作品タイトル不明
124:硬めの感触が新鮮だった
リゼル達は今、ナハスに先導されながら白亜の王宮の一室である書庫へと訪れていた。
アリムという主を置いたそこは静かで、見まわす限りの本に囲まれている。どこに立とうと少し手を伸ばせば本があるその部屋は、見慣れていなければ何処か異様でもあるだろう。
クァトはきょろ、と好奇の視線で周囲を見渡した。
「ん、これ新しく……」
「止まんな」
一冊の本に目をつけ、足を止めかけたリゼルへとジルが声をかける。伸ばされた腕を捕まえ前へと促してみせれば、然程抵抗は無く進みは再開された。
やはり本が好きなのかと、牢屋でも本を要求していた姿を思い出しながらクァトは横に並ぶ無数の本を眺めながら同じく歩を進める。それがどうしても好きの範疇で収まりきらない事を彼はまだ知らない。
「殿下、リゼル殿が挨拶に」
「うん」
そして、本棚の壁が途切れる。クァトは目を瞬いた。
書庫の中心でぽつりと開いた空間はやはり円を描くように本棚に囲まれてはいたが、この部屋にあっては初めて視界が開けた場所だった。誰かを呼びかけたリゼルの視線を辿ると、視界の隅でごそりと何かが動く。
「先生、早い、ね」
「お邪魔しています」
声を発した布の塊がごそりと立ち上がるのに、クァトはビクリと肩を揺らした。時々牢屋に質問をしに来ていたので見覚えはあるのだが、彼は未だにその姿に慣れない。
「座って話そう、か」
「有難うございます」
知らせを送ったその日に迎えに来る事を早いと言いながらも、予想の範疇だったのだろう。特に驚きも無く座るよう促すアリムに、リゼル達も普段と変わらず席へと向かう。
四角い机には椅子が四つ。リゼルが座り、ほぼ同時にアリムがその真正面に座るのは古代言語の授業の名残だ。
そしてリゼルの隣にジルが座ったのは近くにいたからで、イレヴンは余った椅子をズリズリと引き摺りながらリゼル側の側面に来る。
「こら、椅子を引き摺るな」
「小煩ぇー」
ナハスから注意が飛ぶものの、イレヴンはけらけらと笑うだけだった。
アリムとリゼルの間、よりは大分リゼルよりに椅子を置いて堂々机に肘をつく。王族の前で何という態度だ、と言うのはもはや今更だった。彼はリゼル以外に何度言われようと歯牙にもかけない。
「!」
その光景をそわそわしながらクァトが見ていると、ふいに振り返ったリゼルがちょいちょいと指先で呼び寄せた。本棚の通路に立っていた彼は呼ばれるままに嬉しそうに近付く。
もう空いている椅子は無いが、クァトには関係が無い。故郷でも奴隷時代も椅子に座る習慣など無いのだから、特に何も考えずにリゼルの足元に胡坐をかくように腰を下ろした。
「邪魔」
直後、ギッと椅子が引かれる音と共にクァトは強く肩に衝撃を受けた。
体勢が崩れ、後ろに手をついて何とかこらえる。ビリビリと痺れる肩の感触を堪えるように顔を顰めて上を見上げると、座ったままに振り抜いた足をゆっくりと下ろすイレヴンが此方を見下ろしていた。
「……ッぅ」
「おい、何をしてる。止めろ!」
「だってさァ」
自分の片目を抉った男に見下ろされれば普通に怖い。しかし咎めるナハスの言葉に、ふてくされるように向けられた瞳は他所へと向いた。
ほっとしたように傾いた体を起こし、どうすれば良いのかと傍らのリゼルを見上げる。
「こっち、良いですよ」
苦笑され、椅子の反対側をトントンと指先で叩く音がした。
クァトはパッと表情を明るくしながらリゼルとジルの間へと再び腰を下ろす。少しばかり狭いが、窮屈ではない。
その時、ふいに長い足が目に入った。机の下で適当に伸ばされた足は黒に包まれ、それを辿る様に視線を上げていく。気負いもせずに腰掛ける姿を順に見上げていくと、リゼルと話す為に唇の動く顔が目に入った。
自然の瞬きのち数秒、すっと一瞥される。
「……ッ!」
ビクリ、と思わず肩が跳ねてしまったのは仕方が無いだろう。
クァトの中でジルは一目見た時から決して敵わない存在だった。初めて会った時、牢屋の中でリゼルが言っていた“最強”が彼であると一瞬で理解できてしまったのだから。
圧倒的な強者を前に、 戦奴隷(ソードダンサー) である彼の本能は戦ってはいけないと告げる。別に何をされた訳でも無いので恐ろしいという事は無いのだが。
「おい、何で止めないんだ」
「俺からは言いにくいんですよ」
直ぐに去って行く視線に肩の力を抜いていると、ふいに髪に触れられる感覚がした。
クァトが視線だけを上に向けると、ナハスと話しているリゼルの手が伸ばされている。宥めるように乗せられた掌がぽんぽんと頭を叩き、戯れるようにつむじを掻き混ぜるのを目を細め享受した。
しかしそれを阻むように、ガンッと何かを蹴りつける音と鋭い舌打ちが書庫に響く。再びクァトの肩が跳ねた。
「机を蹴るな!」
「イレヴン」
「……はァーい」
最後にもう一度優しく叩かれ離れて行く手を無意識に追い視線を上げると、窘めるようにイレヴンへ声をかけるリゼルが見えた。どうやら心地よい時間は終わりのようだと、少し惜しく感じながらもぞもぞと姿勢を正す。
「御前ですみません、殿下」
「先生は、気にしないで、ね」
リゼルはそんなクァトをちらりと見下ろし、そして本題に入ろうとアリムを見た。
布に遮られた顔は見えないが、恐らく言葉通り気にせず笑みを浮かべているのだろう。実際に顔を見た後ならば、その笑みを想像することも容易い。
「じゃあ俺は外にいるからな。殿下の前で暴れるなよ」
「有難うございました、ナハスさん」
ナハスは贈られた案内への礼に頷き、アリムに挨拶をして、少しばかりクァトを気にしながらこの場を離れて行った。クァトが何をしたのかを知っている故の微かな警戒だけでなく、露骨に苛められている事への気がかりもあったかもしれない。
「改めて、今回は色々と気を回して下さり有難うございます」
「おれは、しなきゃいけない事をしただけ、だから」
遠くなる足音を聞きながら、リゼルは微笑み礼を言う。
ごっつい風邪だったりクァトの件だったり、後は布を貸して貰ったりと色々と世話になった。アリムにしてみれば利益を優先した結果だと言えてしまえるが、実際の所はただの好意なのだから気にしないでと言いつつも礼を拒否したりはしない。
「むしろ礼を言うのは、おれの方、かな。王族としては、ね」
「そう言って貰えると嬉しいです。俺がいた所為だ、なんて思われたらどうしようかと」
思ってもいない癖にという視線が二つ。一つは呆れたように、一つは愉しそうに向けられた。だが彼らにしてみてもそれは当然の事で、実際に事実なのだから仕方が無い。
だからこそ揶揄うように口にしたリゼルに、アリムは布の中でゆるりと笑みを浮かべた。
「正確な情報源があったから、ね」
傍から見ていると良く分からないが、するりと布を滑らせながらアリムがクァトの方を向く。クァトは布の塊が怖いので余りそちらを見ないようにしている為に気付いていないが、リゼルは察したように鈍色の髪を見下ろした。
「?」
直ぐに気付き窺うように見上げて来る瞳に、何でもないと微笑んで見せる。
「思ったより今回の件に関わって無かったみたいだし、あの魔法については収穫が無かったけど……目的が分かったら、先生が関係ないことは分かる、よ」
ぽつりぽつりと囁くように、低く艶やかな声が満足そうな色を孕みながら告げる。
自分から情報を提供しようなど思ってもみないクァトから情報を引き出すのは、なかなかに手間な作業だっただろう。何せ聞かれた事にしか答えない上に悪気も無い。
「目的が魔鳥騎兵団なら、これはいつか必ず起こった事で、むしろ先生が居た時に来てくれたのはアスタルニアにとって運が良い、かな」
誘拐された先生には悪いけど、と付け加えながらもアリムは布の中で笑った。
本当に、運が良い。リゼルが居なければ国の誇りは嘲る様に踏みにじられ、恐らく自らの手でパートナーである魔鳥を手にかける騎兵も出たかもしれない。そうなれば、もはやサルスとの戦争は免れない。
だが信者らが勘違いで暴走した結果リゼルを巻き込んでくれたお陰で、看病欲しさに全ては解決した。素晴らしい。
「うちの国王も、感情的に判断を誤るほど馬鹿じゃない、から」
「殿下って国王陛下にはちょっと厳しいですよね」
「兄弟だから、ね」
うふ、ふ。そう笑いを零したアリムに、リゼル達は兄が相手だとそうなるのだろうかと顔を見合わせる。しかし三人とも一人っ子なので意味は無かった。
要は兄弟間だから遠慮が無いという事なのだろう。普段のゆっくり動く布の塊からは正直想像が出来ないなと、リゼルは年齢相応の落ち着きを持つアリムを見ながら思う。
「それに一番の収穫は、彼らの上の名前が出た事、かな」
「そこが一番大切ですしね」
“異形の支配者(Variant=Ruler)”、この名を手に入れられるかどうかが要だった。
しかし一番信者らが隠したい名なのだから、クァトから容易に手に入ったのはアスタルニアにとってこれ以上無い僥倖だろう。その名一つだけで、打てる手は相当増える。
「壊れてた人たちも聞けるだけ話を聞いて、近い内にサルスに返還の予定、だよ」
「相手との話し合いが楽しみですね」
「おれは、あまり外交って好きじゃない、かな」
だろうな、と退屈そうにしていたジルとイレヴンの内心は一致した。
「殿下は出ないんですよね」
「そう、だね。外交担当がいるから、そいつが行く事になると、思う」
ふと、過去二度ほど顔を見た賑やかな男の姿を思い出す。外交担当と言うし、彼の事だろうかと考えながらリゼルはそういえばとクァトを見下ろした。
胡坐をかきながら周囲を見渡していた彼に、トンッと指先で椅子の側面を叩いてみせる。直ぐに此方を見上げる姿に、何となく気になったからと問いかけてみた。
「そういえば支配者さんの名前、知ってるんですか?」
「知らない」
あっさり言われた。
「呼ぶ。呼ばれる、聞いた。たくさん」
つまり支配者は普段から支配者呼びで通していたという事か。微妙な衝撃の事実が発覚してしまった。
そういえば彼の著書にも著者の部分には“異形の支配者”の名前が輝いていた。そう思いながらリゼルは納得していたが、ジルとイレヴンは全力で引いた。怖い。いっそ怖い。
「あ」
その時、ふとリゼルは思い出したようにポーチへと手を伸ばす。
実は牢屋で手に入れた本を、特に珍しくない研究書は除いてちゃっかりと回収していたのだ。あの趣味と偏愛に偏った濃いラインナップを一度アリムにも見せてやろうと思ったからに他ならない。
「実は、牢屋で信者さん達に貰った本がありまして」
「貰うなよ」
「リーダーぶれねぇなァ」
何やら色々と言われたがスルーして、リゼルは三冊の本をアリムに向けて机の上に乗せた。左から順番に“異形の支配者と呼ばれる人”、“魔物遣いの最高峰とは”、“異形の支配者研究書考察”。ジル達が思わず真顔で見下ろしてしまうラインナップだ。
「……、……」
「凄い本なんですよ。この二冊は多分信者さんの誰かが書いたやつで、支配者さん好きの聖書みたいな内容なんです。主観が強すぎて時々賛美の言葉が入ってるのが、合いの手みたいで面白かったです」
無言の布の塊から、するりと褐色の腕が覗く。手首に巻かれた金の装飾が涼し気な音を微かに鳴らし、そしてその手が並べられた本の一冊をとる。
やはり無言のまま引き寄せた本をパラパラと捲る姿に、本を目にしたリゼルは楽しそうに微笑んだまま語るのを止めない。真逆の意味ではあるがオススメ本だからだ。
「あ、それも読んでて楽しかったですよ。著者は信者さんじゃなくて、多分研究書の考察を生業としてる人なんでしょうけど凄く的確なんです。でもその考察に信者さん達が赤インクでかなり支配者さん贔屓な訂正を入れてて、読んでいて思わず」
「先生」
「はい?」
言葉を遮るように名を呼ばれ、リゼルはどうしたのかと目の前のアリムを見た。基本的にリゼルの言葉を受け入れるように最後まで聞き、内容を吟味してゆっくりと言葉を返してくるアリムにしては珍しい事だ。
彼は机の上でパタンと本を閉じ、恐らく目を合わせるようにじっと此方を見る。
「こんなの読んでたら、頭が悪くなる、よ」
多くの弟を持つと納得せざるを得ない声色で窘められ、リゼルは取り敢えず謝っておいた。面白さを分かち合えなくてちょっと残念だった。
アリムと暫く話した後、リゼル達が王宮を出ると空はもう紺色に染まっていた。
とある方向を見ると星の見える夜空、その反対側を見れば姿を消しつつある夕日の名残で薄っすらと橙が残っている。依頼が早めに終わったので王宮に来た時は明るかった筈だが、少々長居してしまったようだ。
「宿に帰る前に、買い物に何か所か寄れたらと思ったんですけど」
「そいつの?」
うーん、と空を見ながら考えるリゼルに、イレヴンは頤を上げるようにクァトを指してみせた。リゼルはそれに頷き、後ろをついて来るように歩く姿を振り返る。
「そう。服とかありませんし」
「寝間着は宿で借りれんだろ。明日で良いんじゃねぇの」
「もうやってる店ほとんど無ぇんじゃねッスか」
「ですよね」
どうせならきちんと選びたいし、とそわそわしているクァトを眺めた。
信者の元で動いていた時のような、いかにも奴隷らしい薄汚れた白の服では無い。恐らく牢屋にいる時に誰かが用意してくれたのだろう、とてもシンプルだがアスタルニアで一般的に見られる服を身に着けている。
「それで良いですか?」
「良い」
こくりと頷くクァトに微笑み、ついて来るよう促す。数歩後ろを歩く彼はそれが当たり前と思っているようで、二人で出かける事があれば奇妙な距離間だなと思いながらリゼルは足を踏み出した。
「馬鹿みてぇな喋り方してんじゃねぇよ」
しかし歩きながらも零された声に、思わず苦笑を零す。独り言のようで、しかし聞かせるような音量で告げられた言葉は確かにクァトへと向けられていた。
足は止めないままに横目で声の主であるイレヴンを見ると、気に入らないと眉を寄せながら視線を他所へと放り投げている。クァトはといえば自分に向けられたものだと一瞬気付かなかったようだが、直ぐにそわそわとリゼルを窺ってきた。
「ごめん、なさい」
「気にしなくて良いですよ」
不快にさせていたかと、糾弾したイレヴンではなくリゼルに謝るあたりに彼の意識の変化が垣間見える。もう誰の言う事でも聞いていた奴隷では無いという事か、良い事だとリゼルは一つ頷いた。
クァトがほっとしたように肩の力を抜き、再び周りを見回し始める。後を引いて気にしないあたり、性格は決して繊細とは言えないだろう。
「イレヴンも、意外とそういう所気にするんですよね」
ふいに、リゼルは可笑しそうに零す。
礼儀に厳しいという訳では決してないが、意識してか無意識かイレヴンが上下関係で物事を見ることは多い。恐らく獣人特有のものなのだろう。
時折まじる敬語もどきもその一つか。しかしそれも、此方の反応を窺いながら少しずつ砕けているのだから気付かないリゼルではない。その変化を穏やかに楽しんでいるぐらいだ。
「……何か変スか」
「いえ、俺は気遣って貰えて嬉しいですけど」
「基本馴れ馴れしい癖にな」
ほのほのと言われてグッと口を噤んだイレヴンは、しかし続いて揶揄うように鼻で笑われ煩いとばかりに睨み付けた。微妙に居た堪れない。
「助言は良いことですけど、強制は駄目ですよ」
「はァい」
イレヴンは諦めたように夜に染まっていく空を仰ぎ、ここがラインかと息を吐いた。
クァトに関してはやり過ぎなければ好きなようにしろと言われたが、それでもやる事すべてが許されるとは思っていない。リゼルに怒られるのは避けたいので色々と試してみたが、自身のフラストレーションが溜まるほどの規制は無いようだ。
流石、と唇を吊り上げた顔を笑みに変え、イレヴンはパッとリゼルを見た。
「じゃあリーダー明日買い物?」
「そうですね。日用品と服と……あと、身分証代わりに冒険者登録もしちゃいましょうか」
「冒険者」
振り返りながら告げられた言葉に、クァトが目を瞬かせる。
そして口元に笑みを浮かべ、こくりと頷いた。地下通路の牢屋でリゼルから冒険者の話を聞いていて、何か思う所があったのだろう。
「登録したら直ぐに依頼を受けなきゃいけない、とかあるんですか?」
「お前、本読んでて受けなかったじゃねぇか」
「そういえばそうでした」
登録して直ぐに読書週間に入っていたリゼルに、呆れたようにジルが言う。
スタッドからも“初依頼までに此処まで間が空くのも珍しい”と言われたので、ほとんどの者が取り敢えず簡単な依頼を受けてみるのだろう。それもそうだ、冒険者になろうとする人間で職についている者などまず居ない。
「あ、俺聞いた事あるかも。あんま受けねぇと注意食らうって」
「それってどれくらいか分かります?」
「あー……二週間かもうちょい、だったハズ」
言われてみればそうか、とリゼルは納得する。
身分証だけ発行して働かない人間の面倒までギルドは見ていられないのだろう。何せ何かあれば責任はギルドに来るのだ、何の恩恵も齎さない人間を庇う義理も無い。
「じゃあ近々俺達と一緒に依頼も受けましょうか。登録もその時に一緒にすれば良いので、明日は買い物だけですね」
微笑むリゼルをちらりと見下ろし、ジルが小さく唇を開く。
「パーティ登録は」
「しません」
声を抑えた問いかけに穏やかに返されたそれは、一切悩むことが無かった。
初めから決めていたのだろう。その意図が何処にあるかはジルには分からないが、決めているならそれで良いと頷いてみせる。
リゼルにしては大して重要な事でも無いようだ。それから、と明日の予定を考え続けている。
「あと、装備とかも明日頼んでおきましょうか」
「そいつ装備いんの?」
「え?」
言われてみればそうだ。魔法も剣も効かない上に武器が必要ない。
「でも、ジルの攻撃とか通るでしょうし」
「知らねぇよ」
何故試したこともないのに当たり前のように断言されるのか。ジルは間髪入れず突っ込んだ。
「ん、でも下手な装備じゃ壊れますよね」
「生えっしね」
なら必要ないかと、リゼルは頷いた。
腕から足から刃を生やす戦奴隷には、一般的な装備は合わないだろう。破れても意味が無いし、仮に破れなかったとしても刃が出せないのなら意味が無い。
恐らく彼の故郷では独特の民族衣装があるのだろう、後で聞いてみようと一人納得してクァトを振り返った。先程より近付いてきているクァトは言葉を待つようにリゼルを見ていて、本人は特に装備について意見は無いようだ。
「君はどうですか?」
「いらない」
一応聞いてみれば、至極あっさりと首を振られる。
「じゃあ時間もかからないし、明日俺達の依頼が終わってから買い物に行きましょうね」
「行く」
後は何が必要だろうかと話すリゼルの隣で、ふいにジルとイレヴンはその唇を愉快気に歪めた。
驕りからでも見栄からでもなく極自然に零された防具が不要との言葉は、恐らく本人も意識して口にした訳ではないのだろう。従順な癖して随分と、と思わずにはいられない。
「まぁ、珍しいってだけで欲しがるとは思ってねぇけど」
「ただ言うこと聞くだけの人間なんざ今更いらねぇんだろ」
そんなもの、元の世界では幾らでも居る。あるいは此方でも、作ろうと思えば作れるだろう。
そしてリゼルはそれを重要視しない、とジル達は何となく察していた。自らの意思など無くただ命令を待つ者より、自己を以って尽くす者をリゼルは好む。
此方に来てからは、尽くすと言ってしまうと語弊があるが。要は甘えないでね、という事だ。
「そういうの、俺がいない所で話して欲しいんですけど」
そんな会話が普通に聞こえているリゼルは苦笑し、そしてクァトは何処か嬉しそうに破顔した。
「宿主さん」
「あ、おかえりなさー……増えとる」
帰った宿で早々に部屋へと引っ込んでいったジルを除き、リゼル達は夕食の支度に精を出している宿主の元を訪れていた。台所をひょいと覗き込んだリゼルに珍しいと思いながら出迎えの挨拶を口にしかけた彼は、続いて真似するようにひょいと覗き込んでくる顔に思わず真顔で呟いた。
ちなみにイレヴンは堂々と台所に足を踏み入れ、鍋の横に積まれていた唐揚げをひょいひょいと三つ程つまみ何事も無かったかのようにリゼルの元へと戻っている。
「えー……その人が前言ってた“もう一人増えるかも”な人ですかね」
「はい。ほら、宿主さんに宜しくお願いしますってご挨拶して下さい」
「挨拶」
良く良く聞くと、微かに呼吸とは違う音を含む声に宿主は口元を引き攣らせた。
向けられた鈍色は透き通ってはいるが何処か無機物感があり、瞬きの少ない瞳がそれを助長する。少し身じろいだだけで獣を思わせるしなやかな体が、アスタルニアでは普通の筈の褐色の肌を全く違うものへと変えていた。
武器や防具など一切身に着けていないのに、一切荒事に縁のない身でも圧倒的強者だと分かる。宿主がそう感じたのはジルやイレヴンに続き三人目だった。
「宜しく、お願いします」
「あ、もうしっかり手綱受け取り済みなんですね宜しくお願いします」
促されるままにペコリと下げられた頭と、隣でほのほのとそれを見守る穏やかな微笑みに宿主は一気に冷静になった。同じように腰を折って挨拶を返す。
宿主にとってはリゼルが手綱さえ握っててくれるなら何も問題は無い。つまり何か問題が発生した場合はリゼルに泣きつけば何とでもなるからだ。
プライドなど命の前には塵芥のようなものだ。宿主は生き残る為ならばリゼルの足を舐める覚悟だって出来ている。
「あーでも前にも言いましたけど部屋は難しいんですよ」
「やっぱりですか?」
「はい。空いてるの大部屋だけなんで」
リゼルは以前、宿主にもう一部屋借りられないかと聞いて断られている。
だが、それも当然だろう。宿主の宿には一人部屋(かなり手狭になるがベッドをもう一つ入れられるので二人部屋でもある)が三つと、大部屋と呼ばれる三人部屋(同じ理由で四人部屋にもなる)が一つしかない。
「そっちは空けときたいんですよね顧客欲しいし」
「いつお客さんが入るか分からないですしね」
申し訳なさそうに告げる宿主に、リゼルは気にすることはないと微笑んだ。
この宿は決して格安とは言えず、むしろ割高だ。たまには落ち着いた宿をとって少し贅沢がしたい船乗りや、海路で訪れた旅行客が度々訪れる。陸路に比べれば海路の方が発達しているアスタルニアならではだろう。
実際リゼル達が来てから今まで、何組かの宿泊をとっていた。その度にリゼルは二度見された。
「やっぱお客さん達の部屋にベッドもう一つ入れます?」
「いえ、来るまでに聞いてみたんですけど」
リゼルが微笑み、クァトを見る。
別に無理して同じ宿でなくとも良いと、別の宿でも良いと伝えた時には彼は凄く悲しそうだった。嫌がるだろうと思っていたが一応聞いてみたのだが、予想通りの反応だ。
「床で良いみたいなので、ベッドは大丈夫です」
「客を床で寝かせる宿とか噂になったら俺が大丈夫じゃないんですけど!?」
「あ、でも毛布は借りて良いですか?」
「どうぞ!!」
もはや決定事項らしいと宿主は即行諦めた。自身に彼らの意見を変える事など出来ない。
しかし出来れば微笑みながら床で寝かせる発言は聞きたくなかった。普通ならば本人が大丈夫と言っても用意できるならベッドを用意した方が良いのではないだろうか。違うのか。
遠い目をする宿主の前では、リゼル達が和気藹々と話している。
「故郷でも床で寝てたんですよね」
「絨毯と、毛布」
「体痛くなんねぇの」
「ならない」
奴隷時代は勿論の事、群島にあるクァトの故郷でもベッドを使った覚えなど無いらしい。
リゼルも本人がそれで良いなら良いと思っている。少しだけ故郷の話も聞いたが、渓谷に張り付く様に存在した集落らしく、軽量化を重視して家具も最低限に留めていたのだろう。
「ん、でも王宮の牢にはベッドありましたよね」
「使う、無い」
ふるりと首を振ったクァトは、特に使いたいとも思わなかったのだろう。馴染みが無いのならそんなものだ。
「なら誰と一緒の部屋が良いですか?」
「!?」
「何で選択肢あんの?」
「一応、と思って」
そんな会話を、宿主は遠い目をしたまま聞いていた。
いや聞こえていない。牢屋とか聞こえていない。そういえばリゼル達は誰かの尋問が終わったと聞いて宿を出て行って、そして一人連れて帰って来て、それはつまり、なんて事実には決して気付いてなどいない。怖い。
「(まぁ……貴族なお客さん居るし……それ以上に怖そうなの二人いるし……)」
それだけを心の支えに、彼は後で毛布を用意しておかなければと現実逃避するように考えていた。
クァトは、ベッドを背もたれに床に胡坐をかいて座っていた。
顔はほかほかと火照っていて、酷く満足げだ。初めて入った風呂は大層気持ちよく、全身の筋肉が解れていくようだった。魔力が無いお陰でシャワーが使えないと最初にリゼルが気付いてくれて、暫く出っぱなしの状態にしておいてくれた。
夜露を纏う刃のように、常より艶の増した濡れた髪をがしがしとタオルで拭っていく。そのままにしようとしたら、リゼルに拭く様に言われたからだ。
「ぷは」
一気に拭い、天井を見上げて息を吐く。
夕食も美味しくて、いっぱい食べて、交わされる会話に時々混じって、お風呂に入って、クァトは今満足感に浸っていた。奴隷と呼ばれていた時も不自由は無いと思っていたが、今となれば本当にただ不自由が無かっただけなんだと謎の感心さえしてしまう。
「気持ちよかったですか?」
「気持ちよかった」
書き物用の机にある椅子に腰かけて本を読んでいたリゼルが此方を見下ろすのに、目元を緩める。
これが、何より幸せ。穏やかな視線が此方を向いていて、語りかけてくれる。許されればこれが失われるというなら、一生許されなくて良い。
許されて無かった事にされてしまう事が、何より恐ろしいのだから。
「眠かったら先に寝てて下さい」
「貴方、寝ない?」
「もう少し読んでから寝ます。明日も早いし、俺もすぐ寝ますよ」
優しく微笑まれ、クァトはきゅうと目を細めた。
それが眠気からの仕草だと思ったのだろう、リゼルが立ち上がり部屋を照らすランプを消す。後に残るのは机の上で本を照らしている、リゼルの魔法の光だけだった。
そうすると、クァトもどうやら自分は眠たかったようだと気付く。宿主が持ってきた毛布はリゼルのベッドの上に畳まれて置かれていて、ずるずるとそれを引き寄せた。
「毛布、足りなくないですか?」
「大丈夫」
「そうですか」
暗くなった部屋では、不思議と先ほどより声が響くような気がした。
少しだけ小声になったクァトに可笑しそうなリゼルの、その静かな笑い声が耳を擽る。それに眠気が増した気がしたが、それは随分と心地が良かった。
その心地のまま寝てしまおうと、ごそごそと毛布に包まるクァトの髪にふいに優しい感触が触れる。
「おやすみなさい」
指先はまだ少し湿った髪を二、三度梳いて離れて行った。
無意識に目で追った指と、背。リゼルは直ぐに机に戻り読書を再開する。
「……」
零れた声が何と言ったかは、不思議とクァトにも分からなかった。或いは何も言っていないのかもしれない。
何だか凄く眠くて、クァトはベッドの直ぐ傍でごろりと寝ころんだ。もぞもぞと足で体の下敷きにしている毛布の皺を伸ばし、背を丸めてようやく落ち着いたように深く息を吐く。
落ちる瞼に逆らう事無く、沈んでいく意識に身を任せる。しかし完全に眠りに落ちる直前、その唇が薄っすらと開かれた。
「おやすみ、なさい」
この部屋の明かりが完全になくなる頃、もう一度髪を撫でる手があった事をクァトは知らない。