軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第19話『それぞれの決意』

【デュラン】

帝国暦四百三十二年八月下旬、

「旦那、起きて下さいよ。旦那ってば」

「あ~、分かってるよ」

デュランは眠い目を擦りながら、体を起こした。

ドワーフの職人が作ったベッドはデュランが体を起こしたくらいでは軋まない。

アンジェと励んでいる時も軋んだりしない。

実にしっかりとした作りをしているのだ。

備え付けの家具はどれもしっかりとした作りだ。

これほど質の良い家具を帝都で買い揃えようとしたら、どれくらい金が掛かるのか。

少なくとも、デュランが帝都で警備兵をしていた頃の給料では難しいだろう。

デュランはベッドから下り、服に袖を通した。

服の色は近衛騎士であることを示す白でも、一般兵であることを示す黒でもない。

麻のズボンとシャツだ。

普段着としては上等だが、公式な場に出る服としては物足りない。

剣帯と剣は身に付けない。

今のデュランは騎士ではなく、エラキス侯爵領の事務員見習いなのだ。

三ヶ月の試用期間を経て問題ないと判断されれば晴れて正式な事務員になれる。

問題ありと判断されれば試用期間の延長か、エラキス侯爵領の騎兵隊に配置転換……軍に出戻ることになる。

「旦那、食事はどうします?」

「ああ、食ってくよ」

最近のデュランは早寝早起きを心掛けている。

遅刻は事務員見習いの立場上、絶対に避けなければならない。

デュランはアンジェの後を追い、二階から一階に移動した。

朝食が食堂のテーブルに並べられていた。

朝食のメニューはパンと白身魚のスープ、サラダだ。

デュランは自分の席に座り、スープを口に運んだ。

エラキス侯爵領は魚と塩の価格が帝都よりも安い。

海が半日程度の距離にあるのだから、驚くようなことではないのかも知れないが。

「旦那、仕事はどうです?」

「まあまあじゃねーかな?」

デュランは手を休めた。

少し嘘だ。

覚えることは多いし、失敗も少なくない。

自分の堪え性のなさに自己嫌悪を抱くこともしばしばだ。

「旦那は、近衛騎士になるのを諦めたんですか?」

「まあ、な」

デュランは言葉を濁した。

「あたしのため、ですか?」

「お前のためと言えば、お前のためだけどよ」

十人の仲間が神聖アルゴ王国の任務で死んだ。

生き残った二十人の内、十人は帝都で働くことを望み、残る十人はクロノの領地に異動を望んだ。

その中で事務員を希望したのはデュランだけだった。

「とことんまで掘り下げりゃ、自分のためなんじゃねーかと思うんだよな」

「自分のため、ですか?」

ああ、とデュランは頷いた。

デュランは神聖アルゴ王国の任務で誰もが英雄として死ねる訳じゃないと知った。

だが、と思う。

仮に英雄的な死を迎える機会に恵まれたとして、自分は英雄として死ねるだろうか。

英雄然とした気持ちで死を受け容れられるだろうか。

無理だ、と思う。

デュランは神聖アルゴ王国で死を意識した時、アンジェのことしか思い出せなかった。

しかも、アンジェとベッドで励んだ記憶だ。

デュランは自分が英雄の器ではないことを悟った。

そして、英雄としての死よりも凡庸な生を選んだ。

デュランはレオンハルトに頼み込み、事務員の仕事を見繕って貰った。

仕事はすぐに見つかった。

帝都の仕事もあったのだが、クロノの領地で働くことにした。

「それにしちゃ、未練たらたらだと思うんですけどね」

「まあ、剣術の訓練は……何が起きるか分からねーからな」

デュランは今も素振りを続けている。

習慣ということもあるが、自分の家族を守れる程度の力を維持しておきたかったのだ。

「だからよ、仕事のことは気にしないでくれ。これでも、俺は楽しんでやってるんだからよ。それとも、アレか? 近衛騎士の嫁って肩書きに未練でもあるのか?」

「そんなもんに未練なんて、ありゃしませんよ」

アンジェは少し強い口調で言い返してきた。

「けど、幸せすぎて、ちょっと不安なんですよ。旦那があたしみたいな女を見初めてくれただけでも幸運なのに……仕事を変えたり、この待遇も」

アンジェは所在なさそうに視線を巡らせた。

言いたいことは分かる。

デュランとアンジェが帝都で住んでいた家は隙間風が吹き込んで来るような安普請だったが、宿舎として貸し与えられたこの家は備え付けの家具まで立派なのだ。

「気にする必要ないんじゃねーか?」

「気にしますよ」

アンジェは憂鬱そうな溜息を吐いた。

デュランはスープを飲み干し、席を立った。

すると、アンジェも立ち上がり、デュランを玄関まで見送った。

デュランは侯爵邸に向かう。

デュランの家は侯爵邸からやや離れた所にある。

アンジェに言わせると、買い出しに不便らしい。

「……デュラン」

デュランは名前を呼ばれ、歩調を落とした。

しばらくすると、ブルーノがデュランに追いついてきた。

「やっぱり、ブルーノか」

「ああ、俺だ」

デュランはブルーノと肩を並べて歩く。

ブルーノはデュランと同じように近衛騎士を夢見て、神聖アルゴ王国での任務に参加した。

ブルーノも作戦の後、色々と考えたらしくエラキス侯爵領に異動となった。

所属は騎兵隊だ。

「調子はどうよ?」

「まあまあだ」

ブルーノは唇の傷を撫でながら答えた。

どうやら、訓練でかなりしごかれているようだ。

「少し痩せたか?」

「隊長が痩せろとうるさい。何でも、馬が遅くなるらしい」

ブルーノの上司はアリデッドとデネブだ。

あの二人のことだから、かなり口汚く罵っているんじゃないだろうか。

「お前は太ったな」

「チッ、幸せ太りってヤツだよ」

デュランは舌打ちした。

剣術の訓練は続けているが、帝都にいた頃に比べれば体を動かす時間が格段に減っている。

自分でも太ったと感じていたが、他人に指摘されると腹が立った。

「近衛騎士は諦めたのか?」

「ああ」

そうか、とブルーノは頷いた。

デュランも馬鹿じゃない。

自分が陰で何と言われているか知っているつもりだ。

「俺はお前の決断を尊重する」

「ありがとよ。お前は近衛騎士を諦めないのか?」

「もう近衛騎士だ」

「第十三近衛騎士団だけどな」

デュランは悪ぶって見えるように口の端を吊り上げた。

アルフォート殿下の一存で作られた第十三近衛騎士団の立場は微妙だ。

第十三近衛騎士団が亜人を主とした軍で、団長のクロノは新貴族だ。

そのせいで近衛騎士団と思われていないのだ。

「俺は、ここから始める」

「そうか」

今度はデュランが頷く番だった。

第十三近衛騎士団は騎兵の数が少ない。

軽騎兵、弓騎兵、そこにブルーノ達を加えても五十七人しかいない。

ブルーノは自分を高く売り込めると考えたのか。

恐らく、違う。

ブルーノは第十三近衛騎士団に可能性を見たのだ。

それは第十三近衛騎士団の可能性でもあるし、ブルーノ自身の可能性でもある。

第十三近衛騎士団に所属すればアリデッドやデネブのように高度な教育を受けられるかも知れない。

教育が受けられなくても盗み取ることはできる。

実戦経験のある兵士や傭兵の話も成長の糧になる。

ブルーノは近衛騎士の先を目指そうとしているのだ。

デュランは歩きながら、ブルーノと近況を報告し合った。

仕事が異なるので、互いに相槌を打つくらいしかできない。

ただ、共通する話題……認識もあった。

事務員も、兵士も驚くほど規律正しいのだ。

帝都の警備兵は賄賂を要求することがしばしばある。

ケチな犯罪者を取り締まるより賄賂を受け取ってお目こぼしをするのだ。

徴税官などの役人、宮廷貴族でも賄賂を受け取り、便宜を図ることが行われていた。

それは霊廟の建設が始まってから酷くなった。

酷くなったと言っても、正確な数字は分からないので、デュランの感覚に過ぎないのだが。

「現場の人間に……まあ、亜人が多いけどよ。とにかく、現場の人間にまで浸透させるのはスゲーよな」

「行商人に賄賂を要求しようとしたヤツが隊長に蹴りを食らっていた。あーたしらがどれだけ苦労して、どーれだけ苦労して、治安を改善させたと思ってるみたいな、この新参者が! ともの凄い剣幕だった」

誰のマネだよ、とデュランは感想を呑み込んだ。

まあ、デュランの耳に伝わっていないということはアリデッドが賄賂を要求する前段階で止めたのだろう。

「あれは良い判断だった」

「まあ、帝都の流儀は通用しねーって分かっただろうからな。けど、『賄賂ダメ、絶対!』みたいな空気感じゃ、賄賂を要求したり、受け取ったりした後が地獄だな。居場所がなくなっちまう」

ああ、とデュランは一人納得した。

『賄賂ダメ、絶対!』という空気はクロノだけではなく、実際に苦労して治安を改善させた現場の人間が作っているのだ。

単に苦労しただけではなく、治安を改善させた自負もあるだろう。

デュランとブルーノは侯爵邸の門を通り、暇な時に酒でも飲もうぜ、と適当な約束をしてから別れた。

「おはようございまーすっ!」

デュランは侯爵邸の一階にある事務室兼受付に入り、大声で挨拶をした。

部屋は三分の一ほどの所でカウンターで区切られている。

三分の一が待合室と申請書置き場、残る三分の二に事務員の机が並ぶ。

「ああ、おはよう。今日も早いね」

「おはようございます」

デュランは奥の席に座るシッターに頭を下げた。

シッターは早いなどと言ったが、それでも、デュランがシッターに先んじたことはない。

シッターは帰るのも遅い。

普通なら、部下も遠慮して帰れなくなりそうなものだが、事務員は遠慮なく帰る。

デュランは受付にある申請書の枚数を確認し、自分の席に座った。

そして、引き出しから紙の束……マニュアルを取り出す。

大雑把な仕事の流れがマニュアルに書かれている。

仕事中にマニュアルを取り出す訳にもいかないし、細かな部分は先輩から盗んだり、自分で補わなければならないのだが、これがあるとないでは大違いなのだ。

「……おはよう」

「おはようございます」

女がデュランの隣に座る。

女の名前はルシアという。

肩まであるブラウンの髪は伸ばしているのではなく、伸びているという印象を強く受ける。

目鼻立ちはそれなりに整っているが、表情は冴えない。

ルシアは席に着くなり、大きな溜息を吐いた。

「辛そうですね」

「辛いのよ、実際」

ルシアは徴税官だ。

以前はケインという男が騎兵隊の隊長と徴税官を兼任していたらしいのだが、カド伯爵領の代官に任命されたため、ルシアが徴税官に抜擢されたのだ。

「……徴税官の仕事が忙しくなるのは九月からだと思っていたんですが?」

「去年までなら、その通りよ」

ルシアは大きな溜息を吐いた。

「クロノ様が……とにかく、クロノ様が作った『千歯扱き』で脱穀するスピードが上がったの。結局、穂を叩かなきゃならないんだけど、それでも」

ふぅぅぅぅ、とルシアは溜息を吐いた。

気持ちは分からなくもない。

自分なりにスケジュールを組んでいたら、それがいきなり頓挫したのだ。

溜息の一つや二つ出るというものだ。

「報告書も書かなきゃならないのよね」

「報告書ですか?」

ルシアは再び大きな溜息を吐いた。

「農業改革の成果について……休耕地にクローバーを蒔くと、麦の育ちが良くなるらしいのよ」

「どうだったんですか?」

デュランはクローバーが麦の生育を助けるなんて話を聞いたことがない。

「成功したと思うんだけど、過去のデータを引っ張り出さなきゃいけないから、面倒臭くて」

ルシアはチラチラとデュランに視線を向けた。

手伝ってくれないかな~、という気持ちが透けて見えるようだった。

「俺で良ければ手伝いますよ」

「え? そう♪」

ルシアは嬉しそうに言った。

「けど、俺も受付の仕事をしなきゃいけないんで」

「仕事が終わった後で良いわよ♪ 報告書は徴税が一段落してからでも間に合うから」

現金な女だな、とデュランは思った。

とは言え、前向きに仕事に取り組んでいるとアピールするのは無駄ではないだろう。

「何よ、アンタ」

「俺はデュランと言う者で、過去の収穫高のデータを取りに」

俺、嫌われるようなことでもしたか? とデュランは内心首を傾げながら、喧嘩腰の女に事情を説明した。

シッターから聞いた話によれば、喧嘩腰の女はエレナ、クロノの領地の経理を担当しているらしい。

「何年分?」

「あ、あ~、どれくらいだろ?」

「アンタね。データを貰いに来たくせに期間が分からないなんて」

エレナは呆れたと言わんばかりに頭を振った。

そこまで言わなくても良いだろーが、とデュランは思ったが、すぐに思い直した。

正確な報告は軍でも求められる。

むしろ、ルシアから詳細を聞かずにデータを貰いに来た自分の方がおかしいと思ったのだ。

「じゃあ、五年分」

「ないわ」

「は?」

デュランは思わず、聞き返した。

「去年、一昨年のデータは信頼できるけど、その前は信頼性が今一つなの。それで良ければ貸すけど?」

「一昨年までのデータで」

じゃあ、聞くなよ、とデュランは心の中で突っ込みを入れながらも頷いた。

エレナはすぐに紙の束を取り出した。

経理担当だけあり、しっかり整理整頓しているようだ。

「ありがとうございます」

「早く返してよね」

デュランはデータを受け取り、その場を後にした。

「ああ、腕が痛ぇ」

デュランは肩の凝りを解しながら、侯爵邸を出た。

二年分のデータを書き写すのは骨だった。

デュランはエレナに文句を言われると思い、データを書き写したのだが、データを返しに行ったら、エレナは帰った後だった。

こん畜生、とデュランは自分の手を見下ろし、笑みを浮かべた。

腕は痛い。

疲労もそれなりにある。

正式な事務員になれるか不安もあるが、充実感や達成感もあった。

「さて、明日も頑張るか」

デュランは自分の家に向かった。

アンジェが家でデュランを待っている。

【クロノ】

帝国暦四百三十二年九月中旬、麦袋を担いだ人夫が列を成し、クロノの目の前を通り過ぎていく。

今年は順調だな~、とクロノはそんな感想を抱いた。

去年はクロノが軍の仕事で南辺境に行っていたこともあり、納税が遅れたが、今年は一昨年の納税よりも早い。

シッターによれば、脱穀の効率が『千歯扱き』によって向上したからだとか。

どれくらい作業効率がアップしたんだろう? とクロノは顎を撫でた。

今年は麦袋を運ぶ人夫の確保に苦労しなかった。

人夫の多くは農村出身なので、作業効率が飛躍的に向上したのは間違いない。

その分、人件費が嵩んでしまったが、人夫は現金収入を得、部下は本来の仕事に専念できる。

喜ぶべきことだ。

この成功はレイラの手柄だった。

レイラが指摘してくれなければ、クロノは『千歯扱き』のことを思い出せなかっただろう。

「こ、これはレイラに、ご、ご褒美を差し上げなければ」

「アンタ、ご褒美って顔してないわよ」

クロノが隣を見ると、エレナがクリップボード代わりの板を片手に立っていた。

視線は好意的ではない。

理解しがたいものでも見ているような目だ。

ぶっちゃけ、侮蔑的な視線だった。

「……コホン」

「……」

クロノが座り直すと、エレナは無言でクロノから離れた。

かなり腰が引けている。

どうやら、警戒しているようだ。

「僕がどんな顔をしていると?」

「ろくでもないことを考えている時の顔ね」

「失礼な。僕は領主としてレイラに対する報償を考えていたんです」

「で、どんな報償を考えてた訳?」

むっ、とクロノは唸った。

「で、デートとか?」

「アンタ、自分が楽しもうとしてない?」

鋭い指摘だった。

「み、水着?」

はぁ~、とエレナは溜息を吐いた。

苦虫をダース単位で噛み潰したような顔だった。

「皆は嫌がるけど、あの水着はかなりお金を掛けてるんだよ。ドワーフの職人さんが神聖アルゴ王国から輸入した羊毛で作った至高の一品なんだから……そう言えば、エレナは海水浴をサボったよね?」

「し、仕事が忙しかったのよ!」

エレナはクリップボードを抱き締め、更にクロノから離れた。

秋の夜長の水着鑑賞会開催決定、とクロノは薄く笑った。

「アンタ、ろくでもないことを考えてるでしょ?」

「いえ、全く」

クロノはエレナから顔を背けた。

「こんな所で油を売ってて良いの?」

「仕事が一段落したから休憩してるんだよ。会議も早く終わったし」

クロノは肘を太股に乗せ、頬杖を突いた。

農村の村長を集めた会議は大きなトラブルもなく終了した。

「首尾はどうだったのよ?」

「来年から全ての休耕地でクローバーを栽培することが決定しました」

「あんまり嬉しそうじゃないわね」

「シッターさんに資料を準備して貰って、会議で説明する練習もしたんだけど……資料だけで十分でした」

クロノは力なく頭を垂れた。

休耕地でクローバーを育てることがあっと言う間に決まった。

村長達は情報を集めるために村人を人夫として送り込んでいたのではないか、と勘ぐりたくなるほどスムーズな会議だった。

「一応、資料は役に立ったのね」

「あの資料、エレナが作ったの?」

「あたしじゃないわよ。ほら、事務員見習いのデュランってヤツがいるじゃない?」

「ああ、レオンハルト殿が推薦してきた人だね」

クロノはすぐにデュランの名前を思い出した。

レオンハルトが送ってきた推薦状は計十枚……デュランは唯一の既婚者で、事務員として推薦されていたので、特に印象に残っていた。

クロノはリフォームした空き家を宿舎としてデュランに宛がった。

寝室は念入りにリフォームした。

だが、クロノはデュランを採用すべきか今も悩んでいる。

だからこそ、試用期間を設けたのだ。

「そいつが収穫高のデータを借りに来たのよ。多分、実際に資料を作ったのは徴税官のルシアなんだろうけど」

「そうなんだ」

エレナって、ウェスタ以外に事務員の知り合いがいたんだ、とクロノは失礼なことを考えつつ、相槌を打った。

「三年越しの農業改革が成功したんだから、もう少し嬉しそうにしなさいよ」

「いや、そうなんだけど、そうなんだけどさ~。三年も掛けたのに盛り上がりに欠けるって言うか」

想定問答集まで作った僕の立場は……、とクロノは唇を尖らせた。

「それはアンタに思い入れがないからでしょ?」

「確かに、シオンさんほど思い入れはないかな」

クロノはシオンのことを思い出した。

クローバーを全ての休耕地で栽培すると決まった時、シオンは涙ぐんでいた。

「まあ、成功して良かったよ」

クロノはしみじみと呟いた。

クロノは本年度の支出と予想される税収について書かれた報告書に目を通す。

まだ、九月は一週間残っているし、税収も麦の相場次第で変動する可能性は否定できない。

報告書はあくまで暫定的なものだ。

「クロノ、香茶を飲んでいる時は仕事のことを忘れろ」

クロノが顔を上げると、ティリアは対面の席で不機嫌そうな表情を浮かべていた。

ティリアが香茶に口を付ける。

次の瞬間、ティリアの表情は和らいでいた。

何だか、幸せそうだった。

「ティリアは香茶を飲んでいる時、何を考えているの?」

「香茶を飲み終えたら、何をしようか考えているぞ。それがどうしたんだ?」

「うん、それはどうかと思う」

クロノは溜息を吐いた。

レイラやシッターによれば、ティリアはクロノが不在の間、領主代行の仕事をきちんとこなしていたらしいのだが……。

「もし、僕に気を遣ってるんなら」

「遣ってないぞ」

はい、とクロノは頷いた。

正妻として夫を立てているという答えを期待したのだが、期待してはいけなかったのかも知れない。

「今更、気を遣うような仲でもないだろ」

「それは僕の台詞なんじゃないかな?」

ティリアはクロノの心中を知ってか知らでか、男前な台詞を吐いた。

一度くらいは言ってみたい台詞だ。

どうして、こうなったんだろう? とクロノは思わなくもない。

軍学校時代のティリアは皇女らしく振る舞っていた。

少なくとも、働かずに食べる飯は美味いと言うようなタイプではなかった。

「クロノ、私はお前を生涯の友と思っていた時期があるんだが」

「ふ~ん」

軍学校の演習でティリアに勝った後くらいかな? とクロノは見当を付けた。

その頃から今のティリアの片鱗を見せ始めていたような気がする。

「友とは胸襟を開いて語り合える関係だと思う。ましてや、一生を共にする夫婦ならば尚更だ」

「……それは、まあ、そうかも」

「そうだろう、そうだろう」

クロノは我が意を得たりと言わんばかりに頷くティリアから視線を逸らした。

クロノだって、生涯の友とはティリアの言うような関係であるべきだと思うのだが、現実は違うんじゃないかと思う。

ティリアが純真なのか、僕が汚れているのか、とクロノは手を組んだ。

視線はティリアから逸らしたままだ。

「……私の母親は病気がちでな」

「初耳でござる」

クロノは組んでいた手を解いた。

「帝都から離れたユスティア城という所で養生しているんだ。もう何年もだ。父は生きている間に一度も母を見舞わなかった。きっと、父は母を愛してなかったんだろう」

ティリアは頬杖を突き、気怠そうに言った。

クロノはようやくティリアを理解できたような気がした。

ティリアは子どものように純真なのだ。

多分、ティリアは誰かに友の定義を教わったのだろう。

だが、友と呼べるような人間はできず、夫婦について学ぶ機会はなかった。

学ぶ機会はあったのかも知れないが、身近に例がなかったので、夫婦を友の延長線上に位置づけたのではないだろうか。

「……ティリア、夫婦についてなんだけど」

「何だ?」

ティリアは居住まいを正した。

先程の気怠さなど微塵も感じさせない態度だ。

「友でも良いんだけど、お互いのダメな部分はどうすべきだと思う?」

「常軌を逸していたり、他人に迷惑が掛かったり、立場に相応しくない行動は諫めるべきだと思うが、基本的に受け容れるべきじゃないか?」

「そうだね」

クロノは罪悪感を覚えながらも頷いた。

今までのティリアの行動が不器用な愛情表現の一環だと考えると、温かな感情が胸に広がった。

こ、こんなことを、だが、正妻として受け容れるべきだ、とティリアが考えていたことを想像すると、邪悪な笑みが零れた。

本年度の支出は金貨四万九千百三十八枚、繰越金は金貨七万四千七百五十四枚と銀貨十枚……とクロノは自室で報告書を読む。

奴隷商人が収める税や港の使用料、株の配当金を含めると、来年度の予算は凄いことになりそうだ。

まずは墓地、いや、霊廟や納骨堂の方が良いかな? あとは街道の整備をして、騎兵が増えたから、予備の馬を買って、学校も次のステップに進ませたいんだけどな~、とクロノはベッドに倒れ込み、溜息を吐いた。

ふと横を見ると、ティリアがベッドに横たわり、クロノを見ていた。

ティリアは完全にリラックスモードだ。

「クロノ、何か問題でもあったのか?」

「問題はないけど、来年度は何をしようかなと思って」

「うむ、商業を発展させるために街道の整備は欠かせないな。クロノ、その残念そうな顔は何だ?」

「え~、だって、僕と同じことを考えてるんだもん」

「今のはなしだ! 少し待ってろ、お前がビックリするようなアイディアを捻り出してみせる」

ティリアはベッドの上で胡座を掻き、思案するように腕を組んだ。

クロノもティリアに倣い、ベッドの上で胡座を掻いた。

ぐぬぬ、とティリアは唸った。

ティリアがアイディアを出し、クロノがダメ出しをするという遣り取りがしばらく続いた。

「……もう少し積極的に市場を広げるのはどうだ?」

「他の領地でもハマル子爵領と同じことをするってこと?」

「その通りだ」

ティリアは満足そうに頷いた。

関税を撤廃し、同一の露店制度を敷く……隣接する領地を巻き込めば市場規模が大きくなるし、市場規模が大きくなれば行商人の活動も活性化するだろう。

「う~ん、どうなんだろう?」

「煮え切らない態度だな」

「いや、ティリアのアイディアは凄いと思うんだけどさ。僕が提案したとして、他の領主は興味を持ってくれるかな?」

「言われてみればそうだな」

「そうです」

クロノは同意されたことに少しだけショックを受けたが、自分の立場をそれなりに理解している。

クロノは新貴族出身だ。

歴史ある貴族から見れば成り上がり者に過ぎない。

そんなクロノが提案しても、興味を持ってくれる旧貴族は多くないのではないだろうか。

「だったら、素直に提案しなければ良いんじゃないか?」

「どういうこと?」

ティリアは得意げに小鼻を膨らませた。

「簡単なことだ。商人に他の領地で神聖アルゴ王国から輸入した羊毛を売らせるんだ。神聖アルゴ王国の羊毛は高価だからな、それだけでも興味を持つはずだ。ハマル子爵……いや、領主を代行しているのは父親だから、前ハマル子爵か? 前ハマル子爵に依頼して、他の領主に贈り物をさせても良いだろう」

ティリアはどうだと言わんばかりに胸を張った。

ティリアじゃないみたいだ、とクロノは失礼なことを考えつつ、拍手した。

「早速、ブラッド殿に手紙を」

「セシリーに頼めば良いじゃないか。実の娘の頼みだ。前ハマル子爵も快く応じてくれるだろう」

クロノは俯き、ダラダラと脂汗を流した。

「クロノ、その脂汗はなんだ? セシリーに何かしたのか? クロノ、私の目を見ろ!」

クロノはティリアから顔を背けた。

しばらくティリアから逃げたが、逃げ切れるものではない。

「ご奉仕させました。いや、誤解しないで欲しいんだけど、本当にご奉仕だけだから」

「……セシリーの説得は私がする」

ティリアは深々と溜息を吐いた。

【イグニス】

イグニスは高台から街を見下ろした。

イグニスの屋敷がある街は湖畔にあるため小王都と呼ばれている。

大層な名前だ、とイグニスは苦笑した。

今、イグニスが見ているのは小王都の由来となった湖ではなく、街の外にある市場だ。

多くの天幕や荷馬車が見える。

市場は今日も盛況のようだ。

商人は昏き森を越えてやってくる。

交易路は安全なルートを選んでいるらしいが、あくまで比較的安全というだけで命の危険が皆無という訳ではない。

それでも、商人は危険と利益を天秤に掛けて利益を取るのだ。

商人は極めて貪欲な生き物だ。

そして、その貪欲さがイグニスの懐を潤している。

もちろん、そこで満足してはいけない。

イグニスは商人が貪欲さを失わない方法と民の懐を潤す方法を考えなければならないのだ。

軍服の右袖が風に揺れる。

誰かが軍服の右袖を掴んだ。

イグニスが隣を見ると、アクアが袖を掴んでいた。

「イグニス、ちゃんと仕事しなさい」

「お前はどうなんだ?」

「私はきちんと仕事をしているわよ。私が旧『蒼神殿』の神官を何人引き抜いたと思ってるのよ」

アクアは得意げに胸を張った。

旧『蒼神殿』……いや、旧『神殿』はイグニス達が立ち上げた『神殿』と区別するための呼称だ。

当然、イグニス達が立ち上げた『神殿』は新『神殿』となる。

旧『蒼神殿』はレウムが失脚して以来、次の大神官の座を巡って権力闘争を繰り広げていた。

アクアは旧『蒼神殿』の権力闘争に乗じて神官や神官見習いの引き抜きを行っているのだ。

「それと、ウェントスとテッラもこっちに味方してくれるみたい」

「どんな手を使った?」

「何もしてないわよ。きっと、ウェントスも、テッラも旧『神殿』に味方したくなかったのよ。私と一緒ね」

アクアは溜息を吐くように言った。

「……俺はバカだな」

イグニスは小さく呟いた。

視野があまりにも狭かった。

自分が正しくあろうとするばかりで相手を理解しようとする努力をしてこなかった。

「イグニス、仕事」

「俺はきちんと働いている」

「イグニス小父さんへ」

イグニスはアクアの言葉に呻いた。

「ほら、クロノ殿から届いた荷物をほったらかしてるじゃない。それじゃ、きちんと仕事をしていると言えないわ」

イグニスは何も言い返せなかった。

クロノの手紙……その一行目を読んだ途端、やる気が失せたので、高台にやって来たのだ。

「で、クロノ殿が送ってきた荷物は何だったの?」

「……農業書だ」

「イグニス」

アクアは責めるような口調で言った。

「どうして、放っておくのよ?」

「クロノは信用できん」

は~、とアクアは大きな溜息を吐いた。

「俺達を騙そうとしている可能性がある」

「だから、検証するんでしょ?」

「……そ、それはそうだが」

イグニスは今度も言い返せなかった。

アクアの言い分は正しい。

新『神殿』が勢力を拡大するためには目に見えるメリットが必要だ。

「アクア、クロノは何を考えていると思う?」

「そうね」

アクアは思案するように腕を組んだ。

「私達を援助してるつもりなんじゃないかしら?」

「こちらが優勢になったら、今度はあちらの味方をする訳か」

「それはどうかしら? ちょっと、そんな怖い目で見ないでよ」

イグニスが睨み付けると、アクアは柳眉を逆立てた。

「俺は怖い目などしていない」

「水鏡で確認してみる? すぐに作れるわよ?」

「もしかしたら、怖い目をしていたかも知れない」

イグニスは前言を撤回した。

「それで、どう思う?」

「まあ、良いけど」

アクアは拗ねたように唇を尖らせた。

「クロノ殿は新旧『神殿』の勢力が拮抗することを望んでいるみたいだけど、それって交易のためだと思うのよね」

「つまり、金か」

イグニスは舌打ちした。

言いたいことは沢山あったが、全てを呑み込んだ。

金の力が新『神殿』を支えているのも事実なのだ。

「利害が一致している内は信用できるはずよ」

イグニスは溜息を吐き、足を踏み出した。

「イグニス?」

「仕事だ。屋敷に戻る」

何処までクロノを信用できるか分からない。

今は目の前の問題に対処すべきだろう。