作品タイトル不明
第31話
由弦と愛理沙の長男、愛弥が生まれてから五年ほどが経過した。
その日、由弦は妻と子供たちを連れて動物園にドライブに赴いた。
ワゴン車を駐車場に止める。
「ついたぞ……」
すでに疲れ気味の表情で由弦は言い、後部座席のドアを開ける。
次の瞬間。
「僕、一番!!」
何かが後ろからロケットのような勢いで飛び出した。
少し遅れて由弦の妻――愛理沙が慌てて飛び出る。
「あぁ!! こら、待ちなさい!! 危ないでしょ!!」
道路に飛び出しそうになった息子―― 高瀬川愛弥(たかせがわ まなや) を、愛理沙は寸前のところで捕獲した。
「だって……」
勝手に飛び出さない。走り出さない。一人でどこかに行かない。
いつも言い聞かされていることを破ってしまった愛弥は、早速言い訳を始めようとした。
「別に動物園は逃げたりしないんだから。もう少し、落ち着いて。もう、お兄ちゃんなんだから。妹たちの手本になって」
遊びに行った先、休日でガミガミ言うまい。
そう決めていた愛理沙は愛弥の頭を撫でながら、優しく諭す。
「はーい」
「はい、でしょう?」
「はい」
「よろしい」
多分、分かってないんだろうなぁ。
愛理沙は内心でそう思いながら、愛弥の手をガッシリと握りしめた。
それから悠々と車から降りた由弦に、愛理沙は目を吊り上げた。
「あなた! 急に開けないでください!!」
「わ、悪い……」
由弦はペコペコと愛理沙に頭を下げた。
愛理沙は子供が生まれてから、小言が増えた。
容姿は美人で可愛らしい、昔と変わらないままなので、怒っている姿はちょっと可愛い。
もっとも、それを口にするほど由弦は愚かな夫ではなかった。
「まあ、まあ……パパも反省しているし。許してあげて」
「っふ……どこで覚えたの、それ?」
愛弥の思わぬ取り成しに愛理沙は噴き出した。
一方の由弦は半笑いで、愛弥の頭をポンと軽く 叩(はた) いた。
「全く、誰のせいで怒られていると思っているんだ」
「人のせいにしちゃいけません」
「あぁ……うん、その通りだ」
まさか、子供を相手に言い返すわけにもいかない。
由弦は苦笑しながら、愛弥の頭を撫でる。
一方の愛理沙はお腹を抱えて笑っていた。
「パパ、まだ?」
ふと、車から不満そうな声がした。
声のする方を見ると、そこにはチャイルドシートに大人しく座りながらも、ムスっと不満そうな表情の女の子がいた。
愛理沙によく似た亜麻色の髪に、由弦に似た碧眼の、人形のように可愛らしい女の子だ。
由弦は慌てて車に戻る。
「あぁ、ごめん、ごめん。ほら……」
由弦は三歳にしては聞き分けの良い、大人しい長女―― 高瀬川弓理(たかせがわ ゆり) をチャイルドシートから解放する。
「んー、抱っこ!!」
「はいはい。ほら!」
「きゃっ!」
由弦は弓理を抱き上げた。
そして勢いよく回ってみせる。
すると弓理は嬉しそうな声を上げた。
弓理は三歳にしては物静かで落ち着いて見えるが、実は甘えん坊な女の子だ。
「さて……」
一先ず、機嫌を直した長女を由弦は愛理沙に任せた。
そしてもう一人、すやすやと眠る女の子に視線を移した。
髪は黒。閉じられている瞼の下は翠色の瞳。
一歳になる次女―― 高瀬川弓沙(たかせがわ ゆさ) だ。
由弦は彼女を起こさないように慎重に抱き上げた。
それから組み立てたベビーカーに乗せる。
「早く、早く!!」
「……むっ」
「もうちょっと待ってね」
今にも爆発しそうな愛弥と弓理を愛理沙は宥める。
その間に由弦は急いで荷物を背負う。
「じゃあ、行こうか」
「「うん!!」」
由弦はベビーカーを押しながら。
愛理沙は愛弥と弓理の手を握りながら、歩き始めた。
極力、手は離さない。
手を離しても、目は絶対に離さない。
それが由弦と愛理沙が五年間の子育てで学んだことだった。
特に長男の愛弥は手を離すと走り出してしまうし、目を離すとどこかに消えている。
今のところ大事になったことはなく、気が付くとケロっとした顔で帰ってくるが、由弦と愛理沙からすると心臓に悪い。
そういうわけで二人はそれぞれ子供たちを分担しながら、動物園を回った。
愛理沙は愛弥を監視。
由弦はまだ幸いにも走れない一歳の弓沙と、比較的おとなしい弓理の面倒を見る。
動物園を回り始めて、まだ三十分もしない頃。
「ねぇ、早く、早く!!」
早くも愛弥がぐずり出す。
いつまで同じ動物を見ているんだ、早くしろ。
と、両親を急かす。
「じゃあ、弓理。そろそろ……」
「やっ! まだ見る!!」
一方の弓理はまだ動物を見たいと、首を左右に振る。
弓理は普段は大人しいが、こう見えて気は強い。
自分の意見は絶対に譲らない。
「じゃあ、別れましょうか。正午までに公園に集合で」
「そうしようか」
二人は長男と長女、それぞれのペースに合わせて園内を見ることにした。
愛弥に引っ張られる形で去っていく愛理沙を由弦は見送る。
そして弓理と共に行動する。
彼女は愛弥と違い、動物をじっくり見たい派らしい。
ジーっと見たり、看板を読み聞かせるように由弦にせがむ。
ベビーカーを押しながら移動しなければならない由弦からすると、このスローペースは助かる。
「弓理。そろそろ、ママに会いに行こう」
「えー」
弓理はまだまだ見たりない様子だった。
由弦としては子供の興味関心は優先してあげたい。
とはいえ、今回は事情がある。
「お昼食べに行こう。……早くしないと、ママとお兄ちゃんが全部食べちゃうよ?」
さすがに愛弥が全て食べ切ってしまうことはないが、待たされた愛弥は癇癪を起すだろう。
それに弓沙の離乳食は愛理沙が持っている。
弓理の都合で彼女の昼食を抜きにするわけにはいかない。
「それはだめ!」
「じゃあ、行こう?」
由弦の言葉に弓理は渋々という様子で頷いた。
それから両手を大きく広げる。
「抱っこ!」
「抱っこか……」
言うことを聞く代わりに抱っこしろ。
という要求だった。
しかし由弦は今、ベビーカーを押している。
「おんぶじゃダメ?」
「いいよ」
交渉成立だ。
由弦は弓理に背中を差し出す。
弓理はぴょんと由弦の背中に飛び乗った。
「じゃあ、しっかり掴まっててね」
「うん!」
由弦は弓理を背負いながら、移動を開始した。