作品タイトル不明
122:割と自業自得
それは宿主による労りという名の、労りの欠片も無い肉御膳を三人が食べ終えた日のことだ。
やはり少し辛いものがある、とリゼルは苦笑しながら風呂上がりの脱衣所から出た。肉ばかりとはいえ、それなりに食べやすく調理してあったのも幾つかあったのが救いだ。
いまだ水滴の落ちる髪を拭きながら宿内を歩く。そして食堂の前を通りがかった時、ふと開いた扉から中が見えた。
「(あ)」
何となくそろそろと近付いてみて、中を覗き込む。
そこには酒を飲み交わしているジルとイレヴンが居た。酔っている様子は無いが、彼らは酒に強いのでどれくらい飲んでいるかは分からない。
食後、重くなった胃を休めてから風呂に行ったので今はもう遅い時間だ。晩酌だろうかと思っていると、ふいに二人の目が此方を向いた。
「なーに見てんスか、リーダー」
「どうした」
「いえ、何となく」
くしゃり、と髪をタオルで拭いながら食堂内を見ると宿主の姿は無い。
恐らくもう寝たのだろう。客が起きているからと付き合う義理は無く、むしろ夜は食堂を閉めてしまう宿も多い。
だがジル達が晩酌を始めた時にはいたらしく、机の上には宿主が良く出すツマミが置いてあった。怖がっている割に面倒見の良いことだと感心しているリゼルは、宿主がツマミを作る度に渡されるツマミ代を臨時収入として美味しく思っていることを知らない。
「来んなら来い」
「じゃあ、そうします。服だけ置いて来ますね」
机に肘をついて顎を乗せているイレヴンにひらひらと手を振られ、微笑んで返す。
飲めはしないが、晩酌に付き合う事は度々あった。ただ、大抵が自分かジルの部屋なので食堂で夜を過ごすことは滅多にない。
あれだけ夕飯を食べて良くまだ入るものだと、そう思いながら鍵のかかっていない扉を開けた。取り敢えず、と椅子の背に服をかけて髪を拭く。また風邪を引いては大変だ。
「ふぅ」
そろそろ大丈夫かと手を止め、内に籠る熱を散らすように上を仰ぎながら息を吐く。
乱れた髪を手櫛で軽く整え、一つだけ開けていたシャツのボタンを閉じた。そしてタオルを持ったまま部屋を出る。
階段を下り、一度食堂を通り過ぎて先ほどまで居た脱衣所へ向かい、中にある籠にタオルを入れる。その籠に入れておいたものは全て、翌朝に宿主が洗っておいてくれる。
そして来た道を戻り、薄暗い宿内に明かりを零す食堂へと足を踏み入れた。
「あ、来た」
機嫌の良さそうな声を上げたイレヴンが、来い来いとリゼルを手招く。
隣の席までずりずりと引かれてしまえば行かない訳には行かず、可笑しそうに笑いながらリゼルは引かれた席に腰掛けた。
「お相伴にあずかりますね」
「ん」
「有難うございます」
向かい側のジルから差し出されたのは冷たいお茶で、それを有難く受け取る。
風呂上がりの冷たい飲み物は良いものだ。一気に半分ほど飲み干し、リゼルははふりと息を吐いた。
「何飲んでるんですか?」
「群島の地酒。何つったっけ、“ 竜殺し(ベオウルフ) ”?」
「合ってる」
「へぇ」
イレヴンにより渡された酒瓶には、まだ半分程の酒が残っている。
名前のイメージ的に随分と強そうな酒だ。瓶の口に顔を近付けると、あまり馴染みのない独特な香りがした。
色んな酒を見つけて来るものだと、机に瓶を置こうとして止まる。ジルの前に置かれている小さなグラス、その中身が少ないからと瓶の口をそちらに向け差し出してみた。
ため息をつかれながら持ち上げられたそれに、そろそろと瓶の中身を注ぐ。澄み切った透明な酒だった。
「あ、ずる。俺も俺も」
「その飲み方いいんですか?」
残る酒をぐっと飲み干すイレヴンにリゼルが苦笑した。
そんな飲み方をする酒では無いだろうに。飲めない身からすれば大丈夫なのかと思ってしまう。
そして差し出されたグラスに零さないよう注ぐと、イレヴンは満足そうに飲み始めた。今度はきちんと一口ずつ味わっている。
「美味しいですか?」
「リーダーも飲む?」
「おい」
顔を顰めたジルに止められ、冗談冗談とイレヴンはからから笑った。
それに対して割と本気だったよなぁとリゼルも微笑み、改めて丁重に断る。折角ベッド生活から解放されたばかりだ、二日酔いで再びベッドの上というのは避けたい。
「そういう群島のお酒って貴重じゃないんですか?」
「少ねぇは少ねぇな。つっても出回らない程でも無ぇだろ」
「腐るもんでも無ぇし、結構入って来んじゃねッスか」
酒専門店で探せば一つ二つはある、と言う二人にリゼルは少なからず意外に思う。
酒場で良く話す作業員たちからは、なかなか手が出ないと聞いていた。少ないというのは本当らしいし、あれは値段的な意味だったのかもしれない。
どんなに希少だろうと“不味い酒に金は積まない”と宣言している二人なので、今飲んでいるのはきちんと美味しいのだろう。何よりだ。
「そういや今日、何か依頼受けて来た?」
「いえ、ちょっと覗いただけです」
椅子を少し下げ、やや体を此方へ向けながらイレヴンが言う。
これで受けたと言えば二人は何も思わず明日の予定を同じものに決めるのだろう。しかしどうしても受けたいものも無かったので受けなかったと、リゼルはそれを否定する。
「居ねぇと思ったらギルド行ってたのか」
「何かありました?」
「無ぇけど」
平然とした返事は、本当に用事があった訳では無さそうだった。ならば良かったと、リゼルは少しだけ氷が融け始めたお茶を飲む。
「今日しゃべってたのってアレじゃん。魔法使い?」
「そう、魔法使いトークです」
「分かんねー」
笑いながら酒を飲むイレヴンは、そのまま残り少ないツマミへと手を伸ばした。
一つだけ、と言いたい所だがリゼルの胃は未だに重い。諦めることにする。
「イレヴンだって魔法は使えるでしょう?」
「遊び程度じゃねッスか。戦力にはなんねぇもん」
無理無理、と告げるイレヴンにリゼルもまぁそうかと頷いた。
魔力量が少ないイレヴンじゃ、どう工夫しても剣で斬った方が早いし強い。剣の腕が並外れているから一層そう感じるのだろう、本人も魔法に関しては特別練習する気はなさそうだ。
「てめぇ手合わせの時に使ってくんじゃねぇか」
「隙作れればラッキー程度じゃん」
「そういえば攻撃っぽいのは見たこと無いですね」
イレヴンが手合わせの時に、影での足止めなどの魔法を使っているのをリゼルも見た事がある。大抵が開始直後なのは、戦っている最中に魔法に集中するのが難しいのだろう。
リゼルが戦闘中でも何でも雑談しながら使っている所為で、イレヴンが自分で魔法を使おうとする度に多大なる手間を感じていることなど知る由も無かった。
「弱ぇしニィサンにはほとんど意味無ぇけど、コンマ一秒止めれりゃ大成功」
「そうなんですか?」
リゼルにはコンマ一秒の世界が良く分からない。
「だぁって足止めしても普通に歩いて来るんスもん、この人」
「流石に支配者さんの時はちょっと動きづらそうにしてましたけど」
二人にじっと見られたジルが、動けるものは動けるのだから良いだろうと眉を寄せる。
そのまま一口酒を飲む姿を、リゼルはじっと見続けた。グラスに口を付けながら目で何だと問いかけられるが流し、見比べるようにイレヴンを向く。
「イレヴンの場合は、純粋に魔力不足っていうのもあると思います。ジルの方が魔力自体は多いですし」
「使えねぇのに多いとか勿体ねぇー」
「うるせぇ」
ジルとて唯人として平均的な魔力は持っているのだから、獣人であるイレヴンよりは多い。勿論唯人より魔力の多い獣人もいるのだが、それでも平均よりは少し上程度だ。
当然その逆も然りで、どちらにせよ支配者の魔法に抵抗できるジルは規格外としか言いようがない。
「じゃあエルフには魔法効かねぇってこと?」
「攻撃魔法に対して軽傷でいられるって事は無いですよ。俺だってそうでしょう?」
「お前に魔法浴びさせたことなんざ無ぇだろ」
「例えばの話です、例えば」
呆れたように告げるジルに、リゼルはほのほのと笑う。
「ただ、やっぱり拘束とか催眠系とかは効かないんじゃないでしょうか。魔力の差があり過ぎますし」
「じゃあ強化系は?」
「それも効きにくいと思います」
「ふーん。まぁあいつらじゃ効いてもイミ無ぇけど」
そう都合良くはいかないのかと、イレヴンはギシリと音を鳴らしながら椅子に凭れた。
強化魔法など、元の能力が高くないと意味は無い。エルフの細腕を思えば強化魔法をかけたとしても、例えば腕相撲ならばリゼルにも勝てはしない。
リゼルにしてみればジルとイレヴンには問題なくかけられるのだから、それで十分だろう。今の所出番は綱引きの時の一度だけだが。
「自分で自分にかけんのも?」
「それは……有りですね。ただ彼女達の体質が俺達と違う可能性もあるので、絶対とは言えないですけど」
自らに強化魔法をかけて好き放題していた元教え子のことを思い出し、リゼルは頷いた。
城を脱走する時に使っては最上階の窓から飛び出したり、高い城壁を乗り越えて行ったりしたのを良く覚えている。リゼル的にはやる事さえやってあれば何も問題は無いので気にしない。
「やっぱ完全に魔法効かねぇとか無ぇか」
「“ 底なしの宝箱(ブラックホール) ”とかいんだろ」
「魔物は別枠ー。あれって食われるとどうなんの?」
「知らねぇ」
そういえば一度、宝箱を開けようとした時に後ろからジルがそれを蹴り潰したことがあった。魔物、と一言告げられ納得したがアレの事だったのだろうか。
少しだけ気になりながらも、しかしリゼルは問いかけることなく微笑んだ。
「いえ、いますよ。魔法効かない人達」
「へぇ、そんなん居んスか」
全く初耳だと反応を返すイレヴンに対し、ジルはそういえば何時かそんな事を言っていたような気がすると腕を組む。思い出そうとしたが無理だった、恐らく話半分に流していた時にでも聞いたのだろう。
「群島の何処かに居る民族で、魔力を持たない代わりに魔力の影響も一切受けないんです」
「何で?」
「それは分からないですけど」
リゼルも色々と考えているが、未だにその理屈は良く分からない。
そもそも生き物ならば誰もが持つ魔力を、彼らは持たない。アリムの書庫で読んだ古く希少な本で彼らの存在を知ったのだが、それにも何故かは書いていなかった。
「でも、納得じゃないですか?」
「何が」
「魔力の影響を受けない存在がいること。俺達はもう、エルフに会ってますし」
一瞬ジル達は話が飛んだかと思ったが、しかし直後その考えを却下する。リゼルはその思考力で一から十まで一瞬で考えが及ぶが、それを無意識に行い過ぎて過程を意識しない事があった。
勿論丁寧に説明しようと思えば出来るのだが、それをしないという事は思ったことをそのまま口に出しているという事なのだろう。そう思えばジル達も特に不快になど思わない。
「どゆこと?」
「だって彼女達は本当に存在していて、しかもあんなに強大な力を持っていて、なのにただ凄い人達だって語り継がれてるだけですよ?」
伝説上の存在だと語られるエルフに対して、大体が皆似たようなイメージを持っている。
とにかく美人で、魔法も魔力も強い。まるで物語の中のような種族だったと、憧れ半分に絵本や小説の題材にされたりしている。
しかし、それだけだ。唯人と獣人のような種族としての区別をされているだけで、圧倒的な存在であった筈の彼女らは何事も無く今も平穏おっとりと暮らしている。
「あー……だからか」
「え、俺分かんねぇ」
納得したように頷いたジルに、イレヴンは答えを促すようにリゼルを見た。
リゼルは自身の説明不足に気付いたが、しかしジルが納得したのならば出来るだろうと微笑むだけで返す。イレヴンはぐっと口を噤み、不貞腐れたように口に運んだグラスを齧った。
「……ヒント」
「そうですね……エルフの方達って、やろうと思えば指先一つで街ぐらい消せるじゃないですか」
「そういやそうか。今思うと凄ぇッスね」
「ですよね。でも、そんな種族がいれば特別扱いしたくなっちゃいます」
しかし恐れも無く崇拝も無く、排他の動きも支配層となった記録も一切無い。
実際にエルフと知り合って話してみても、長寿である彼女達がそういった話をした事もなかった。むしろ至って普通に隣人のように関わり合っていたというのだから、平穏を好む彼女達は至って普通に平穏な暮らしを送って来れたのだろう。
「あ、分かったかも」
ふいにイレヴンが、椅子の背に仰け反るように天井を見上げた。
考えを整理しているのだろう。んー、と唸る様に零す姿にリゼルは可笑しそうに笑い、ゆっくりとその答えを待つ。
待つこと数秒、反らした背はゆっくりと戻された。
「対抗勢力っつーこと?」
「正解です」
ようは、圧倒的な筈のエルフに対抗できる者達がいるから敵わぬ脅威とみなされる事は無かった。それだけの事だ。
リゼルは褒めるように手を伸ばし、横からくしゃりと鮮やかな赤い髪を撫でる。それに満足そうに目を細めたイレヴンが、もっと撫でろと言う様に体を傾け掌へと摺り寄って来た。
「さっき君が言ってた通り、エルフも魔法が無ければ華奢な女性に変わりありません」
それに応え数度髪を梳いてやりながら、ゆったりと笑みを深める。
「過去に最強と呼ばれた戦闘民族なら、十分な対抗勢力でしょう?」
ジルとイレヴンの視線が、すっとリゼルを見据えた。
何処か好戦的なそれに苦笑し、撫でていた手をゆっくりと下ろす。リゼルも冒険者として強さを求めない訳では無いが、強者相手なら普通に戦闘は避けたい。
直ぐに撫でた手が降ろされたことへの不満を示すようにわざとらしく視線を逸らしたイレヴンとは違い、先を促すようなジルの視線に微笑んだ。
「残念。今はもう狩りをしながら暮らす穏やかな民族みたいです」
「そりゃ残念だ」
鼻で笑うジルに可笑しそうに笑いながら、リゼルは手に持つグラスをくるりと回した。ほとんど融けた氷が音も無く水面を滑る。
彼らについて書かれていた本は大体八十年前のものだったか。恐らく今もその暮らしぶりは変わっていないだろう。
「ただ魔物狩りをして暮らしてるみたいですし、実力は確かなんでしょうね」
「冒険者みたいなもん?」
「そうかもしれません。あれ、群島って冒険者ギルドありましたっけ」
「無ぇ」
魔力が無いゆえに町中での暮らしは逆に不便なのか、民族で独自の集落を作って暮らしていると書いてあった。特別閉鎖的という訳でも無さそうなので、ギルドが無いならば冒険者じみた事を請け負うこともあったかもしれない。
「でもさァ、魔法効かなけりゃ最強って無理矢理じゃねッスか。つか何、ニィサンの親戚?」
「群島に親戚いねぇよ」
アホかと言わんばかりに返しているジルの親戚はというと、彼の故郷で元気に暮らしている。
「勿論武芸に秀でてる人達ですよ。魔法どころか、大抵の剣も効かないみたいですし」
「剣が効かねぇって、どう」
言いかけたイレヴンが、ふと言葉を切り口元を引き攣らせた。
そのような人物に、酷く心当たりがある。しかも最近。自ら剣を向け斬り付けたのだから忘れようもない。
気だるそうに頬杖をついていた頬を少し浮かし、視線だけをゆるゆると隣へと向けた。返されたのは、ゆるりと首を傾けながら浮かべられた柔らかく品のある微笑み。
「初めての戦闘らしい戦闘が君とだなんて、可哀想でしたね」
「ッだよやっぱじゃん!!」
イレヴンは投げやりに声を上げ、ジルは呆れたようにため息をついた。
「どうなってんだ、アレ」
「さぁ。体質、としか言いようが無いと思います。触った感じは普通だし、不思議ですよね」
「剣とか生えてたけど。あれマジ?」
「まじです」
変な民族もいるものだと、過去に最強の名を欲しいままにした者たち相手に身も蓋もない事をジルとイレヴンは思う。
別に彼ら二人にとってはどうでも良いのだ。剣が生えようと花が生えようと、重要なのは唯一人に対して害になるかどうかなのだから。
「家に帰してあげたいんですけど、本には故郷の場所が載ってなくて」
「ハァ?」
名前も思い出したようだし何か他に思い出してないかと、そう思いながらあっさりと告げたリゼルに声を上げたのは不満を露わにするイレヴンだった。
それが何故かなど分からない筈が無く、そして何によるかを気付かない程にリゼルは鈍くない。嬉しいことだと笑みを浮かべ、しかし発言を撤回する気は無かった。
「リーダーがそこまでする義理あんスか」
「引き抜くだけ引き抜いて放置って最低だと思うんです」
「でも怒ってたじゃん」
イレヴンが椅子から身を乗り出し、ぐっと顔を近付けて来る。
まるで挑発するように、少しの隙も見逃さないというように、眼前にある瞳孔がきゅぅと絞られた。
「あいつが無関係? じょぉーだん。怒ったんなら許してんじゃねぇよ」
獲物を貪る瞬間の捕食者は、きっとこんな笑みを浮かべるのだろう。
リゼルはそう微笑みながら静かに目を閉じ、そしてゆっくりと開く。微かに頤を上げて首を傾けてみせれば、目の前の細く絞られた瞳孔が僅かに緩んだ。
「イレヴン」
視線を離さず、名前を呼ぶ。
その声に、真っすぐ見つめる瞳が一瞬だけ揺れた。しかしイレヴンは直ぐにむっとしたように顔を起こし、しぶしぶと元の姿勢へと戻っていく。
機嫌を窺うようにチラリと向けられた視線に褒めるように笑みを浮かべながら、リゼルは何事も無かったかのように口を開いた。
「許してませんよ」
あっさりと告げ、残り少ないお茶を一口飲む。
それでもイレヴンは不満そうで、ジルはただ傍観していた。
「簡単には許せない事をしたんだから」
「……じゃあ何で甘ぇんスか」
「特別甘いつもりも無いんですけど」
引き込むだけ引き込んで、自分の為に動いてくれた者を放置するような人間に見えるのだろうかとリゼルは苦笑する。そんな責任の無い真似はしない。
だが、イレヴンが言いたいことも聞きたいことも分かる。酒の席で理屈っぽい事を言うのも申し訳ない気がするが、何とか納得して貰わなければ。
「彼がした事を許さないのと、彼を許さないのはイコールじゃないんです」
「何で?」
「だって、もうしないでしょうから」
リゼルは確信を持ち、にこりと笑う。
「元々命令されるままに動いただけで、そこに彼の意志は無かった。奪おうと思ったのなら許す気はありませんが、そうじゃないなら別に良いんです」
ジルもイレヴンも、実際にリゼルが何に対して怒ったのかは知らなかった。
しかし予想はしていたし、その予想が間違っているとは思っていない。そして今、“奪う”の言葉に予想は確信となり二人の視線がリゼルの耳元へと向かう。
静かながら存在を主張するピアスは、唯々リゼルの為に其処にあった。
「二度と奪おうとしないなら、許せない事を二度としないなら、もう怒る理由なんて無いでしょう?」
罪を憎んで人を憎まず、などという綺麗事ではない。
一歩間違えれば無感情だと思われるような、無関心だと思われるような言い方に他ならない。
「それが出来りゃ苦労しねぇんスよ」
「お前が良いなら良いんじゃねぇの」
しかしブスリと不貞腐れるイレヴンも、自分が口を出す事でも無いと酒を飲むジルも、そうでは無い事を知っている。
一切感情に振り回されない思考を以って出した結論は同情も哀れみも無く、ただ事実だけがありいっそ潔い。リゼルは気にしないと言ったら本当に気にしないのだ。
「俺ん時はジャッジが嫌っつったらダメとか言った癖に」
ブツブツと呟きながらイレヴンがグラスを差し出して来たので、リゼルは微笑みながら酒瓶を引き寄せた。大分軽くなって来たそれを持ち上げ、傾けて注いでやる。
あまり飲み過ぎて以前のように翌朝潰れてしまっては困るが、平気そうにしているのでまだ大丈夫なのだろう。
「別に彼はパーティ入りする訳じゃないし、良いじゃないですか」
「そうだけどさァ」
「てめぇ良く覚えてんな」
「俺すげぇショックだったし」
若干楽しんでいたような気もするけど、と思いながらリゼルはジャッジの顔を思い浮かべた。
ふにゃふにゃと幸せそうに笑う姿に、元気でいるだろうかと最近受け取った手紙の内容を顧みながら考える。誘拐されたなどと告げたら失神しそうだ。
「それにジャッジ君は良い子だし、嫌なんて言いませんよ」
「すっげぇ渋ってたじゃん! リーダーあいつに夢見すぎじゃねぇの?」
「あっちのが夢見てんだろ」
惜しみなくリゼルを貴族扱いするジャッジは、本来ならば本当に貴族だなどとは知らない筈だ。なのに相応の扱いじゃなければ許さないというのだから、ジルの言葉にイレヴンは確かにと頷くしかない。
鋭い観察眼と言えば聞こえは良いが、ジルもイレヴンもあれはただの趣味じゃないかと最近は思っている。尽くしたがりが尽くすに値する人間に出会えたようで何よりだ。
「いつも一生懸命だし、可愛いじゃないですか」
「前キレたあいつに話聞けっつって机ぶっ叩かれたんスけど」
「そんな乱暴なことしませんよ」
苦笑するリゼルに、バレたかと言うようにイレヴンは唇の端を持ち上げる。
実際は 魔鉱国(カヴァーナ) に行く前、イレヴンを通してリゼルに尽くそうと尽くし方講座を開くも聞いて貰えなかったジャッジが、「聞いてってば……!」と言いながら机の上のメモ帳をぺしぺししていただけだ。
「そもそも誘拐した癖に調子良いっつーの? 此処にジャッジがいたら泣いて反対すんじゃねッスか」
「てめぇなんか殺しに来てたじゃねぇか」
「そうだけど」
「しかも脳天ですよ、脳天」
「そうだけど」
だって余裕を崩してやりたかったし、とイレヴンは悪びれずに言った。
反省していない訳では無く、ただリゼルのように割り切っているだけだ。もしその点に関してリゼルが怒れば殺されそうになろうと抵抗しないと決めているが、そうでないなら気にする事でも無い。
「でも俺は自力で凄ぇ売り込んだじゃん。あっさり甘やかされてんの見るとムカツクんスよ」
「すみません」
「リーダーにじゃねぇし」
謝られ、イレヴンは少しだけバツが悪そうに視線を逸らす。
逸らした先にジルがいて、呆れたように見られる。子供臭いことを言っていると自覚はあるが、隠す気も無い本音なのだから良いだろうと開き直り睨むように視線を返した。
「そうですね……」
ふとリゼルが呟いた。
「確かに負い目がある分、気を回している所はあるんです。多分イレヴンが引っかかってるのはそこなんでしょうね」
「負い目? リーダーが?」
「はい」
珍しい事もあるものだと、そんな視線を二人に向けられリゼルは苦笑する。
地下通路で今はまだ秘密と言ったが、聞かなければ納得が出来ないというなら隠すつもりもなかった。
「俺が彼を、奴隷のまま縛っちゃったので」
「元々奴隷だったんだろうが」
「それが一度、洗脳も刷り込みも真っ白になったんです。陛下の魔力が、彼を縛るもの全てを掻き消した」
魔力の影響を受けない筈のクァトが、しかし全てを薙ぎ払う魔力の衝撃によって余分なもの全てを取り払われた。
その時がチャンスだったのだ、クァトが奴隷から人に戻る為の。あの時に教えてあげれば彼は奴隷から完全に解放されただろう。
「でも怒ってたし信者さんが錯乱してて暇も無かったしで、そうしてあげられなかったんです」
「そいつの自業自得だろ」
「本人嬉しそうだし良いんじゃねぇの?」
そう言われるとそうなのだが。
奴隷のままだから嬉しそうなのだと言いたいが、人になったクァトも同じように喜びそうなので何とも言えない。クァトの従順な性質は恐らく生来のものだ。
しかし奴隷としてそう思うのと人として思うのとでは全く違う。どちらも本人の意思だとしても。
「当初の目的が、彼を奴隷から人にする事だったんです。引き入れる為にはそれが最低条件でしたし」
「じゃあもう良いじゃん」
「違いますよ。だから、なんです」
「何で?」
普通に問われた。無償の善意だと思って貰えないあたりが少し寂しい。
「……お前な」
ふいに、ジルは一つため息をついた。
肘をついた手で持ち上げているグラスが、コトリと机の上に置かれる。
「怒ったの恥ずかしいからって無かった事にしようとしてんじゃねぇよ」
「は?」
イレヴンがリゼルを見た。
リゼルは困ったように微笑んだ。
ジルはそれを見て鼻で笑った。
「あっ、そういや地下で恥ずかしいとか言ってたッスね」
「良い年して割と本気で怒ったのが地味に恥ずかしいです」
「悪ィことでも無ぇのに気にしすぎだろ」
恥ずかしげも無く恥ずかしいと言い放つリゼルは、確実に感情を荒らげる事を控えたがる貴族社会の人間だった。
ただクァトを人に戻したいというのは本心だ。 戦奴隷(ソードダンサー) という存在の尊厳を貶めてしまったのは、例え本人が気にしていなくともリゼルにとっては放って置ける事ではない。
「あー、でも何か納得した」
「良かったです」
気を抜いたように言うイレヴンに、リゼルは微笑む。
取り敢えずクァトを故郷に帰すことに関しての反対は無くなったようだ。宿主に一部屋空くか相談しないと、と思いながらリゼルはお茶の最後の一口を飲み干した。
クァトへの聴取が終われば知らせてくれるとアリムが言っていたので、今すぐに必要という訳でも無い。急ぐことも無いだろう。
「仲良くしろって言って仲良く出来るものでも無いし、やり過ぎなければ好きにして下さい」
「そんなら楽だけど」
置いたグラスから離した手が、イレヴンの指先に遊ばれる。
少しだけ機嫌が良くなった様子に良かった良かったと安心し、そしてジルを見た。
「どうですか?」
ジルは知っている。自分が、あるいはイレヴンがそれでも本気で嫌だと言えばリゼルはクァトを人に戻そうなどとはしない。
奴隷のまま、相手を悲しませる事なく自然に優しく故郷に送り出す。それで終わりだ。
「好きにしろ」
しかし、リゼルもジル達がそう言わない事を知っている。好きなようにしろというその言葉に、嘘偽りなど何時だって無いのだから。
リゼルは微笑みを柔らかく深め、ジルによって差し出されたグラスに酒を注いだ。酒瓶は後少しで空になりそうだ。
「そういえば、普段二人で飲むときは互いに注いでるんですか?」
「な訳ねぇだろ」
「手酌ッスよ手酌」
心底呆れられると、どことなく釈然としないものがある。
クァトは冷たい石畳に敷かれている布の上で胡坐をかき、朝日を浴びながらぼうっとしていた。
絨毯代わりの布は厚く、全体に刺繍が施されている。冷たい床に座っているよりはずっと暖かく、壁際の高い位置にある小窓から差し込む光にもあたれるのでお気に入りの場所だった。
この場には少し小さいが簡単なベッドも、机と椅子もある。しかし慣れているし落ち着くので、クァトは床に座って絨毯の刺繍を眺めたりしながら過ごしている。
「(生まれた、所……)」
少しずつ、奴隷になる前のことも思い出していた。
一番初めに思い出したのは、戦奴隷としての本能。次に、自分の名前。クァト、と自分を呼んだ優しくて心を従えるような声は今でも鮮明に耳に残っている。
「(……、……故郷)」
どんな所だっただろうかと、彼はうーんと背をそらすように石の天井を見上げる。
奴隷でいた頃は思い浮かべもしなかったし、それが当然だった。それがいきなり思い出そうとしても上手くいかない。何せ十年以上も前の事でもある。
でも、とクァトは鈍色の瞳を閉じた。
『故郷のこと、何か思い出したら教えて下さいね』
此処へと来る前に幾つか告げられた約束事の最後に、そう付け加えられたのだから。
約束事は、簡単だ。暫く拘束されるが抵抗しないこと、質問をされたら何でも答えること、ただしどうしても嫌だと思ったら答えなくて良いこと。
痛い事とか辛い事をされそうになったら、相手を傷つけないように抵抗して良い。出来るかどうか分からないけれど、“出来るでしょう”と微笑まれたのだから出来るのだろう。
「(嫌、無い)」
パチリと瞳を開き、ひとつ頷く。
されて嫌な質問はされていないし、此処を訪れる虎の獣人に痛いことなどされていない。時々ここを訪れて質問していく布の塊は、見る度にビクッとしてしまうが。
食事も一日三回出るし、寝たことなど無いベッドはとても柔らかい。実際は少し硬いぐらいのベッドなのだろうが、クァトにしてみれば充分柔らかかった。
「故郷、故郷」
脱線しかけた思考を、目的を呟くことで引き戻す。
思えば、地下通路で囚われていた時からリゼルはクァトの故郷を聞きたがっていた。なら、頑張って思い出さなければと眉を寄せる。
「(…………泉)」
ふと、一つの情景が思い浮かんだ。まだ小さかった頃の記憶だ。
そこは渓谷の底で、見上げると空には満月があった。その空を切り取るように伸びた渓谷の間から、月明かりが真っすぐ自分へと降り注いでいたような気がした。
「(親……?)」
記憶の中でぎゅっと自分の両手を握り締めていた男女は、そう、両親だ。
キラキラと、月の光が降る光景に上を見上げていたクァトを促した。月明かりの真下にあったのは小さな湖だ。青く澄んだ湖は満月を映し、月明かりを空に返すように神秘的に煌いていて凄く綺麗だった。
「(湖、入った)」
子供の腰ほどの深さだったのだから、あまり深くは無かったのだろう。肩まで浸かるよう言われて、湖の底に小さく胡坐をかいて座った。
音の無い夜だと言うのに、光が降り注ぐ音が聞こえた気がした。少し俯いて唇を水面に寄せた時、視界が優しい光に満たされ酷く落ち着いた覚えがある。
「似てる」
小さく呟き、そして微かに笑む。
しかし、何故自分はあんな所にいたのだろう。クァトはうんうんと悩みながら、湖から記憶を遡っていく。
「(…………入れ墨)」
ふと、自らの褐色の肌に刻まれた入れ墨が目に入った。
そうだ、と一つ瞬く。あの泉には、入れ墨を入れに行ったのだった。
何かの植物とか、何かの鉱石とか、良く覚えていないが色々なものを混ぜたものを体に塗る。それは満月の日ではないといけなくて、その日の夜に泉に入ると塗ったところが入れ墨になる。
「(これ、喜ぶ)」
多分、こういうのは喜ぶだろうとクァトは一つ頷いた。
他に何か思い出せないかと、必死に記憶を掘り起こす。
「(母親……?)」
確か、母親が入れ墨を描いた。それが決まりだったかは分からない。
何だか思い返してみると、ちょっと失敗したとか言われた気がする。そんな馬鹿な。これは内緒にさせて貰おうと、一人こっそり決意した。
一つを思い出すと数珠繋がりに色々と思い出すものだ。クァトは差し込む光に背中がぽかぽかして眠くなるのを感じたが、折角思い出してきているのだからと鈍色の髪を振って眠気を飛ばす。
「(家)」
入れ墨を描いて貰っていた時の記憶は、家の中だった。
そう、家は確か渓谷の中にあった。壁に張り付くように足場が組まれ、その上に家があった。
家と家をつなぐ様に組まれた足場は村中を繋いでいて、上の階への梯子があったり小さな橋があったりした。広くはない渓谷だったから、向かい側にも村はあって幾つもの吊り橋で繋がっていた。
「(川、と、荒野)」
渓谷の底には緩やかな川があって、渓谷の上はひび割れた荒野だった。
よく荒野に上がって遊んでいた気がする。同じような小さな渓谷があそこには幾つもあって、泉もその中の一つにあった筈だ。場所は覚えていない。
「(…………舟?)」
村以外の記憶は曖昧だ。
初めて父親について魔物を色々なものに交換する為に、人がたくさんいる町に行った。荒野を歩き、途中で舟に乗った気がする。そこも小さな村だったか。
それで気付くと町についていた。はぐれないようについて来いと言われ、父親の後ろをついて歩き、そう、港も歩いた。
「大きな船」
パチリと目を瞬き、思い出した。
そこで見た事もない大きな船を見たのだ。大きな白い帆は太陽の光を取り込み大きな影を作り出し、真上にあった船首も遥か高い位置にある。
それに物凄く感動したクァトは父親の言い付けを破り、勝手に舟に上がり込み、そして停泊中だというのに滅茶苦茶酔った。そして隅っこで丸まって休んでいたら、いつの間にか出航していた。
『無断侵入の上に無賃乗船か、恐れ入る』
それが支配者による群島の魔物調査船だった。せせら笑われた。
気が付いたら目的地までついていて、色々あって魔法が効かないことを知られて、船代分は働いて返せと言われてサルスまで連れていかれて、言われた通りに働いていたらいつの間にか今の状態になった。
「(多分、いらない)」
ここら辺には恐らく興味がないだろうと、クァトは思考を打ち切る。
そういえば船代は返せたのだろうか。そう大した事をした覚えは無いが、返すことが出来ていれば良い。
「おい、飯だぞ」
ふいに声をかけられ、顔を上げる。
檻の向こう側には食事を手にした虎の獣人がいた。良い匂いが漂ってきたのを感じ、クァトは色々と思い出す作業を一時中断する。
今日は色々と思い出せた。教えたら喜んでもらえるだろうか。
「(待つ。……来て)」
迎えに行くまで待っていて、と言われた。だから、クァトに出来るのはずっと待つ事だけだ。
クァトは手を差し伸べてくれる清廉な姿を思い描いてほっこりとしながら、置かれた食事へと手を伸ばした。