軽量なろうリーダー

悪役令嬢は、檻の中で空を編む

作者: 詩永あえし

本文

静謐園セレニアに春は来ない。

比喩ではなく、事実としてそうだ。

園を囲む外壁には常時魔法障壁が張られていて、陽光の色が変わる。

外では若葉が萌えているはずの季節でも、障壁を透過した光は一年中同じ、くすんだ灰白色をしている。

雨も風も遮断されるから、気温も湿度もほぼ一定だ。

修道院を模した石造りの建物の中で、わたしたちは季節のない時間を生きている。

わたしの名前はアストリッド。元第三騎士団副長。

五年前、上官が犯した軍資金横領の罪を被せられ、ここに入れられた。

上官は今も王都で立派な椅子に座っている。

わたしはここで、毎朝同じ時刻に起き、同じ祈りの言葉を唱え、同じ食堂で同じ味のしない粥を食べ、同じ中庭を歩き、同じ寝台で眠る。

五年間、一日も違わず。

静謐園(セレニア) は女性貴族専用の幽閉施設だ。社会に置いておけない者たちが収められる。

政治犯、重罪人、あるいは誰かにとって目障りだった人間。

魔法やスキルを使用するための神授紋クレスタは封印され、外部との接触は月に一度の面会のみ。面会にすら誰も来ない者がほとんどだ。

壁の外に出た者は、わたしが知る限りいない。

ここでは誰も名前を呼ばない。

園長マルガレーテが定めた規則では、囚人は番号で管理される。

わたしは「四十七番」。

食堂でも、作業場でも、礼拝堂でも、「四十七番、起立」「四十七番、着席」。

最初の一年は屈辱だった。二年目には慣れた。

三年目には、自分の名前の響きを忘れかけている自分に気がついた。

それでも別に構わなかった。

名前に意味があったのは、わたしがまだ人間として扱われていた頃の話だ。

その女が園に来たのは、わたしの収監六年目の初夏。

園の中はいつもと同じ灰色の朝だった。

「新入りだ」

食堂で朝の粥を啜っていると、隣に座った七十二番、元地方領主の娘であるヴィオラが、あごで示す。

食堂の入口に、園の看守に挟まれた一人の女が立っていた。

第一印象を正確に言葉にするのは難しい。

場違い、というのが一番近いだろうか。

静謐園(セレニア) に入ってくる女は、大体二種類だ。

目が死んでいるか、目が血走っているか。前者は諦めた人間、後者はまだ怒っている人間。

どちらにしても、この灰色の空間に呑まれるのに半年もかからない。

その女はどちらでもなかった。

背筋がまっすぐだった。囚人用の灰色の修道服を着せられているのに、まるで夜会のドレスを纏っているかのように布が身体に沿っていた。

顔は美しかった。薄い金色の髪、青灰色の瞳。しかし美しさより先に目についたのは、その表情だった。

怯えでも、怒りでも、諦めでもない。何と言えばいいのか。

静かだった。

水面に風紋ひとつない湖のように、静かだった。

「公爵令嬢だってさ」

ヴィオラが粥を啜りながら言った。

「コルデリア・ヴァルムント。国家反逆罪。大物だね」

その名前は知っていた。王都の社交界を揺るがした大事件だ。

ヴァルムント公爵令嬢が国王暗殺を企てたという。

もっとも、この園にいる人間で、自分の罪状を額面通りに信じている者は少ない。

「反逆罪ね」

わたしは興味なさそうに言った。実際、興味はなかった。

誰が来ようと同じだ。半年もすればあの静かな目も曇る。

一年もすれば番号で呼ばれることに慣れる。

そうしてここの灰色に溶けていく。

その日の夜。

消灯後、わたしは寝台に横たわったまま眠れずにいた。

いつものことだ。五年経っても寝つきは良くならない。

石の天井を見上げて、何も考えないようにする。

考えるとロクなことにならない。

隣の寝台に、今朝の女、コルデリアが割り当てられていた。

仕切りのない大部屋に十人が寝ているうちの、たまたま空いていた場所がわたしの隣だった。

気配を感じて、首だけそちらに向けた。

暗闇の中で、コルデリアは目を開けていた。

天井を見つめている——いや、違う。

天井を見つめているのではなく、暗闇の中で何かを読み取ろうとしているような目だった。

唇がかすかに動いている。声は出ていない。

何かを数えているのか、あるいは何かを記憶しているのか。

わたしは声をかけなかった。

新入りの初夜に話しかけるような親切を、わたしはとうに失くしている。

****

二日目の朝。

食堂で粥の列に並んでいると、前方でわずかなざわめきが起きた。

見ると、コルデリアが配膳の列から外れて、食堂の隅に座っている老囚人のそばに歩いていくところだった。

九番。この園で最も古い囚人。二十年以上ここにいる。

もう名前を覚えている者はいない。本人すら忘れているかもしれない。

目は濁り、日がな一日、食堂の隅で壁を見ている。

話しかける者はいない。話しかけても返事はない。

コルデリアは九番の前にしゃがんだ。修道服の裾が石床に広がった。

「おはようございます。お名前を伺ってもよろしいかしら?」

食堂が静まった。

ここでは誰も名前を訊かない。訊く意味がない。

番号で呼ぶのが規則であり、名前は必要ない。

名前とは人間のためのものだ。ここにいるのは番号であって人間ではない。

少なくとも園長はそう扱っているし、わたしたちの多くは、いつしかそれを受け入れてしまっていた。

九番はコルデリアを見上げた。

濁った目が、焦点を合わせようとしてわずかに揺れた。

長い沈黙があった。コルデリアは待っていた。急かさなかった。

しゃがんだ姿勢のまま、微動だにせず。

やがて、九番の口が動いた。

「——ドロテア」

声は枯れて掠れていたが、確かにそう聞こえた。

「ドロテア。まあ、素敵なお名前ですわね。ドロテアさま、今朝のお粥は召し上がりました?」

周囲の囚人たちが凍りついたように見ていた。

看守も、一瞬何が起きたのか分からないという顔をしていた。

わたしは粥の椀を持ったまま、その光景を見ていた。

背筋に何かが走った。冷たいとも熱いとも言えない、妙な感覚だった。

この女は、何をしようとしている。

名前を訊いただけだ。たったそれだけのことだ。

なのに、食堂の空気が変わった。ほんのわずかだが、確かに。

二十年間壁を見ていた老婆が、自分の名前を口にした。

なんなんだ、一体。

「変な女」とヴィオラが隣で呟いた。

ああ、そうだ。変な女だ。

だが、わたしの中で何かが引っかかった。トゲのように小さく、確実に。

コルデリアがドロテアの前にしゃがんだとき、あの目は食堂の構造を測っていた昨夜の目と同じだった。

冷静で、正確で、そしてどこか遠い場所を見ているような。

その日の夕方、作業場で麻布を織りながら、わたしは無意識にあの場面を繰り返していた。

コルデリアがしゃがんだ角度。待った時間の長さ。声の高さと速度。

あれは衝動ではなかった。計算され尽くした——いや、計算という言葉は正しくない。もっと別の何かだ。

訓練されていた。

あの女は、ああいうことをする訓練を受けた人間だ。

元騎士のわたしには分かる。剣の構えに流派が出るように、人への近づき方にも技術は出る。

コルデリアが九番——ドロテアに近づいた所作には、素人の善意にはない、明確な技術があった。

相手の視界に正面から入る。目線の高さを合わせる。声を低く、ゆっくり。沈黙を恐れない。

あれは、誰かの話を聴くことを仕事にしていた人間の所作だ。

わたしは麻布を織る手を止め、作業場の反対側にいるコルデリアを見た。彼女は黙って布を織っていた。

その横顔はやはり静かで、灰色の修道服の中でも不思議なほど損なわれていなかった。

——半年、とわたしは思った。半年もすれば、ああいう手合いも園に呑まれる。

どれほど技術があっても、どれほど志があっても、この場所は人間を磨り減らす。希望を持つ者ほど早く壊れる。

それを五年間見てきた。

だから、わたしは関わらないことにした。

****

一週間が経った。

コルデリアは園に溶け込まなかった。

灰色に染まることを静かに、明確に拒んでいた。

毎朝、彼女は誰かに声をかけた。

「おはようございます。お名前を伺ってもよろしいかしら?」

食堂で、作業場で、中庭で。一日に一人か二人。

決して急がない。拒まれれば深追いしない。

翌日、また穏やかに声をかける。

三日目にドロテアが自分から朝食の席でコルデリアの隣に座った。

二十年間、壁以外を見なかった老婆が。

五日目には「十五番」が名前を名乗った。

クラーラ。元男爵令嬢。

父の借金のカタに投獄された女。泣きながら名乗った。

コルデリアは彼女の手を握って、何も言わず、ただ一緒にいた。

一週間で五人。園の囚人は七十余名。

このペースなら全員と話すのに三ヶ月かかる。

わたしは距離を置いて見ていた。関わるつもりはなかった。

しかし、見ないでいることは難しかった。

コルデリアが誰かと話しているとき、園の空気がほんの少し変わるのだ。

呼吸が楽になるような——いや、わたしはそんな詩的な人間ではない。

ただ、事実として食堂が少しだけ静かでなくなった。

囁き声が増えた。小さな声で自分の名前を呟いている者がいた。

「四十七番さま」

作業場で声をかけられた。

コルデリアだった。隣の織機に座っている。

「……何だ」

「麻布の織り方を教えていただけませんか。わたくし、不器用で困っておりますの」

見れば彼女の手元はひどいものだった。

縦糸と横糸が絡まって、布というより鳥の巣だ。

公爵令嬢が機織りなどやったことがないのは当然だろう。

「見りゃ分かるだろ。縦糸をもっと張れ」

わたしはぶっきらぼうに言った。

教えるつもりはなかったが、あまりにひどい出来を横で見ているのは元騎士として座りが悪い。

雑でもいいから形にしろ、という性分だ。

「こうですか?」

「違う。もっと手前に引け。そう。そのまま 杼(ひ) を通せ」

気がつけば手取り足取り教えていた。舌打ちしたくなった。

「ありがとうございます、四十七番さま」

「さま、はやめろ。気色悪い」

「では、お名前を教えていただけませんか?」

手が止まった。コルデリアを見た。

彼女は微笑んでいた。穏やかで、押しつけがましくない笑顔だった。

ただ、その奥にある目は、やはり静かにわたしを見つめていた。

測るのではない。待っている目だった。

わたしが答えるのを。あるいは答えないのを。

どちらでも良い、という目だった。

わたしは唇を引き結んだ。

五年間、名前を呼ばれなかった。名前を名乗る機会もなかった。

自分の名前が喉の奥に貼りついて、錆びたように動かなかった。

「——アストリッド」

言った後、自分で驚いた。

もっと抵抗するつもりだったのに。

「アストリッドさま。素敵なお名前ですわ」

「だから、さまはやめろ」

「では、アストリッド」

名前を呼ばれた。ただそれだけのことで、胸の奥の何かが軋んだ。

怒りなのか、悲しみなのか、それとも——もっと厄介な何かなのか。

分からなかった。分かりたくなかった。

****

季節の変わり目を園の中で知る方法はほとんどないが、一つだけある。

月に一度の面会日だ。

面会室には障壁のない窓が一つだけあり、そこから外の空気が入ってくる。

夏の湿度、秋の乾燥、冬の冷気。

わたしのところに面会人が来ることはないが、面会室の近くを通るとき、窓から入る風の匂いで今が何月かを推測する。

コルデリアのところには、初月から面会人が来た。

聖女エミリア。

教会の白い法衣に身を包んだ若い女。

面会室に入ってきたとき、看守たちが居住まいを正すのが見えた。

聖女という肩書きは、この王国では教会と王家の双方に連なる特別な地位だ。

わたしが騎士団にいた頃の王都の噂では、身分違いの聖女を公爵令嬢が嫉妬から虐げる「悪」として振る舞っている、などと囁かれていた。

だが、面会室で向かい合う二人の間に、そんな陳腐な愛憎は欠片もなかった。

そこにあったのは、互いを底なしに信頼し合う、戦友のような絆だった。

わたしが面会の詳細を知ったのは、後にコルデリア自身から聞いたからだ。

面会室で向かい合った二人の会話は、看守が記録する。

だからコルデリアとエミリアは、危険なことは何一つ話さなかった。

「お元気そうで安心しましたわ」

「あなたこそ。園の暮らしはいかがですか」

「穏やかなものですわ。お祈りと手仕事の毎日で、ドロテアさまという方にお祈りの作法を教えていただきましたの。それからクラーラさま、ベルタさま、皆さまよくしてくださって」

他愛もない世間話。看守は欠伸を噛み殺していただろう。

だが、エミリアの目には一瞬、鋭い光が走ったという。

名前。コルデリアは名前を並べた。

それも、園で出会った囚人の名前をたまたま話題にした体で、自然に。

「ドロテア・バルサス。クラーラ・ウィンズレット。ベルタ・フォーサイス」

面会室を出た後、エミリアはその名前を一字一句記憶していた。

それが何を意味するのか——あの名前の持ち主たちを調べろということだと、エミリアには分かっていた。

****

コルデリアが園に来て一ヶ月が過ぎた頃、わたしはようやく観念して訊いた。

「あんた、何がしたいんだ」

中庭だった。灰色の空の下——いつもと同じ灰色の空だ。

囚人は一日一刻、中庭を歩くことが許される。

コルデリアは壁際の石段に腰掛けて、薄い日差しに目を細めていた。

「わたくしの話を聞いてくださいますの?」

「長いなら聞かない」

「では短く——わたくし、前世の記憶がありますの」

言葉を失った。

前世。

このあたりの宗教観では輪廻転生は異端に近い考え方だが、コルデリアの口調にはふざけた様子がまるでなかった。

「前世では、子どもの福祉に関わるお仕事をしておりましたわ。家庭に問題を抱えた子どもたちの話を聴いて、必要な場所に繋ぐ、そういうお仕事ですの」

「……意味が分からん」

「ええ、分からなくて結構ですわ」

コルデリアは少しだけ自嘲するように微笑んだ。

「前世の記憶を取り戻したとき、わたくしは自分が、誰かを虐げて最後には破滅する『悪役』の役割を割り当てられていることに気づきましたの。馬鹿げたお話でしょう?」

「……おとぎ話だな」

「ええ。でも、わたくしには前世で培った『人の話を聴く』という武器がありましたから、おとぎ話の通りに大人しく破滅を受け入れるつもりはありませんでしたわ」

「それで?」

「敵対する代わりに、破滅の火種になるはずだった方々——エミリアや殿下のお話を徹底的に聴くことから始めましたの。彼らが何を望み、何を恐れているのかを知るために。そうしたら、いつの間にか敵ではなく、最高の友人になっていたというわけですわ」

「……したたかな女だ」

「ふふ、褒め言葉として受け取っておきますわ。ただ、その過程で学んだことが一つありますの」

コルデリアは空を見上げた。

灰色の障壁越しのくすんだ空を。

「声を奪われた人間は、まず『自分には声がある』ことを忘れます。忘れた声は誰かが聴こうとしない限り、戻らない。そしてね、アストリッド」

わたしの名前を呼ぶ声は、いつも平坦ではなく、ほんの少しだけ温かかった。

「声を取り戻した人間は、強いですのよ。何よりも」

「詩みたいなことを言うな。で、それが何の役に立つ。声を取り戻したところで壁は壊れないし、門は開かない」

「壁を壊す必要はありませんわ。門を開ける鍵は、もうこの園の中にあります」

わたしは眉をひそめた。コルデリアは微笑んだ。いつもの穏やかな笑顔。

その目の奥には、初めて明確な意志の炎が見えた。

「この園には七十余名の囚人がいます。その中には、宰相レジナルドに人生を壊された方が何人もいらっしゃる。二十年前の土地収奪。十五年前の訴訟操作。十年前の粛清。宰相が権力を積み上げる過程で踏みつけてきた人々の証言が、ここにまとめて閉じ込められているんですの」

呼吸が止まった。

「宰相はこの園を証人の墓場にしているんです。声を消す装置として。でもね——」

コルデリアは石段の上で背筋を伸ばした。

灰色の修道服が風にわずかに揺れた。

「消したつもりの声は消えていませんでしたわ。この方たちは全員、覚えている。何をされたか。誰にされたか。いつ、どこで。記憶は想像以上にずっと消しにくいものですのよ」

わたしは黙って聞いていた。心臓が鳴っていた。

「わたくしがここですることは一つだけです。皆さまの声を聴いて、記憶を繋ぎ合わせて、外に届ける。外にはフリードリヒ殿下とエミリアがいます。あの二人が動ける材料をわたくしがここから渡す。時間はかかりますわ。でも——」

コルデリアはわたしを見た。

あの静かな目で。

「出られない場所なんて、ありませんわ。時間がかかるだけですの」

****

その夜、わたしは寝台の上で天井を睨んでいた。

信じるか、信じないか。

五年間、希望を持った人間が砕けていくのを見てきた。

希望は毒だ。特にこういう場所では。

持てば持つほど、砕けたときの破片が深く刺さる。

だが——あの女の目。

あれは希望に浮かされた人間の目ではなかった。地図を読んでいる人間の目だった。

現在地と目的地を正確に把握し、そこに至る道筋を既に見ている人間の目。

わたしは天井に向かって小さく呟いた。

「——アストリッド」

自分の名前。五年ぶりに自分で口にした。

声は震えなかった。ただ喉の奥が少しだけ痛んだ。

錆びた蝶番を無理にこじ開けたような痛みだった。

****

それからコルデリアは本格的に、聴き取りを始めた。

園の日課は決まっている。

朝の祈り、朝食、午前の作業、昼食、午後の作業、夕の祈り、夕食、消灯。

自由時間はほとんどない。

コルデリアは、作業場での会話、食堂での配膳の列、中庭の散歩の時間——あらゆる隙間を使って、一人ずつ囚人の話を聴いた。

わたしは気がつけばそれを手伝っていた。いつからだったのか、明確な境目はない。

最初は「あの老婆は午後の作業中が一番落ち着いてる」と情報を渡しただけだった。

次に「三十番は人前で話すのを嫌がるから、礼拝堂の裏が良い」と場所を指定した。

そのうち、わたし自身がコルデリアの代わりに話を聴く側に回っていた。

「あんたの手口に乗せられてる気がするぞ」

「あら、何のことかしら?」

白々しい笑顔。腹が立つ。

だが、腹が立つのは悪い気分ではなかった。

五年間、何も感じなかったのだ。

怒りですら、ある種の生命のしるしだった。

****

コルデリアが聴き集めた「声」は、断片としては散漫だった。

誰もが自分の身に起きたことしか知らない。

しかし、コルデリアはそれを——彼女の言葉を借りれば「編む」ことで、一枚の織物にしていった。

ドロテア・バルサス。

二十二年前、東部辺境の領地を巡る訴訟で敗訴し、偽証の罪で投獄された。

彼女の領地にあった鉱山は、訴訟に勝った側——当時の法務次官レジナルド・ヴェルデンの手に渡った。

現在の宰相が権力の基盤を築いた最初の一歩。

ベルタ・フォーサイス。

元宮廷魔法師。十二年前、「魔法機密の漏洩」を理由に投獄された。

彼女が知っていた機密とは、王宮の魔法防壁の設計図——そしてその設計図の中に、何者かが意図的に残した「穴」の存在だった。

その穴を通せるものは限られる。

例えば——微量の呪毒を、長期間にわたって。

クラーラ・ウィンズレット。

父親の領地が宰相に取り上げられた際、抗議した父は「反乱の扇動」で処刑され、娘は連座で投獄された。

クラーラが覚えていたのは、父の処刑に使われた証拠書類に押されていた印章の話だった。

王家の大印ではなく、宰相府の私印で発行された逮捕状。

本来あり得ない手続き。

一つ一つは塵のように小さい。

だが、コルデリアの手で編まれると、それは宰相レジナルド・ヴェルデンの二十年間の犯罪の年表になった。

土地の収奪。政敵の排除。証人の幽閉。そして——国王への呪毒。

「この園に来て、確信しましたわ」

ある夜、消灯後にコルデリアが囁いた。

わたしたちの寝台は隣同士で、暗闘の中で互いの声だけが聞こえる。

「陛下のご病気は、宰相による呪毒です。ベルタさまが知っていた防壁の穴。あれが経路。ドロテアさまの鉱山から産出される黒翠鉱は、微量で長期的な衰弱を引き起こす呪毒の原料になります。宰相はドロテアさまの土地を奪うことで、原料の供給源とその知識を持つ証人の両方を手に入れた」

「……全部、繋がるのか」

「ええ。二十年かけて宰相が築いた仕組みの全体像が、ここにいる方々の記憶の中に分散して残っていますの。一人の証言では意味を持たなかったものが、組み合わせると一枚の絵になる」

暗闇の中で、コルデリアの声は静かだったが揺るぎなかった。

「宰相は賢い方です。物的証拠はほぼ完璧に消している。文書は改竄し、記録は破棄している。でもね、人を消すことはできても、人の記憶までは消せなかった。そしてその記憶をよりにもよって一箇所に集めてくださった。この園に」

微かに笑う気配がした。

「皮肉なものですわね。宰相が証人を隠すために作った檻が、宰相を裁く証拠の宝庫になっているなんて」

****

面会日。

聖女エミリアは月に一度、欠かさず面会に来た。

毎回、看守の前で他愛もない会話を交わし、その中にコルデリアは新しい名前を織り込んだ。

時には名前だけでなく、日付や地名が混ざった。

「ベルタさまから素敵なお話を聴きましたの。十二年前の秋に、宮廷の魔法庭園で珍しい花が咲いたそうですわ。北館の……確か三階の東向きの窓から見えたとか」

看守にとっては退屈な花の話。

エミリアはその一語一語を持ち帰り、裏にある意味を読み解いた。

十二年前の秋。北館三階東向き。

それはベルタが最後に防壁の設計に関わった時期と場所を指している。

エミリアはコルデリアほど器用ではなかったが、真面目で粘り強かった。

教会の古い記録庫に通い、コルデリアが伝えた断片に対応する文書を探し出していった。

ベルタの投獄記録。裁判の議事録。

消されたはずの設計図の写しが、教会の地下書庫に一部残っていた。

一方、王太子フリードリヒは別の戦線を担っていた。

コルデリアから直接指示を受けていたわけではない。彼は彼自身の判断で動いていた。

宰相の権力基盤を外から崩すために、地方の領主たちとの関係を密かに再構築していた。

宰相に領地を奪われた者、圧力をかけられた者、沈黙を強いられた者——声を上げられずにいた貴族たちを一人ずつ訪ね、信頼を結んでいった。

ただし、王太子の動きは常に監視されていた。

宰相の目は広く、フリードリヒが誰と会い、何を話したかは逐一報告されていた。

だからフリードリヒは慎重だった。表向きは領地視察や社交の名目で動き、直接的に宰相を批判する言動は一切控えた。

刃を研ぐには時間がかかる。

園の中で、変化は少しずつ、確実に進んでいた。

コルデリアが聴き取りを始めて三ヶ月。園の囚人たちの間に、目に見えない何かが生まれていた。

連帯と呼ぶには大げさだ。ただ、食堂で誰かが誰かを名前で呼ぶ声が増えた。

作業場で隣の者に小さく声をかける者が増えた。中庭で二人、三人と固まって話す姿が増えた。

それは園長マルガレーテの目に、不穏な兆候として映り始めていた。

****

園長マルガレーテ・フォン・グリューネヴァルト。

この女について、わたしは五年かけてそれなりに理解しているつもりだった。

元教会の修道女。没落貴族の出で、修道院に入り、そこでの功績を買われて 静謐園(セレニア) の園長に任命された。

年齢は五十に届くか届かないか。

灰色の髪をきつく結い上げ、背筋は定規を入れたように真っ直ぐで、笑った顔を見たことがない。

横領をしているのではないか、とわたしは最初疑っていた。

この園の予算がどう使われているのかは不透明だったし、食事の質は劣悪だったから。

コルデリアが園に来て噂を聴き取った結果、園長は金に関しては潔癖だと分かった。

予算は正確に管理され、食事が粗末なのは予算自体が少ないからで、園長が懐に入れているわけではない。

マルガレーテは、金ではなく信念で動く人間だった。

それがこの女を厄介にしていた。

『贖罪者は静謐の中で己の罪と向き合い、神の赦しを待つべきである』

園の運営方針を一言で表せば、この一文に尽きる。

マルガレーテにとって囚人が互いに話すことは更生の妨げであり、名前で呼び合うことは世俗への執着であり、笑うことは反省の欠如だった。

悪意はない。少なくとも本人はそう思っている。

彼女は心の底から、沈黙と祈りが罪人を救うと信じていた。

声を奪っているという自覚がない。

それどころか、声を奪うことが慈悲だと信じている。

コルデリアが園に来て四ヶ月目。園長が動いた。

「百九番」

朝の祈りの後、園長がコルデリアの番号を呼んだ。

コルデリアは園での正式な番号をそう割り振られていた。

「はい」

「近頃、他の贖罪者たちとの私語が目に余ります」

「おしゃべりが過ぎましたでしょうか。申し訳ございません」

コルデリアの声は穏やかだった。園長はその穏やかさを反省と取ったかもしれない。

わたしにはその穏やかさの下にある芯が見えた。

五ヶ月近くこの女の隣にいれば、嫌でも分かるようになる。

「私語は禁止されていないとはいえ、限度があります。他の贖罪者の心の平穏を乱すことは許容できません。以後、慎みなさい」

「かしこまりました」

コルデリアは頭を下げた。そして、何も変えなかった。

変えなかった、というのは正確ではない。表面上は確かに、私語は減った。

コルデリアが囚人たちの話を聴く行為は、もはやコルデリア一人の行為ではなくなっていた。

これが、この女の本当の恐ろしさだった。

四ヶ月で、コルデリアは園の囚人の大半と言葉を交わしていた。

その中から、信頼できる数人との間に、静かな繋がりを築いていた。

その繋がりが自律的に動き始めていた。

コルデリアが声をかけなくても、囚人たちが自分から互いの記憶を確認し合うようになっていた。

作業場の片隅で、礼拝堂の影で、目立たないように、確実に。

わたしが仲介役を引き受けたのは、この頃だった。

元騎士として園内の地形と人間関係を把握していたわたしは、看守の巡回パターンや園長の行動予測ができた。

誰がいつどこで話せるか。誰と誰を引き合わせるべきか。

わたしはコルデリアの耳と足になった。

「アストリッドは本当に頼りになりますわ」

「おだてるな。それより、二十一番の件だが」

いつの間にか、わたしはこの計画の共犯者になっていた。

希望は毒だと知っていたはずなのに。

これは希望ではない、と自分に言い聞かせた。これは作戦だ。元騎士の血がそう解釈することを許した。

目標がある。手段がある。協力者がいる。期限もある。

これは漠然とした「いつか出られるかも」ではなく、具体的な工程を持った作戦行動だ。

そう思わなければ、怖くて加担できなかった。

****

五ヶ月目。事件が起きた。

園長マルガレーテが、コルデリアを独房に入れた。

理由は「他の贖罪者との過度な交流による秩序撹乱」。

独房は園の地下にある。窓のない石の部屋。灰色の光すら届かない完全な暗闇。

食事は一日二回、扉の下の隙間から皿が差し入れられる。

期間は不定。園長の裁量で決まる。

わたしは園長室に乗り込もうとして、ヴィオラに止められた。

「馬鹿。あんたまで独房に入れられたら終わりだろう」

歯を食いしばった。ヴィオラの言う通りだった。

わたしまで独房に入れられたら、園内の連絡網が機能しなくなる。

コルデリアが独房に入れられた日の夜、聖女エミリアが来る面会日だった。

面会室に現れたわたしを見て、エミリアは一瞬目を見開いた。

いつもはコルデリアがいる場所に、知らない女が座っている。

「あんたが聖女エミリアか。わたしはアストリッド。コルデリアの——」

何だ。何と言えばいい。

友人。共犯者。戦友。どれもしっくりこない。

「——隣の寝台の女だ」

エミリアは一瞬きょとんとした後、小さく頷いた。

「アストリッドさん。コルデリアさまから、あなたのことは伺っています」

「あの女は今、独房に入れられている。面会には出られない」

エミリアの表情が強張った。

だがすぐに、看守の存在を意識して表情を戻した。

聖女はこの若さでなかなか度胸がある。

「……なぜ、そこまでしてあの女のために動く」

看守の目を盗んで小声で問うと、エミリアは静かに首を振った。

「逆です。かつて私が誰にも信じてもらえず孤立していたとき、最初に声を聴いて、悲劇の運命から救い出してくれたのがコルデリアさまなのです。今度は、私たちが彼女を救う番なのです」

その目には、揺るぎない覚悟があった。

「大変ご不便をおかけして申し訳ありません。お見舞いの品をお持ちしたのですが」

世間話の形を保ちながら、わたしはコルデリアに代わって「名前」を渡した。

この一ヶ月で新たに聴き取った囚人たちの名前と、その記憶の断片を会話に紛れ込ませて。

自分でも驚いた。わたしにはコルデリアのような技術はない。

しかし、五ヶ月間、あの女のやり方をずっと見ていた。見よう見まねで、不恰好だったと思う。

それでも、エミリアは一言も聞き逃さなかった。

面会が終わり、廊下を歩きながら、わたしは自分の手が震えているのに気づいた。

緊張ではない。怒りだった。

コルデリアが暗い穴の中に閉じ込められている。

あの女は、こんなところで潰れるような人間ではない。

暗闇の中で一人、どんな顔をしているのか。

****

独房の扉越しに声をかけたのは、コルデリアが入れられて三日目の夜だった。

看守の巡回の合間を縫って、地下に降りた。

「おい。生きてるか」

扉の向こうから、少し間があって声が返ってきた。

「あら、アストリッド。来てくださったの」

声は平坦だった。弱っている様子はない。

だが、暗闘の中で三日間一人でいて平気な人間はいない。

「面会、わたしが代わりに出た。エミリアに渡すものは渡した」

「ありがとう。上手くできまして?」

「知るか。下手くそだったと思う」

くすりと笑う声が聞こえた。

暗闇の中で、その笑い声はひどく小さかったが、確かに笑っていた。

「アストリッド、わたくしが独房に入ることは、想定の範囲内ですの」

「……は?」

「園長が危機感を覚えるほど、わたくしたちの動きが進んでいるということですわ。そして、わたくしが独房に入っている間に皆さまが自分たちだけで動けるかどうか。それが試されている」

息を呑んだ。この女は、独房に入れられることすら計画に組み込んでいたのか。

いや、組み込んでいたというよりは、あらゆる事態を想定して、それぞれの場合に何が起こるかを事前に考えていたのだろう。

「あんたが動けなくなったら終わりだと、わたしは思っていた」

「終わりませんわ。だってアストリッドがいるもの」

声は穏やかだった。

信頼、という重い響きが暗闇の中に満ちた。

「それに——」

コルデリアの声が少しだけ低くなった。

「——わたくしがいなくても動く仕組みを作ることが最初から目標でしたの。一人の人間に頼る仕組みは脆い。それは前世のお仕事で、嫌というほど学びました」

わたしは扉に背中を預けて、暗い天井を見上げた。

「大丈夫か、と聞いてもいいのか」

「ええ、大丈夫ですわ。暗いのには慣れておりますから」

嘘だ、と思った。慣れるわけがない。

だが、この女はそういう嘘をつく。自分の弱さを人に預けることを、どこか怖がっている。

前世とやらで、何があったのかは知らない。聞く気もない。ただ——。

「——わたしは大丈夫じゃない。あんたがここにいるとな」

沈黙。

「ありがとう、アストリッド」

その声だけは、嘘ではなかった。

****

園長マルガレーテが面会室の窓から覗く外の季節を秋に変えた頃。

コルデリアが独房から出されたのは、十日後だった。

十日の間に、園の中では不可逆の変化が起きていた。

コルデリアがいなくても、囚人たちは互いの名前を呼び続けた。

記憶を語り続けた。コルデリアという結び目が抜けても、網はほどけなかった。

園長はそのことに気づいていた。気づいていて、どうすることもできなかった。

全員を独房に入れるわけにはいかない。そして、名前を呼ぶことを明文的に禁止する規則は、さすがに園長にも作れなかった。

作ればそれは、矯正ではなく、弾圧になる。

マルガレーテは自分が弾圧者であることを認められない人間だった。

なぜなら、自分は正しいことをしていると信じているから。

独房から出たコルデリアは、頬がこけ、肌に青白い影が落ちていた。

だが、目は変わっていなかった。あの静かな遠い場所を見ている目。

大部屋に戻ってきた彼女に、ドロテアが近づいた。

二十年以上この園にいる老婆が、コルデリアの手を取って何も言わずにぎゅっと握った。

コルデリアの目が一瞬だけ揺れた。

すぐに微笑みに戻ったが、わたしは見逃さなかった。

あの一瞬だけコルデリアは、技術ではなく、人間だった。

****

コルデリアが園に収監されて一年と半年が経った。

外の動きは、断片的に面会を通じて伝わってきた。

王太子フリードリヒは、一年半をかけて地方領主との連携をほぼ完成させていた。

宰相レジナルドの圧政に不満を抱く領主は少なくなかったが、報復を恐れて声を上げられなかった。

フリードリヒは一人一人を訪ね、信頼を築き、その時が来たら共に立つという約束を取りつけた。

王太子としての正統性と、何よりコルデリアの冤罪を晴らすという個人的な意志が、彼を動かしていた。

聖女エミリアは、コルデリアとアストリッドから受け取った情報を元に、教会の内部工作を進めていた。

教会の上層部は宰相と利害関係があったが、エミリアが持ち込んだ「国王への呪毒」の疑惑は、教会を動かすに十分な重さを持っていた。

国王は教会にとっても庇護者であり、その命が脅かされているとなれば看過できない。

エミリアは若く、政治力は乏しかったが、誠実さと粘り強さで教会内の良心的な聖職者たちを味方につけていった。

コルデリアの両親——ヴァルムント公爵夫妻は、依然として領地に謹慎を命じられていた。

フリードリヒの密使を通じて状況は把握しており、公爵は地方領主ネットワークの一翼を静かに担っていた。

謹慎中の身で直接は動けないが、旧来の盟友たちとの信頼関係がフリードリヒの工作を側面から支えていた。

そして園の中。

コルデリアの聴き取りはほぼ完了していた。

七十余名の囚人のうち、宰相レジナルドの犯罪に直接関わる証言を持つ者は十七名。

その証言を組み合わせることで浮かび上がる全体像は、わたしの想像を超えていた。

二十年にわたる土地の収奪。政敵の粛清。裁判の操作。証人の幽閉。

そして国王への呪毒。

宰相は二十年かけて、王国の権力を一枚一枚剥ぎ取ってきた。

摂政の座を狙っているのか、あるいはその先を——それは分からない。

だが、国王の病が宰相の仕業であるという疑惑が立証されれば、すべてが崩れる。

「あと少し、ですわ」

コルデリアが中庭でそう呟いたのは、収監から一年と十ヶ月目のことだった。

冬の面会日にエミリアが持ち帰った情報で、最後のピースが嵌まった。

教会がベルタの証言に基づいて王宮の防壁を独自に調査した結果、北館三階東面の障壁に不自然な「薄層」が発見された。

そこを通じて微量の呪毒が長期間にわたって国王の居室に浸透し得るという魔法師団の鑑定結果が出た。

物的証拠が揃った。

証人の証言がある。物的証拠がある。王太子が貴族院を動かせる態勢がある。教会が後ろ盾になる。

あとは——すべてを同時に動かす「その日」を決めるだけ。

「次の面会日に、エミリアに伝えてくださいまし」

コルデリアがわたしに言った。

独房以来、面会はわたしとコルデリアが交代で出ることにしていた。

二人が交互に出ることで、多少なりとも園長に怪しまれにくくなる。

「何を」

「『春の訪れを待っています』と。それだけで伝わりますわ」

次の面会日は二ヶ月後。

ちょうど外が春を迎える頃だ。

「……動くのか」

「ええ」

コルデリアの目が初めて潤んだように見えた。錯覚かもしれない。

灰色の光の中では、何もかもが曖昧に見える。

「二年、かかりましたわね」

「長かったか」

「……ええ。長かったですわ」

初めてだった。コルデリアが弱さを見せたのは。

わたしは何も言わなかった。ただ隣に立っていた。

灰色の中庭で、灰色の空の下で。

****

収監から二年。春の面会日。

わたしが面会室でエミリアに言葉を伝えた。

「コルデリアさまは、春の訪れを楽しみにしていると仰っていました」

エミリアの目が光った。頷きは小さく確かだった。

それから二週間。

園の中にいるわたしたちには、外の動きは直接見えない。

だが、その日は来た。

朝の祈りが終わり、いつもと同じ朝食の列に並んでいたときだった。

園の正門が、外から叩かれた。尋常ではない音だった。

拳ではない。柄頭で打つ、軍の正式な叩門の音。

わたしの身体が勝手に反応した。

五年以上前に叩き込まれた軍の記憶が、錆びた歯車のように軋みながら回った。

あれは査察の音だ。

園長マルガレーテが廊下を早足で歩いていくのが見えた。

いつもの厳格な足取りに、わずかな乱れがあった。

門が開いた。

入ってきたのは、王家の紋章を掲げた騎士団。

その先頭に立っていたのは——。

——王太子フリードリヒ。

園内の囚人たちがざわめいたことで分かった。

金の髪に王家の青いマント。若い。コルデリアと同い年くらいか。

その目は若者のものではなかった。

二年間の忍耐と覚悟が刻まれた目だった。

王太子の隣には聖女エミリアがいた。

白い法衣ではなく、教会の正式な典礼装束。

その後ろには教会の高位聖職者が三名。

さらにその後ろに、貴族院の議員と思しき者たちが続いていた。

これは面会ではない。正式な国家査察だ。

園長マルガレーテが正門の前に立ちはだかった。

「殿下、これは……。事前の通達なく園にお入りになることは、規則に反します」

「国王陛下の勅命による緊急査察です。園長、道を開けなさい」

フリードリヒの声は冷たかった。園長は退かなかった。

「勅命とのことですが、陛下はご病床にあると伺っております。このような命令が——」

「——国王陛下は意識を回復されました」

エミリアが前に出た。

その言葉に、園長の顔から初めて血の気が引くのが見えた。

「教会の治療班が呪毒の解毒に成功しました。陛下は今朝、ご自身の意志でこの勅命を下されています」

呪毒。その言葉が園長の前で発せられた瞬間、わたしは園長の目が揺れるのを見た。

理解できなかったのではない。理解したくなかったのだ。

自分が管理してきたこの園の真の意味を。

自分が「沈黙させてきた」囚人たちが、なぜここにいるのかを。

騎士団が園内に入った。査察は迅速だった。

園の囚人名簿と、コルデリアが二年かけて編み上げた証言の記録が照合された。

証言の記録はエミリアが園の外で保管していたもので、コルデリアから受け取った断片をエミリアが一つ一つ裏付けを取りながら文書化していたものだった。

そして——証人たちが、声を上げた。

ドロテアが最初だった。

二十二年間沈黙していた老婆が、王太子の前に進み出て、枯れた声で語り始めた。

自分の領地を奪われた経緯を。

偽証を強いられたことを。拒んだら反逆罪にされたことを。

続いてベルタ。

宮廷魔法師としての誇りを取り戻したように、背筋を伸ばして。

防壁の穴のこと。それを報告しようとしたら投獄されたこと。

自分が消されたのは、あの穴が宰相にとって必要なものだったからだということ。

クラーラ。

父の死。不正な逮捕状。

声を震わせながら、最後まで語り通した。

一人、また一人と。

コルデリアが名前を呼び、声を掘り起こし、記憶を繋ぎ合わせた十七人の証人が、次々と口を開いた。

園長マルガレーテは、壁際に立ち尽くしていた。

彼女の前で、二十年分の沈黙がなだれ込むように溢れ出していた。

矯正の名の下に彼女が維持してきた静寂は、沈黙ではなく抑圧だった。

声が必要だった人間たちの口を彼女は善意で塞いでいた。

その事実を、目の前の光景が否応なく突きつけていた。

****

園の奥からコルデリアが看守に連れられて出てきた。査察団が身柄の解放を命じたのだ。

二年ぶりに障壁を通さない本物の陽光を浴びたコルデリアの姿を、わたしは園の回廊から見ていた。

灰色の修道服。頬はこけ、肌は蒼白で、髪は伸びて背中の半ばに届いていた。

二年前に園に入ってきたときの、あの場違いな優雅さは失われていた。

だが、目は変わっていなかった。

あの静かな目。水面に風紋ひとつない湖のような目。

ただし、その湖面の底に光が差していた。二年間見たことのない種類の光。

フリードリヒが歩み寄った。王太子の目が赤かった。

声は抑えられていたが、震えを隠しきれていなかった。

「——遅くなった。すまない」

「いいえ、殿下。遅くなんてありませんわ」

コルデリアは微笑んだ。いつもの穏やかな微笑み。

その声は、ほんのわずか掠れていた。

エミリアが駆け寄り、コルデリアの手を取った。

聖女の目から涙がこぼれていた。

「コルデリアさま。あなたが繋いでくださった声が、すべてを動かしました」

園の正門が大きく開け放たれていた。

外から風が吹き込んでいた。春の風だった。

湿った草の匂いと、どこかで咲いている花の甘い匂い。

灰色の障壁越しの光しか知らなかったわたしの肌に、その風は暴力的なほど鮮烈だった。

コルデリアは開け放たれた門の方を向いた。

目を閉じた。風が金色の髪を攫った。

長い沈黙の後、彼女は目を開けて、泣いた。

声は出さなかった。ただ目から涙が一筋流れた。灰色の修道服の襟元に染みが落ちた。

あの女が泣くのを、わたしは初めて見た。

二年間、独房の暗闇の中でも、園長に圧され続けた日々の中でも、一度も見せなかった涙を春の風の中で一筋だけ流した。

それが、コルデリアの二年間の重さだった。

****

王都では、すべてが同時に動いていた。

王太子フリードリヒが貴族院で宰相レジナルドの弾劾を発議した。

教会が国王への呪毒の物的証拠を提出した。

地方領主たちが一斉に支持を表明した。

そして 静謐園(セレニア) の証人たちの証言記録が、貴族院の議場で読み上げられた。

宰相は弁明を試みた。証言は囚人の妄言だと。物的証拠は捏造だと。

だが、防壁の穴は現に存在し、呪毒の痕跡は教会の魔法師団が鑑定し、国王自身が回復した意識の中で「宰相を調査せよ」と命じていた。

二十年かけて築いた権力の城が、一日で崩れた。

いや、崩れたのではない。二十年前から、壁の中にひびが入っていたのだ。そのひびの一つ一つが、声だった。

消したはずの、消えていなかった声。

宰相レジナルド・ヴェルデンは拘束された。

彼はコルデリアに「国家反逆」という悪役の濡れ衣を着せ、闇に葬ろうとした。

だが、かつて彼女自身が理不尽な破滅の運命から救い出した者たちが、今度は彼女を救い出したのだ。

コルデリア・ヴァルムントの冤罪は正式に取り消され、爵位は回復された。

ヴァルムント公爵夫妻の謹慎命令は撤回された。

そして 静謐園(セレニア) の囚人全員の記録に対して、再審査が命じられた。

全員のだ。

****

門が開いた日、園長マルガレーテは園長室から出てこなかった。

翌日、辞表が提出された。それきり、彼女の姿を見た者はいない。

わたしは彼女を憎むべきなのかもしれない。五年間、番号で呼ばれ続けた日々を。

しかし、マルガレーテは悪意の人間ではなかった。善意で、信念で、間違い続けた人間だった。

それはある意味、悪意よりも救いがない。

彼女が辞表を出す前日の夜、園長室の窓に明かりがついていたと、夜勤の看守が言っていた。

一晩中、何を考えていたのかは、分からない。

****

それから半年が経った。

わたし——アストリッド・アーレンスは、再審査の結果、無罪放免となった。

上官の横領の共犯という罪状は、そもそも証拠が薄弱だった。

宰相の権力が健在だった頃には覆せなかった判決が、権力構造が変わった今ではあっさりと覆った。

正義とは状況に依存するものだという苦い教訓を噛みしめつつ、わたしは自由の身になった。

ドロテアは親族に引き取られた。

二十二年ぶりの娘との再会を果たしたと聞いた。娘はもう四十を超えていた。

ベルタは宮廷魔法師団に復帰した。

防壁の穴を修復する仕事を自ら志願したという。

クラーラは父の名誉回復を見届けた後、南部の修道院に入った。

今度は自分の意志で。

コルデリアは王都にいた──しばらくは。

冤罪の被害者として公式の謝罪を受け、公爵令嬢としての地位を回復し、両親と涙の再会を果たした。

王太子フリードリヒは盛大な歓迎の宴を催そうとしたが、コルデリアは丁重に辞退した。

「大げさなことは苦手ですの」と言ったらしい。

二年間の幽閉を耐え抜いた女が何を言うか、とわたしは思った。

王都での用事を一通り済ませた後、コルデリアは旅に出ると言った。

「少し、一人になりたいの」

王太子もエミリアも、そして両親も、引き留めなかった。

二年間の重さを彼女がどう消化するかは彼女自身に任せるべきだと、全員が理解していた。

行き先は告げなかった。

ただエミリアにだけ、小さく耳打ちした。

****

わたしは王都でしばらく過ごした。自由は思いのほか手に余った。

騎士団に戻る気はなかった。何をすればいいのか分からなかった。

園にいたわたしは、ここから出ることを夢見ることすらやめていた。

コルデリアに出会うまでは。

宿の部屋で天井を見上げる癖が抜けない。

ただ、天井の向こうに空がある。それだけで、園にいた頃とは違う。

エミリアがわたしを訪ねてきたのは、コルデリアが王都を発って一ヶ月後のことだった。

「アストリッドさん、コルデリアさまから、お手紙です。わたしに届いたのですが、内容はあなたに関わることなので」

手紙を受け取った。コルデリアの筆跡。

園では見ることのなかった、流麗な公爵令嬢の手。

内容は短かった。

【アストリッドへ

あなたに怒られそうなことを書きます。

わたくし、しばらく王都には戻りません。どれくらいになるかは、自分でも分かりません。

この二年間、いえ、記憶を取り戻してからの年月、わたくしはずっと計画の中にいました。

破滅の運命を回避し、 静謐園(セレニア) という檻から抜け出す。その目標だけが、わたくしを立たせていました。

でも、すべてが終わった今、心にぽっかりと穴が空いてしまいましたの。

おかしな話ですわよね。あんなに焦がれた自由を手に入れたのに、その使い方が分からないなんて。

今は、王都から遠く離れた南の果て、国境沿いの港町アズーリアにいます。

白い漆喰の壁に、見渡す限りの青い海。潮風の匂い。

記憶の中で見た、遠い異国の風景にとてもよく似ています。

もしかしたら、わたくしが心の奥底で思い描いていた『自由』の形だったのかもしれません。

毎朝、防波堤に座って海を見ています。何も考えずに、ただ空と海を眺める練習です。

園にいた頃は、ずっと考えていました。次に誰と話すか、何を聴き取るか、どうやって声を集めるか。

考えることがわたくしの武器であり、盾であり、何より自分自身の心を縛り付ける檻でもありました。

今はその檻の鍵を外そうとしているのですが……ひどく下手くそです。

波の音を聞いていると、つい考えてしまうのです。あなたは今、あの灰色の天井ではなく、本当の空を見上げているだろうか、と。

追伸

もしあなたが自由を持て余しているなら、この不器用な女の練習に付き合ってくれませんか。

隣で「馬鹿な女だ」と呆れてもらえないと、わたくしはいつまでも上達できそうにありません】

手紙を読み終えたわたしは、しばらく黙っていた。

エミリアがわたしの顔を窺っていた。

「……あの馬鹿が」

「行かれますか?」

「行かないわけないだろう」

わたしは立ち上がった。

宿の荷物をまとめるのに、十分もかからなかった。

何も持っていなかったのだから。

****

アズーリアまで、馬車と船を乗り継いで八日かかった。

王都から遠く離れた国境沿いの港町は、確かにコルデリアの手紙の通りだった。

白い壁。青い海。石畳の坂道の両側に、色とりどりの花が咲いている。

空が広い。どこまでも広い。

灰色の障壁なんてどこにもない、剥き出しの青い空。

港の近くの小さな宿を訪ねた。

宿の女将に「金髪の背の高い女が泊まっていないか」と尋ねると、すぐに分かった。

「ああ、コルデリアさんね。毎朝、港の突堤の先で海を見てるよ」

突堤を歩いた。潮風が正面から吹きつけた。

壁の中にいた身体には、風が強すぎた。

目が痛い。涙が出る。いや、これは風のせいだ。

突堤の先端に、一人の女が座っていた。

灰色の修道服ではなかった。簡素な白い麻の上衣に、青い長裙。金色の髪が潮風に流れていた。

背中がこちらを向いている。海を見ている。

足音に気づいたのだろう。振り向いた。

「——あら」

コルデリアは目を見開いた。それからゆっくりと、笑った。

園で見たどの笑顔とも違う笑顔だった。

計算がない。技術がない。ただの笑顔だった。

「来てくださったの」

「手紙で呼ばれたら来るだろ。普通」

「普通かしら。わざわざ王国の南の果てまで来る方は、普通ではないと思いますわ」

「うるさい」

わたしはコルデリアの隣に腰を下ろした。

突堤の石が太陽に温められていた。

目の前に海が広がっていた。青かった。

園の灰色とは、何もかもが違った。

しばらく黙って海を見ていた。

波の音だけが聞こえた。

「何も考えない練習は、上達したか」

「全然ですわ」

「だろうな」

「でも、海を見ていると、少しだけ頭の中が静かになりますの」

コルデリアの横顔を見た。頬に色が戻っていた。

園にいた頃の蒼白さは消え、潮風に焼けてわずかに色づいている。

目の下の隈もほとんどなくなっていた。

「アストリッド」

「何だ」

「ありがとう」

「何に対してだ」

「全てに対して」

わたしは鼻を鳴らした。

「全部ってのは雑だぞ」

「では、具体的に。独房の扉の外で『大丈夫じゃない』と言ってくれたこと。面会をわたくしの代わりに務めてくれたこと。わたくしがいない間も園の皆さまを繋いでいてくれたこと。そして、ここに来てくれたこと」

「……やめろ。こそばゆい」

「もう少し続けてもよろしくて?」

「駄目だ。絶対に駄目だ」

コルデリアが声を出して笑った。

園では一度も聞いたことのない、明るい笑い声だった。

海風に乗って空に溶けていった。

わたしも少しだけ、笑ったかもしれない。

自分では分からなかった。七年ぶりに笑う顔がどんな形をしているのか。

ただ顔の筋肉が引きつって、妙な感じがしたので、多分笑っていたんだと思う。

****

港町の夕暮れは、信じられないほど色彩に溢れていた。

空が青から橙に変わり、橙から紅に変わり、紅から紫に変わっていく。

海面がその色をすべて映して揺れている。園では見ることのできなかった色だ。

灰色の障壁が奪っていた色のすべてが、わたしの目の前に、暴力的なまでの鮮やかさで広がっていた。

宿に向かう石畳の坂道を二人で並んで歩いた。

「コルデリア」

「はい」

「あんたは園にいた二年間、皆の声を掘り起こした。名前を取り戻させた。あんたが最初にくれたものは、計画でも策略でもなかった。『お名前を伺ってもよろしいかしら』。たった一言だった。あの一言に——わたしは救われたんだ」

コルデリアが足を止めた。わたしも止まった。

夕陽が横から差して、二人の影が長く石畳に伸びていた。

「わたしは元騎士だ。剣なら振れる。だが、あんたのやったことは、剣では絶対にできないことだった」

コルデリアの目が揺れた。潤んだ。でも今度は涙はこぼれなかった。

代わりに、静かに微笑んだ。

あの技術の笑顔ではない。

園の門が開いた日にも見せなかった、ただの一人の人間の笑顔だった。

「アストリッド。わたくしもね、あなたに救われていたんですのよ」

「わたしが?何もしてないだろう」

「あなたは、わたくしの話を聴いてくれた。前世の記憶のこと。馬鹿げた話だと笑わずに。あの園で、わたくしの声を最初に聴いてくれたのは、あなたですわ」

わたしは言葉に詰まった。

「——相変わらず、上手いことを言う女だな」

「本心ですわよ」

「知ってる」

石畳の坂道を歩いた。

白い壁の家並みの向こうに、海が夕焼けに染まっていた。

空が広い。どこまでも広い。

あの灰色の園で、コルデリアは二年の間、誰よりも自由だった。

壁の中にいても、独房の暗闇の中にいても、あの目はいつも壁の向こうを見ていた。

それは、ここではない場所への逃避ではなかった。ここから出て、そこに行くという確信だった。

その確信が希望と呼ぶには鋭すぎ、計画と呼ぶには温かすぎる何かが園にいたすべての人間に伝染した。

自由というのは、場所のことではない。

それをわたしに教えたのは、檻の中にいた一人の公爵令嬢だった。

港町の石畳を二人が並んで歩いていく。

空が広い。

語り手:アストリッド・アーレンス