軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第8話『免罪符』

帝国暦四三三年九月――シルバニアの港は街より二メートルほど低い位置にある。港と街を結ぶ階段の傾斜はかなり急だ。

これは自然の地形を利用した名残だった。港を利用する商会が限られていた頃は気にも留めなかった。

しかし、カイ皇帝直轄領の商業連合を迎え、さらに商会が増えることが確定的になると作り直した方が良いのではという気になってくる。

港にある倉庫の数は限られていて、新規参入してきた業者は街の外れに倉庫を構えるしかない状況なのだ。

積み荷を港から街の外れまで運ぶのは重労働だし、古参と新規で競争条件が変わってしまうのは避けたかった。

クロノはそんなことを考えつつ、港と街とを結ぶ階段に座り、ボーッと港――正確には荷下ろしの様子――を眺めていた。

リザードマンやミノタウルスが商業連合所属の船から降ろされた積み荷を担いで桟橋を渡り、開けた所にある大八車に載せる。

大八車で移動できる距離はクロノがいる階段まで。再び積み荷を担いで階段を登り、そこから先は別の大八車の出番となる。

そんなことを延々と繰り返しているのだ。

「クレーンがあれば少しは楽になるのかな。どう思う?」

「設置できる場所に限りがあるから無理ね」

エレインの回答はにべもなかった。隣を見ると、剥き出しの脚が見えた。露出度の高いドレスを着ているので当然と言えば当然だ。

クロノは事務員のような装いも好きなのだが、エレインは有力者との蜜月をアピールする時にいつも露出度の高い服を着る。

「待遇が違うみたいな不満は出てない?」

「出てないわよ」

「本当に?」

「疑り深いのね」

クロノが問い質すと、エレインは溜息交じりに言った。

「港に倉庫があっても、街外れに倉庫があっても大して手間は変わらないわよ。どちらにしても階段を越えなくちゃいけないんだから」

「……ああ」

クロノは思わず声を上げた。倉庫に積み荷を運ぶことにばかり気を取られてその先については失念していた。

「なんで、店舗もないのに倉庫に荷物を運んでるんだろう?」

商業連合所属の船を見ながら疑問を口にする。クロノの領地で商売をできるようになった彼らが真っ先にしたのは倉庫を建てることだった。

「今年は麦が不作だから避難させているのよ」

「え?」

思わず問い返す。確かに今年は天候不順によって収穫に影響が出ると聞いているが、そこまで酷い状況ではないはずだ。

シオンは農地が増えたお陰で領地そのものの収穫量は変わらないと言っていたし、徴税官も同じ意見だった。

「そこまで酷いって話は聞いてないんだけど?」

「クロノ様の領地ではそうね」

エレインは意味深な笑みを浮かべた。今まで相当な額を『黄土神殿』に投資してきたので、その成果が出たのだろうか。

「ん~、でも、あれって去年の麦でしょ?」

「そうよ」

「不作なのに僕の領地に運び込むっておかしくない? うちの領地に運び込んだって安く買い叩かれるだけだよ」

要は需要と供給の問題だ。供給が需要を上回っていれば値崩れするし、需要が供給を上回っていれば高騰する。

カイ皇帝直轄領に保管した方が良いのではないだろうか。クロノはそこまで考え、商業連合の意図に気付いた。

「もしかして、麦の価格を高騰させようとしてる?」

「その通りよ」

「そういうことにうちを利用しないで欲しいな」

クロノは深々と溜息を吐いた。まるで詐欺の片棒を担がされている気分だ。

「皇帝直轄領じゃできないからクロノ様を利用してるんじゃない」

「その心は?」

「麦の価格が上がってる時に買い占めがバレたら没収されちゃうじゃない」

当然と言わんばかりの口調だ。

「それは僕の領地でも変わらないと思うけどな~」

「没収するの?」

「場合によっては。もちろん、借用書は書くけどね」

「紙切れ一枚で借りるなんて鬼ね」

「相場の操作も鬼の所行だよ」

「意図的に値を吊り上げるのだって立派な商売よ」

「立派、ね」

クロノが考える立派な商売とはWIN-WINの関係が成り立つものだ。一方だけが利益を得る関係は搾取と言う。

「本当に、こういう時に限界を感じるよ」

同じ言葉を使っているのに意味が違うのだ。そりゃ、長年連れ添った夫婦も離婚するし、戦争だってなくならないはずだ。

「それで大勢の人が苦しむのに。泣いてる人の隣でご飯を食べて美味しいのかな?」

「ええ、凄く美味しいわ!」

「良い笑顔だな~」

エレインがかつてないほど爽やかな笑みを浮かべ、クロノはかつてないほど大きな溜息を吐いた。

しかし、麦の値段を高騰させようとしている輩がいる以上、場合によっては通行税を復活させる必要がある。

自領内にある麦が流出したせいで価格が高騰するなんて目も当てられない。法外な通行税を取って流出を防がねばならない。

他の領地とも連携を取った方が良いな、と心のメモ帳に書き留める。

「それにしてもよく麦を運んでるって分かりますね」

「当然よ。積み荷を運んでるのはうちの組合員なんだもの」

エレインは髪を掻き上げた。

「どういうこと?」

「荷運びの仕事を請け負って小金を稼いでいるの。うちだけじゃなくて他の商会もやってるわよ」

「傭兵みたいなものか」

アウトソーシングという言葉が脳裏を掠めるが、業務と請け負うという意味では同じものだ。

まあ、ケインとシフが聞いたら気を悪くするだろうが。

「新しい仕事ってのはどんどん出てくるんだね」

「そうね。でも、この仕事に関して言えば領地の特殊性が大きいわ」

「そんなに特殊かな?」

遵守すべきルールは幾つか存在するが、それは何処の領地だって同じだろう。

「奴隷に暴力を振るったらペナルティーがあるのよ。商売人ならそういうリスクは避けるわよ」

「エレインさん達はリスクだと思ってないみたいだけど?」

「私達にはノウハウがあるもの」

エレインは当然のように言い放った。

「守秘義務はどうなの?」

「情報が漏れることくらい織り込み済みでしょ。それに、相手だってうちの組合員から情報収集できるからお互い様よ」

堂々とクロノに情報を伝えているということは守秘義務に関する規定を設けずに契約を結んだのだろう。

規定を設けていないからとグレーゾーンを攻めるような真似はしないで欲しい。そんな風に考えてしまうのは自分が小心者だからだろうか。

「それにしても色々な商売があるね」

「その利益は巡り巡って貴方の懐を潤す訳だけれど」

クロノは苦笑しながら太股を支えに頬杖を突いた。耳を澄ますと金槌で釘を打つ音が聞こえてくる。

カイ皇帝直轄領からやってきた職人の工房を建てているのだ。すでにかなりの人数が移住してきている。

シルバニアに工房を構える者もいるし、開拓村に工房を構える者もいる。

「材木を右から左に流して食べるご飯は美味しい?」

「美味しいよ」

クロノはムッとして言い返した。開拓民は昏き森の木を切り倒し、クロノは金を払って木を買い取り、さらに材木を必要とする者達に売る。

これこそがWIN-WINの関係である。もっと言えば木を伐採した跡地は開拓民の畑になるのだ。

作物だけではなく、開拓自体が金になるのだ。開拓民は恐ろしい勢いで木を伐採し続けている。

鉄砲水などの災害を防ぐためにシオンに監督して貰っているが、百年後には昏き森がなくなってしまっているかも知れない。

「第二黄金期か」

「第一、第二なんてケチなことを言わずにいつでも黄金期にしたいわね」

「……そうだね」

クロノはエレインの言葉に寒気を感じずにはいられなかった。数百年後、シルバニアに設置されているのはエレインかも知れない。

治安回復作戦の内容は極めて単純だ。二個大隊が夜明け前にスラムを囲み、四方から火を点ける。

さらに一個大隊がパニックに陥った住人を駆逐する。たったそれだけの作戦だが、作戦とはシンプルであるべきだろう。

スラムが炎に包まれ、人々が悲鳴を上げて逃げ惑っている。放っておけば炎と煙に巻かれて大半が死ぬはずだ。

そんな彼らにアルヘナ・ディオス率いる第三近衛騎士団が追い打ちを掛ける。スラムの住人は為す術もなく打ち倒されていく。

数だけならばスラムの住人が圧倒しているが、両者の実力は隔絶している。数の優位など簡単に覆せる。

それでも、組織的な反抗ができれば被害を抑えることができるだろう。何しろ、スラムを囲んでいるのは二個大隊――第四、第七近衛騎士団だけだ。

たった二千人では蟻の子一匹通さぬ包囲網など望むべくもない。やりようによっては逃げられるのだ。

しかし、そうと知らないスラムの住人は炎に撒かれ、槍に突き刺され、倒れた所を踏み潰されて次々と死んでいく。

「貧乏くじを引いちまったな」

ロイ・アクベンスは小さく溜息を吐き、頭を掻いた。スラムの住人が殺されることについて特別な感慨はない。

きっと、部下達も似たような思いを抱いていることだろう。いや、もしかしたら、良いことをしていると感じているかも知れない。

「逃げたぞ!」

「へいへい」

アルヘナが叫び、ロイはくるりと槍を回した。数人の男女がこちらに向かって走ってくる。

ロイは溜息を吐きながら正面にいた男の胸を槍で突き、素早く引き抜く。まるで糸が切れたように男は頽れた。

全員を屠ることは可能だったが、そこまでする必要はないだろう。理解してくれているのか、アルヘナは何も言わずに仕事に戻った。

「……な、なんで」

「まだ生きてるのか?」

ロイは男に歩み寄り、穂先を下に向けた。

「……なんで、俺達が」

「お前らはやり過ぎたんだよ」

今までは大して害がなかったから見逃されてきた。もちろん、スラムの住人が帝都でちんけな犯罪を行うことはあった。

しかし、傷害や殺人などの犯罪は基本的にスラムの中で起きていた。一応の棲み分けはできていて、ルールもあったのだ。

「見ているだけで不快な害虫ってのはいるよな? 俺は全力でぶっ殺す質だが、中には見逃してくれるヤツもいるかも知れねぇ」

けどな、と続ける。

「不快な害虫が我が物顔で床を這い回るようになったら見逃してくれてた連中もぶっ殺すようになるよな? ましてや毒を持ったり、伝染病を撒き散らしたり、そういうことをしたら是が非でもぶっ殺すよな? つまり、そういうことなんだよ」

スラムの住人が帝都に侵入したのはまだ許せる。だが、帝都の秩序を乱し、法の番人たる警備兵を殺したことは許されない。

犯人だけではなく、スラムの住人にも惨たらしく死んで貰わなければ示しが付かない。

「お、俺達は、生きるために」

「分かるぜ。生きるために盗んで、犯して、殺したんだろ。よ~く分かるぜ。社会がお前らを追い込んだんだよな?」

今回の状況を生み出したのはアルフォート皇帝だ。霊廟建設から始まった施策のことごとくが裏目に出た。

帝国の財政を傾け、大量の貧民を生み出し、帝国への信頼を失墜させた。

「……だったら」

「盗人にも三分の理って言葉はあるけどよ。三分の理を振りかざして悪事を正当化されちゃ堪らねーんだわ」

「……」

男は答えない。

「チッ、死んでやがる」

ロイは溜息を吐きながら元の位置に戻った。

「はぁ、本当に貧乏くじを引いたぜ」

何度目になるか分からない溜息を吐く。

脳裏を過ぎるのは同僚の姿だ。レオンハルトとブラッドは任務を、リオとネージュは体調不良を理由に断っている。

ピスケ宰相に至っては声すら掛けられていないし、ラルフ・リブラ軍務局長は今回の作戦を立案したにもかかわらず現場に来ていない。

結局、今回の作戦に参加している近衛騎士団長はロイとアルヘナだけだ。

「……要領は良いつもりだったんだがな」

ロイは溜息を吐き、アルヘナを眺めた。相手が女子どもであっても容赦なく槍を突き立てる姿は悪鬼さながらだ。

少なくとも近衛騎士団団長の所行ではない。恐らく、それを見越しての人選なのだろうが。

近衛騎士団長は何処かに歪みを抱えている。まともなのは第二近衛騎士団のエルナト伯爵くらいだ。

「まあ、歪んでいるのは俺も同じなんだが」

ロイは母のことを思い出す。母は恋多き女だった。有力貴族の間を蝶のように飛び回り、その果てにロイを身籠もった。

本当に血が繋がっているのか定かではないが、アクベンス伯爵はロイを認知した。と言っても家督の相続権はない。

所謂、庶子というヤツだ。何故、アクベンス伯爵が認知してくれたのか分からない。ロイの母を繋ぎ止めようとしたのかも知れない。

もし、そうだとしたらアクベンス伯爵は目論見は外れたことになる。母はロイの存在を歯牙にも掛けなかった。

十歳になった時、母は死んだ。袖にした男の一人に刺されたのだ。ロイは決闘を申し込み、男を殺した。

今思い出すと無様としか言いようがない戦いだったが、それは人生を懸けるに足るものだった。

圧倒的な熱があった。女を抱くことが屁に思えるような快楽があった。ロイはその熱と快楽を求めて、軍人になった。

唯一の誤算は二人の兄が死に、家督を継ぐことになったことだろう。

「いや、誤算はもう一つあるか」

ロイは独りごちて、アルヘナを見つめた。住人達の行動が秩序だったものに変わり、アルヘナの頬に赤みが差している。

この程度なら我を忘れるようなことはないだろう。

「やっぱり、貧乏くじを引いたな」

ロイは天を仰ぎ、溜息を吐いた。

ベティルは箱馬車が止まるか止まらないかのタイミングで外に飛び出し、無様に転倒した。

強かに顔面を地面に打ちつける。

「ベティル団ちょ――宰相!」

「構うな!」

ベティルは駆け寄ろうとする部下を手で制し、震える腕で体を起こした。痛みからではない。

目にするであろう惨劇を予想して震えているのだ。

「……こ、これは」

顔を上げ、言葉を失った。ベティルは他の貴族がそうであるようにスラムに足を踏み入れたことがない。

ただ、一度だけ遠くから見たことがある。いつ倒壊してもおかしくなさそうな小屋が一面に広がっていた。

今、目の前に広がっているのは廃墟だった。殆どの小屋は焼け落ち、わずかに壁が焼け残っているだけだ。

周囲に漂っているのは焦げ臭さと噎せ返るような血の臭い。作戦を遂行した近衛騎士団はすでにない。

布で口元を覆った警備兵が焼け焦げた死体を、槍で突き殺された死体を運び出し、地面に並べていく。

それは吐き気を催す光景だった。死体の臭いに吐き気を催したのではない。軍人であるベティルは死体の臭いに慣れている。

今まで何人も殺してきたのだ。敵兵のみならず、命令に従わない兵士を手に掛けたこともある。

警告の意味を兼ねて賊を惨たらしく殺したことも一度や二度ではない。だが、そこには大義があった。

方便に過ぎないとしても誇りがあった。

しかし、これはただの虐殺だ。そう、ベティルは近衛騎士団が虐殺を行った事実に吐き気を催したのだ。

「な、何と言うことを」

ようやくその一言を絞り出す。嫌な予感はしていたのだ。

最近の会議は穏やかなものだったが、ラルフ・リブラ軍務局長の視線に嫌なものを感じていた。

だから、細心の注意を払って行動していた。足下を掬われないようにニコルから情報を集めさえした。

それでも、嫌な予感を拭うことはできなかった。まるで水に浮かんだ板の上を歩いているような気分だった。

かくして予感は現実になった。

「……何故、このようなことを」

ベティルは地面を殴りつけた。スラムを放置すれば帝都の治安が悪化していくのは目に見えていた。

しかし、その種を蒔いたのはアルフォートではないか。自分の過ちによって生まれた貧民をどうして容易く切り捨てることができるのか。

「……生存者は、生存者はいないのか?」

ベティルは立ち上がり、よろよろと歩き始めた。灰は未だに熱を持ち、燻ってさえいたが、気にならなかった。

しばらくの間、廃墟をさまよったが、生存者の姿はない。死と破壊がスラムを呑み込んでいた。

「……ああ」

ベティルは小さく喘いだ。分かっている。分かっているのだ。目の前に広がる惨劇が自分の責任でもあると。

今まで一度もアルフォートの誤ちを正そうとしなかった。その結果が目の前に広がる廃墟と死体の山だった。

「……ああ」

ベティルはとうとう膝を屈した。じり、じりと熱が膝から伝わってくる。

「……分かっている、分かっているとも」

これまで何人も愛人を囲った。それは彼女達が欲しかったからではない。

愛人を囲っている事実が欲しかったのだ。

生存者を探しているのも同じ理由だ。

自分がアルフォートとは違うという事実が欲しいだけだ。

免罪符が欲しいだけなのだ。

彼よりマシだと思いたかった。

その時、何かが崩れる音が聞こえた。

ベティルが顔を上げると、そこに少年と少女がいた。恐らく兄妹だろう。

二人とも全身が煤に塗れていた。

「おお、よく無事だったな」

「近づくな!」

ベティルは立ち上がり、歩み寄ろうとした。だが、少年は少女を庇うように立ち、武器――長い釘を叩いて作ったと思しき刃物――を構えた。

「そんな物は捨てるんだ。私が助けてやる」

「お前達が父ちゃんと母ちゃんを殺したんじゃないか!」

少年は威嚇するように武器を突き出した。

「止めるんだ」

ベティルは攻撃の意思はないと示すために両腕を広げ、ゆっくりと歩み寄った。あと数歩で手が届く。

そうすれば武器を奪うことができる。

「お兄ちゃん」

「妹に近づくなッ!」

少年は激昂したように叫び、武器をベティルの太股に突き刺した。突き刺しただけではなく、抉る。

「……へ、へへ」

少年の笑顔は狂気に彩られていた。

「ベティル宰相!」

「――ッ!」

ベティルは咄嗟に二人を焼け残った壁の陰に隠し、太股に突き刺さった武器を引き抜いた。

「ここでじっとしているんだ」

ふと思い付き、剣帯から鞘ごと短剣を抜いて差し出す。

「北に、エラキス侯爵領に向かって逃げろ。ただし、この短剣は使うな。売って逃走資金にするんだ」

少年が剣を手に取る素振りを見せなかったので、地面に置く。

「ベティル宰相!」

「ここにいるッ!」

「心配させないで下さい」

ベティルが壁の陰から出ると、部下は胸を撫で下ろした。だが、安堵の表情は長続きしなかった。

「べ、ベティル宰相! そ、そ、その傷はッ!」

「柱に引っ掛けただけだ」

部下は顔面蒼白で叫んだ。こんな状況にもかかわらず、ベティルは苦笑してしまった。

「落ち着け」

「し、しかし!」

「宰相になる前はこれくらいのケガで騒がなかったではないか」

「そ、それはそうなのですが」

部下は恐縮したように肩を窄めた。軍において階級は絶対だが、ここまで露骨に態度を変えられると堪える。

「済まんが、肩を貸してくれないか?」

「はっ、喜んで」

ベティルは部下の肩を借りて歩き始めた。肩越しに背後を見ると、少女の手を引いて走る少年の姿があった。

アルフィルク城の主塔を支配しているのは死にも似た静寂である。ファーナは料理の載ったトレイを手に騎士達の脇を通り抜ける。

主塔の警備を担当するのはラルフ・リブラ軍務局長の配下――第七近衛騎士団の団員である。

階段を登り、最後の扉の前に立つ。持ち物のチェックはない。刃物の一つや二つ持ち込まれても対応できるという驕りの賜物だろう。

「何かあれば呼んで下さい」

「ええ、分かってるわ」

決まり切った遣り取りの後、騎士が扉を開く。その先にあるのは最低限の家具が設置された部屋だった。

部屋の主――ケフェウス帝国元宰相アルコルは行儀良くテーブルに着いていた。

「食事の時間よ」

「おお、待っとったぞ。何せ、ここでは食事だけが愉しみだからの」

ファーナは眉根を寄せながらテーブルにトレイを置いた。アルコルは嬉しそうに手を摺り合わせ、鶏肉の香草焼きに齧り付いた。

「血色が良くなったわね」

「……ここの生活が、性に合ったみたいでな」

図太いわね、とそんな感想を抱く。大きな窓があるとは言え、いつ殺されるか分からない幽閉の身だ。

ファーナならば心を病んでしまうだろう。にもかかわらず、アルコルは宰相を務めていた頃よりも健康そうだ。

そう言えばティリア皇女も元気だったわね、と溜息を吐く。ラマル五世は小心故に心を病んでしまったが、その娘の精神は呆れるほど頑強だった。

あの娘なら何処に行っても図太く、逞しく、ふてぶてしく生き延びるだろう。本当に皇女だろうかと思わなくもない。

「ラルフ・リブラ伯爵はスラムを一掃したようだな」

「今は軍務局長よ」

アルコルはズビズビとスープを啜る。疑問は口にしない。あれだけ煙が上がっていたのだ。馬鹿でない限り分かる。

「くく、ヤツが軍務局長か。予想通り過ぎて意外性が何もないのぉ」

「意外性があれば良いというものではないでしょ」

「だが、その逆もまた然り」

言われてみればという気はする。何をするか分からないと思われていれば相手の思考を余計に割り裂くことができる。

「帝都の様子はどうだ?」

「それは分からないけれど、アルフォートは最悪ね」

「最悪という言葉は使ってはいかんぞ」

「何故かしら?」

「うむ、これは儂が人生を通じて学んだことなのだが……」

アルコルはそこで言葉を句切った。

「最悪と思っている内はまだ底がある」

「今が底であることを祈るわ」

ファーナは深々と溜息を吐いた。