軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

8:寝ていたい

リゼルの朝はそれほど早く無い。

元の世界では勤め先へ登城する為に自力で起きるか、時たま使用人に起こされていた為に起きられていたが、この世界で彼の眠りを妨げるものは無いからだ。

更にこの世界にはリゼルが読んだ事の無い書物が溢れかえっている。

それを読む為に明け方まで起きている事も珍しく無い為、リゼルの寝起きの悪さに拍車をかけている。

だが冒険者の朝は通常とても早い。

活動日じゃなければそうでも無いが、依頼を受けに行く日は夜明けと共に動きだす。

朝一で良い依頼を狙うのは勿論のこと、街から離れた迷宮へと向かう場合は早くに出なければその日の内に帰って来れなくなってしまう。誰も好き好んで野宿をしようとは思わない。

まだそんな予定が無いリゼルは思うがままに人々が活動を始める時間まで寝ているが、今後どうしても早く起きなければいけない場合は何とか頑張るか、念のためにジルに頼む事になるだろう。

「リゼルさん、起きてるかい?」

そんなリゼルに最近、まだ外も薄暗い時間帯に声がかかる場合がある。

ノックと共に聞こえた女将の声に、まだベッドに入って三時間も経っていないリゼルがぼんやりと目を覚ました。

貴族時代にも忙しい時は一日三時間寝られれば良い方という時もあったが、それとこれとは話が別だ。

寝ぼけた頭に隣の部屋のドアが開く音の後、いつも通りジルが顔を出したらしく女将と話し合う声が聞こえる。

「おい、入るぞ」

ジルがノックもせずに扉を開けて入って来た。

未だにベッドでうつらうつらと現実と夢の間を漂っているリゼルを見下ろし、その顔を隠していた前髪を掻きあげる。

ぼんやりと薄眼を開けているリゼルの顔が露わになった。

「毎晩毎晩遅くまで本読んでるから眠ぃんだろうが。寝不足だから動けねぇって依頼の最中言ったらぶっ飛ばすぞ」

「……言ったこと、ないじゃないですか」

「咄嗟の時に動けなくなるから止めろっつってんだよ」

確かにリゼルが依頼中に私的な事情で支障をきたす事は無い。

寝不足など欠片も見せない様子は見事としか言いようが無いが、冒険者として危険な依頼も少なくないのだから睡眠は充分にとっておくに越した事はないのだ。

唯でさえ体が資本の職業、常に万全を期しておくことは基本中の基本となる。

いくら今まで何も無かったとはいえ、これからも何も無いとは断言できないのだから。

だからと言ってジルがリゼルの本を取り上げる事は無い。

依頼された身としてはリゼルがミスしたとしてもフォロー出来る自信があるので、苦言を零すが強制して寝かせる事はなかった。人の趣味に口出ししても碌な事は無い。

純粋にリゼルから書物を奪うのは不可能だというのもあるが。

「いつものが来た、部屋で良いか?」

「んー……」

コクリと頷きながらもベッドからは決して出ないリゼルに呆れて、せっせとリゼルの部屋の窓を上げていた女将に声をかける。

朝の肌寒い空気に体を震わせシーツに潜り込むリゼルに笑いながら、女将は部屋を出て行った。

すぐにたったっと階段を軽快に登る音がして、部屋の扉が開けられる。

「はよざいま……」

「ノック」

「すんません!」

入って来たのはアインだった。

早朝から働く者がようやく準備を始めるこの時間帯で、実に爽やかな笑顔を浮かべながらの挨拶だ。

リゼルの枕元に立っているジルが一言呟くと、その爽やかな顔も途端に引き攣ったが。

若い冒険者らしいチャラついた見た目をしているが、態度は全く反抗的ではない。

他のどの冒険者にノックしろと注意されても即喧嘩腰でガンを付けるだろう彼だが、リゼルとジルに対してそんな態度はとても取れなかった。

「リゼルさん、これって起きてるッスか」

「ギリギリだな、さっさと用件済まさねぇと寝始めるぞ」

「ウッス」

ジルが盛り上がったシーツをゆさゆさと揺すると、ごそりとリゼルが起き上がった。

うつ伏せのまま両肘で体を支えて起き上がり片手を差し出す。

アインはその手に迷宮で行き詰った暗号の書かれた用紙を乗せると、リゼルはちらりとそれを見た。

絵なのか字なのか分からない、存在しない記号の羅列が紙一杯に書かれている。

それを目で追いながら、リゼルは朝一で完全に覚醒しているアインを心なしか恨めし気に見た。

「……きのうの帰りに、寄ってくれればいいのに」

「昨日は俺らすげぇ頑張ったんスよ。っつーか新しい階がひたすら迷路だったんで虱潰しに歩いて突破出来たんで、めっちゃ魔物は出たけど、自力で結構進んだら帰り夜中になったんス」

「……へぇ」

リゼルとしては夜中に来て貰った方が確実に起きているので有難いのだが、宿としてみればそうは行かない。

夜中は完全に施錠されてしまうので、宿泊している者以外は出入り出来ないのだ。

例の迷宮は街から馬車で片道三時間程掛かってしまうので、どうしても帰りが遅い日は翌日の早朝にリゼルを訪れるしかない。

リゼルは半分瞼の落ちた目でアインを見て、来い来いと片手で呼び寄せた。

「何スか、俺暗号についてのアドバイスなんか出来ないッスよ。昨日一晩中考えても……」

「……」

「分かんなかったんス、から……はぁ!?」

無言で頭を撫でられ、アインは暗号を覗きこむようにリゼルに寄せていた頭を勢いよく離した。

そんなアインを気にする事無くリゼルは用紙を返すように手渡す。

それを茫然として受け取るアインの顔は明らかに赤い。

「扉、十個あった……?」

「え、あ、はぁ……あ、はい!」

「左から2番目入って、次が5番目、3、7、4……振り返って、今入った扉の向かって5番目をまた通って、4、9、振り返って……」

「ちょ、待って、メモ……!」

恐らく自力で何階層か突破したアイン達を褒めたつもりなのだろう。

元の世界で何年にも渡り国王の教育係をしていたリゼルだが、その影響か年下には多少甘くなる傾向がある。

誰にでもと言う訳ではないし、その分年上に対してその慈悲が与えられる事はないが、ジルとしては心底止めて欲しい。

大体良い年した男が頭を撫でられて喜ぶか、と盛大な羞恥に襲われているアインを見る。

「ちょ、もっかい最初から……!」

「……」

「リゼルさん!起きて!」

「…………」

嫌がっている様子は見せていないから良いのだろうか。

リゼルに言わせてみれば『嫌がる子にはやらない』らしいが、一体どこを見て嫌がるかどうかを見抜いているのかが全く分からない。

何とかリゼルを起こして聞き出すことに成功し、礼を言って一階食堂で待たせているらしい仲間の元へと降りて行くアインを見送る。

何回か来る内に女将はリゼルの客だと完全に信用したらしく、彼らが待っている間は食堂に入る許可を与えており、飲み物と軽食を出す事もあるらしい。

「ふっ……」

ふとリゼルの肩がシーツ越しに震える。

「……年下からかって楽しむなよ、性格悪ィ」

「ねぎらったんですよ」

堪え切れなかった笑みを隠そうともせず、ポスンと枕へと頭を埋めた。

まだ眠そうなその顔に、今日は二度寝をするのかとジルは扉へと歩き出す。

日によっては完全に目が覚めて動き始めるのだが、今日はそうならないらしい。

部屋を出ようとするジルに、再びシーツを頭まで被りながらリゼルが眠さで覚束ない口調で一言付け加えた。

「もう一回、潜らなくてよかったでしょう?」

ジルは寝息しか聞こえなくなった扉をゆっくりと閉める。

少しの音もたてずに閉まった扉をちらりと見て、最後のリゼルの言葉に思わず笑みを浮かべた。

前回の依頼でテディベアを納品した理由。鑑定の後もう一度迷宮へと潜っていたらアイン達が訪ねてきた時に宿に居る事は出来なかった。

彼らの訪問が一度きりだとは思わないが、だからと言って女将に手酷く追い返されるだろう彼らが再び宿を訪れるとは考えにくい。

外で彼らに声を掛けられるのはリゼルの望む所では無いのだ。彼らには教えて何故自分達には、と突っかかる奴らも出て来るだろう。

そうならない為には宿で会うのが一番で、女将の安全も考えるとやはりあの日の夕方此処に帰ってくる必要があった。

要はテディベアを諦める代わりに迷宮の財宝を手に入れる事を選んだのだ。

しかもリゼル自身が動く必要は無くなり、他に任せて高みの見物を決め込むことが出来る。

さらに他の冒険者に恩が売れるとあればこれ以上の手段は無い。

「やっぱり面倒臭ぇんじゃねぇか」

クックッと笑いながらジルは自らの部屋へと戻った。

色々メリットはあるが、真実はやはりジルが零したその一言に集約されているのだろう。

リゼルが二度寝から復活したのは既に日も昇り切った午前八時頃だった。

ちなみにジルはリゼルが起きるまで暇なので宿の庭で鍛錬をしているか、リゼルが読み終わった本をリゼルの部屋から勝手に持って行って読んでいるかしている。

そのまま宿でギリギリ間に合った食事をとり、ギルドを訪れていた。ちなみにギルドを訪れたのは、前回テディベアを持って来た時以来だ。

「Dランク……護衛依頼とかはまだ無いんですね」

「護衛はCからだ。ただ戦えりゃ良いってもんでも無いからな」

前回の依頼でEランクに上がったリゼルは、Dランクの依頼も受けられるようになっている。

何か真新しい依頼は無いかと依頼ボードを眺めていると、ふと受付の方から声がかかった。

抑揚のない淡々とした声、振り返るまでもなくスタッドだ。

相変わらずスタッド自ら声をかける光景を初めて見た冒険者が茫然としているが、気にせずリゼルは受付へと向かう。

「どうしました、スタッド君?」

「こちらへ、実は先日の迷宮品依頼の方が大喜びで直々にお礼を言いたいと言っていまして」

「は?」

「ついでに貴方もどうぞ」

依頼の礼を直接言いたいなどと聞いた事が無い。

思わず怪訝そうな顔を浮かべたジルをちらりと見て、スタッドは先導するように歩き出した。

ついでと言われ顔を顰める。言われた事に対するものではない、スタッドがジルにも付いて来いと伝えた事が問題なのだ。

普段は多少口を挟んだ程度では無視するスタッドがリゼルと一緒にいろと言った。

更に厄介なのがスタッドがその依頼人の言葉を呑んだこと。

ジルには確信があった。スタッドはリゼルが望まないだろう申し出は誰が相手でも絶対に断るだろう確信が。

それがリゼルに拒否権を与える事無く案内を始める姿に、嫌な想像しかできない。

伺うようにリゼルを見ると、いつもと変わらない微笑みでスタッドの後に付いて行っている。

自分が気付いた程度の事にリゼルが気付かないはずがない。それを承知でついていくのだから問題は無いのだろうが、とジルは諦めたように溜息をついた。

「こちらの部屋でお待ち下さい」

通されたのはギルドの応接間のような部屋だった。

他の部屋よりもきちんと作り込まれた様子は確かに来客用だが、普通の依頼人を通す部屋では決してない。

備え付けられたソファへと座り、すべて悟っているようなリゼル。スタッドはその様子を見て少し待っているように伝えると、部屋を出て行った。

リゼルの隣に座る事無く立ち続けるジルが、嫌そうな顔でリゼルを見下ろす。

「お前、分かってて大物引くんじゃねぇよ」

「分かってた訳じゃないですって。ただコレクターなんていう顕示欲の強い人種が名前を出さないのも、本当に何がきても基本報酬銀貨十枚出すのも、可能性的にはあるなと思っただけで」

「……で、繋がりてぇ訳でもねぇのに選んだのは?」

「こっちの上の人とも一度会ってみたいじゃないですか」

まさか値段と釣りあわない迷宮品をそのまま送ったのも、ラッピングしたのも全てその為だったのだろうか。

恐らく誰が相手でも同じようにしたとは思うが、全く考えていないという事は無いだろう。

「嫌だったら何処かで待っててもらって良いですよ」

「アホ」

断ると分かっていて聞くリゼルに、ジルは舌打ちをして顔を逸らした。

依頼されたからには遂行する冒険者としてのプライドもあるし、今自分が此処に残るのとそうで無いのとは全然意味が変わる事にもジルは気付いている。

威圧する意図が無くとも広く名前が知られているジルが立っていれば、相手に与える印象は変わってくるだろう。

元々穏やかな顔をしている為になめられやすいリゼルだ。どんな人物が来るのかは知らないが、備えはあるに越した事は無い。

そんな話をしながら応接間で待つ事三十分。分かっていた事だが何も無い部屋で待たされる事は結構辛いものがある。

話し合いが終わってしまうと、リゼルが常に持ち歩いている本が無ければ時間を潰すことに苦労していたはずだ。

ようやくノックが鳴らされる頃にはリゼルはすっかり読書に集中しきっており、ジルが腰かけていたソファの背もたれから立ち上がって本を奪わなければ反応が遅れていただろう。

立ち上がりながらジルが読んでいた分もポーチへと仕舞いこむ。

「依頼人の方がいらっしゃいました」

「待たせてしまってすまないね! ……はて、私は入る部屋を間違えただろうか」

「合っています」

満面の笑みで入って来た男は煌びやかな男だった。

特別派手な服を着ている訳ではないが、一目見て貴族だろうと分かる衣装と煌めく金髪、輝く笑顔に男らしい美形顔は周囲の空気すら輝かせているようだ。

齢は三十後半か四十前半だろうか。眼元に少しある皺が彼の年齢を知らせているが、何とも若々しい雰囲気を醸し出している。

浮かべた疑問をスタッドに一刀両断されている姿に威厳は無いが、彼を見て貴族では無いと断じる人間はいないだろう。

首を傾げて此方を見ている男にリゼルは微笑みを浮かべながら、すっと頭を下げた。

元が貴族といえど頭を下げる事に戸惑いはない。自分の立場を素直に受け入れられる貴族はそうそういない中、臨機応変に対応できるリゼルは珍しい存在だろう。

頭を起こし男と視線を合わせる。此処は王宮ではないのだ、堅苦しく正規の礼を披露しても奇妙だろう。

「今回依頼を受けさせて頂きました、冒険者をやらせて貰っているリゼルです」

「これは驚いた!」

男は両手を広げて大袈裟に驚くと、目を輝かせて勢いよくリゼルへと歩み寄った。

遠慮無く頭から足元までゆっくりと眺め、唐突にがしりとリゼルの両肩を掴む。

髪と同様輝く金眼が至近距離で覗きこんでくるのを眺め、リゼルは此方も個性的な人物が多いようだと微笑みを張り付けたまま内心苦笑した。

「まさか君のような冒険者がいるとは思わなかったよ! 冒険者としてのイメージからかけ離れているからかな、部屋に入った時に私以外の客人でも来ていたかと思ってしまった! いやすまない、悪い意味では無いんだが」

「良く言われますので、お気になさらず」

「近いです離れて下さいレイ様」

「これは失礼した、掛けたまえ!」

言葉に甘えて腰かけるリゼル。ジルはリゼルの後ろに、スタッドは扉付近で部屋から出る事無く立っていた。

スタッドの言葉によって手を離した男はレイと名乗った。

憲兵の元締めを担う子爵、そう話すレイにリゼルも簡単な自己紹介を返す。

ジルに年齢の割に落ち着きの無い貴族だなどと思われている事は当然気付かず、リゼルへと片手を差し出す様子は親しみやすい。

その手を握り返し、そう言えばと本題に入る前にリゼルが話を切り出した。

「憲兵の方には少し前に面倒を掛けてしまった事があります、この場を借りてお詫びを」

「おや、彼らの世話になるような人物には見えないが……見かけによらずヤンチャなのかな?」

「いえ、どうやら変な噂が流れたようで」

変な噂、少し前、とレイは呟いて思い出すように天井を仰いだ。

そしてぱっとリゼルを見ると大きな声で笑い出す。大声を出しても品を損なわないのは流石としか言いようが無い。

レイは可笑しそうに眼を細めて、改めて座っているリゼルを観察するように見た。

「成程、君が城下に出没した貴族か! 成程、成程。全く……無理も無い!」

レイは大笑いしながらも、彼では仕方ないといっそ感心していた。

今のリゼルはこの世界に来た時に比べれば格段に貴族らしさは薄れているが、貴族であるレイ本人が見ても貴族ですと名乗られたら疑わないだろう。

もし以前のままのリゼルに会ったならば、一目で自らと同業だと確信していたに違いない。

「レイ様本題に入って下さい」

楽しそうに笑い続けるレイにスタッドが淡々と声を掛ける。

先程から貴族に対して割と容赦が無いと思っていたが、どうやらレイと此処のギルド長は仲が良いらしい。

何度か訪れている内に態度が砕けたのだろう。最初からこうだった可能性も否めないが。

「そうだな、本題に入ろう!」

「今回はわざわざ私達の為に来て頂いたそうで、余計な事をしてしまいましたか」

「いやいや全くそんなことはない! あのラッピング、あの迷宮品、久しく感じた事のない感動! 私は心から君達に礼を言いたくて此処に来たのだよ!」

「勿体無いお言葉です」

満面の当たり障りのない返事を返していると、スタッドがいつの間にか用意された紅茶を机へと置く。

薫る紅茶の匂いに、良い葉を使っているなと思いながら早速口を付けるレイを見た。

彼は持った紅茶をソーサーに戻す事無く、その横の机へと直接置いた。そして懐から金貨一枚を取り出し、ソーサーの上に載せてスタッドへと渡す。

スタッドは無言でそれを受け取ると、静かにリゼルの前へと置いた。

「迷宮品の報酬を渡していなかったね、受け取ってくれたまえ」

机の上で存在を主張する金貨の載ったソーサーをちらりと見下ろし、リゼルは困ったように微笑んだ。

「鑑定結果と違うようですが……ラッピング代にしても高すぎます」

「私の感動の代金だ! と、いうのは建前だとも」

うん、と一人頷いてレイは真摯な顔でリゼルを見つめた。

「あの素晴らしいラッピングを施した君ならば、あのテディベアの価値が分からない筈が無い」

「鑑定に間違いはありません」

「だが全ての真実ではない」

流石コレクターを名乗るだけあって、物を見る目は確かなのだろう。

リゼル達が初めに聞いた『人によっては金貨五枚』という価値を完全に看破している。

金貨五枚を出さないのは単純に自分が依頼主の立場から動かない、と示しているだけだ。

依頼用紙に書かれた“金貨一枚まで”を破らないからこそ、ギルドは彼を依頼人の一人として扱える。

「では、有難く」

「うむ!」

リゼルは金貨を手に取り、受け取る意思を伝えて再びソーサーへと戻す。

そして折角出されたのだからと紅茶へと手を伸ばした。

ローテーブルの上にあるソーサーを手に持ち、持ち手を摘んでゆっくりとカップを傾ける。味わった紅茶を机へと戻しながらスタッドに向けて美味しいと伝えるように微笑むと、ジルにはスタッドから花が一輪飛んで行った光景が見えた。

特別気を付けている訳でもないのに、その一連の動作に食器の音は微かたりとも混じらない。

ごく自然に行われた目の前の光景に、レイはぱちぱちと目を瞬かせて大きく肩を竦めて見せた。

「貴族より貴族らしい、まさかそんな冒険者が存在するとは思わなかったよ。若い奴らに見習わせたいものだ!」

「そんな、畏れ多い」

「謙遜の必要はないとも! それに噂に名高い“一刀”を従えているのなら、彼にとって君が私より上だと言う事だろう? 私に畏れ多いなどと言う必要はやはり無い」

困ったように微笑むリゼルに、レイはにやりと笑った。

レイは以前に(あくまで極秘だが)ジルへと名指しで護衛の依頼を出した事がある。

無断かつ御忍びで商業国マルケイドに行こうと思った際、いつも付き合ってくれる逃亡仲間の騎士が捕まらなかったのだ。

それならばギルドから一人腕利きを調達しようと、ついでだから見たいという思いで噂の“一刀”を頼んだのだが即刻断られた思い出がある。

ギルド越しのやりとりなのでジル本人はレイからの依頼だとは知らなかったが、“さる子爵の護衛”に魅力を感じなかった事は事実だ。

子爵と繋がりが持てる機会を簡単に棒に振るジルが、リゼルとの繋がりを許容した。

憤る事は全く無く愉快だという態度を隠さないレイに、リゼルは偶然間が合っただけですとだけ返す。

ちらりとジルを見ると、無言で首を振られた。覚えていないらしい。

「む、そろそろ時間だね」

その様子を面白そうに見ていたレイが、紅茶を飲み干して立ち上がった。

それに合わせてリゼルも立ち上がり、見送るように頭を下げようとする。

「そのままで良い」

が、それはレイによって止められた。

胸へと押し当てられた手は温かく大きい、優しく押されるままに折りかけた腰を戻す。

「リゼルと言ったね、君とは仲良くしておきたい」

「光栄です。ですが私はただのEランクですので、子爵様が御贔屓するならもっと……」

「違う」

胸へと押し当てられたままの掌、レイは不敵に笑いながらリゼルを見つめている。

金の眼が全てを見透かすように射抜くが、リゼルは微笑んだまま表情を変える事は無い。

ジルが警戒を瞳に滲ませ、スタッドが僅かに不快さを示したのを、レイは横目で確認しながらも手は離さない。

覗きこむように腰を折り、明るい声を抑え込んだ低く響くような声で囁いた。

「個人的に君と繋がっていた方が良いと思っただけだとも。 貴族(わたし) の勘だ、信じるかい?」

「……貴方がそう思うのでしたら、私は否定する術を持ちません」

すっとリゼルが微笑んだままの眼を細めた。

しばらくの沈黙の後、唐突にレイの掌が離れる。

「それならば良かった! 今度は是非君達が遊びに来たまえ、君達になら私の自慢の迷宮コレクションをお見せしよう!」

快活に笑いながらレイは去って行った。

方向からしてギルドの入り口ではない、恐らく裏口か何処かから帰るのだろう。

気を抜くようにリゼルがわざとらしく息を吐くと、スタッドが無表情のまま近付いてくる。

「すみません、何時もあんな感じなので本当にいい加減にして欲しいんですけど」

「スタッド君が謝る事ないですよ。子爵様に声をかけて頂けるなんて光栄なことです」

「しばらく此処で休憩をとって貰っても構いませんので」

「ありがとう、そうさせて貰いますね」

スタッドは何処か伺うようにリゼルを見ていたが、ぽんぽんとその髪を撫でるとやはり淡々としたまま部屋を出て行った。

スタッドの足音が遠ざかるのを聞きながら、リゼルは机の上にある金貨を回収する。

財布へとしまってソファへと腰かけると、ぼすりと音を立てて向かい側にジルも腰を下ろした。

「子爵からの依頼断ったんですか? 勿体無い」

「うっせ。お前こそ仲良しこよし断りかけたじゃねぇか」

顔を見合わせ、一方は鼻で笑い、一方は可笑しそうに微笑んだ。

「で、想像通りか?」

「大体は。直接接触してくるのなら憲兵関係の方かと思いましたが、ジルの言った通りの方が来ましたね」

「憲兵のトップはあそこだからな。ギルドに無理通せんなら中間ぐらいじゃ無理だろ」

この応接間に通されてから待ち人が訪れるまで、二人は誰が来るのかを話し合っていた。

何故憲兵関係だと分かったのか。それは偏に会話でも出てきた通りリゼルが一度憲兵に接触しているからに他ならない。

あの時、憲兵は『確認をとって来た』と言ったのだから、貴族に関する確認をとるには上まで話が通っただろう。その人物がレイだ。

憲兵にはリゼルが冒険者だと伝えてあるので、迷宮品への礼とは別にその確認も兼ねて今日彼はギルドを訪れたはずだ。

反応を見る限り、プレゼントの差し出し人がその貴族疑惑をかけられたリゼル本人だとは知らなかったようだが。

「で? 疑いは晴れたと思うか?」

ギルドに確認にきた。そういうことだ。

貴族の疑いをかけられた人物が本当に貴族では無いのか。その可能性を問いただしに来たのだろう。

リゼルと対面するという機会に恵まれた為、その手間は省けたようだが。

「まぁ、間違い無く晴れたでしょう」

「根拠は?」

「だって確認していったじゃないですか」

とんとん、と胸元を指すリゼルに、ジルがあーと納得したように声を漏らした。

去り際押しつけられた手の平、リゼルの体を起こしてからも離れなかったそれは別の意味も含んでいたらしい。

他国からやってきて何かを探ろうとする人間なら、レイの質問の意図を監視だと捉え多少なりとも動揺するはずだ。

人間、動揺を浮かべないよう表情は取り繕えても心臓まではそうはいかない。

何種もある感情の動きを鼓動から読み取ろうとする人間がいるとは、とリゼルは心底感心していた。

「お前なら嘘吐こうが心臓ごと騙せそうだな」

「どうでしょう」

「そこは否定しとけよ……」

意識した事は無いが出来るだろうかと真剣に考え始めるリゼルに、ジルは若干引いた。

「レイ様、素敵なプレゼントをくださった冒険者は随分と素敵な方々だったのですね」

「うん?」

「顔が喜んでらっしゃる」

馬車の中で待機させていた年老いた従者が嬉しそうに此方を見た。

自分で顔を触ってみると確かにニヤけていたらしい。

目の前に座っている従者は、小さい頃からずっと共に居ただけあって自らの子供を見るように微笑ましげな視線をレイへと送っている。

「聞いてくれるか! それがその冒険者は、以前の偽貴族事件の本人だったのだ」

「それはそれは。では疑いは晴れたんですね」

「ああ、余所の国に居られなくなって逃げて来た没落貴族かと思ったが全く違った。まあ疑いなんて殆ど無かったがな!」

はっはっと笑うレイ。

リゼルが貴族の名前を振りかざし好きなように振舞っていたのなら、その疑いはかなり深くなっていたが、そうではない。

元々薄かった疑いをゼロにしようとプレゼントの礼のついでに(そう、レイにとっては調査がついでだ)ギルドで該当する冒険者の話を聞こうと思ったが、直接本人と話せるに至った為その必要は無くなった。

そう、 彼(リゼル) と直接話す以上に価値のあるものなどない。

「あれが没落などするものか」

ぽつりと呟いた言葉は、従者へと届かなかった。

貴族が単身国を離れることなど、自分の国に居場所が無くなった時ぐらいだ。

不正が暴かれ、国を敵に回し、他国へ受け入れて貰う程の金銭を無くし、死ぬくらいならと。

それ程まで落ちなければ身一つで他の国へと入りこみ、冒険者を始めるなどとはならないだろう。

だからこそ、リゼルは違うのだ。

レイは自らの片手を見下ろし、ぐっと握った。少しも動揺のない鼓動は、誤解を晴らすだけでなく鮮明にリゼルがレイに対して畏れも何も感じていないことを伝えてきた。

貴族に対する平民の鼓動ではない。言うならば、より上に立つ者の持つ鼓動。

「恐ろしいな」

「レイ様?」

「……やはり敵に回さない為に友情を築くしかなかろう! よし、今度私のコレクションルームに絶対招待しよう!」

整った顔を不敵な笑みに歪めるレイに、従者は“やはり自らの主には笑顔が一番だ”と微笑んだ。