軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

159:猫の名前はクリスティーヌ(3歳♂)

窓の外から、サァサァと雨音がする。

リゼルは宿の食堂で、食後のコーヒーを片手にぼんやりとそれを聞いていた。パシャパシャと時折、外を誰かが駆けていく音に耳を澄ます。

「貴族さまも、今日はおるすばん?」

「そうですよ」

誰を見送る訳でもないがと、リゼルは微笑んだ。

同じテーブルの向かい側。あらぬ方向に跳ねた髪を気にしながら、幼い少女が湿気を吸ってへろへろの紙と睨み合っている。

彼女の通う学び舎には、王都という事を考えても熱心に物を教える師がいるようだ。市井の学び舎では決まった教育水準というのはなく、最低限の読み書き計算で充分ではあるが、師事する者によってはその限りではない。

「んー……」

「難しいですか?」

「うん」

か細い声が不満そうに唸るのに、内心で応援を贈る。

少年少女が持ち帰ってくる宿題を見る限り、学び舎の師は“求める者には与えよう”というスタンスなのだろう。全ての子供に生きる為の知識を、望む子供にはそれ以上を。

気が合いそうだと、まだ湯気の立つコーヒーをそっと口に運ぶ。

「うーん……」

雨の音が雑音を掻き消し、静寂を際立たせる。

基本的に、雨の日は誰も彼もが外に出ない。店もやっていたりいなかったり。ジルも今頃、部屋で二度寝でもしているだろう。

「ねぇ、貴族さま」

「ん?」

呼びかけられ、ゆっくりとそちらを見る。

「貴族さま、この前の……おんがく? すごかったね」

「演奏会ですか?」

「そう、えんそうかい」

以前、リゼルとイレヴンの二人で依頼を受けた時の事だろう。

リゼル達は適当にキンコンカンコンと鉱石を打ち鳴らしていただけだったが、楽団員たちの立派な演奏のお陰もあり、少女にはきちんと楽しんで貰えたようだ。

少女は動かしていたペンを止め、少し恥ずかしげに目を伏せる。きゅっと小さな手に力が籠り、視線をうろつかせた。

「あの、あたしも、やってみたくって」

「うん」

「でも、止めといた方がいいかなぁ」

「どうして?」

柔らかく問いかければ、眉を落とした幼い顔がそろそろと持ち上がる。

「やりたいこと、たくさんあるの」

「うん」

「できると、すごく楽しいし」

「うん」

「でも、変かなって」

「そうなんですか?」

リゼルは困ったように微笑んだ。

目の前の少女は、非常に学ぶ事へのバイタリティに溢れている。本人が言う通り、何かを出来るようになるのが嬉しくて仕方ないのだろう。

請われるままに教える内に、彼女はマナーや作法などもどんどんと身に付けつつある。

「だって、いわれたもん。役に立たないのに何でって」

少女の両親には、この点について感謝されている。

ならば友人か、誰か。純粋に疑問を抱いたのか、それとも何かを羨んだのか。はたまた恋心故に焦燥を抱き、先行く彼女を引き留めようとしたのかもしれない。

真相は分からないし、わざわざプライベートを掘り下げるような真似はしないが、一つだけ確かな事がある。

「それは、俺にも分かりませんけど」

何が少女の役に立つかなど、未来が誰にも分からないのと同じこと。

どちらにせよ、それは例の発言者には何の関係もない事だ。ならば告げられた言葉は、見知らぬ人間が見知らぬ誰かへ告げるのと同じもの。気にする事は何もないと、そう慰めるのは簡単だが。

「貴女が望むなら、楽譜の読み方は教えられますよ」

「!」

自分で選んで決めた事だと、胸を張れば良い。

楽しめば良い。喜べば良い。全力で励めば良い。そうすればきっと、外からの些細な言葉など気にならなくなる。

それが少女が何かを諦める理由になろうなどと、どう考えても分不相応なのだから。

「いいのっ、貴族さま!」

「基本の基本だけで良ければ」

「やったぁー!」

ペンを放り出し、両手を上げて喜ぶ少女にリゼルも目元を緩めた。

「あたし、何すればいい!?」

早速とばかりに身を乗り出した少女に、リゼルはにこりと笑ってその手元を指さしてやる。

そこには、途中で放棄された宿題。渋々と腰を下ろし、せっせとペンを動かし始める姿に、もう暫くかかりそうだとゆっくりとコーヒーに舌鼓を打つ。

外では相変わらず、サァサァと雨音が響いていた。

「随分と賑やかだね」

ふいと食堂の扉が開き、新しいコーヒーを両手に宿の女将がやってくる。

彼女は少女の隣に座り、片方をリゼルの前へと置いて自らのコーヒーを味わった。おかわりを淹れてくれたのだろう、礼を告げる。

「お疲れ様です、女将さん」

「リゼルさんも。今日のお勉強は順調かい?」

「それはもう、熱心な生徒がいるので」

女将ははっはっ、と声を上げて笑った。

少年少女の勉強に付き合う時は、いつも宿の食堂だ。決まっている訳ではないが、子供達がリゼルを捕まえられるのが此処しかないので必然的にそうなるのだろう。

そういう時、おやつを差し入れてくれたりする女将も既に慣れたものだった。隣の少女が必死にペンを動かすのを、微笑ましげに眺めている。

「まさか、冒険者が勉強を教える光景を見るようになるとはねぇ」

コーヒーを片手に、しみじみと女将は頷いた。

「最初リゼルさんを見た時は、まさか冒険者になるとは思わなかったよ」

「もう疑ってないですか?」

「やだね、疑った事なんてないじゃないか」

リゼルには割と露骨に冒険者扱いされていなかった覚えがある。

いや、確かに疑われていた訳ではなかったのかもしれない。冒険者だと知った上で、あの扱いだったのだろうか。今でも大して変わらないが。

からからと笑った女将は、両手で温かなカップを包んだ。

「向いてないんじゃと思ったけど、楽しそうで何よりだ」

温かな眼差しに、リゼルはくすぐったそうに顔を綻ばせる。

「向いてないと思ったら冒険者になってませんよ」

「おや、そうなのかい?」

「じゃないと、ジルには頼めません」

最初は契約という形で関係を結んだのだ。

そこで初心者冒険者の付き添いを頼んでおいて、並の冒険者にもなれないようでは無駄骨を折らせてしまう事になる。それ以前に、余計な手間を増やすなと嫌がられた筈だ。

身分証を手に入れるだけなら冒険者でなくとも良いのだから、尚更のこと。

「なら、リゼルさんの読みは当たってた訳だね」

「え?」

「立派に冒険者をやってるじゃないか」

そう胸を張った女将が昨日、リゼル達がギルドへ行こうと宿を出る際に「変な冒険者に絡まれないようにね!」と言い放った事実がなければリゼルは素直に喜べた。

心配は嬉しい。その気持ちは嬉しいが、冒険者を送り出す言葉ではない。

「読みって言っても、人並みの体力はあるってだけの理由でしたし」

苦笑し、何となく少女へと視線を流す。

難問にあたったのだろうか。ずっとペンは動きを止めていたが、やがて諦めたように先の問題へと進み始めた。

「先の予想できない事に挑戦したいっていうのがあったのかも」

ポツリ、ポツリ、と何処からか聞こえる雨垂れの音に耳を澄ます。

元の世界にはない冒険者という制度なら、それが叶うのではないかと。不自由など感じた事はないが、それでも本当に自由であるという事がどういう事か分かるのではないかと。

そういう考えは、確かにあったのだ。

「挑戦してみてどうだったんだい?」

「とっても楽しいです」

「だろうね!」

迷宮をはじめ、予想以上に自由過ぎて非常に楽しい。結果オーライだ。

「できた!」

暫く女将と談笑していると、机にかぶりついていた少女がパッと顔を上げた。

顔を輝かせ、見て見てとリゼルへと宿題を掲げてみせる。机の下では、待ちきれないとばかりに小さな足がパタパタと揺れていた。

「答え合わせ、しましょうか?」

「うん! 全部あってたら、おんがく、おしえてね!」

「おや、じゃあ私は頑張った子にご褒美でも用意しようかね」

自身のカップ、そしてリゼルが飲み終えた一杯目のコーヒーカップを手に、女将が席を外す。

リゼルも少女の手から宿題を受け取り、目を通していった。出会った頃より難度を上げた問題には、面白いことわざも増えてきた。

実はこういった所で、地味に元の世界との差異がある。とはいえ、リゼルもこちらで知識吸収を欠かしたことはない。

「The cunning mason works with?(熟練した石職人は?)」

「any stone!(どんな石でも依頼をこなす!)」

思い出せずペンを止めていた部分を再び尋ねれば、すぐに答えが返ってきた。

よく出来ましたと微笑めば少女も嬉しそうに、そして少しはにかむようにクスクスと笑う。

「終わったかい? ほら、クッキーだよ」

「わっ、やった」

間違いはゼロ、とリゼルが宿題を少女へと返した時だ。

白い皿に、丸く平たいクッキーを積んで女将が食堂へと戻ってきた。机の上に置かれたそれからは香ばしい香りに混じり、ハチミツの甘い香りも漂ってくる。

早速、とばかりに伸ばされた小さな手に続き、リゼルも“ジルは食べられないな”と戯れるように考えながら一枚摘まんだ。齧れば、サクリと軽い感触。

「おいしいね!」

「美味しいですね」

「そりゃあ良かった。いっぱい食べるんだよ」

女将は事ある毎に食べろ食べろと口にする、典型的お母さん系女将だ。

「じゃあ私は掃除でもしてようかね」

「行ってらっしゃい」

彼女はひょい、とクッキーを一枚口に放り込んで席を立った。

見送るリゼルの前で、さくさくと頬を膨らませながらクッキーを味わっていた少女がハッと顔を上げる。ごくりと口の中のものを飲み込み、姿勢を正した。

「貴族さま、何おしえてくれるの?」

「じゃあ、音階から。ちょっと待ってて下さいね」

紙とペンが欲しい、とリゼルも一度食堂から出る。

階段を上り、自室へ。ベッドの上で膨らんでいる毛布からは赤い髪がはみ出していた。昨晩泊まっていったイレヴンだ。

寝ているのだろう。微かに上下している毛布に、まぁ良いかと頷いた。

女将に他の部屋を用意して貰い、そちらで寝ていた筈なので不思議ではあるが。朝起きた時はまだいなかったのに、と思いながら椅子にかけていたポーチを漁った。ペンとインク壺、何枚かの紙を持って部屋を出る。

「お待たせしました」

「ううん」

食堂に戻り、さてと再び少女の向かいへと腰かける。

机の上に紙を広げ、七つの記号を書き込んだ。少女もそれを覗き込む。

「この七つが、全ての基本です。Fiu、Due、……で、Zio」

「それは名前?」

「そう。記号の名前で、音の名前」

少女が理解できるよう、ゆっくりと説明していく。

ピアノが欲しいな、と思ったがないものは仕方がない。レイの家で見た通り、上級階級の中でも更に城に登城できるような者達しか持たないのだから。

一瞬、宝箱から出てくれれば良いのにと思ったが、リゼルは自分を戒める。自身が求めるのはそんな変な特別扱いではないのだ。普通に回復薬とかが欲しい。

「音にすると左から、えーと……んー、ん、ん、ここかな。Fiu、Due、……」

「あがってる!」

「高くなる、っていうんですよ。音が高い、低い」

「へぇー」

口頭で完璧な音にするのはなかなか難しい。

しかしヴァイオリンを持ち出してくる程でもないだろうと、説明を続けていく。

「それでZioまでいったら、またFiuに。この七つで一組、それが上下に重なって、高い低いを表すイメージです」

「んー」

「楽譜を見ながら曲を聞けば、何となく分かるので大丈夫ですよ」

「うん!」

「じゃあ、楽譜なんですけど」

リゼルは七つの記号の下に一本の横線を引いた。

線の左端に記号を一つ。そして線を右にたどるように、線の上に、下に、そして線に重ねて中心に。楽譜は国によって、あるいは専門度合いによって様々な形があるが、これが一番の基本だ。

「かわいー」

「そうですか?」

少女特有の謎の可愛いが出た。

楽譜を可愛いと思ったことはないな、とリゼルはまじまじと自ら書いたそれを眺める。

「左端が始まりの音。で、右に向かって読みます。線に被って記号があれば、左の音と同じ音階の中の音。線の上にあれば、上の音階。下にあれば、下の音階です」

「いっこ飛ばしとかもあるの?」

「ありますよ。良い質問ですね」

リゼルは横線の上にピッと短い線を引いて、その上に記号を乗せてみせた。

「これが二つ上」

「凄い! これ、なにかの曲?」

「いえ、適当です。君が知ってるような歌の楽譜があれば良いんですけど」

まずリゼルには、王都の子供たちがどんな歌を知っているのかが分からない。

何処かで手に入るのだろうかと、そんな事を考えていた時だ。外から蹄が石畳を叩く音が聞こえてきた。

冷たい雨音の中、不思議と温かみを感じる音だ。規則的に、しかし複数頭いるのか重なり合って。こんな雨の日に珍しいものだと通り過ぎる音に耳を澄ましていれば、それは予想に反して宿の近くで音を消した。

「ばしゃ?」

「近くに止まりましたね」

少女も気付いたのだろう。

食堂の扉は、湿気が籠るのを避けるために開けっ放しだ。その向こうに見える玄関を、何となく二人で眺める。

しかし、関係はないだろう。どちらともなく、机の上の紙面に視線を戻した時だ。ゴンゴン、と宿の戸が叩かれる。

「はいはい、今行くからね」

箒を手に、パタパタと女将が玄関へと向かっていく。

郵便でも届いたのだろうか、と雨が降っても外を走り回っている郵便ギルド職員へとリゼルが思いを馳せていた時だ。にわかに慌ただしくなった玄関に、音楽講座を再開していた二人は再び揃ってそちらを向いた。

「とにかく入って下さいな! ほら、そこでは濡れてしまうでしょう?」

「突然すまないね、お言葉に甘えさせて貰おう」

「今コーヒーをお持ちしますわね」

あらやだ、とばかりの女将に促され、微かに濡れた肩を叩きながら姿を見せたのは快活な笑み。リゼルがぱちりと目を瞬かせ、少女がぽかんと口を開く中、食堂の中にふと視線を向けた彼はパッと華やかな笑みを浮かべた。

「リゼル殿、久しぶりだね!」

「レイ子爵」

立ち上がろうとしたリゼルを片手で制し、レイは物珍しそうに周りを見渡しながら食堂へと足を踏み入れた。

「雨の風情を楽しみに?」

「勿論だとも。と、言いたいがギルド帰りでね」

折角こちらに来たんだから寄ってみた、という事だろう。

雨だから居ると思ったのだと笑うレイに、リゼルもそれは良かったと微笑む。用があるようには見えないので、本当に顔を見ようと寄ってくれたのだろう。

「おや」

ふいにレイが自らを見上げて固まっている少女と、机の上の楽譜を見つける。

「失礼、お嬢さん。楽しい時間を邪魔してしまったかな?」

嫌味なく笑うレイに、リゼルも微笑みをそのままに少女を見た。

ぽかんとしていた少女が慌てたようにこちらを向くも、何も言わずに首を傾げてみせる。彼女はもう、こういう時にどうするのかを知っているし、それを実践できるのだから。

そのやりとりに、レイも何かを察したのだろう。金の瞳に面白そうな色を乗せ、少女を見守っている。

「っあの」

少女が意を決したように声をあげ、そしてきゅっと小さな手で椅子の背もたれを握る。

緊張したように丸まっていた足を伸ばし、トンッと宿の床へと降りた。椅子を握っていた手は、自身のスカートへ。

添えるというには強めだが、そっと布地を引きあげながら膝を折る。

「お会いできてこうえいです、ししゃく」

「素晴らしい挨拶を有難う、 お嬢さん(リトル・レディ) 」

レイは少女の前に膝をついた。

恐る恐る顔を上げた少女に静かに笑い、掬うようにそっとその両手をとる。

「こんなに可愛らしい淑女に出会えるなら、雨の日も素晴らしいものだ」

「!」

少女がパァッと顔を輝かせ、そしてリゼルを見た。

褒めるように微笑み、頷いてみせれば嬉しそうに肩を竦めている。そして立ち上がるレイから手を離して貰った彼女は、いそいそとリゼルの隣の椅子へと体を持ち上げた。

その喜びが零れてしまったのか、そわそわぱたぱたと揺れてしまう足については、今だけは触れずにおいてあげた方が良いだろう。

「雨の日は依頼に出ないのかい?」

「出ない方が多いですね」

向かい側に座ったレイは、女将が運んできたコーヒーへと抵抗なく口をつけた。

御者には近くの憲兵の詰め所にでも行っているように声をかけていたので、今日はこれ以降の用事がないのだろう。とはいえ、レイに関しては微妙に断言できないのだが。

そして暫く話していれば、ふいに階段を下りる音が近付いてきた。

「おや、君もいたのか」

「……あ? 何でいんだよ」

ラフな格好のジルが食堂に顔を出す。

やや気だるそうに、怪訝な顔をレイへと向ける彼に少女が少しだけ身を寄せるのを感じながら、リゼルはすっかりと冷めたコーヒーを指してみせた。

「飲みますか?」

「いい。水」

食堂を通り過ぎ、キッチンへ姿を消したジルを見送る。

グラスを見つけ、水を飲み、一息ついて少しのんびりとしていたのだろう。それから水の入ったグラスを手にキッチンから出てきた彼の眉間には、微妙に皺が寄っていた。

リゼルはレイと雑談を交わしながら、ひょいっと片手でジルを呼んだ。

「ジル」

差し出されたグラスに手をかざせば、その水面がパキパキと凍る。

「ん」

もう良い、と止める声に流し込んでいた魔力を止めた。

ジルが踵を返しながらグラスを揺らし、カラカラといびつな氷を崩す。そのまま彼はグラスに口をつけ、冷えた水を喉に流し込みながら食堂を出ていった。

ふいに、レイから笑い声が零れる。

「一刀も随分と我儘らしい」

「お酒とかでも時々、“冷えてない”って文句言ってますよ」

「ああ、それは私も分かるね」

足を組み、コーヒーを掲げてみせるレイは、相変わらず劇団員のような素振りがよく似合う。

酒飲みあるあるなのだろうか、と考えているリゼルを、ちょこんと行儀よく座っていた少女が不思議そうに見上げて問いかけた。

「あったかいお酒、おいしくないの?」

「どうなんでしょう。ホットワイン、とかは聞きますけど」

「ああ、ライナが寝る前によく飲んでいるよ。あれは体は温まるけど、お酒が飲みたくて飲むものではないかな」

へぇ、と頷くリゼルと少女に、レイは片目を瞑ってみせる。

「ワインにスパイスとハチミツ、レモンなんかも入れてね。お嬢さんもきっと気に入るだろう」

「おいしそー」

「酔っちゃいますよ?」

「よわないよ! まえにお父さんのお酒ちょっとだけ分けてもらった時、よわなかったもん。にがかったけど」

リゼルは黙った。

そのまま三人で談笑すること暫く。女将がそわそわと淹れるコーヒーをレイが二杯飲み干した頃だった。

弱まらない雨音に紛れ、再び馬の蹄の音が聞こえてくる。

「おや、もう迎えか。楽しい時間はあっという間だね」

時間を置いて迎えにくるように託けていたのだろう。

レイが立ち上がり、心から残念そうな様子で襟元を正す。その姿を眺めながら、ふとリゼルは思い出したかのように口を開いた。

「そうだ、子爵」

「何だい?」

「手習いの楽譜を扱っているような店、知りませんか?」

送り出すにはどうすれば良いのだろうと、膝の上でスカートを握り締めていた少女がぱっとリゼルを見る。

「楽譜か。さて、中心街の店で良ければ紹介出来るけれどね」

「そうですよね」

うーん、とリゼルは考える。

リゼル個人としては全く問題ないのだが、少女に与えようと思うと別の問題が発生する。これでもリゼルはご近所付き合い、というものも日々学んでいるのだ。

“あまりお高いものを勝手に子供に与えるのはNG”とは女将の談。ちなみにこれは、リゼルが貰い物のお菓子を分けようとした時に言われた。

見た目が完璧に宝石の通称“宝石菓子”。最近話題で上流貴族でもなかなか手に入らないそれは、まさに目の前のレイが「私も貰ったものだけどね」と気軽にくれたものだった。

見た目が綺麗だから子供は喜ぶだろう、と特に何も考えず出した途端、流行と噂に敏感な女将に価値を看破されて注意を受けた。内緒でこれだけ、といって子供達は食べたが。何なら女将も食べた。

「ああ、それなら」

依頼で【王都の童謡募集】とでも出してみようかと思いついた時だ。

レイが名案だ、とばかりに笑ってリゼルを見下ろす。

「ライナが昔使っていたものを後で届けさせよう」

「良いんですか?」

「勿論だとも。うちには何でもかんでも残しておく翁がいるからね、きっと残っている筈さ」

玄関の向こうで馬車が止まる音がした。

コンコン、とノックの音。レイが入るように呼びかければ、マントを羽織った御者が姿を現す。隙間から見えた空は薄暗く、いまだ雨は止みそうにない。

ブルルと鼻を鳴らしながら、馬が揺れたたてがみをムズがるように頭を震わせた。

「今日中に届けさせるから、心待ちにしておいで。お嬢さん」

「あっ、ありがとうございます!」

「有難うございます、子爵」

レイはひらりと片手を振って、扉を潜る。

慌てたように見送りに出てきた女将に声をかけ、玄関から馬車までの微かな距離にも用意された布の屋根の下を、ゆっくりと歩いて馬車へと乗り込んでいった。

御者が女将に挨拶し、頭からマントを被る。そんな彼も踵を返し、馬車の車体しか見えなくなって直ぐ。それが進み始め、開け放たれた扉から姿を消した。

玄関先で見送った女将が、ふぅっと息を吐きながら振り返る。

「リゼルさんのお客さんの中で、一番緊張したよ」

「ん、珍しい」

「こら、茶化すんじゃないよ!」

ジルやイレヴンにも物怖じしない女性が、と可笑しそうに目を細めるリゼルに、女将は“全くもう”と腰に手を当てるのだった。

昼食を終え、リゼルはそのまま食堂で読書に興じていた。

レイが楽譜をくれるというのなら、それからで良いだろうと授業は中断。少女はリゼルの隣で、紙に書かれた音階の記号を嬉しそうに眺めている。

雨音をバックに、澄んだソプラノが時折一から七まで音を口ずさむ。そしてゆっくりと捲られるページの音。食堂にはのんびりとした時間が流れていた。

「あー……腹減った」

それから暫く。

少女もすっかりと記号を覚え、手持ちの本と向き合っていた時だ。音もなく食堂に現れたのは、普段は結んでいる髪を解きっぱなしのイレヴンだった。

眠そうにふらふらとキッチンへ向かい、扉を開いてズボリと顔を突っ込む。

「腹減ったァー、何かちょーだい」

「全く、こんな時間に起きてきて……はいはい、すぐ用意するよ!」

威勢の良い女将の声に満足したのだろう。

タンクトップに手を突っ込み、腹の鱗を撫でながらイレヴンはリゼル達の机に歩み寄ってくる。少女の視線が本からイレヴンへと向けられた。

「お兄ちゃん、おはよう!」

「そこ俺の席」

「ご、ごめんなさい……っ」

欠伸を漏らしながらの一声に慌てて椅子から降り、向かい側に移動する少女にリゼルも顔を上げる。当然のように隣の椅子へと腰掛けたイレヴンに苦笑した。

ここで窘めると分かりやすく拗ねる上、子供相手だろうが関係なく少女に嫌悪を向けるのだろう。その方が危ないと、大人な少女へのフォローはひとまず後に回す。

「おはようございます、イレヴン」

「んー」

「眠そうですね」

「寝過ぎで眠ィ……最近あんま寝てねぇんスよね」

はっきりと開かない目をして、机に突っ伏したイレヴンの頭を撫でてやる。

目の前に少女がいるからだろう、その手に甘えてくるような事はない。他の目がある場所でハッキリと甘えるような真似を、イレヴンはあまり好まなかった。

「忙しいんですか?」

「や、夜ウロつきたい気分なだけ」

何やら裏で活動していたのかと思ったが、どうやら違うようだ。

いや、本当に何もしていないのかは分からないが。レイから物騒な話も出なかったので、何かしら大事を起こしている訳ではないのは確かだろう。

「ニィサンどっか行ってんスか」

「二階にいませんでした?」

「いないっぽい」

いつの間にか出かけていたらしい。

ジルは雨でも出かける事が多い。当然のように選りすぐりの素材で作らせた外套は、被れば足元以外はほとんど濡れずに済む。

とはいえ、裏で煙草でも吸っているのかもしれないが。

「雨かァー」

ぐぅっとイレヴンが机の上で伸びた。

「雨用の外套、新しくしよっかなー」

「イレヴン、見る度に違うの着てませんか?」

「そだっけ」

雨が降っている中、揃って外出する機会はあまりない。

しかし雨の日でないと咲かない花など、そういった依頼を受けた時は共に外へ出る。そういう時にリゼルが目にするイレヴンは、いつも洒落た柄の外套を身に着けていた。

大抵がリバーシブル。一度何故かと聞いてみれば、予想通り元盗賊らしい返答が返ってきたものだ。

「同じだと飽きんスよね」

「装備は良いんですか?」

「同じレベルのモン作れんなら代えっけど」

成程、とリゼルが納得していると、大皿を手に女将がやってきた。

皿に載るのはパスタ。リゼルと少女では、昼なのだし普通の皿にやや少なめで充分だが、イレヴンではそうはいかない。彼は寝起きだろうが何だろうが食べる。

「ほら、ちゃんと噛んで食べるんだよ」

「あんがとー」

受け取ったイレヴンが早速フォークでごっそりと麺を掬いながら、上目でリゼルを見た。

「この前デザインフロッグ狩ったじゃねッスか」

「ああ、あの時の」

「そ、レア出た時の」

先日、迷宮の深層で出会った魔物。

様々な色柄を持つカエル達を思い出し、リゼルは頷いた。浅層のそれらは色合いもはっきりしないまだら模様が多いが、深層にもなるとドットやチェック、幾何学模様、更には色もハッキリと鮮やかになり、装備のおしゃれと性能を両立したい冒険者達に大人気の魔物だ。

イレヴンはたくさんの色が目を楽しませるスプラッシュ柄を酷くお気に召したらしい。

「レアなんですか?」

「あんま見ねぇもん。きったねぇのは見るけど」

柄のレア、レアじゃない、は冒険者たちの独断と偏見による。

「あれで作ろー」

そしてパスタを掻きこみ始めるイレヴンに、リゼルも己の外套を思い出す。

リゼルのものはきちんと手の通すところのある外套だ。こちらに来たばかりの頃、他の装備と同じくほぼジルに丸投げして準備して貰ったもの。

撥水性が薄れているとは感じないが、代えた方が良いのだろうか。そんな事を考えながら、続々と追加される皿を空けていくイレヴンの隣で読書に戻った。

イレヴンもしっかりと食事を終え、変わらぬ面子のまま食堂でのんびりとしている時だ。

「やっぱり、えーっと……えんりょ? がない方が、仲良しなのかなぁ」

「は、何で?」

「可愛らしい考え方ですよね」

「ちがう?」

「いえ、それも大切な基準ですよ。ただ、それだけじゃなくて」

「遠慮がねぇの最上級って“気兼ねなく殺せる”じゃん。仲良くはねぇだろ」

「ほんとだ……」

リゼルは読書を、少女は木炭でお絵かきを、イレヴンは女将の追加クッキーを暇そうに齧っていた。

ぽつりぽつりと交わされる雑談は、気まぐれで口を挟むイレヴンの影響でやや物騒な方向へと向かいがちだ。さりげなくリゼルがフォローを入れて少女への悪影響を防いでいると、ふいにダンッと壁を蹴るような音がした。

「えっ、なに……?」

「大丈夫ですよ」

次いで壁の向こうから、ガシャンガランと何かが崩れるような音。

慌てたように木炭を手放し、少女がリゼルの元へと駆け寄ってくる。リゼルはその肩にそっと手を添えてやりながら、本を閉じて音の方角を向いた。

雨模様に参った誰かが、路地を走り抜ける時に何かしら引っ掛けたなら良いのだが。そう思いながら隣を見れば、口に放り込んだクッキーを噛み潰しながらイレヴンが視線を上に向けていた。

「へったくそ」

つまらなそうな呟きと同時に、外がにわかに騒がしくなった。

同時に、ドン、ドン、と宿の上を誰かが駆け回る音がする。移動しているらしいそれに、リゼルの服を掴んだ少女の手にぎゅっと力が籠った。

「誰だいうちの屋根で走り回ってんのは! 穴でも開けられちゃあ雨漏りしちまうよ!」

すっかりと憤慨した女将が玄関へ向かう。

「イレヴン?」

「ほっといて大丈夫」

なら良いか、と女将が玄関を開けるのを眺めた。

彼女はなるべく濡れないように外へと身を乗り出し、水滴を遮るように目元に手をあて、そして屋根の上を見上げる。

「こら、何してんだい!」

「げ、やべ……ッうっわ!」

聞き覚えのある声がした。

ぱちりとリゼルが目を瞬かせた瞬間、悲鳴と共に誰かが女将の前へと落ちてきた。びくりと肩を跳ねさせた少女の細い髪を撫でてやりながら、リゼルは首を傾けてそちらを窺う。

地面に落下した誰かは、受け身だけはとれたのだろう。ぶつけた尻をさすりながら立ち上がった。

「おいアイン、大丈夫か!」

「すっげぇ落ちたな」

「うっせぇー!」

「おや、あんた達ひさしぶりだね」

「あ? ……あっ、あー、ここアレか!」

「久しぶりーっす!」

続々と宿の前に集まっているのはアイン達パーティだった。

彼らはリゼルへ暗号解読を依頼しに来た時に、必ず女将と顔を合わせている。暗号を解読している間は食堂に入り浸ったり、茶を御馳走になったりとそこそこ世話になっていたのだ。

お互い忘れてはいなかったようで、女将の説教も控えめだ。

「びしょ濡れじゃないか。ほら、温かいお茶でも出してあげるよ」

「あざっす」

「ざーっす」

びしょ濡れの彼らを放っておけなかったのだろう。

招き入れる女将に、アイン達はどかどかと遠慮なく宿へと足を踏み入れた。ぽたぽたと際限なく床へと落ちる水滴に、女将が次々とタオルを押し付けていく。

「全く、何だってこんな雨の日に出歩いてるんだい」

「俺らも好きで出歩いてんじゃねーんすよ」

その時、ふとアインの瞳がリゼルを捉えた。

「おっ、リゼルさん!」

「マジで!? あ、雨だしいるか」

「やっべぇ屋根乗ったんだけど」

「げ、獣人いんの……」

まだ髪から水を滴らせるアイン達が、タオルを被ったままわちゃわちゃと食堂へと駆けこもうとする。

しかしリゼルはそれを制した。そろそろと顔を覗かせる少女の肩に添えた手をそのままに、もう片手を持ち上げる。

掌はアイン達へ。彼らはぴたりと動きを止めた。

「拭いてから、です」

すごすごと引き下がっていくアイン達をイレヴンが鼻で笑う。

それを尻目に、リゼルは少女を見下ろした。彼女はリゼルの後ろに隠れながら、そわそわと目を輝かせてアイン達を窺っている。その視線はアインへ。

もう少し詳しく言うのならその腕の中へ。

「お前の所為でパンツまで死んでんだぞ、おい」

「に」

真新しいタオルでごしごしと拭かれているのは、一匹の猫だった。

本来ならば真っ白の美しい毛並みを持っているのだろう。しかし泥の中を走り回ったお陰でその四本の足も、そして腹も汚れてしまっている。

雑な拭かれ方がお気に召さないのだろう。猫はアインに引っ掴まれながらぬるぬると暴れていた。

「こりゃ洗ってあげた方が良いね。ほら、貸しな。飲み物もここ置いとくから」

「おっ、まじすか。ラッキー!」

「っねがいしゃーす!」

「こら! ちゃんと抱えてやりな!」

首根っこを掴んで差し出すアインを叱りつけ、女将はタオルで包むように猫を受け取る。

先程まで暴れまわっていた猫が途端に大人しくなるのを、アイン一行が「可愛くねぇなぁ」と見守る中、猫が気になってそわそわしている少女の背をリゼルはそっと押してやった。

そして少女が嬉しそうに女将の元へと駆けていく。

「おっ、子供!」

「ちっせぇ!」

「飴食う?」

食堂を出ようとした時、当然だが少女は玄関でたむろしているアイン達に見つかった。

装備を脱ぎ、わしわしと髪や体を拭いている男集団に一斉に声をかけられるのはやはり腰が引けるのだろう。たとえ怒りのままに冒険者ギルドへ突撃した少女だとしてもだ。

わらわらと囲まれ、やいのやいのと声をかけられ、飴を差し出された少女は暫くおろおろとしていたが、すぐにきっと眉を吊り上げる。

「ごきげんよう!!」

「ご、ごきげんよう……」

そしてシャワー室へと駆けていく少女が去った玄関には、唖然とする男たちだけが残された。

「すげぇ、姫いんじゃん……」

「まぁリゼルさんの宿だしな……」

「あれ娘だったりすんのかな……」

「聞こえてますよ」

ごり押しなところは割とリゼルに似てきたのかもしれない、とイレヴンは密かに思った。

そんな事など知る由もなくリゼルが苦笑すれば、ようやくアイン達も我に返ったのだろう。すっかりと水が滴らなくなった彼らが、首から頭からタオルを下げて食堂へと入ってくる。

扉近くのテーブルに置かれた温かな茶をそれぞれ手に取って、リゼルのテーブルへといそいそと近付いてきた。

「リゼルさん今日休みっすか」

「はい。アイン君は依頼ですか?」

「そうなんすよ。雨だけどいっかーっつってギルド行ったら、報酬二倍の依頼があるっつーから受けて」

「何時間走り回ったんだっつうのなぁ」

確認せず受けたら猫探しだった、という事か。

飼い主も雨の日に迷子など可哀想だと思ったのだろう。報酬を倍にする程に愛している猫を助けてあげられたのなら、随分と感謝されるかもしれない。

立ち飲みしながら、適当な椅子に行儀悪く座りながら、ぶつぶつ文句を言うアイン達にリゼルは微笑んだ。

「お疲れ様です。甘いものでも」

クッキーの載った皿を差し出そうとした瞬間、イレヴンが皿の上全てを浚っていった。

「イレヴン」

「んー?」

残り少なかったとはいえ、何枚か残っていたクッキーを口の中に入れてみせたイレヴンはもごもごと口を動かしている。その顔は悪びれない。

リゼルは膨らんだ頬をむにりと押してみる。なんてことない顔をされた。

「すみません、アイン君。なくなりました」

「いや、リゼルさんの所為じゃないんで。こいつの所為なんで」

アインがガンッとイレヴンの椅子を蹴る。すぐさま足を踏まれて悶絶していたが。

「いつかぶん殴る……!」

「頑張ればァ?」

一触即発な空気の中、ふいにシャワー室の方から女将と少女の声が聞こえた。

驚いたような声にそちらを見れば、ダダダダと何かが駆けまわる音。この時点で何が起こったのか何となく察したリゼル達の視線の先、びちょびちょの猫が玄関の前を駆けていった。

「にげた! ねこ!」

女将と一緒に洗っていたのだろう。

スカートの裾を結んだ少女も猫を追いかけ、扉の向こうを左から右へ駆けていく。アイン達も慌てたようにカップを置き、猫を追いかけようと食堂から駆けだした。

玄関の扉は既に閉めているので外には出ないだろうが、なかなか捕まえられないらしい。のんびりと食堂の椅子に座るリゼルとイレヴンは、どたばたと賑やかなそちらをゆったりと眺める。

「あ、こらっ、二階に行っちゃ駄目だよ!」

「わっ、あぶないっ、とぶっ、あっ、すごいきれいにおちた!」

「捕まえっ……だー!!」

背中に猫を乗せたアインが右から左へスライディングしながら消えていった。楽しそうだ。

「手伝ってあげないんですか?」

「俺の依頼じゃねぇもん」

可笑しそうに笑って問いかければ、イレヴンがあっさりと告げる。

リゼルも、アイン達で無理なら自分は役に立たないだろうと傍観を決めていた。まさか宿の中で魔法を使って足止めする訳にもいかない。

その時だ。待ち構えるアイン達相手に、素晴らしいターンを決めて逃れた猫が食堂へと突撃してきた。

「リゼルさんゲット! それゲット!」

小さい体で、何故そこまでの存在感を主張できるのか。

ダダダダ、と体格に見合わない音を立てながら駆ける猫が、びょっとリゼル達のテーブルへと飛び上がる。やや尻が落ちながらもよじ登る猫に、リゼルはアインの声に応えるようにそっと手を伸ばした。当然避けられた。

「あっ、外でちゃう!」

「ぎゃー!!」

リゼル達のテーブルにほど近い窓は、伸びた屋根のお陰で雨が吹きこまないからと開けっ放しになっている。タッ……と飛び上がった猫がそのサッシへ降り立った。

前足、後ろ足、足場にしたサッシの上で一瞬で入れ代わるそれは見事の一言。猫はスルリと窓の向こうへと姿を消した。

「せっかくきれいになったのに……」

「折角捕まえたのに……!」

しゅんと肩を落とした少女と、また雨の中を走り回らなければならないのかと両手で顔を覆うアイン達に、リゼルが“何か役に立てる事があれば良いけれど”と考えていた時だ。

トントン、とイレヴンに肩を叩かれる。どうしたのかと隣を見れば、彼はにやにやと笑いながら肩に触れていた指先を窓へと向けた。

リゼルがそちらを振り向くと、窓の外には煙草を手に、もう片方の手で猫の首根っこを掴んでいるジルの姿。

「おい、なんか懐いてきた」

「うおぉぉぉジルさん! ジルさん!!」

「一刀―――――!!」

「うるっせぇな……」

そして窓越しに無事に捕獲された猫は受け渡され、シャワー室へと逆戻りしたのだった。

洗われ乾かされ綺麗になって、猫はほくほくとしたアインらによってギルドへと連れられていった。それを見送る少女の目が酷く名残惜しげだったので、今夜にでも彼女の両親は“猫が飼いたい”の攻撃にあうかもしれない。

「貴族さま、みて!」

「良かったですね」

だが、その攻撃も別の興味によって薄れるか。

少女の手にある幾つもの楽譜に、リゼルは共に喜ぶように微笑んでみせた。

「この中に、君が知ってる曲があると良いんですけど」

レイは宣言通り、屋敷に帰って直ぐに楽譜を用意させたのだろう。

アイン達と入れ替わるように宿を訪れた馬車から現れたのはレイからの使者であり、約束の楽譜を届けてくれた。受け取ったリゼルが少女へとそれを渡せば、飛び跳ねながら喜んでいる。

中を見れば、楽譜は本当に簡単なものだ。王都の童謡か。

「何それ」

「レイ子爵から頂きました」

「ふーん」

食堂へと戻ったリゼルと少女に、イレヴンから声がかかる。

問いかけておきながら、然して興味はなかったのだろう。欠伸を一つ零し、彼は立ち上がった。

「眠くなってきた……寝てこよ」

「おやすみなさい」

「んー」

食堂を去っていくイレヴンを見送り、リゼルと少女は隣同士の席に着いた。

食堂の外では、丁度イレヴンが外から帰ってきたジルと鉢合わせている。あの猫は何なんだだの何だのと言葉を交わしながら、二人は階段を上っていった。

「こんなに貴族さまといれたの、はじめて」

酒場のヴァイオリン、街角の旅芸人、どこかで聞こえる子供たちの歌。どこかで聞き覚えのある曲を探すリゼルに届いたのは、くすぐったそうな少女の声だった。

自身に向けられた言葉ではないのだろう。しかしふっと隣を見て、首を傾けてみせる。

「君の退屈を、少しでも紛らわせられましたか?」

「少しじゃないよ、たくさん!」

少女は満面の笑みを浮かべ、元気よく口を開いた。

「ありがと、貴族さま!」

「こちらこそ」

そして二人は笑い合い、珍しく随分と賑やかだった雨の日をのんびりと過ごすのだった。