結婚してください、死神騎士様
作者: 柴野いずみ@『悪女エメリィの逆転劇』発売中
本文
窓から見える空が不気味なほどに赤々と燃えた、寒い寒い冬の夜更け。
静まり返っていた城に、馬の蹄の音が響いた。
ああ、死神がやって来る。
この城の全ての命の灯火を一つ残らず消すために――。
王女モニカは、まるで爽やかな朝の鳥の囀りを聞いた時のように、ベッドからゆっくり身を起こして厚手のガウンを羽織った。
「どうぞ、お入りください」
か細い声で告げると、ギシギシと扉が開かれる。ドアノブは動いていなかった。どうやら人の手ではなく、馬の体当たりで無理矢理こじ開けたらしい。
現れたるは、白馬に跨り、敵国の国旗を高く掲げる騎士。顔面をすっぽりと覆い隠す鈍い鋼色の兜を被って同色の鎧を纏った無骨な姿だが、なぜだか美しく見えた。
無駄に広々とした城であるとはいえ、階段もあるし建物の中では走りにくいだろうに、馬のままで乗り込んできたのは人を踏みつけにするためなのだろうか。逞しい白馬の脚は赤黒い液体で汚れている。
「あなたが死神騎士ですね。噂には聞いていました」
「ずいぶんと丁寧なお出迎えだな。これから自分の身に起こることを想定しての言葉か?」
兜の中から聞こえてきたくぐもった声に、モニカはこくんと頷く。
「はい。この国を滅ぼすついでに、わたしはここで首を落とされるのですよね?」
――死神騎士。
敵国の騎士であり、そう呼ばれる彼に、この国の民も、使用人も、貴族も、王や王妃さえも 鏖殺(おうさつ) された。彼は無慈悲だった。彼は最強だった。この国の王族は死神を甘く見過ぎていた。
今、この国は死で満たされている。彼と、彼が率いる騎士たちによって。
王都は火を放たれて炎の海。冬場で乾燥しているのもあって余計に燃え広がり、空高くまで炎が上がっている。そんな中、どうにか焼け死ぬのを免れた者も剣で貫かれるか馬に踏み殺されるかしたようで、つい数時間前まではあちらこちらから断末魔が聞こえてきていた。
その喧騒が嘘のように消え失せた時が、王都滅亡の瞬間だったに違いない。他国との国境にある鉱山で採れた鉱石の所有権がどうだのこうだのと争って、その戦争の結果がこれだ。
おそらくだがモニカは城で最後の生き残りだろう。城の隅、目立たないところにある物置部屋に閉じ込められるようにしてひっそりと過ごしていたから、今まで見つからなかったのだ。
本来は人が住むような場所ではないため、騎士たちが発見できなかったのも無理はなかった。けれどたった一人、死神騎士だけはめざとく、モニカのわずかな息遣いを見逃さなかった。そして、モニカ自身、見逃されることを望んでもいない。
「弱そうな見た目に反し、覚悟は決まっているようだな」
死神騎士の剣が、モニカのほっそりとした喉元へと向けられる。一突きするだけでモニカの命は呆気なく絶えるだろう。
しかしモニカは笑みを崩さない。死と隣り合わせなんて慣れっこだから怖くなかった。手指の先が冷たく感じるのは、きっと寒さのせいだ。
「ですが、最後に一つだけ、お願いがあります。どうか聞いていただけないでしょうか」
「なんだ?」
騎士が怪訝そうな顔をした、気がした。そしてさらに、兜の中の彼の表情はますます歪められることになる。
なぜなら――。
「わたしと結婚してください!」
モニカが求婚をぶちかましたからである。
今にも殺されそうなのに、自身に凶器を向けている相手への、求婚。しかも、誓って冗談の類ではない。
「あ、え……いや」
モニカの熱量たっぷりの求婚を浴びせられた死神騎士が困惑に声を詰まらせる。
当然だ。むしろあっさり受け入れられる方がおかしいことは、モニカとて理解している。なので説明して差し上げた。
「死ぬのが嫌とは申しません。むしろ喜んで受け入れます。ただ、この世に思い残すことがあっては死ぬに死ねないのです」
「別に俺にとって、その思い残しとやらは関係が……」
「ありません。ありませんが聞いてください。わたしの半生は決して恵まれたものではありませんでした。妾腹の第五王女に生まれ、教育は受けさせてもらえましたけど、国王陛下と顔を合わせたのは片手で数えられるくらいです」
「あのな」
何か言いたげな死神騎士を「待ってください」と遮って、モニカは続ける。
「生まれた時から体も弱くて、でも、七歳の頃まではそれでも幸せだったんです。ですがある日突然倒れてしまって……二十歳までには死ぬという不治の病だと診断されました。今十七歳なので、長くとも残り三年の命です」
割と軽い調子で語っているが、決して軽い話ではなかったりする。
病に苦しみ悶える日があった。迫り来る死を想った夜があった。血を吐いてドレスを汚し、惨めな思いをしたこともあった。
「今だって身を起こすのがやっとで立ち上がれません。当然、どこかへ嫁ぐなんてことはできないわけです」
嫁げない王女など利用価値がないと言われ、物置部屋に押し込まれた。仕方がない。本当に、ただの寝たきりでしかないのである。
それでも――。
「思い残したこと、それは結婚式。結婚式のドレスを着て、熱烈なキスを交わす……最期くらい、そんな恋愛小説の中のお姫様みたいな体験をしてみたい」
憧れてしまった。
ベッドの上で読む恋愛小説くらいしか楽しみのなかったモニカが知る中で、最大の幸せの象徴、それをこの身をもって味わってみたいと夢見ていた。
「それがどうして俺と結婚するということになる?」
「だって、騎士様しかいらっしゃらないじゃないですか」
結婚式は相手がいないと成立しないが、今ならできる。
「『愛している』と嘘でもおっしゃって、口付けて、指輪をくださるだけで結構ですから」
「…………」
「ダメ、ですか?」
目をうるうるさせ、上目遣いで死神騎士を見上げた。恋愛小説のあざといヒロインに学んだ仕草である。
病弱故に色白で小柄な体、ふわふわとした癖の強い藍色の髪、鮮やかなピンクの瞳、その全てが愛らしく見えることをモニカは知っていた。もし社交界に出られる機会があったなら、名を轟かせていただろう。
果たして、モニカの必殺技の効果は……。
「普通に考えて、ダメだが」
効かなかった。
「そこをなんとか! どうかお願いしま……ゴホゴホッ!!」
大声を出したあまりに咳き込みながらも、モニカは必死に頼み込んだ。ここで引くわけにはいかないのだ。
「普通に考えないでください。目の前にいる可哀想な女の子を助ける、つまり人助けと考えてはどうです? ほら、騎士って人を助けるのもお仕事でしょう」
「味方ならともかく、俺は敵だ。敵にお願いするのはおかしいとは思わないのか。しかも結婚だぞ結婚。結婚は好きな人とするものだろう?」
お堅く見える割に、意外とロマンチストだったらしい。王族なら政略結婚など当たり前だというのに、騎士は意外と自由なのだろうか。
「知りません。わたし、世間知らずの病弱王女なので」
「世間知らずはそのようだが、免罪符のように言うな」
「死は平等に訪れる、って言うじゃないですか。だからこんなお願い、贅沢だとは思っているんです。思っているんですけど、ちょっとくらいのわがまま、言ってもいいじゃないですか」
「……今度は泣き落としか」
幸せに死ぬためなのだ、どんな手でも使うに決まっている。
「騎士様はお優しい方ですもの。だって、わたしはまだ殺されていない」
嫌ならさっさと殺せばいいのにそうしないのは、押しに弱いタイプだからと見た。
ならばひたすら押すのみである。
「もしかして、騎士様ったらわたしが可愛くて殺すのをもったいないとお思いだったりしますか?」
あえて軽く挑発すると、はぁぁぁ、と大きなため息が聞こえた。
誰から? もちろん死神騎士の口から。
「このまま挑発に乗って殺すのもくだらない。少しだけ、お遊びに付き合ってやる」
「本当ですか!? 嬉しいです! 言質取りましたよ。早速準備お願いしますね」
「は?」
「わたし、ベッドの住人なんですよ。無理です」
無責任なのは承知の上で、きっぱり言い切る。
「代わりに指示を出しますね。ドレスは、城に燃え残りがあればそれで構いません。なければどこかから探し出してきてください。それからそれから――」
結婚式に必要なものを教えて始めて、そのあと、記憶が飛んでいる。
病弱なモニカは興奮するとすぐに倒れる。そのことを自分ですっかり失念していたのだ。
次に目が覚めた時、いつの間にか死神騎士はいなくなっていた。そして死神が率いていた他の騎士たちは王都以外――戦争の原因である鉱山を含んだ国土全体の占拠に向かったと置き手紙があった。
降り出した雪で自然鎮火した王都の中、モニカはたった一人、取り残されたらしい。
「恋人の帰りを待つヒロインみたいで素敵ですね」
そう呟いて、小さく笑った。
§
「名も知らない少女と、真似事だとしても結婚するなんて冗談じゃない」
そう愚痴りながらドレスを探して、王都から遠く離れた街をふらふらと彷徨っている事実に我ながら呆れ返る。
死神騎士と呼ばれている彼――ガランサスは、焼き払った城の中で見たおかしな王女のことを思い出していた。
きらきらと輝く瞳。聞くだけで耳がとろけそうになるような優しい声。それはどこか懐かしくて、だからこそ、命を奪うのを躊躇わさせた。
騎士失格だ。主である帝王からは鏖殺せよと命令を下されているのに、いまだにそれを果たせていない。部下たちには偽りの説明をしてこの国に留まっているが、彼女のためにそんなことをする価値は何もないはずなのに。
『結婚してください!』
だなんて、変なことを言う彼女が悪い。
結婚は好きな人としよう、そう決めていたのに。死神という不名誉な呼び名をつけられながらも同時に英雄と崇められ、次々と届く縁談を何年も蹴り続けてきたのに。
ガランサスには好きな人がいる。と言っても、一方的な想いであり、決して通じ合っているわけではない。
昔、騎士などではなく、ただの幼子だった頃。貧しさを理由に世話をしてくれない親の元から逃げ出したはいいものの、行き先のないガランサスを救ってくれた少女がいたのだ。
ちらちらと雪が舞う、真冬の午後。凍えそうになっているガランサスに向かって、小さな馬車から顔を覗かせて、「あの」と声をかけてきたのが始まりだった。
――あなた、もしかして迷子なのですか?
――家出、ですか。それは大変でしたね。
――わたしも家ではあまりいい扱いをされていないので、あなたの気持ち、少しはわかります。
――孤児院まで連れて行ってあげましょう。どうせわたしも暇をしていたところなので。
笑顔の可愛らしい人だった。最初こそ警戒心を抱いていたが、一瞬でそんなものは失せてしまった。
髪をすっぽり包み込む大きな帽子を被り、キラキラ輝くドレスを着ていた。きっとお貴族様なのだろうに、薄汚いガランサスの手を取ることを厭わない……その優しさに心が震えた。
別れ際に、新たな人生を生きるための名を与えてほしい、と図々しい頼みをしても嫌な顔一つしなかったのをよく覚えている。
――美しい雪を思わせる白髪と、淡い緑の瞳。まるで、ガランサスみたい。
――知っていますか、ガランサス。雪の季節に咲く小さな愛らしい花で、別名スノードロップともいいます。花言葉は『希望』ですよ。
――あなたの人生に、いつか希望が訪れますように。
その言葉を残して、彼女は去っていった。
ガランサス。与えられた名は宝物のようで、何かの機会に名乗る度、彼女への想いが強くなった。もう一度会いたい。否、もう一度などでは足りるはずもない。まずはお礼を言って、それから「好きです」と伝えたい。だから、騎士になった。
少女はどう見ても貴族だったから、庶民でも貴族にお目にかかれる場に出られるような地位が必要だったのだ。ガタイがいい方ではなかったから苦労したが、彼女のためと思えば頑張れた。
なのに、やっとの思いで辿り着いた社交界に、彼女の姿はない。彼女は幼かったからデビュー前なのだろうと考えたが、何年経っても現れることはなく、ただただガランサスの虚しい想いが深まるばかり。
――貴女こそが、俺の希望だというのに。
いつしか情熱は萎み、心が凍りついた。命令されるがままに人を斬るようになったのは、騎士である意味を見失ったからだ。
そんなガランサスを皆が死神騎士と称え、あるいは蔑んだ。蔑む声の中には、彼女が与えてくれた名前を馬鹿にするものまであった。
「名前に相応しい活躍ですね。ガランサスまたはスノードロップの花言葉は、『あなたの死を望みます』ですよ」
「希望じゃ、ないのか?」
「他国では、確かにそんな意味で知られていますがね」
馬鹿にされたこと自体は心底腹が立ったが、一方で気づきも得た。
「……なら、彼女はこの国の人間ではないという可能性もあるのか?」
そう思い至り、上層部をそそのかして他国への侵略を繰り返すようになって……それでも見つけられなくて。
だからもう諦めるべきなのだと思う。きっとそのきっかけを、あのおかしな王女は与えてくれたのだ。
己の髪と同じ雪色のドレスと、エメラルドが嵌められた指輪を調達しながら、ぼそりと口の中だけで呟いた。
「感謝しなければいけないのだろうな」
そして感謝し、婚姻を結んだ上で、しっかりと殺さなければならない。それが今回の侵略の指揮を任されている者としての務めなのだから。
§
死神騎士がモニカの元へ戻ってきたのは、王都が壊滅して三日目だった。
三日前と同じように、白馬に乗ったままで部屋までやって来てから、今回は馬を降りてくれた。旗も持っていない。最悪、結婚式をやめてすぐに殺される可能性も考えないではなかったので安心した。
「おかえりなさい、あなた」
「…………」
「もうっ、無視しないでください。寂しいです」
「俺たちはまだ新婚ではない」
「そうでしたね。失礼しました。ところで、ドレスはどちらに?」
「これだ」
少々乱雑に投げ渡されたのは、まだ誰も踏んでいない新雪のような色をした、シルクのドレスだ。
装飾は少なめだが、まさしくモニカが脳内に思い描いていた花嫁ドレスそのものだった。
「まあ、素敵! どこで入手なさったのですか?」
「王都から離れたところの、とある貴族の屋敷から。一応新品を選んだつもりだ。ついでに持ち主は殺しておいた」
そう言われると反応しづらい。が、手に入れて来てくれと頼んだのはモニカなので何も言えない。
「では早速着替えるので、一度ご退室願えますか」
「いや、後ろを向いておく」
「そ、それでは、照れてしまいます」
「好き合っての結婚ではないのだ。決して欲情はしない」
そういう問題ではないのだけれど、わかってもらえなさそうだ。仕方ないので死神騎士を信じることにした。
「後ろを向いていてくださいね。絶対、振り向かないでくださいね」
「しつこい。早くしてくれ」
その言い方はどうかと思う。色気のカケラもなさ過ぎる。
とはいえ、そのおかげでさほど恥ずかしがらずに着替えられたのは幸いだった。メイドも侍女も誰も残っていないため、着替えは一人でする。普段は寝間着にガウンを羽織るだけなので簡単だが、花嫁ドレスを着るのはさすがに苦労した。四肢に力が入らず、何度も倒れそうになりながら奮闘すること半時間ほど。そのあと自分で髪を結えば完成だ。
一息吐いてから、夫となる人を呼んだ。
「終わりました。振り返っても、いいです」
「待ちくたびれた。…………なるほど」
「どう、ですか?」
本当なら迎えられることがなかった結婚式。
花嫁姿をお相手に見せる時点から式は始まっているに等しい。胸の鼓動が激しく、今にも倒れそうだ。
ここで甘い言葉でもかけられたら、手を下されることなく死んでしまっていた気がする。ただ、実際にかけられた言葉はというと。
「普通に綺麗だな」
そんな、あっさりしたものだった。
「褒めていらっしゃいます?」
「褒めている」
「こういう時はもっと『美しさのあまりに言葉が出なかった』とか言ってほしいのが乙女心なのですが」
「すまない。残念ながら俺は乙女心を知らないものでな」
「乙女心的には、騎士様から愛の誓いをいただきたいです」
本当の結婚式は、神父からの言葉がある。けれどもここは二人きり。誓いの言葉を聞くのは自分と相手だけ。
互いの顔が近づき、体が触れ合って、耳元に囁き声が――。
「降りるぞ」
「はい? ……えっ?」
何を言われたのか、理解した時には、二重の意味で体が宙に浮いていた。
モニカの寝室、すなわち物置部屋は城の三階部分にあり、地上からはかなり高い。だというのに飛び降りたのである。しかも、モニカを包み込むように横抱きにして。
「何をやっているんですか!」
「俺はこの程度でケガはしない。形にこだわるのなら、ベッドの上で結婚式を執り行うよりはこの雪景色を背景にした方がいいだろうと思った」
着地した先は、一面の白雪で覆われていた。あたりの空気が冷え冷えとしていて、抱きしめられていなければ震えてしまうような極寒だ。今も雪が降り続き、ドレスから覗く肩や腕にぶつかっては消えていく。
窓の外に見ることは毎年だったが、この身で雪を浴びるのなんてずいぶんと久方ぶりだった。
「ロマンティックですね……」
最後に雪の日に出かけたのは、十年前になるだろうか。
王族の外遊という皮を被った政治のあれこれに付き合わされた他国の地で、退屈しのぎに出かけたことをぼんやりと思い出す。
思い出している最中、死神騎士の声が頭上から降り注いだ。
「では改めて。式を始めるが、いいか?」
「――はい」
外は寒い。長いこと外にいたら、風邪を引いてしまいそう。
その前に終わらせよう。モニカの夢を。モニカの命を。
「『愛している』」
「わたしもです」
偽りの言葉だとわかっている。『愛している』と言いながら、死神騎士はモニカを殺す。
それでも、泣きそうになるくらい嬉しい。
「『病める時も健やかなる時も、妻を愛することをここに誓う』」
「死する時も死したあとも、夫を愛することをここに誓います」
死神騎士は定番の言葉を、モニカはそれを少し変えた言葉を、相手に告げた。
そして、いよいよ幸福の絶頂の時が来る。モニカが望んでやまなくて、手が届かないと思っていた、その瞬間が。
モニカは目を閉じた。死神騎士の方から、がちゃがちゃと音がした。――――唇にやわらかな熱を感じ、瞼を開くと、緑色の瞳と見つめ合った。
「あ……」
端正な面立ち。すらりとした鼻筋。降り注ぐ雪、おまけにモニカのドレスと同色の髪。
兜を脱ぎ捨てたその顔には、どこか見覚えがあるような――以前も雪の中で彼を見たことがあるような、そんな気がした。
「ガランサス」
触れ合っていた唇を離し、ふと口をついた言葉は、雪の花の名前だった。
幼い頃、母と共に王城の庭園を散歩して「綺麗だねぇ」と言っていた花。今は別の花に植え替えられて、見られなくなってしまった花。
そんな花の名前と彼の印象がピッタリと合致したのである。これは、初めての体験ではない。
モニカが驚きに固まる一方、死神騎士もまた目を見開いた。
「なぜ、俺の名前を」
「……いいえ。ただ、雪の花のような人だと思ったのです」
「俺はガランサス。姓のない、ただのガランサス」
そうだ。ガランサス。モニカはその名前を、とある少年に与えたことがある。
同い年くらいの子供だっただろうか。あの十年前の雪の日に、馬車の窓の外に偶然子供の姿を見て、哀れに思った。
まさか、あの時の。
「そう言えばまだ名乗ってさえいませんでしたね。わたしはモニカです。ガランサス、あなたの名に聞き覚えがあると思うのは、わたしだけですか」
身分も何も明かさなかったが、名前だけは教えていたと思う。
やはり覚えがあるらしい。死神騎士は息を呑んでいた。初対面だと思っていた彼は、どうやら初対面ではなかったようだ。
無骨な兜と鎧に阻まれ、まるでその可能性に思い至らなかった。今にも死んでしまいそうだった少年が今となっては死神騎士と呼ばれているだなんて、誰が想像できるだろう?
ただ勢いで求婚しただけだった。好き合ってもいない。大きな意味も、彼である必要もさしてないはずだった。
けれど――これは運命だったのかもしれない。
しばらく雪の降る音だけが響いていたが、やがて、死神騎士――ガランサスが懐から指輪を取り出した。彼と同じエメラルド色の瞳で、周りにモニカの瞳と同じピンクの粒石が散りばめられている。それは彼からの結婚指輪だ。
「なんというか、その、俺は非常に戸惑っている」
「わたしもです」
「結婚の真似事はさっさと終わりにして、指輪を渡してすぐに職務を果たすつもりだった。が、たいへん気恥ずかしいことに、俺は名付けの君に恋している」
「名付けの君……?」
「貴女のことだ」
今度は戸惑うのはこちらの番である。
なんだそれは。恐ろしいとされている死神騎士がまるで恋愛小説のヒーローのようなことを言っている。王都を丸々焼き払い、身分に関係なく誰も彼も殺したくせに。
再会してすぐに『名付けの君』と気づけなかったことを詫びられた。別に謝られるようなことではないのだが。むしろ、ずっと知らないでいてほしかったとすら思う。
彼の手で殺されたかった。幸せのままに死ぬのが、モニカの望みだったから。病に侵されて死んでいくよりも、その方がずっと楽だ。モニカにとって死神騎士は希望だった。ちょうど、ガランサスの花言葉そのままに。
なのに『職務を果たすつもりだった』と彼は過去形で語っている。今はその気がないということだ。その意味を考えて、モニカの全身から血の気が引いた。
「わたし、幸せでした。今この瞬間幸せです。騎士様、ガランサス様、わたしの旦那様。最後にもう一つ、お願いがあります」
わたしを殺してくださいと、モニカは懇願する。
「血を吐くのはもう嫌です。苦しいのも嫌です。痛いのは辛いです。この幸せを知ってしまったから、二度と耐えられそうにありません」
舞い踊る雪がモニカの喉を凍らせ、白い吐息はガランサスの顔面にぶつかっては霧散した。
この吐息のように消えてしまえればいいのに。
だが、ガランサスの答えは無慈悲だった。
「許可しない」
死神を思わせる、ゾッとする冷たい声。なのに向けられる眼差しはとてもあたたかい。
「他国にとっては死神だが、俺はいくつもの国を落とした英雄でもある。特に今回の結果は、俺の主である帝王を大きく喜ばせるものになるだろう。そうして与えられる褒美に、俺は貴女の命を願おう」
「命、を?」
「どのような手を使っても貴女を永らえさせる。それが叶わぬのであれば、この世界ごと何もかもを葬り去る」
さすがというか、発想が完全に死神のそれである。怖い。とんでもなく怖い。
モニカは慄いたが、今更彼の腕から逃げられそうにもなかった。震える声で、夫となった人に問いかける。
「本当に、何もかも葬り去ってくださるのですね」
「できれば貴女と長い生涯を過ごしたいものだが。俺の祖国ではガランサスの花言葉は『あなたの死を望みます』というらしいが、俺は貴女の死を望みはしない」
ただ、貴女の希望になりたいんだ、と朗らかに笑うガランサス。
その笑顔に偽りはないように見えて――。
「じゃあ、なってください、わたしの希望に。なれなかったら殺してもらいますから」
期待してみても、もう少しくらいなら生きてみてもいいかと、そう思わされてしまった。
極寒の中で結婚式をやったせいで、想定通り風邪を引いた。
殺される予定だったのに殺されなかったので、きっちり苦しむことになったが、その間ガランサスがつきっきりで看病。苦しかったが、独りではない事実が嬉しくて、何度も泣いた。
数日後にようやく治ったと思った途端にガランサスの祖国へと連れて行かれた時は、死ぬかと思ったけれども。
ガランサスは戦利品という名目でモニカを手に入れ、正式に妻とした。それから彼がモニカのためにどれほどの時間と贅を尽くしたかは想像もできない。
名声と武力で主君の帝王を実質言いなりにしていたりもした。それでもなかなか成果は出なかった。
しかし三年後、ちょうどモニカの寿命が迫った頃に、久しく望んでいた希望は訪れることとなる。
本来なら人体に有毒な雪の花――ガランサスの根が、異なる薬草と調合することで特効薬になると判明したのだ。
「もうダメかと思っていました」とモニカは笑う。特効薬を飲んだ彼女は、十数年ぶりに二本の足で立つことができていた。
そしてそのままガランサスに抱きつき、繰り返し口付けを交わした。
その日、病弱だった元王女は病弱ではなくなった。雪の花は彼女の『希望』を確かに実らせたのである。
死神騎士ガランサスは、その後もそれなりに恐れられたが、積極的に他国を侵略したりはせず、常に妻の傍にいて彼女を愛しながら生きたという。
一歩間違えば彼の手で滅ぼされていたことなど、多くの人は知らなくていいことだ。