようだった。

……違う。

見えていないのではない。

見ていながら、見ないふりをしているのだ。

「……ああいう男、最低だな」

珍しくライドの声音が低かった。

私は返事をしなかった。

最低。

その言葉は、とても正しい。

目もあてられない状況だけれど、それでも夜会は続く。

貴族たちは、醜聞を好む。

しかし、自分が巻き込まれることは嫌う。

だから皆、見て見ぬふりをする。

あら困ったことだわ。

まあ奥様がお気の毒です。

でもご夫婦のことですもの。

そんな毒にも薬にもならない言葉で、自分の安全な場所を確保する。

私も、きっとその一人だ。

何度も噂を聞いた。

別の夫人から相談も受けた。

リリシア嬢がどういう人間なのか、ある程度知っていた。

けれど、何もしなかった。

本当は何かできたかもしれないのに。

「ミレーヌ様、お久しぶりですわね」

リリシア嬢が、わざわざミレーヌ様の前へ歩いていった。

この異常事態に大広間のざわめきが少し薄くなる。

当然のように皆、見ていた。

見ていないふりをしながら、しっかりと意識は向けている。

「今夜もお美しいです。……でも、少しお疲れのようですわ」

リリシア嬢は微笑んだ。

人の心を踏みにじる者ほど、綺麗に笑ったりできるから厄介だ。

「旦那様をあまり困らせてはいけませんわ。大人の男性には、安らげる場所が必要ですもの」

一方的な物言いに、ミレーヌ様の指先が震える。

ウィルディ伯爵が顔をしかめた。

「リリシア、やめなさい。ミレーヌがまた勘違いする」

また勘違いする。

その言葉はきっと、ミレーヌ様にとっては逆鱗に触れるものだったのだろう。

ミレーヌ様の表情が変わった。

何かが吹っ切れたような顔だった。

「勘違い……?」

小さな声だ。

けれど、妙にはっきりと聞こえた。

「わたくしが、勘違いをしていると?」

「そうだろう。お前は昔から思い込みが激しい。リリシアは私を理解してくれる、ただそれだけだ」

「ええ、そうですわ。わたくし、伯爵様のお心を癒やして差し上げたいだけですの」

リリシア嬢が、伯爵の腕にさらに寄り添う。

そしてミレーヌ様が笑った。

いや笑ったというには怖すぎる。

完全に壊れた顔に見える。

「あら、そう」

次の瞬間だ。

ミレーヌ様の手が、ドレスの内側へ伸びる。

短剣の刃がシャンデリアの光を鈍く反射する。

誰かが悲鳴を上げると同時に、ミレーヌ様はリリシア嬢へ向かって踏み出した。

「あなたさえいなければ──!」

刃は、リリシア嬢に届かなかった。

たまたま近くにいた騎士が、すぐにミレーヌ様の手首を押さえたからだ。

短剣が床に落ち、硬い音が響いた。

まさかの事態に、大広間が凍りつく。

リリシア嬢は真っ青な顔で伯爵にしがみつく。

「こ、殺されるところでしたわ……!」

ウィルディ伯爵が叫ぶ。

「ミレーヌ! お前は何をしたのかわかっているのか!?」

ミレーヌ様は騎士に押さえられたまま、肩で大きく息をしていた。

髪が乱れ、顔は涙で濡れている。

いつもの上品で静かな夫人の面影はない。

苦しみと悲しみに悩み続けた果ての姿に私には見えて、胸が強く締め付けられた。

「嫉妬で人を刺そうとするなんて!」

「恐ろしい女だ」

「伯爵夫人として、ありえませんわね……」

周囲からミレーヌ様を非難する声が上がっていく。

最初は小さかったが、伝播して大きく広がっていく。

犯人は彼女。

悪いのも彼女。

それは、間違いではない。

ミレーヌ様は罪を犯した。

どれほど追い詰められていても、刃を向けていい理由にはならない。

だけど──

私は床に落ちた短剣を見て、次にリリシア嬢を確認する。

伯爵の胸に顔を埋めて泣く姿は、まるで被害者だ。

けれど、その指先はしっかりと伯爵の衣を掴んでいる。

そして伯爵は、妻ではなく愛人を抱き寄せていた。

妻が騎士に取り押さえられているのに。

どう考えたっておかしい。

あの男もあの女も、妻であるミレーヌ様をなんだと思っているのだろう?

そうやって、何度その心を踏み躙ってきたのだろう?

「ひどい……わたくし、何も悪いことなどしておりませんのに……」

リリシア嬢が鼻を啜り、震える声で言った。

庇護欲を掻き立てるような女の声も入っている。

それを耳にした瞬間、私の中の何かが静かに切れた。

「本当にそうでしょうか?」

自分が思ったより、声はよく通った。

ライドが驚いて私を見る。

周囲の視線も、こちらへ向く。

私は一歩前に出る。

「あの、オルネイト子爵夫人?」

誰かが私の名を呼んだ。

私は無視してリリシア嬢を睨む。

「本当に、何も悪いことをしていないのですか?」

リリシア嬢の涙が、一瞬だけ止まった。

「な、何をおっしゃいますの……?」

「ミレーヌ様が刃を向けたことは罪です。そこは否定しませんわ。けれど、奥様だけを罪人にして終わらせるには、この場には目撃者が多すぎるのではありませんか」

広間が静まり返った。

ウィルディ伯爵が眉を吊り上げる。

「オルネイト子爵夫人。君は何を言っている? これは我が家の問題だ」

「王宮の夜会で殺人未遂が起きた時点で、もうウィルディ家だけの問題ではありませんわ」

「黙れ。私の妻がリリシアを殺そうとした。それがすべてだ!」

「本当に、それがすべてですか? あなたは今、ご自分の妻が取り押さえられているのに、愛人と噂される令嬢を支えていらっしゃる」

私が淡々と告げると、伯爵の顔がみるみるうちに赤くなっていく。

「リリシアは愛人ではない!」

「では、なぜ奥様ではなく、その方を連れて夜会に?」

「リリシアは私の理解者だ!」

「理解者……?」

私はその言葉を繰り返した。

あまりにも意味不明で、都合の良すぎる言葉に吐き気を催す。

「なんとも便利な言葉ですわね。自分たちはミレーヌ様の心を何一つ理解しないのに、自分にだけは理解者を求める。そして本質的には何一つ理解できていなさそうな、頭がお花畑の女を理解者として認定する」

リリシア嬢の顔が引きつる。

「ひどいですわ……! わたくし、ただ彼をお支えしたくて……。それにちゃんと理解だって、していますのよ」

「何人、理解者がいるのですか?」

「……はい?」

「だから、あなたには何人の理解者──という名目の男性がいるのですか?」

リリシアは意味がわからないといった風に、伯爵の顔を見る。

それから私をキッと睨みつけてきた。

「そんなの一人に決まっているではありませんか!」

「ではなぜ先月、別の既婚男性にも同じようなお手紙を?」

ここで、空気が大きく変わった。

どよめきも起きているし、リリシア嬢の目が丸く見開かれた。

私は淡々と続ける。

「実は私、その方の奥様から相談を受けました。手紙の差出人はあなた。内容は、奥様には内緒でお会いしたい、あなたに守られたい、というものでしたわ」

「ちがっ、それは……!」

「誤解とでも? しっかりあなたの名前が書かれておりましたが?」

私は集まった人たちを眺める。

今日は王家も有力貴族も集まっているが、誰もが口を挟んではこない。

私の次の言葉を待っているようだった。

だから、本音を語らせてもらう。

「最近、便利な言葉が多いですわね。理解者。誤解。真実の愛。どれも、妻を傷つけるときに使うには都合がよさそうです。逆を想像してみてください。ミレーヌ様が別の男を連れてきて、彼が理解者なんですと伯爵に伝えたら? あまりにも誠意の欠けた行為です」

誰かが、ふっと息を漏らした。

笑ったのではない。

たぶん、堪えていた怒りが漏れたのだ。

「実はわたしも、見ましたのよ」

声を上げたのは、少し年上の伯爵夫人だった。

彼女は扇を閉じ、リリシア嬢を睨んでいた。

「二月前の茶会で、リリシア嬢はわたくしの夫に近づいておりました。『奥様はお強い方ですもの。少しぐらい、旦那様が息抜きをしても許してくださいますわ』と」

「あの、わたくしも経験があります」

今度は別の夫人が言った。

「うちの夫にも手紙が届きました。夫はすぐにわたくしに見せましたから、大事にはなりませんでしたけれど」

「私の弟にも来ていました」

「うちの義兄にも」

次々と声が上がっていく。

見境なしに送っているのかと思いきや、誘われたり手紙が送られた人には共通点があった。一人がそれを指摘する。

「もしや彼女、既婚者ばかり選んでいるのではありませんこと?」

ざわめきの質が変わっていき、場の雰囲気も最初の頃とは明らかに変わってきた。

さっきまでミレーヌ様を責めていた声が、今度はリリシア嬢へ向いたのだ。

まずいと思ったようで、彼女は泣きながら訴える。

「違います! 皆様、誤解ですわ! わたくしはただ、優しくしてくださった方に感謝を……!」

「感謝のお手紙に『奥様には内緒で』とは書きませんわ!」

今度は若い侯爵夫人がキツく言い放った。

「それに、あなたはミレーヌ様のことを笑っていましたわね」

リリシア嬢がぎょっとして固まる。

侯爵夫人は続ける。

「化粧室の前で聞きましたよ。『離縁もできない飾り妻』『家のためだけに置かれているお気の毒な方』と。あれは誰のことでしたの?」

「それは……その……」

「よろしいでしょうか。私も違う内容ですが、聞きました」

今度は王妃付きの侍女まで声を上げた。

本来なら、侍女が貴族の会話に口を挟むことはない。

だが、その場にはすでに王と王妃がいた。

いつからか、壇上に立っていたのだ。

特に王妃陛下の表情は温度がなく、目が罪人を裁くときのそれだ。

侍女は王妃に一礼してから言う。

「リリシア様は先ほど、控えの間近くでウィルディ伯爵夫人に向かって『伯爵様はわたくしといる時だけ笑顔になる』とおっしゃっていました」

これを聞いたミレーヌ様の肩が震えた。

騎士に押さえられたまま、彼女は床を見つめている。

もう暴れる様子はない。

ただ、声も出さずに泣いていた。

きっと、その時の屈辱が脳裏に蘇ってきたのだろう。

「なんてことだ……。ミレーヌ、顔を上げるんだ」

ウィルディ伯爵がようやく妻を見た。

けれど、その声にあるのは心配ではない。

苛立ちと、面倒を起こされたという怒りだった。

「お前が大人しくしていれば、こんなことにはならなかったんだ」

この男にはまともな心がないのか?

私が怒ろうとしたとき、王妃陛下の扇がパシン! と鋭い音を立てて閉じられた。

「大人しく?」

広間全体が恐怖で震えた気がした。

王妃陛下はゆっくりと階段を下りてくる。

当然、誰も声を出さない。

王妃陛下はウィルディ伯爵の前で足を止める。

「あなたは今、ご自分の妻に向かって、大人しくしていればよかったとおっしゃいましたか」

ウィルディ伯爵の顔から血の気が引いていく。

「王妃陛下、これは、二人の問題でして……」

「王宮の夜会で、妻ではない令嬢を伴い、妻を侮辱し、その妻が追い詰められて刃を抜いた。それでも、まだ夫婦間のことだと?」

「しかし、ミレーヌがリリシアを刺そうとしたのは事実です!」

「ええ。事実です」

王妃陛下はミレーヌ様に目を向ける。

「刃を向けた罪は消えません。どれほど苦しんでいても、それは許されることではありませんのよ」

ミレーヌ様が小さく頷いた。

「……はい。申し訳ございません……」

王妃陛下はしばらく無言になった。

その後、視線がウィルディ伯爵へ戻る。

「そうとは言え、彼女だけを罰すれば済むほど、王家の目は節穴ではありません」

伯爵が生唾を呑んだ。

「妻の持参金で家を保ち、妻の実家の信用を使い、妻に領地経営と社交を任せ、その上で若い令嬢を連れ歩く。あなたは妻を伴侶ではなく、道具として扱ったのですか」

「決してそんなつもりは……!」

「結果だけ見れば、そのようにしか見えませんが」

王妃陛下の声は静かで、だからこそ恐ろしい。

「結婚は、恋だけで成り立つものではありません。家と家の契約であり、責任です。貴族であるならなおさらです。それを理解できぬ者が、理解者などと軽々しく口にするものではありません」

ここで、王も参加してくる。

「ウィルディ伯爵」

「はっ」

「王宮の出入りを当面禁ずる。役職については追って沙汰を下す。覚悟せよ。また伯爵家には、夫人の持参金および私財の保全を命じる」

ウィルディ伯爵が膝から崩れ落ちる。

「へ、陛下……! それはあまりにも……!」

「それから、モイーズ伯爵令嬢」

王の目がリリシア嬢へ向く。

彼女は伯爵の腕から離れ、震えながら膝をついた。

「わたくしは被害者です……。殺されかけたのです!」

「確かに。だが、複数の既婚男性に対し、不適切な接触を図った疑いがある。今後の社交全般の出入りを禁じ、王宮が預かる証言と手紙を確認する。モイーズ伯爵家にも監督責任を問う」

「そんな……!」

リリシア嬢が両手で顔を覆う。

ウィルディ伯爵が呆然と彼女を見る。

「リリシア……複数の既婚男性の話、あれは本当なのか?」

リリシア嬢の肩がびくりと跳ねた。

「違います……わたくしはあなた様だけを……」

「では、この手紙は何ですの?」

若い夫人が一通の手紙を掲げた。

「こちらもありますわ」

「うちにも」

「筆跡は同じに見えますわね」

次々に差し出される手紙に私は驚く。

いくらなんでも、こんなに多くの人が手紙を持って夜会に来るのは不自然だ。

「もしかして皆さん、今日の夜会で彼女を問い詰めるつもりだったのでしょうか」

私の発言は当たっていたようで、彼女たちは怒りの形相でリリシア嬢を見つめる。

リリシア嬢の顔色はもはや真っ白だ。

ウィルディ伯爵の顔は、逆に怒りで真っ赤になった。

「やっぱり、他にも男がいたのか!?」

その声は、あまりにも滑稽だった。

自分は堂々と妻を裏切っていた。

なのに、自分が裏切られたことには傷つくのかと。

唯一の味方を失いたくないリリシア嬢は首を振る。

「あれは優しくしていただいたお礼で、それでその……」

「だとしても、随分と宛先が多いのですね」

私が突っ込むが、もう誰も笑わなかった。

呆れているし、軽蔑もしている。

そしてわかりきっていることがある。

リリシア・モイーズ伯爵令嬢は、この夜を境に社交界から消える。

ウィルディ伯爵もまた、ただでは済まない。

問題はミレーヌ様のこと。

「ウィルディ伯爵夫人」

王妃陛下に呼ばれたミレーヌ様は、騎士に支えられながら立ち上がる。

「あなたは夫の愛人に刃を向けた。その罪は認めますね」

「……はい、認めます」

「よろしい。では、あなたには一年間の社交停止を命じます。その間、実家にて療養なさい。離縁については、王家の監督のもと、あなたに不利な条件とならぬよう進めます」

ミレーヌ様の口がぽかんと開く。

「王妃、陛下……。それは一体……」

「あなたを無罪にはできません」

「はい……」

「ですが、あなた一人に罪を押しつけることも許しません」

その言葉に温情を感じ取ったミレーヌ様は崩れるように泣いた。

今度は、さっきの屈辱と悔しさとは違う種類の涙だ。

救われた人間の涙。

私はそれを見て、ようやく安堵の息を吐いた。

ミレーヌ様の傷は、すぐには癒えない。

刃を抜いた記憶も消えない。

社交界はまた新しい噂をするだろう。

それでも今夜、少なくとも彼女一人だけが悪者にされることはなかった。

私は、それだけでよかった。

声をあげたのは正解だった。

夜会はその後、当然ながらお開きとなった。

ウィルディ伯爵は王宮の者に連れて行かれ、リリシア嬢も泣き叫びながら別室へ運ばれる。

ミレーヌ様は、王妃陛下の侍女に付き添われて大広間を出ていった。

すれ違う一瞬、ミレーヌ様が私を見た。

泣き腫らした目で、ほんの少しだけ頭を下げてくる。

私も頭を下げ返す。

それだけだった。

私たちは親友ではない。

彼女の苦しみをすべて知っていたわけでもない。

でも、少しだけ内情を知っていた。

知っていたのに黙っていた。

だから、今夜は黙っていられなかった。

王宮を出るころには、夜風が強くなっていた。

馬車を待つ間、ライドが私の肩に外套を掛けてくれる。

「寒いだろう」

「助かります」

「今日は怒った女性が多かったけれど、君が一番怖かった」

「それ褒めているの?」

「もちろん、褒め言葉さ。君が一番、闘っていた気がする」

ライドは真面目な顔で頷いた。

それから私の手を握ってくる。

「ただ、念のために聞きたい」

「どうぞ」

「僕が浮気したら、君も短剣を持つ?」

意外な質問に少し面くらう。

ライドは冗談のように言ったが、目は少しだけ本気だった。

私は微笑む。

「私は持たないわ」

「ふう……それはよかった」

「まず証拠を集めるの」

「うん?」

「相手の名前、実家、手紙、贈り物、目撃証言。全部揃える」

「……うん」

「その上で王妃陛下、あなたの上司、取引先、親族、相手のご実家に順番にお知らせするかしら」

「なるほど、それは短剣より嫌だな……」

たじたじになる夫の腕に私は手を添える。

「妻を裏切るというのは、そのくらい高くつくものですから」

ライドは困ったように笑った。

それから私の手を取って、手袋越しに口づける。

「なら僕は一生、そうならないように気をつけるよ」

「期待しているわね」

「本当に怖いな」

「怖いなら、今後距離を取ってみる?」

「いや、実は頼もしいと思っている」

そう言って、ライドは楽しそうに笑う。

ようやく馬車が到着した。

私たちは並んで乗り込んだ。

窓の外では、王宮の灯りが遠ざかっていく。

それにしても今夜は不思議な夜会だった。

普通なら、ミレーヌ様はその場で断罪されて終わるはずだった。

でも周りはみんな、犯人である奥様を庇った。

理由は簡単だ。

彼女より先に裁かれるべき者が、あの夜会にはいたから。

「あー、でも僕も優秀なのかもな」

「急にどうしたの? 妻に褒めて欲しい気分にでもなった?」

「まあね」

「いいのよ。何を褒めればいいかしら。毎朝、私を起こさないように静かにベッドから出るところとか?」

「それもいいけど、手紙に気づかせなかった件とか」

手紙?

話の意図が見えなくて私は首を傾げた。

その態度が予想通りだったのか、ライドは嬉々として話す。

「あそこにいた夫人たちは、みんな手紙を持参していた。でも君は持ってこなかった」

持ってこないも何も、リリシア嬢からの手紙なんて私は所持していなかった。

「君があの夫人たちより劣るなんてことはない。それでも君は手紙の存在すら、知らなかった」

「……つまり、あなたにも届いていたと?」

「届いていたし直接誘われもした。僕の場合は秒で断って、手紙も破り捨てて燃やした。愛する妻に余計な心労をかけたくなくてね。優秀だろう?」

「……そういうことにしておくわね」

ライドが少年のようなドヤ顔をするので、私は顔を反対側に向けて頬を緩めた。