軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

197.ショック療法ともいう

リゼルは一人、サルスの大橋を渡っている。

空はやや雲がかかっている。だが真上の上った太陽が白い雲を通り抜け、十分に明るい。

だが、もしかしたら明日には雨が降るかもしれない。

「(そうしたら、彼らは大丈夫なのかな)」

内心で呟くリゼルの視線の先には、簡易的な野営地があった。

大橋を渡ったすぐ隣、湖沿いに設けられたそこには、昨日サルスに到着したばかりの魔鳥騎兵団がいる。アスタルニアから遥々空を渡ってきた、アスタルニアの精鋭たちだ。

大橋を中頃まで歩けば、野営地内の様子を見ることができた。

見慣れた魔鳥が悠々と歩き、そのパートナーが何かを話しかけている。昼食はすでに終えたのだろうか。皆、規律の中にありながらもリラックスしているように見えた。

野営地に沿った湖には、商魂たくましいサルスの屋台舟の姿が見える。

商売のチャンスだと、商品を載せて漕ぎ出してきたのだろう。そんな商人らの前に、数人の魔鳥騎兵が集まっているのが見えた。何か気になる品でもあったのだろうか。

「(昨日、アスタルニアからの使者は城に入ったっていうから暇なのかも)」

リゼルは一人の王族を思い浮かべた。

アスタルニアから王都へ戻る時に、同行させてもらった相手だ。恐らく今回も彼だろう。

国同士で協議を重ねる際、交わし合う使者が途中で変わることなど滅多にない。国を背負っていようが、信頼というのはまず個人との間に築かれるものだ。使者の一方的な変更は、こつこつと積み上げてきた信頼を崩すに等しい。

ならば間違いなく、その王族の護衛には王宮守備兵がついているのだろう。

であればリゼルの目当ての相手はまだ、目の前の野営地のどこかにいるはずだ。

「ええと」

大橋を渡りきる頃、ポーチを漁る。

取り出したのは一本の笛だった。滑らかに表面の削られた、木製の小さな笛だ。

絡まる紐を手で解いて、リゼルはその笛を唇で挟んだ。ヒュイ、と甲高い音がする。

野営地の魔鳥たちが一瞬こちらを向いた。大半の魔鳥はすぐ気にもかけなくなったが、一匹だけじっとリゼルを見ている魔鳥がいる。

その隣を歩いていた男が、己のパートナーが気にかけた何かを探して鋭く周囲を窺った。

「ナハスさん」

石造りの端から、土の地面に足を踏み出しながらリゼルは呼びかける。

久しぶりに顔を合わせたナハスは、すっかりと驚いたようにこちらを見ていた。

場所は移動してサルス国内。

淹れたてのコーヒーをお供に、リゼルとナハスは再会の喜びを分かち合っていた。

「本当にサルスにいたんだな」

「手紙に書いたじゃないですか」

「それもそうなんだが」

リゼルはナハスを、水上テラスのある喫茶店に案内した。

老紳士に紹介してもらって以来、リゼルも度々訪れている喫茶店だ。ナハスは以前にもサルスを訪れているので、物珍しさは薄いかと思ったがどうやらそうでもないようだ。

テラス席に案内されてすぐは、落ち着かない様子で何度か床を見下ろしていた。

「水の上でコーヒーを飲むのは初めてだな……」

「水の中で食事ができる店をあるんですよ」

「想像できん……」

リゼルは淹れたてのコーヒーを飲み、笑みを零す。

ともすれば水上よりも不安定な空の上で悠々としているのにと、可笑しかったからだ。

「前はサルスに入らなかったんですか?」

「ああ、あの時か。そうだな、入国許可が出たのは王子殿下と護衛だけだった」

「そういえば、ちょっと緊張状態だったんですよね」

「サルスにとってはちょっとどころじゃなかっただろうが、まぁそうだ」

以前というのは、リゼルたちがアスタルニアから王都に戻った時のことだ。

サルスへと向かう使者の一団に、三人はちょうど良いとばかりに混ぜてもらった。王弟であるアリムの口添えと根回しがあったからこそ実現した、贅沢なわりに気安い旅路だった。

だが当時の使者の目的こそ、魔法学院の研究者が犯した許されざる所業への糾弾である。

もはや戦争を起こしたとて、正当性を主張できるだけの侮辱をアスタルニアは受けた。使者に先立ち送った手紙には、要約すると「首を洗って待っていろ」という旨が書かれていたという。

つまりサルスは全力でビビり散らかし、もしや即時開戦かともの凄く警戒していたのだ。

アスタルニア軍の精鋭である魔鳥騎兵団など、とても入国許可は出せなかっただろう。

「アスタルニア側はそこまでするつもりはなかったんですよね」

「返答次第では分からなかったが、そもそもサルスに喧嘩を売られる理由がなかったろう」

そうだろう、とリゼルは頷いてみせる。

アスタルニアとパルテダールは軍事演習を共にする同盟国であり、サルスとパルテダールは開国以来揺らいだことのない友好国である。アスタルニアに弓引くことはパルテダールをも敵に回すも同然で、それをサルスが断行するなどまずあり得ないと言っても良い。

当事者である二国はもちろん、パルテダールも完全に寝耳に水だったはずだ。

「まぁ実際、売られた喧嘩はサルスからとも言いきれなかったんだが」

「そうじゃないと言い切れないところも複雑ですよね」

「使者として訪れた王子殿下も流石に頭を抱えていたな」

「売られた喧嘩が盗品だった、みたいなものでしょうか」

だが、アスタルニアはサルスを許した。

どういう話し合いがあったのかはリゼルには分からないが、平和的な解決へと舵は切られたのだろう。ナハスたち魔鳥騎兵団に入国許可が下りるようになったということは、そういうことだった。

「演習のついでにちょっとサルスに、なんてこともなかったんですね」

「ああ、あまり長くアスタルニアを空けられないだろう。空からは何度も見ていたんだが……湖の真ん中に国が浮かんでるのを見るたび、行ってみたいとは思っていた」

「積年の望みが叶いましたね」

「もっと気楽に来てみたかったが、確かにそうだな」

ナハスが喜びに破顔する。

アスタルニアに暮らす人々によく似合う、裏表のない快活な笑みだった。

「最初は、地面が揺れてるんじゃないかと思ってたんだ」

「船みたいなイメージだったんですね」

「ああ、だから普通の地面と変わらず驚いた」

「身近に海があるからこそでしょうか。アスタルニアの方々には、湖が小さく見えそうです」

「いや、そうでもないな。これだけの淡水なんて早々見ないだろう」

広大というより膨大だとナハスは言う。

感想が海に馴染みすぎているなとリゼルは感心した。非常に面白い。

「不思議と俺のパートナーもここの水が好きみたいでな」

「そうなんですか?」

「ああ。普段よりも飲む量が多いし、水浴びも念入りにする魔鳥が多い」

「それは悪影響ではないんですよね」

「そうだな。隊長から聞いたが、ここの水は他より魔力を多く含むんだろう」

「はい、ほんの少し」

「その程度なら影響はないそうだ。だが噂に聞いた、あー……なんて言うんだったか、魔力だまり相当の水が流れてくることがあるんだろう? それが来たら、水辺を離れるしかなくなるだろうな」

成程、とリゼルは頷く。

思えばアスタルニアの森にも、ゆっくりと移動する魔力だまりがあったのだ。

魔鳥騎兵団はよく森の見回りをしていた。数日前まで魔力だまりに沈んでいた森の中にも下りただろうし、魔鳥の水浴びのためによく川辺を訪れていたという。

「なら下手に国内に泊まるより、野営地のほうが魔鳥も喜ぶんですね」

「俺たちもそのほうが気楽だしな」

テラスの近くにある橋を、一人の子供が駆け抜けていく。

大きく掲げられたその手には、一枚の大きな羽根が握られていた。

「お母さん見て、魔鳥の羽根、お父さんの船に乗せてもらって拾った!」

聞こえてくる大声に、リゼルは可笑しそうに笑い、ナハスは満更でもなさそうに頷く。

「将来有望ですね」

「ああ、間違いない」

「あれ、本物の羽根ですか?」

「確かにうちの魔鳥の羽根だな」

この距離から一瞬だけ見えた羽根を、確信をもって頷けるあたりが流石だ。

恐らく騎兵団の面々は、更に己のパートナーの羽根か否かも見分けられるに違いない。

「あの子にはきっと良いことがあるぞ。魔鳥の羽根は滅多に抜けないから、拾うと幸せが訪れるなんて言い伝えもあるんだ」

「それをサルスで広めたら、子供たちが一斉に湖に繰り出しそうですね」

「いや、もう遅い。朝一番に小舟を漕いできた子供たちがいた」

「野営地には入れませんよね?」

「俺たちとしては歓迎しても良いんだが、勝手もできん。近くで魔鳥を見たかったらしいが、警備の大人に連れ戻されていた。あんな簡単な小舟で上手く逃げ回るものだと、思わず全員で見物してしまったな」

悪ガキはどこにでもいるものだと、ナハスは仕方なさそうに笑う。

とはいえ子供が元気な国は、見ていて安心するものだ。だが彼も故郷では悪ガキをひっ掴まえる側であるので、自警団の奮闘にも共感するところがあるらしい。

ナハスはやや同情するように野営地の方角を眺めた。

「それがひっきりなしにあったものだから、警備も折れたんだろうな。大橋の途中までなら子供たちが見学に出てきても問題ないか、なんて問い合わせが昼前には来ていたぞ」

近くで見たいと無茶をされるくらいなら、いっそ場所を提供しようというのだ。

そのほうが子供たちを制御しやすいと考えたのだろう。魔鳥が子供たちを害すことを警戒しているというよりは、子供たちが無断で野営地に踏み込んでしまうのを防ぎたいのだ。

アスタルニアが非常にフランクなので忘れやすいが、他国の軍の野営地には違いない。

「問い合わせには何て答えたんですか?」

「問題ないも何も、サルスの領内のことだからな。気にしないから好きにしてくれと伝えた」

「確かにそうですよね」

ならば一体何についてのお伺いを立てたのか。

リゼルがそう問いかければ、ナハスは非常に満足げに頷いてみせる。

「いや何、随分と魔鳥を気遣ってもらったんだ。大声は控えたほうがいいのか、視線を嫌がる魔鳥がいないか、手を振っても問題はないかなんて質問も受けたし、嬉しいことに魔鳥についての質問を瓶に入れて流したら回答を貰えるか、なんてことも言われたりしてな」

「その質問をした方、鳥の獣人だったりしませんでした?」

「いや、違ったと思うが」

「なら、痩せぎすのご老人とか」

「どうした? 質問をくれたのは門の警備で……ん、でもそうだな。最後の質問だけは、門の向こうから叫ぶように寄こされたか。言われれば確かに、ご老人だったような気がするな」

ガイコツ先生の熱意が漲っている。

使役魔法を専門としているだけあって、魔鳥騎兵への興味はひとしおだ。以前から魔鳥騎兵団に対して強い興味を抱いていたようだし、ここぞとばかりに押し掛けたのだろう。

もしかしたら、先程リゼルが大橋を渡っていた時も近くにいたかもしれない。

「前に来た時も大人気だったんですか?」

「いや、前回はこんな近くに野営地を作らなかったんだ。もっと手前の、ああ、パルテダから見てなんだが。サルスを目視できるぎりぎりの場所に下りて、少数の騎兵で王子殿下と護衛を送り出してな」

「魔鳥騎兵団への襲撃が、万が一にもサルスからの宣戦布告だったら困りますしね」

そう言いながら、リゼルはそれだけではないのだろうと察していた。

アスタルニアが王都パルテダを背にして野営地を築いたのは、ただ警戒していただけではない。同盟国を背後に置いて、下手な動きをすれば両国を敵に回すぞと牽制したのだ。

開戦すればそこはそのまま、アスタルニアの前哨基地となる。

「でも今は友好的な関係なんでしょう?」

国の正門の間近に野営地を構えられるということは、そういうことだ。

短期間でよくぞここまでと感心するリゼルに、ナハスは気負いなく告げた。

「そうだな、王子殿下の手腕だ」

「優秀な王族がいてくれると仕え甲斐がありますよね」

「お前は……相変わらず冒険者らしくないことを言うな」

何とも言えない顔を向けられても、リゼルは柔らかく口元を綻ばせただけだった。

ようやく冷めたコーヒーにナハスが手をつけても、二人の会話は途切れることはない。

「そうだ、宿主さんにお礼を伝えておいてください」

「お前から、で良いのか。何かあったのか?」

「はい。この前、迷宮で宿主さんの知恵に助けられたので」

「あいつの何が迷宮で役立ったんだ……」

「猫の喧嘩の止め方です」

「なんだと?」

「次に手紙を出すときにも書こうとは思ってるんですけど」

リゼルはこれまで、何度か宿主に手紙を送っている。

というより、世話になった相手によく手紙を出した。王都の到着後、サルスへの移動後、そういった節目節目に手紙を送るのは、言ってしまえば元の世界の頃からの習慣だった。

だがこちらの世界に来てからは、義務感で手紙を書いたことなど一度もない。

それを嬉しく思うからこそ、リゼルは習慣のままに手紙を送っている。

「手紙といえば、前に変わった花粉を貰っただろう」

「あ、試してみました?」

「いや」

ナハスがややバツが悪そうに背もたれに凭れかかる。

例の花粉の効果は結局、迷宮内限定だった。だがリゼルはそれを承知で、ナハスが気に入りそうだと手紙に同封した。勿論、迷宮の外では使えないことも伝えている。

そのうえで、もしかしたら試すかもと思っていたから少しだけ意外だった。

「俺もだな、試すだけ試そうかと考えはしたんだ」

「ですよね」

「もし魔鳥の声が話せたら、と」

「はい」

「ただ今更、言葉を同じくしなければ通じ合えない間柄なのか、とも思ってだな」

どうやら魔鳥騎兵団のプライドがストップをかけたようだ。

そもそも何の鳥の声になるかはランダムなので、使えたとしても魔鳥の声になる確率は低かっただろう。だがナハスはそれを忘れるほど、見事に自問自答のループに陥っていた。

なんなら今も花粉を見るたびに葛藤があるという。

「ああ、でも俺のパートナーは喜んでたぞ」

「良かった。気に入るかなと思ってたんです」

「熱心に匂いを嗅いでいたな。鼻息で半分飛んでいったぐらいだ」

花粉自体は喜んでもらえたようだと、リゼルは素直に嬉しく思う。

ナハスもまた、その時の魔鳥の姿を思い出すように笑い、コーヒーを飲み干した。

「そろそろ出ましょうか。ナハスさんもあまり野営地を離れてはいられませんよね」

「いや、そうでもないんだ」

「そうなんですか?」

確かに、リゼルが野営地を訪れると他の騎兵たちは歓迎してくれた。

見知った騎兵が、ナハスの背中を行ってこいと笑いながら叩いたのも見ている。

だが不思議には思った。以前に王都で再会した時の、許可が出たから寄り道に王都観光を、というのとは状況が違うからだ。

「どこか行きたいところがあるなら案内しましょうか」

ならばサルス国内で済まさなければなら用事があろうだろう。

そう予想して、ナハスよりは詳しいはずだからと微笑めば、彼は小さく溜め息を零した。

「……魔法学院への案内を頼めるだろうか」

真っすぐに目を見ての申し出に、リゼルは笑みを崩さない。

「それは、どうしてですか?」

ナハスたちにとって魔法学院は、印象の良い場所ではないはずだ。

己の魔鳥を奪われかけた。魔鳥騎兵団の矜持を傷つけられた。それらは“異形の支配者”に傾倒する信者たちによって、魔法学院に所属する研究者たちによって引き起こされたのだ。

確かに、信者たちによる個人的な暴走だっただろう。

確かに、魔法学院の直接的な関与はなかっただろう。

だがそう割りきれるほど、魔鳥騎兵団が抱いた怒りは弱いものではないのだ。

「それはまぁ、信じるためなんだろうな」

ナハスはどう説明すればいいのか悩むように、空のカップを握り込む。

「そもそも、俺たち騎兵団に入国許可が出たのはこのためなんだ」

「学院を見るため、ですか」

「ああ。だから入国許可というより、学院の訪問許可だな」

聞けば、昨日のうちにはすでに許可が出たという。

表向きの名目は“使役魔法についての情報共有”だったらしいが、ようは襲撃犯が所属していた施設を視察させろということだ。少なくともサルスはそう受け取っただろう。

リゼルは、使者として訪れている王子と顔を合わせたことがある。

だからこそ想像がついた。きっと彼はその提案を、雑談に紛れて陽気に告げたのだろう。

それを今のサルスが断ることはできないと知りながら、友人に向けるような笑みで告げたのだと思う。

「アスタルニアに交渉事で優位に立たれたら勝ちにくそうですね」

「まぁ、そうだな……うちの王族はそういうところがある」

しみじみと零すリゼルに、ナハスも苦笑交じりに頷いた。

「それで、信じるというのは?」

「なんて言うんだろうな。どうしたって俺たちには、魔法学院へのわだかまりが残る」

「そうですね」

それは無理のないことだ。

襲撃犯の独断と頭で分かってはいても、簡単に納得できることではない。

「所属する人間のほとんどは襲撃のことなんて知らないんだろう。俺たちも、恨みたいなんて思ってないし恨んでもいない。騎兵団にも興味を持ってくれているなら、俺はそれを素直に嬉しく思う」

ナハスらしい、リゼルはそう思った。

軍人として冷静に割りきるのではない。理性的に、一人一人を思いやれるのは彼の美徳だ。

ただ、誰もがそう思える訳ではない。ナハスもそれは十分に理解している。

「ただ、騎兵団の中には吹っ切れない奴らもいるんだ」

「それは当然じゃないですか?」

「俺もそれで良いと思っている。それで誰かに八つ当たりをするような奴はいないしな」

だからこそナハスは、割りきれない者も仕方がないと笑うのだ。

「ただ今回は、よくあるそれとは事情が違う」

「それは」

ふいにナハスが笑みを消す。

その言葉の真意を、リゼルは正しく受け取った。

「信者さん……襲撃犯の扱いですね」

「まさにそれだ。襲撃犯はサルスへの引き渡しが決まっていて、アスタルニアで罪を償わせることができない。だからこそ、吹っ切れない奴らも多くてな」

魔鳥騎兵団への襲撃の重さを、アスタルニア国民以外の誰が理解できるだろうか。

魔鳥が空を駆けるたび、大人も子供も親しみをもって空を見上げる。魔鳥騎兵にとってパートナーは、家族にも恋人にも例えられなない存在だ。並んで空を飛ぶ姿に、誇らしさを感じない者などいない。

罪人の引き渡しとは、これらの感情を共有できない相手に判決を委ねることだ。

「つまり、吹っ切るためのきっかけがなかったんですね」

「そうだろうな」

ナハスもそれを、心から受け入れられている訳ではないのだろう。

同意するように頷くと、ふと、遠くを見つめるように水路へと視線を移した。

「王子殿下はそれを、自分のせいだと言っていた」

リゼルは音もなく息を零す。それは感嘆の吐息だった。

あの王子はやはり王族なのだ。悪化しかけた両国の仲を取り持ち、襲撃犯の引き渡しを条件にあらゆる便宜を図らせ、考え得るかぎり最上の落としどころに導いて尚、取りこぼさざるを得なかった民への責任を背負う。

彼に比べれば些末だろうが、リゼルにも覚えのある感覚だった。

「だからきっかけを作ってくれたんだろう」

そして仕えるべき王族にそこまでさせてしまったナハスの気持ちも、リゼルは分かる。

こちらに視線を戻し、苦笑を零すナハスにリゼルは何も言わなかった。慰めの言葉も、励ましの言葉も意味がない。受け入れられるのは叱責だけで、けれどリゼルがナハスにそれを贈ってやることはできないのだから。

「それが魔法学院の視察なんですね」

「ああ」

だからこそリゼルは何事もなく話を進める。

「魔法学院に行って、正しい研究者を見て、襲撃犯みたい奴らが二度と生まれない場所だと信じられれば気分が変わる奴らもいるだろう。そう言ってくださったからな」

常の調子を取り戻したナハスに、リゼルもにこりと微笑んだ。

「(正しくなかったらどうしよう)」

魔法学院で出会った研究者たちを思い出し、そんなことを考えながら。

喫茶店から魔法学院までは割と歩く。

道中で軽く案内を挟みつつ、二人はサルスの街並みを堪能していた。

「その学院への訪問許可っていうのは、騎兵団全員に出てるんですか?」

「一応はな。今回はわざとそのあたりの、納得いっていない面々が集められた節がある」

「ん、許可は昨日もぎ取ったんですよね」

「思えば最初から予定には入ってたんだろうな。隊長も知ってたんだろう」

今回同行した騎兵は、騎兵団隊長による選出だという。

それ自体は何もおかしいことではないが、事情を知った今となっては怪しい選出だとナハスは告げた。それが分かるということは、彼もまた副隊長として、団員の心の機微に目を配っていたのだろう。

「ただ全員で話し合って、結局俺が代表して訪ねることになったんだ」

「隊長さんもいないし、副隊長のナハスさんが妥当ですよね」

そして学院で目にしたもの、感じたことを、すべて団員に話して聞かせるのだという。

それはきっと、何人もの軍人が一度に訪問したら怖がらせるだろうという配慮もあるのだろう。視察という実情があり、そこに正当性があろうが、守られるべき国民を怯えさせるような真似などしたくないのだ。

「俺の話で納得できなければ自分の目で確かめる奴もいるだろうがな」

「納得してくれるといいですね」

「ああ」

そうこう話しているうちに魔法学院にたどり着いた。

学院と外を隔てる真っ白い塀。その開け放たれた門の前で立ち止まる。

「なんだ、不用心だな。そこの塀が壊れてるぞ」

「草むしりへの意欲が溢れたそうです」

「うん?」

リゼルの言葉に不可解な顔をしたナハスは、気を取り直すように咳払いする。

そしてリゼルに向き合い、真摯な声色で感謝を告げた。

「リゼル殿の案内があって助かった。俺一人だと迷っていただろうからな」

「そう言ってもらえると嬉しいです」

「実のところ、少し身構えていたんだ。話ながら来れたからか、それもなくなったようだ」

「ナハスさんも緊張するんですね」

「こら、茶化すんじゃない」

ナハスは仕方なさそうに笑った。

そして再会の約束をして、リゼルを送り出そうと手を持ち上げ。

「じゃあ行きましょうか」

ほのほのとほほ笑んで学院に入っていくリゼルを、呆然と見つめた。

「待て、こら、お前は訪問許可がないだろう!」

「他国の軍人でもなければ、許可なんていらないですよ」

「いや、ここは国の叡智が集まる場所だろう、機密も多いんじゃないのか!」

「そのあたりはしっかりしてるから大丈夫です」

リゼルは迷いのない足取りで学院内を歩く。

ナハスもまたその姿を追ってあっさりと門を潜った。そこに彼の感じていた緊張など欠片も見えない。

「それにしたって、なんでお前はそんな我が物顔で……」

「あ、冒険者先生じゃん、元気?」

「こんにちは」

「いつの間に魔法学院に所属したんだ!」

「してないですよ、冒険者のままです」

驚愕に叫んだナハスを、リゼルはすかさず否定した。

出入りしているうちに何故か冒険者先生と呼ばれ、「冒険者先生の研究室ってどこだっけ」「今期の論文ってもう完成した?」などと言われるようになったが、リゼルは今も立派な冒険者だ。

「本を借りに出入りしてただけなんですけど」

「お前はどうしていつも妙なところに馴染むんだ……」

そういうところにこそ本があるのだから仕方がない。

リゼルは微笑み、足を止める。そしてナハスを振り返った。

「この先に、ナハスさんが見ておきたいものの一つがあります」

「……なんだ?」

「支配者さんの研究室です」

ナハスの眉間に微かに皺が寄った。

異形の支配者。襲撃犯である研究者たちを調べた時、必ず上がっていた名前だ。

彼らは言っていた。支配者が不快を示した魔鳥騎兵団への粛清なのだと。

それを命じた訳ではない。ただ不快感を覚えただけだ。ナハスとて、本来は人と敵対関係にある魔鳥と共にある以上、ある程度の非難は覚悟している。だからそれに対して、憤りを覚えることはない。

だがそれでも、襲撃の要因となった相手なのだ。

「研究を続けているとは聞いていたが……」

「そうですね。彼の並外れた頭脳は、何があっても守られます」

「……そうか、そうなんだろう」

ナハスとて国に仕える軍人だ。

そこに否やは唱えられない。ただ、拳を強く握りしめる。

「すまない、行こう」

「はい」

研究棟に足を踏み入れ、角を曲がる。

中庭に面した廊下にたどり着く。そこは明るい光が差し込んでいた。

庭には、温室らしき小さなガラス小屋の前で一生懸命に話し合う子供たちの姿がある。

「楽しそうだな」

あれは、サルスの未来を担う子供たちだ。

彼らが笑いながら学ぶ姿に、ナハスはそれだけで学院を訪れた意義を感じていた。

だが。

「え?」

「なんだ、どうした?」

驚いたように振り返ったリゼルに、ナハスもまた驚いて問い返した。

そういえば、目的地についたわけでもないのにリゼルは足を止めていた。

「いえ、ナハスさんが楽しそうって言ったのが意外で」

「お前は俺にどういうイメージを持ってるんだ」

「俺はあまり、あれをそう思ったことがないので、つい」

リゼルが中庭を指さした。

ガラス小屋にへばりついて熱心に喋る子供たち。珍しい植物でも育てているのだろう。

興奮したような声色は十分に楽しそうに見えて————、

「……ん?」

いや、ガラス小屋の中にあるのは植物じゃない。

ならば何かと目を凝らせいていれば、その答えは隣で朗らかに微笑むリゼルから齎された。

「支配者さんです」

「晒し物にされている!!!!」

流石にそこまでの罰は望んでいなかったと、ナハスは後に語った。

野営地でその話を聞いた他の騎兵も、おおむね同じ感想を抱いたという。

あまりの衝撃にわだかまりの解消には成功したが、代わりに別のわだかまりを抱くことになった。とはいえ当初の目的は達成したのだから、良しとするべきなのだろう。

ナハスは夜、何故か「そういうつもりじゃなかったんです」と晒し物を否定していたリゼルを思い出しながら、ひとまずそう結論づけておいた。