軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第8話『黄土神殿』修正版

「いつもありがとうございます」

「いえ、私は『黄土にして豊穣を司る母神』様の教えに従っているだけですから」

にっこりと微笑み、シオンは薄汚れた身なりの男に野菜を煮込んだスープと固いパンを渡した。

シオンは爪の先がどす黒く変色した指で触れられた時も、極限まで汗を濃縮したような男の体臭を嗅いでも微笑みを崩さなかった。

いつものことだ。

ハシェルの外縁部で炊き出しを行えば、自然とそういう人と触れ合うことになる。

礼を言っただけマシ、何も言わずに食事を受け取るだけの人が多いのだ。

それも当然といえば当然、彼らは今日の食事にだけ関心を向けているのだから。

『黄土にして豊穣を司る母神』は大地の化身であり、古くから農耕神として崇拝されてきた。

『黄土神殿』の神官は農耕の知識と技術の伝播を使命とするが、そんな在り方にシオンは疑問を抱くようになっていた。

神と神殿の在り方に疑問を抱くなんて不信心だと思うけれど、毎日の畑仕事でボロボロになった手の平を見ていると、堪らなく不安になるのだ。

ビートの改良に人生を捧げ、評価を受けることなく死んだ父のように自分も誰からも顧みられることなく死んでいくのではないか、と。

ガンガンと汚らしい身なりの男が大鍋を蹴り、シオンは再び微笑みを浮かべた。

ティリアが旅立ってから一週間、エラキス侯爵邸では今日も今日とて槌打つ音が響き渡り……新たに筋肉質な男達が工房と塔の間を動き回るようになった。

ある者は木材を、ある者は煉瓦を運び、また、ある者はサボろうとして現場責任者らしき男に叱りとばされていた。

男達が建てているのは和紙の製造工房……製紙工場である。

「この分なら、あと二ヶ月もあれば完成しそうですな」

「容れ物はね。これから働いてくれる人を集めて、技術指導して、それまでに材料を備蓄して……」

やるべきことを指折り数え、

「ゴルディ、過労死しないでね」

「ははは、これくらい屁でもありませんぞ」

クロノが言うと、ゴルディは任せろと言わんばかりに胸を叩いた。

「しかし、ラインでしたかな? 作業を分担して行うなど聞いたことがありませんぞ」

「これなら覚える手順が少なくて済むと思ったんだけど」

ライン方式なら簡単に作業を覚えられて効率も良いだろうと提案してみたのだが、ゴルディのような熟練の職人に言われると、ちょっと尻込みしてしまう。

「いや、ラインという発想は素晴らしいですぞ。未知の試みですが、工房が完成するまでに模擬的なラインで試してみれば問題点も洗い出せると思いますぞ」

「そう言ってくれると、安心できるよ」

上手く軌道に乗れば一年半で投資した額を回収できるが、軌道に乗らなかった時のことを考えると今から胃が痛い。

「だから、紙を寄越せって言ってるでしょうが!」

ヒステリックな声が響き渡り、クロノとゴルディは工房を見た。

そこではエレナがドワーフに詰め寄っていた。

「ホント、使えないわね!」

こちらの視線に気付いたのか、エレナは吐き捨てるように言って、今度はゴルディに詰め寄った。

「そこのドワーフ、紙を寄越しなさい!」

「紙なら工房にありますぞ?」

「なかったから言ってんでしょうが!」

ムキィィ! とエレナは顔を真っ赤にして叫んだ。

「チョップ!」

「痛゛っ!」

クロノが軽く脳天にチョップすると、エレナは準貴族らしくない悲鳴を上げた。

「な、何すんのよ! 元はと言えば、アンタが予備の紙を!」

「……エレナ」

静かに言って、クロノはエレナの首輪を引っ張った。

「ちょ、やめて……あ、あたしが悪かったから、殴らないで」

「今まで一度も殴ったことなんてないでしょ」

抵抗しようと思えば抵抗できるのだが、エレナは今までの態度が嘘のような怯えっぷりを披露した。

「ゴルディ、紙を探してきて」

「分かりましたぞ」

ゴルディに紙の探索を任せ、クロノは首輪を摘んだまま、エレナを見下ろした。

「暴言を吐くのは良くないよ」

「ドワーフを庇うつもり!」

クイッと首輪を引くと、

「ご、ごめんなさい、生意気なことを言って、ごめんなさい! お願いだから、叩かないで、叩かないで、ね? ね?」

初っ端から心が折れているらしく、エレナは必死に懇願した。

「君の仕事は何?」

「経理と事務……娼館と奴隷売買の営業許可の受付も」

エレナは媚びるような上目遣いでクロノを見つめた。

今までエラキス侯爵領には売春と奴隷売買に関する制約が存在しなかったのだが、来月以降は領主であるクロノの許可を受けなければ売春も、奴隷の売買も行えなくなる。

売春は条件を満たした娼館でのみ、基本的に街娼行為は禁止だ。

奴隷の売買も許可された奴隷商人のみ合法となり、奴隷市も事前申請が必須となる。

「紙を用意するのも君の仕事じゃないのかな?」

「は、はい、その通りです」

何故か、エレナは潤んだ瞳でクロノを見つめ、切なそうに太股を擦り合わせた。

「今後、ドワーフ……亜人に対して暴言を吐かないこと」

クロノが首輪から手を離すと、エレナはその場で尻餅を突いた。

小石でも踏んだのか、エレナは座ったままビクンビクンと体を震わせた。

「ありましたぞ」

「……ありがと」

エレナはゴルディから紙を受け取ると、内股で侯爵邸に戻っていった。

「クロノ様は、これからどうするのですかな?」

「街の視察に行ってくるよ」

「分かりましたぞ」

すっかり普段着となりつつあるチュニックに着替え、クロノは街に出た。

浮浪者の数は相変わらず、街娼らしき女性は目に見えて減った。

「……減ったように見えるだけかも」

生来の気の弱さ……というか、領主としての責任感がネガティブ思考に拍車を掛け、どうしても、裏があるんじゃないかと勘繰ってしまう。

いつものようにクロノは露店で買ったドライフルーツを頬張った。

「早く救貧院を再開したいんだけど」

院長と職員を呼び戻して、お金を渡しておけば解決だ♪ と軽く考えていたのだが、どうも救貧院はクロノが漠然と描いていたイメージ……自立できるまで、衣食住を提供してくれる場所……とは違うらしい。

レイラによれば、食事は一日一回、寝床は小汚い毛布を渡されて床で雑魚寝、無給で労働を強いられるのみならず、なけなしの金品まで巻き上げられる。

院長や職員が暴力を振るうのも日常茶飯事らしい。

「新しい院長を雇わなきゃならないよね」

ふと脳裏を横切ったのは『黄土神殿』の神官であるシオンの微笑みだ。

「ビートの育て方も教えて欲しいし、読み書きができるんなら部下に勉強を教えて欲しいし、この辺りの農業についても教えて欲しいし……こんなに仕事させたら過労で倒れるかも」

この辺りで一週間前は露店を開いてたんだけど、とクロノは周囲を見渡す。

幸い、すぐにシオンは見つかった。

シオンは一週間前にあった時と同じように木箱に座っていた。

「やあ、シオンさん」

「……あ、クロノ様」

クロノを見上げ、シオンは濡れたローブの袖を恥ずかしそうに隠した。

「今日もビートを買って頂けるのでしょうか? い、いえ、家畜の飼料なんて、要らないですよね」

「今の所は必要ないんだけど「「いぃぃぃぃ、やっほぉぉぉぉぉぉぉ!」」

突き飛ばされ、クロノは地面を転がった。

「ビート売って、売って、全部!」

「買い占めだからね! 買い占め! あたしら三人で買い占めっから!」

「……デネブ、アリデッド、落ち着いて下さい」

クロノを突き飛ばしたのはデネブ、アリデッドのようだ。

どうやら、レイラも一緒らしい。

「あの、び、ビートは、あ、あの……一週間前は家畜の飼料を売りつけるなと」

「はぁ? あたしらがビートを買うって言ってるじゃん! 畑ごと買い上げても構わないし! 売るの? 売らないの? 売らないとか言ったら、ぶち殺すし!」

デネブとアリデッドに詰め寄られ、シオンは小さく悲鳴を上げた。

「売って頂けないと、次の休みまで買いに来られないので」

レイラが申し訳なさそうに付け足した。

「……君達は強盗か」

「「「クロノ様!」」」

だらだらと額から血を流しながらクロノが言うと、デネブ、アリデッド、レイラの三人は目を見開いた。

「だ、誰が、こんなことを!」

「ゆ、許せないよね!」

「君達に突き飛ばされたんだよ」

デネブとアリデッドは顔面蒼白だ。

二人とも普段は馴れ馴れしいが、貴族に傷を負わせる意味を理解しているはずだ。

「次からは気をつけるように」

「「はい!」」

デネブとアリデッドはシオンの腕を掴み、クロノに突き出した。

「ほら、神官なんだから神威術で治しなよ!」

「そうそう、早くしなよ!」

「あ、あの、わ、私」

シオンは今にも泣き出しそうだ。

「二人とも、これくらいの傷で神威術を使わせられないでしょ」

何しろ、廃人になるリスクがあるのだから。

「クロノ様、屈んで下さい」

「……っ!」

クロノが屈むと、レイラは傷に舌を這わせた。

「あの、レイラさん? エルフの唾液には治療効果があるんでしょうか?」

「分かりません」

レイラはしばらく傷を舐め続け、

「これで大丈夫だと思います」

「あ、ありがとう」

恥ずかしさのあまり頬が熱いが、レイラも恥ずかしそうに俯いている。

「「二人は熱そうなのに、あたしらは極寒だよね」」

「……あの、私は?」

デネブとアリデッドは興味を失ったようにシオンから手を離した。

「「ビートを売ってくれれば帰って良いし」」

ビート……砂糖以外に興味のなさそうな二人を眺め、クロノは溜息を吐いた。

「シオンさんに相談したいことがあるから、勝手に帰らせちゃ困るよ」

「「だってさ」」

「ちなみにビートは僕が買い占めます」

「「……っ!」」

デネブとアリデッドは顔を見合わせ、クロノにしなだれかかった。

「ねぇ、クロノ様? あたしらもビートが欲しいんだけどぉ」

「部屋にお持ち帰りしてくれても良いから、ビート」

「シオンさんの荷物を屋敷まで運んでくれたら考えても良いよ」

「「よし!」」

拳を握り締め、二人は荷造りを始めた。

荷物を積み終えると、二人は荷車を引き始めた。

「……クロノ様」

レイラがせがむような視線を向けてきたので、クロノは黙って彼女を抱き寄せた。

「じゃあ、行きましょうか?」

「あ、はい」

不自然な点がないか、クロノはあちこちに視線を向けながら歩いた。

自然と歩みは遅くなり、荷車と距離が開く。

だが、しばらく歩くと、デネブとアリデッドに追いついてしまった。

デネブとアリデッドが不思議そうに立て札を見つめていたからだ。

「何て書いてあるの?」

「あの、これは「売春と奴隷売買が許可制に移行するという公示です」」

シオンが読み上げるよりもレイラの方が早かった。

トイレ、もしくは食事にでも行ったのか、公示の読み上げ担当はいないようだ。

「……で、宜しかったでしょうか?」

「正解」

クロノは不安そうに言ったレイラの頭と耳を優しく撫でた。

ふるふるとレイラは心地よさそうに体を震わせ、軽く頭を振って正気を呼び戻した。

「どういうこと?」

「来月からクロノ様の許可を受けた者でなければ売春と奴隷売買が行えなくなります」

ちらりとレイラは自信なさそうにクロノを見上げ、

「「何で?」」

「売春は性病の蔓延を防止するため、奴隷売買は売却後のトラブルを防ぐため、と書かれています」

公示の意味を理解できなかったらしく、レイラは不思議そうに首を傾げた。

「……クロノ様、どういう意味なのでしょうか?」

「文字通りの意味ですよ、ハーフエルフのお嬢さん」

声のした方を見ると、マイルズが薄い板を片手に立っていた。

「クロノ様は定期的な健康診断を行う娼館にのみ売春を許可することで、紳士の皆様が安心して娼館を利用できるようにしたのです。また、この街で売買される奴隷は性奴隷が殆どですが……奴隷商人の暴力が原因で購入した直後に死ぬこともあります」

マイルズは言葉を区切り、

「購入者にとって、大金を支払って購入した奴隷が数日と保たずに死ぬのは好ましくない事態です。クロノ様は購入者の利益を守るために適切に奴隷を管理している奴隷商人にのみ許可を与えると言っているのです」

ちなみにマイルズが説明したのはクロノが必死に捻り出した建前の部分だ。まあ、その辺はマイルズも見抜いているようなのだが。

「やあ、許可は出たの?」

「クロノ様の方がご存知でしょうに」

マイルズは苦笑し、クロノ直筆の許可証が張られた薄い板を示した。

「お陰様で許可一号の栄誉を授かりました。では、これで」

そう言って、マイルズは背を向けた。

「「……もしかして、アイツと食事したのって?」」

「秘密」

食事をすれば、食事をするほど仲が良いと噂が一人歩きする。

そんな時にマイルズが娼館と奴隷売買が許可制になると言えば、聞いた相手は信じるだろう。

まあ、許可制に賛同してくれるように説得もしてもらったが。

ちなみにマイルズが求めた見返りは、許可一号になるように便宜を図って欲しい、というもの。

「クロノ様は……いつも、とても難しいことを考えていらっしゃるのですね」

「そうでもないよ」

ふと視線を傾けると、シオンが力なく頭を垂れていた。

気にする必要もないか、とクロノは再び歩き出した。

「「アイスクリーム!」」

エラキス侯爵邸に戻ると、デネブとアリデッドは持てるだけのビートを抱えて走り去った。

どうやら、二人は自分達で卵と牛乳を買うつもりがないらしい。

「女将に怒られなければ良いけど……レイラも行く?」

「いえ、クロノ様の傍にいさせて下さい」

応接室で良いや、とクロノはシオンを三階まで案内し、ソファーに腰を下ろした。

レイラは遠慮がちにソファーに座り、ぎゅっとクロノの袖を掴んだ。

「シオンさん、座って下さい」

「あ、はい」

慣れていないのか、シオンはソファーに浅く座り、上目遣いでクロノを見つめた。

「あ、あの、今日は……どのような御用件で?」

「相談事は幾つかあるんだけど、この辺り……エラキス侯爵領で行われている農業について教えて貰えないかな?」

「は、はい、分かりました。え、エラキス侯爵領では三圃制農法を行っています」

「三圃制農法?」

聞き返すと、シオンはびくんと体を硬直させた。

「これは耕作地を三つに分け、一年目は春の作物、二年目は冬の作物、三年目に畑の地力と水分を回復させるために休耕地とし、そこで家畜を飼育するという農法です。あの、地力は作物を育てる力のことです、はい」

「地力を回復させたいんなら肥料を撒けば良いし、水分を回復させたいんなら用水路で水を引けば良いと思うんだけど」

「ひ、肥料ですか?」

「うん、人や家畜の糞とか、食べ滓とか、灰とか撒いて、畑の栄養にすれば休ませなくて済むんじゃないかな?」

畑には牛の糞を撒くはずだし、食べ滓は隣家の住人が家庭菜園に埋めていたし、マンガで灰を撒くと土に良いと紹介していたような気がする。

「あ、あの、それほど大量の糞を何処から調達すれば良いのでしょうか?」

「街で集めるとか、牛の糞を集めるとか?」

「輸送が難しいですし、全ての休耕地を賄えるほど牛を飼っている村はありません」

牛を増やす所から始めなきゃならないのか、とクロノは溜息を吐いた。

「よ、用水路についてですが、莫大な費用と時間が掛かるので……あ、あの、死んだ父によれば、クローバーを栽培すると、水分を保ったまま地力の回復を促せるそうです。みんなは信じてくれなかったんですけど、じ、自分で畑を耕して、牛を放して、実証したので……」

シオンの声は尻すぼみに小さくなり、最後の方は蚊の鳴くような声になっていた。

「じゃ、クローバーを休耕地で栽培しよう」

「え?」

クロノがあっさり決めると、シオンが素っ頓狂な声を上げた。

いきなり全面的な実施は難しいか、とクロノはすぐに思い直した。

「……取り敢えず、一割の休耕地でクローバーを栽培しよう。成果が出れば少しずつ範囲を広げていく感じで。その時は技術指導をお願いしたいんだけどダメかな?」

「わ、私で良ければ」

「それから……シオンさんは炊き出しもやってたんだよね」

「はい」

何故か、シオンは今にも泣きそうな顔で頷いた。

「実は救貧院の院長をシオンさんにお願いしようと思うんだ。もちろん、今までの救貧院と違って……」

ふと脳裏を建設中の和紙工房が過ぎり、クロノは思いつきをそのまま口にした。

「今までの救貧院と違って、ちゃんとした職業の斡旋をして、生活が立て直せるように給料も払う。それからシオンさんのお父さんが作ったビートなんだけど、砂糖を作れることが分かったんだ。将来的には砂糖も……あれ、シオンさん?」

突然、シオンが立ち上がる。

一方的に話し過ぎちゃったかな、とクロノはシオンを見上げた。

「……こ、こんなの」

「?」

食い縛った歯の隙間から嗚咽じみた言葉が漏れ、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。

「こんなの、あんまりです!」

シオンは堪えきれなくなったように叫び、顔を覆って泣き始めた。

「あの、シオンさん?」

「と、父さんも、私も、一生懸命頑張って、それなのに、貴方は……私達ができなかったことを、簡単に!」

泣き叫ぶシオンを前に、クロノは困惑することしかできなかった。

救いを求め、視線を巡らせると、レイラと目が合った。

「クロノ様が気にされる必要はないと思います」

「……だけど」

「クロノ様はとても優しい方です。けれど、その優しさが恵まれない人間にとって毒になることもあるのです」

そうかも知れない、とクロノは衝撃と共にレイラの言葉を受け入れた。

クロノの優しさは恵まれた立場……継続的な余裕によって育まれたものだ。

クロノはレイラの過去を知らない。

どれほど辛い目にあって、どれほど絶望したのかを知らない。

クロノはシオンの苦労を知らない。

どれほど悩み苦しんだのかを知らない。

「わ、私……なんて、失礼なことを」

「レイラ、止めて!」

シオンは発作的としか言いようのない唐突さで窓に向かった。

クロノが叫ぶと、レイラは音もなくシオンの正面に回り込んだ。

ズンッ! とレイラの拳を受け、シオンの体が浮いた。

シオンはその場に崩れ落ち、

「……っ!」

涙と涎で顔をグシャグシャにして、ケヒュ、ケヒュと洒落にならない音を漏らした。

「き、気絶してないです、レイラさん!」

「横隔膜を撃ち抜いただけですから」

レイラはシオンの背後に回り込み、キュッと首……多分、頸動脈を締めた。

すぐにシオンは動かなくなった。

シオンを客室のベッドに運び、その足で厨房を訪れると、デネブとアリデッドがアイスクリームを美味しそうに頬張っていた。

「「美味っ!」」

「全く、食い意地が張ってるね。おや、クロノ様?」

クロノは空いている席に腰を掛け、これ以上ないくらい深々と溜息を吐いた。

「ま~た、落ち込んでるのかい? まあ、これでも食べて落ち着きな」

「……ありがと」

クロノは差し出されたアイスクリームを受け取り、スプーンで口に運んだ。

「牛乳の代わりにクリームを使ったんだけど、どうだい?」

「アイスクリームって感じ」

材料の違いか、それとも、腕の差か。

女将が作ったアイスクリームはクロノのシャーベット状のそれと違い、ちゃんと固まっていた。

「今度はどうしたんだい?」

「……シオンさんを泣かせちゃった」

「「何をしたの、クロノ様っ?」」

空の皿を置き、デネブとアリデッドは身を乗り出した。

「農業の効率化と救貧院の再開を決めたら、自分は頑張ってもできなかったのにって。レイラが言うには僕の優しさは……人を傷つけるとか」

「クロノ様って、優しすぎるもんね」

「そうそう、優しすぎて期待しちゃうんだよね」

デネブとアリデッドは腕を組み、何度も頷いた。

「アンタが優しいのは育ちの良さも関係してるからね。貧乏人にゃ、重く感じる時もあるだろうさ。でも、あたしゃ、優しいアンタが好きだけどね」

「……女将」

クロノが見つめると、女将は照れたように視線を逸らした。

「「ふ、二人とも、いつの間に」」

「い、一週間前くらいかね。最初は慰めてやるつもりだったんだけど、どうも、火が点いちまってね」

女将は腕を組み、頬を赤らめて言った。

「何が言いたいかと言えば……失敗したら慰めてやるから、アンタの優しさを貫いてきな!」

ばしん! と女将に背を叩かれ、クロノは立ち上がった。

客室に戻ると、レイラがイスに座り、シオンを見つめていた。

「……かなり、お疲れのようです」

「そう」

レイラが無言で立ち上がり、クロノは入れ替わるようにイスに腰を下ろした。

「きっと、大変だったんだろうね」

クロノはシオンの手を見つめ、小さく呟いた。

女の子とは思えないほど固い手の感触を思い出す。

「……う、ん」

「目が覚めた?」

うっすらとシオンが目を開き、クロノはできる限り優しく声を掛けた。

「……っ! く、クロノ様! も、申し訳ございません!」

「気にしていないと言ったら嘘になるね」

シオンは体を起こし、涙を堪えるように拳を握り締めた。

「何か、言いたいことはある? 苦労話でも、愚痴でも、ちゃんと聞くつもりで戻ってきたんだ」

「……」

シオンはクロノの顔を盗み見て、悔しそうに俯いた。

「……私の父は『黄土神殿』の下級神官でした。ようやく任された神殿がハシェルの街から歩いて三時間くらいの所にあって、きっと、クロノ様は知らないですよね? 凄くボロボロで盗賊も見向きしないような場所ですから」

「悪いけど、知らない」

シオンは拳を握り締め、苦痛に耐えるように歯を食い縛った。

「ずっと、父はビートの品種改良に取り組んでいました。品種改良が上手くいけば、きっと、みんなを豊かにできる。そう言って、何年も、何年も……でも、ようやく成果が実ったのに、家畜の飼料なんて食べられるかって。クローバーのことだって……父はみんなのために頑張っていたのに」

シオンの言葉に込められていたのは、おおよそ、神官に似つかわしくない感情……怒りと憎悪だった。

「私だって、私だって、一生懸命、頑張って来ました! 炊き出しをして、みんなのために頑張ったのに……それなのに」

シオンはクロノの額……デネブとアリデッドに突き飛ばされてできた傷……に手を伸ばした。

「『黄土にして豊穣を司る母神』よ、癒しの奇跡を」

光もなく、音もなく、そして、神威術による癒しの奇跡も顕現しなかった。

「まさか?」

「ふふふ、そうです」

レイラの問いに、シオンは壊れたような笑みを浮かべた。

「一生懸命頑張ったのに、神威術まで失って! それでも、みんなのために炊き出しを続けて! それなのに何にもならなくて! 私達は何もできなかったのに、貴方は……貴方は! 領主というだけで、私達を嘲笑うみたいに!」

「クロノ様は……!」

クロノは今にも飛び掛からんばかりのレイラを手で制した。

「な、殴れば良いじゃないですか! そんな風に憐れまれたら……余計惨めです」

シオンは祈るように手を組み、嗚咽を漏らした。

重荷だったんだ、とクロノは震える膝を押さえた。

成果が得られれば、神官としての生き方は彼女の誇りになっていただろう。

けれど、何の成果も得られないまま、神官としての生き方は重荷になった。

神官として生きることが苦しくて、投げ出すこともできずに誰かを憎むようになった。

「そんなに辛いんだったら、代わってあげるよ」

「……っ!」

シオンは鬼のような形相でクロノを睨み付けた。

だが、クロノは一瞬だけシオンの唇が綻んだのを見逃さなかった。

「僕がシオンさんの代わりにビートの栽培を広めて、休耕地にクローバーを植えさせるから、シオンさんは僕の代わりに農業改革の方法を考えて、救貧院の院長を務めてくれれば良いよ」

「だ、だって、そんなこと」

クロノは微笑み、シオンとの距離を詰めた。

手を突くと、ベッドが抗議するように軋んだ。

「できるよ、僕はエラキス侯爵領の領主だから」

「……だって、そんなことされたら」

「やって来たことを全否定するつもりはないけれど、君だけで全部やるのは無理だよ」

シオンの瞳から涙がこぼれ落ちた。