作品タイトル不明
120:二人に凄く甘やかされた(再)
アスタルニアの白亜の王宮にある書庫の一番奥に、ひっそりとその扉はある。
その扉を潜った先にあるのは余りにも書庫から出ないアリムの為の生活スペースで、特別広くはないものの王族が使うことを想定されて作られていた。備え付けのベッドは美しい刺繍の施された布が惜しみなく装飾に使われ、最上級の寝心地を味わう事が出来るものだ。
「はぁ……」
そのふかふかのベッドに体を預けながら、リゼルははふはふと体調不良と戦っていた。
「さっぱりです」
「そりゃ良かった」
熱い頬を冷やすようにリゼルはサラリとした感触の枕に頬を滑らせ、傍に腰掛けるジルへと向いた。
蒸しタオルで丁寧に拭われた髪はしっかりと水気を拭われ、枕の上をするりと滑る。見上げた先のジルは枕元に置いた椅子に腕を組みながら座り、こちらを見下ろしていた。
「ジル」
「何だよ」
体ごとそちらを向こうと思ったが、一度落ち着いた体はなかなか動いてくれそうにない。しかし髪同様に拭って貰った体は重いだけでなく、すっきりとしているし着替えも済んでいる。
元は着替えでも何でも世話を焼かれるのが普通の身分なので、リゼルはナハスに全て丸投げした。全く仕方がないと言いながら甲斐甲斐しく世話を焼いたナハスは、流石に副隊長として事後処理に顔を出しに行っているため今はいない。
「どうした」
伸ばされた指先が、もはや薄っすらと汗ばみ始めた額をなぞる。
張り付いた前髪がどけられ、気持ち良さそうに目を細めたリゼルをジルは見下ろした。特に用がある訳では無いのだろうと、膝の上に肘をつき眺める。
「寝ろよ」
「もう少し」
吐息のように零された笑い声は、珍しく少しだけ掠れていたが静かに響く。熱に浮かされた瞳は水分を含むが知性の色を失う事なく、荒い呼吸をする唇は薄らと開いているものの力無く広げられる事はない。
体調を崩しながらも清廉さを失わない相手に、育ちが良い事でとジルは内心で呟いた。
「薬、飲んだでしょう?」
「ああ」
「ぽかぽかし過ぎて、ちょっと目が覚めちゃって」
事前に頼んでおいたお陰もあって、リゼルがベッドに入ってから直ぐにナハスはアリムにかけあって医者を用意してくれた。期待通り王宮付きの、更に普段から王族も診るような優秀な医者だ。
その医者の出した結論が“ごっつい風邪”で、安静を言いつけられ薬も出された。毎食後に飲むようにと渡されたそれはどうやらスパイスも何種類か混ぜ込まれていたようで、今のリゼルは凄くぽかぽかしている。
「その内、強い眠気が来るらしいし、それまで」
「そうか」
寝られるなら寝た方が良いとは思うが、リゼル本人もそれぐらい分かっている。自己管理が出来ない歳でも無いのだし、好きにすれば良いとジルは頷いた。
それが分かっていながら世話を焼かずにはいられない男の内の一人、ナハスは早く寝ろやら水分をとれやら暖かくしろやら色々と言い残していったが。
ぽつりぽつりと話していると、ふいにリゼルがふるりと震えた。
「寒ィの」
「んー……どっちも、でしょうか」
「暑くて寒ィ?」
「ん」
どうやら眠くなってきたようだと、ジルはぼんやりと頷くリゼルの毛布を肩まで引き上げてやる。
その手を熱を測るように薄っすらと赤い頬にあて、ゆっくりと首元へと滑らせる。汗ばんだ首筋を少しも不快に思う事なく、熱のこもった掠れた吐息を零す喉を癒すように覆った。
その喉が、コクリと上下する。
「水は?」
「……欲しいです」
落ちる瞼を耐えながら一人言のように呟かれた返事を聞きながら、ジルはサイドボードに乗っている水差しへと手を伸ばした。
襲いかかった眠気は医者の言った通り強烈なようで、やはり随分と優秀な医者だったらしい。王族相手にそれ程強い薬を扱えるという事は、そういう事だ。
「起きれるか」
「ど、うでしょう」
グラスに冷えた水を注ぎながら問いかけると、リゼルが上体を起こすようにグッと手をベッドへと押し付けた。自らの体重を支えようと力を込めた手がシーツを握りしめる。
その手が微かに震えるのを見て、ジルはグラスを持たない方の手を伸ばした。わずかに浮かんだ背に手を差し込み、薄い肩を支えながらゆっくりと起こしてやる。
「これでさっきまで動けてたんだからな」
「根性です」
大人の男一人の体重を腕一本で容易に受け止めながら、ジルは貴族も大変だとため息をついた。
先ほどまで熱があるなど感じさせない様子で動いていたし、今もやろうと思えば出来るのだと知っている。しかしジルはそれを望まず、そしてリゼルも楽な方が良いので取り繕う必要などない。
「零すなよ」
差し出された手に、ジルは静かにグラスを触れさせた。熱と薬による眠気で力の入らない手付きは見ていて危なっかしいので、そのままグラスの底は支えていてやる。
こくり、こくりと、少しずつ喉を潤していく姿を見下ろす。グラスに唇を触れさせているリゼルの瞳がふっと此方を窺い、礼を言うように細められた。
「ん……」
「良いか?」
グラスを持つリゼルの手からふっと力が抜けるのを感じ、グラスを引いてやる。ふぅ、と肩を下げながら冷たい水の余韻に浸っているので、もう充分なのだろう。
肩と共に首の力も抜け落ち、くたりとその首が傾く。さらりと髪が流れ露わになった首筋を何となく眺めながら、ゆっくりと横たえてやった。
「……ねむくなってきました」
「寝ろ」
ぽふりと枕に頭を乗せ、そのままゆっくりと瞼を落としていくリゼルに短く言う。短いそれはまるであやすようで、その音に誘われるように閉じられた瞼はグラスをサイドボードに置く音で一瞬ふるりと震えた。
それに気づいたジルがその瞼へと掌を乗せれば、少しの間だけ掌をまつ毛が擽る感触がする。しかし、それも直ぐに止んだ。
静かに手を持ち上げると、呼吸は苦し気に乱れているものの深く意識を沈めた寝顔がある。
「…………」
牢屋で見たベッドは随分と硬そうだったし、少しでも落ち着いて寝られたなら良いとジルは再び椅子の背もたれへと背を預け腕を組んだ。
そして、彼もまた目を閉じる。ここ最近まともな睡眠などとれていなかったのは、恐らくリゼルよりも彼なのだから。
リゼルが気を失うように眠りにつき、ジルが腕を組んで目を閉じてからどれくらい経ったのか。嗄れた喉を空気が通り抜ける、苦しげな呼吸の音しかしない部屋の扉が開いた。
音も無く部屋へと足を踏み入れた影が、赤い髪を揺らしながらベッドへと歩み寄って行く。枕元に立ち、そのまましゃがみ込んだ。
ベッドへと凭れかかるように腕を乗せて顎を預ける。微かに沈んだベッドにも目を覚まさないリゼルを横からじっと見つめ、イレヴンはそっと手を差し伸べた。
「…………可哀そ」
途中で様子を見に来たナハスによって額へ乗せられた布をつまみ、サイドテーブルの上に乗せる。
その代わりと言う様に、イレヴンはその手でリゼルの額を覆った。元々体温の低い彼にとっては驚くほどにその額は熱い。
「……だいじょぶ?」
囁くような声に、当然返答は無い。
熱の移りきった布よりは心地良いのだろう。ふるりと一瞬まつげを震わせたリゼルは、しかし再び落ち着いたように寝息をたてていた。
「起こすなよ」
「しねぇよ」
ぽつりと零された低く微かに掠れた声に、イレヴンはそちらを見る事もなく答える。
二人は互いに小声であった。それは目の前で眠るリゼルの為に他ならない。
「医者、何て?」
「風邪だと。寝てりゃ治るそうだ」
「ふぅん」
ジルはサイドテーブルの上に置かれた布を手に取る。
ナハスが一度部屋に入って来た時も気付いてはいたが流したので、とくに疑問に思うことも無い。テーブルの上に置かれている水の張った器へと布を沈め、指先で掻き混ぜた。
その時ふいに、その眉間の皺が更に深くなる。
「鉄臭ぇ」
ふいに落とされた呟きに、イレヴンはようやくジルへと向いた。
その顔はにんまりと笑みを浮かべている。その笑みは全く悪びれる事無く、此処にはいない誰かを痛烈に嘲っていた。
「マジで?」
「もっとマシなやり方しろよ」
「返り血なんて浴びてねぇし」
イレヴンはすんっと自らの掌を嗅いでみる。もはや匂いに慣れてしまっているのか、特別鉄臭さなど感じなかった。
恐らくリゼルが起きていようと分からなかっただろう匂いに気付くジルが異常なのだ。獣人でも無い癖にと唇を笑みに歪めながら、背中を流れ床の絨毯にとぐろを巻く髪を持ち上げそちらもチェックする。
「派手に食い散らかして少しは気ィ晴れたか」
「んー……まぁまぁ」
言われてみれば微かに匂いがついている気がする、とイレヴンは握った髪を離した。
別にリゼルに分からなければそれで良い。そう思いながら、大分熱の移ってきた掌を持ち上げる。
「つかニィサン何人か潰したっしょ。俺は殺すなっつわれたのにさァ」
「悪ィか」
「べっつに。ぜってぇリーダー、ニィサンのこと怒らねぇし良いんじゃねぇの」
顔を残しておいてくれないと面倒、だの片付け面倒だから放置して来た、だのぶつぶつ呟くイレヴンの背中をジルは足先で蹴る。リゼルが寝ているのだから静かにしろと、そう伝える蹴りにイレヴンは不満そうに眉を寄せた。
寝て早く良くなって欲しい。しかしそれと同じくらい、起きて自分を甘やかして欲しい。そんな矛盾した思いを孕んでしまったのだから、仕方がない。
「起きてる内に戻って来りゃ良かった」
甘く優しい瞳を思い出しながら、組んだ腕に頬を乗せる。
イレヴンとてただ喜び勇んで信者達を甚振っていた訳ではない。捕まえろと言われたからには兵士か誰かが引き取りに来るのを待たなくてはいけなかったし、その暇潰しにリゼルの許可もあったことだし鬱憤晴らしをしていただけだ。
魔物避けは焚いていたものの、放置して血の匂いに誘われた魔物に食われては意味が無い。
「俺に文句言うぐらいだから生きてんだろうな」
「生きてはいる」
含みの多い一言に、しかしジルはならば良いと頷いた。
リゼルにあたりそうだという言葉が、分からないでもない程度には彼も信者達に強い不快感を抱いている。
「リーダーこっちで何かした?」
シーツに落ちたリゼルの髪を指先で弄りながら、イレヴンが半ば確信を持って問いかける。
「変な魔法いじり回してた」
「んな疲れることやんなくて良いのに……」
一瞬だけ落ちた沈黙に、チャプリとジルが布ごと水を掻き混ぜている音が響く。
細い髪をシーツごと梳いて遊んでいたイレヴンの視線が、ふと覗いたリゼルの耳もとを捉えた。そこにある小さくとも存在を主張するピアスへと視線を固定する。
リゼルの為だけにあつらわれた清廉で品の良いデザインを眺めながら、イレヴンが思い出したのは地下にたどり着いて真っ先に目に入った光景だった。
「殺そうとしてた」
奇妙な程に淡々とした声に、ジルの指先が止まる。
作られた水の流れを指先で感じながら、ジルは掌をゆっくりと水に沈めた。
「リーダー、一人殺しかけてた」
「てめぇが着いた時か」
「そ。止めたけど」
別に、手を汚すなと言うつもりはジルにもイレヴンにも無い。そんなものは今更だ。
ただリゼルが襲いかかる盗賊を正当防衛で殺すのと、自らの意思により殺すのはジル達の中で意味が大きく違う。
ジルは沈めた掌で布を握り、水音を立てながらそれを引き上げた。千切らないよう加減をしながら水気を絞る。
「分不相応にも程があんだろ」
口元に浮かぶのは、許しがたい罪人への明らかな嘲笑だった。
「でっしょ」
満足げに目を細めたイレヴンに、ジルは鼻で笑うだけだ。
雑魚風情がリゼルの手にかかるなど分不相応だと。あの程度の者にリゼルが手を煩わせるなど勿体ないと、彼を真に知る者ならば誰もが思う事をジル達も思うだけなのだから。
イレヴンは放られた布を受け取り、それをそろそろとリゼルの額へと乗せる。
「ん、……」
「……起きた?」
「……」
何かを感じたらしく、小さく声を零したリゼルを恐る恐る覗き込んだ。
閉じられた瞼を縁取るまつ毛が一瞬震えるも、しかしその瞳が開かれる事は無い。安堵したような残念そうな息を吐きながら、イレヴンは再びするするとしゃがみ込む。
「……咄嗟に殺しちゃったんだよなァ。あいつ、一番ブッ壊したかったのに」
無意識に零れたのは、まぎれもない本音だったのだろう。
気持ちは分からないでも無いが、今まで散々信者を壊し続けてまだ足りないのかとジルは呆れたようにため息をつく。そしてやはり喧しいと、先程より強くその背を蹴りつけた。
夢も見ないような深い眠りは、まだ沈んでいたいと思わせる心地良さだった。
それに反してゆっくりと浮上する意識に、しかし抵抗はしない。心地は良いが、眠気が残る訳ではないからだ。
「リゼル殿。リゼル殿、起きれるか?」
数度呼びかけられ、リゼルは覚醒していく意識と共に薄らと目を開けた。
相変わらず頭は脈打つように痛むが、熟睡したお陰で少しすっきりした気がすると数度瞬く。額を撫でる柔らかい感触にゆるりと首を動かすと、タオルを片手に汗をふいてくれているナハスがいた。
「起きた?」
そして、ふいに反対側から覗き込む赤色がある。寝る前にはいなかったイレヴンに、一体今は何時なのだろうと思いながら唇を開いた。
直後、嗄れた喉を通ろうとした声が詰まる。思わず咳き込むと、熱からくる関節痛が更に悲鳴を上げた。
「こほっ……ん、いた……ッ」
「リーダーだいじょぶ? どこ痛い? 何かいる?」
口元に手をあてゼェゼェと喉を鳴らすリゼルに、イレヴンがベッドに身を乗り出しながら焦ったように問いかける。
うろうろと彷徨った手は苦しそうに上下する肩へとそっと添えられ、しかしそれ以上何かする事は出来ないようだ。珍しい顔をしているなと、リゼルは申し訳なく思いながらも口元を緩めた。
「喉が渇いただろう、とにかく水を飲ませてやれ」
「おら」
ジルにより差し出されたグラスを受け取ったイレヴンが、取り敢えず自分で一口飲みながらリゼルへと手を伸ばした。もそもそと体を起こそうとする動きに、恐る恐るその背を支えながら起こしてやる。
立て続けに魔法で精密作業をした昨日よりは随分とマシになっており、リゼルは差し出されたグラスを受け取り半分ほど飲んだ。ハフリ、と落ち着いたように息を吐く。
「喉に沁みます……」
「喉痛い? 回復薬いる? あ、ちょい麻痺毒あげよっか」
冷たい水が通り抜ける度にひりひりと痛む喉をゆるく押さえるリゼルに、イレヴンはクリスタルのような瓶に入った回復薬を取り出した。見るからに上級のそれを、リゼルは丁重に遠慮する。
「今って、何時ぐらいなんでしょう」
「もう朝だぞ。随分ゆっくり寝てたな」
良いことだ、と頷くナハスにリゼルは目を瞬いた。
体調が悪いとどれだけでも寝れるようだと、一度も目を覚ますことなく寝続けた自分に少し驚いた。そして納得する、それだけ寝ればスッキリもするだろう。
寝すぎた故なのか、やはり熱の所為なのか。脈打つような頭痛を晴らすように、もう一度水を口へと含んだ。
「それより、一度着替えた方が良いだろう」
「言われてみればベタベタです」
着ていたシャツは随分と湿ってしまっていて、一度意識してしまうと酷く気になってしまう。張り付く布地を剥がすように襟元に手をかけると、潜り込む空気が汗を冷やして寒気を感じた。
顔は熱いのになぁと思いながらふるりと震えるリゼルに気付き、ナハスが大きなトレーへと色々乗せて持ってきた中の、丸められ積まれた蒸しタオルを手に取る。
「簡単に汗も拭いてやろう。ほら、脱がすぞ。シャツは洗っておくからな」
「有難うございます」
リゼルはグラスをイレヴンに返しながら、兵士らしい無骨な手が自らのボタンにかかるのを見下ろした。変に手を出すと却ってやり難かろうとやはり丸投げだが、その光景に誰も違和感を覚えない程度にはリゼルは貴族然としている。
「リーダー、髪の毛結んだげよっか」
「はい」
うなじに張り付く髪を指先でなぞるように持ち上げられ、すっと空気が通っていく感覚がした。しかし手早く結ばれた髪の下を蒸しタオルが撫でていくと、自然と肩の力が抜ける。
強すぎず弱すぎない力で汗を拭われるのは気持ちが良い。また眠くなりそうだと何とか耐えている内に、用意された新しい着替えが身につけられていた。
「至れり尽くせりです……」
「似合ってんぞ」
ほのほのとリラックスしているリゼルは、揶揄うように投げられたジルの言葉に吐息だけで笑った。
そしてナハスにより背もたれ代わりに用意されたクッションへともたれ掛かる。これならベッドの上で体を起こしていても辛くない。
「腹はどうだ、何か食べれるか?」
「正直、食欲は無いんですけど」
「でも何か食べんと薬が飲めんからな。果物でも食うか」
言い聞かせるようにそう口にしたナハスが、トレーの上に積まれた果物の中から林檎を手に取った。そして一緒に持ってきてあった果物ナイフを持つ。
トレーの方を向いてしまったので、調理している手元は見えない。残念、なんて思いながらマフリと背中のクッションに体重を預けた。
「食欲無ぇんスか、俺すっげぇ熱出た時もヨユーで食えたけど」
「てめぇはな」
「回復が早そうですね」
ベッドに腰掛けたイレヴンが、本当に大丈夫なのかと怪訝そうな顔をする。
彼にとっては体調を崩して食欲が無くなるなど縁が無いのだろう。当然のように他者の看病などした事も無いのだから、よほど重病なんじゃないかと心配になっているようだ。
「寝てれば治るそうなので、大丈夫ですよ」
だるい腕を持ち上げ、頬の鱗をかすめるように撫でる。もっとと言う様に頬が指先に押し付けられた。
「ほら、ジルだって体調を崩した時は食欲なくしてましたし」
「へー、ニィサンて病気かかんの?」
「アホ」
相変わらず全てを記憶から消しているイレヴンを、ジルは呆れ切った目で見た。
自分と出会う前かなどと言っているが、がっつり最近だ。楽しそうなリゼルは特に勘違いを正したりせず、ほんのり冷たい鱗の感触を指先で追っている。
「今思うと、ジルも同じ“ごっつい風邪”だったかもしれません」
一日で治ったことは取り敢えず置いておく。
「え、人外がかかるようなヤツとかガチで危ねぇじゃねッスか。マジで大丈夫?」
「危ない気がしてきました」
イレヴンは一発どつかれた。贔屓だ。
何故自分だけとブツブツ不満を漏らしながら、疲れたというように離れていくリゼルの手を捕まえる。普段より体温の高い指先をいじり、そしてふと気付いたように口を開いた。
「そういやさぁ、リーダーって普段は結構体調に気ィ遣ってんじゃん」
「そうですね」
「何で?」
何でと言われても、病気をしないよう努めるのは当たり前のような気もするが。
しかし望まれた答えはそうじゃないのだろうと、リゼルは苦笑する。わざわざ聞かせるのも微妙だが、促すようにジルの視線も向けられれば誤魔化すのも手間だ。
「勿論、冒険者は体が資本ですし」
心構えだけは冒険者なんだよなぁという視線が二人から向けられたが、リゼルは綺麗に流して続きを口にした。
「治る保証も無かったので、一応」
ジルとイレヴンの動きが一瞬ピタリと止まる。
直後、リゼルはジルによって毛布を頭まで引き上げられた。一体何がと思いながら何とか顔を出すと、自らの足を跨ぐように指の間という間に回復薬を構えたイレヴンがいる。
間違いなく上級か特級の回復薬だ。張り詰めた空気を感じるほどの真剣さが怖い。
「一応、ですよ」
「どれ飲む?」
「元々、俺だけ治らないなんて事があるなら罹りもしないだろうと思ってましたし」
「飲めるだけ飲んどく?」
考えすぎだと言われればそれまでで、これ程まで酷似した世界では可能性などゼロに近いとすら考えていた。それでも皆無ではないし、普通に知らない病気にかかったら嫌だなぁと思っただけに過ぎない。
ちらりとジルを窺う。不機嫌そうに視線を向けられた、あれはちょっと楽しんでいる。
「それって飲めるんですか?」
「飲んだら効果あるかもしんねぇじゃん!」
ちなみに回復薬は飲んでも意味が無い。傷口にかけて使う。
「それならイメージ的に解毒剤の方が効きそうな、あ、出さなくて良いですよイレヴン。大丈夫です」
「でもさァ!」
「病人の上に乗って騒ぐな!!」
更に言葉を言い募ろうとしたイレヴンは、ナハスに怒られ口を噤んだ。
しぶしぶとベッドから足を下して座り直すイレヴンに、しかしリゼルは嬉しいと隠すことなく微笑みかける。ふてくされたように視線を逸らされたが、本当にふてくされている訳では無いのだろう。
「ほら、林檎が剥けたぞ」
ふいに、ナハスが振り返る。その手にはガラスの皿に等間隔で盛られた林檎がある。
その皿にリゼルもジルも、顔を逸らしていたイレヴンさえも視線を固定した。
「魔鳥にしてやったからな。食べられるだけで良いから食べると良い」
美しく八等分されたそれは皮が残され、その皮が何やら不思議な切られ方をしている。
リゼルの元の世界では兎と呼ばれた切り方を更にアレンジしたような形で、アレンジと言っても主婦なら誰もが出来るような分かりやすい切り方をしていた。
ナハスの言うことが確かならば、魔鳥を模しているのだろう。確かに言われてみれば魔鳥に見える。
「ジル?」
「狐だったな」
「イレヴン」
「俺んとこも狐」
狐というのも良く分からないが、兎の耳の部分が短いバージョンなのだろうというのは想像がつく。そういう事もあるだろう、とリゼルは再び皿へと視線を戻した。
これがアスタルニア特有のものなのかナハス特有のものなのか判断に迷う。
「どうした、食べれないか?」
「いえ。有難うございます、貰いますね」
リゼルは促されるままに一つ手に取り、そしてまじまじと見下ろす。口に含むと甘酸っぱい果汁が口の中に広がり、喉は痛いけど何とか食べられそうだとさくさくさくと食べ始めた。
「俺も一個食う」
「食うなよ」
ジルの言葉を気にする事なく皿ごと受け取ったイレヴンに、リゼルは何も言わない。どうせ全部は食べられそうに無いのだから、好きに食べれば良い。
もそもそと林檎を食べるリゼルを眺め、良し良しと満足そうなナハスがふと思い出したかのようにイレヴンを見た。その顔は少しだけ厳しい。
「そういえば、王宮警備隊の隊長が文句を言ってたぞ」
「俺? つか誰?」
「今回の犯人たちを引き取りに行っただろう。そいつだ」
会ったことないなぁと思いながら、リゼルは二個目の林檎を手に取った。
アリムとの話し合いの時にイレヴンが信者らを捕縛してあるのは伝えてあるので、彼らを引き取りに行くのが当の人物である事は聞いていた。何せ数少ない地下通路を知る者の内の一人だ。
国を代表する魔鳥騎兵団の隊長すら知らされる事のない最高機密を、そう易々と広める訳にはいかない。
「国王からの指示ですよね」
「当然だろう」
布を返した後、アリムは兄である国王へと知ること全てを報告に行った筈だ。
勿論、彼が行った事になっている魔鳥騎兵団の救済の真実も。その辺りは事が落ち着いた頃にアリムが教えてくれるだろう。
「あー、あいつ。入れ替わりで戻って来たし何もしてねぇけど」
「お前が捕まえていた犯人たちの事だ。俺は見てないし良く分からんが、“どうすりゃあれだけぶっ壊せるんだ”らしい」
「ちょーっと遊んだだけじゃん。うるっせぇなァ」
ね、と首を傾げるイレヴンにリゼルもにこりと微笑んでみせた。
ばっちり逃げる準備も整えてあった信者らを一人残らず捕まえられたのだから、多少のことは良いだろうに。口に出すとナハスに怒られそうなので言わないが。
「全員無傷で渡してやったんだから、むしろ褒められるべきじゃねぇの?」
「本当か? まともな会話が出来なくて尋問が進まんとか聞いたぞ」
随分と気合いを入れたようだと、魔鳥の翼らしき林檎の皮をしゃくりと齧った。
信者らもそれなりの人数が居た筈なので、恐らくイレヴン一人で遊んだ訳では無い。恐らく精鋭らも一緒だっただろうし、全員それなりに楽しんだだろう。
恐らく自らの捜索も頑張ってくれただろうし、何かお礼をしなければ。そう思いながらリゼルは二個目の林檎を食べきった。
「つか俺への文句が何でそっち行ってんの?」
「俺が知りたいんだが」
ナハスは切実だ。
「口が疲れてきました」
「おら」
三個目に手を出したものの、食べる気になれないリゼルへとジルが手を伸ばす。
差し出したリンゴは二口で完全にジルの腹へと消えた。魔鳥の形なぞ必要ないと言わんばかりの食べっぷりだ。
「ん、もう良いのか? 食べれるならもう少し食べた方が良いんだが」
「すみません」
「いや、良いんだ。無理はするなよ」
皿に残った林檎は全てイレヴンにより消化され、ナハスは空いた皿を回収していった。
そして熱を測るようにリゼルの額へと手を乗せる。温かい手はしばらく額を押さえ、そして難しそうな顔と共に離れて行った。
どうやら熱はまだ下がらないようだ。じくじくと痛む頭に、ジルのようには行かないなとリゼルは小さく微笑んだ。
「食後に飲ませろと薬を預かってるから、これを飲んだらまた寝るんだぞ。安静が一番だからな」
「薬が凄く苦かったです」
「ここぞとばかりに些細な不満も出してくるな、お前は……」
別に我慢して飲めば良いのだが、折角売った恩は最大限に利用する。
ナハスは全くしょうがない奴だと言いながらも、陶器のポットから白いカップへと何かを注いだ。差し出されたのは、ほかほかと湯気が上る紅茶だ。
「ほら、ハチミツと生姜を混ぜた紅茶だ。この中に薬も入ってるから全部飲めよ」
「有難うございます」
満足そうにカップに唇を寄せるリゼルを見て、ナハスはテキパキと動き出した。
「寝間着の替えがもう無いだろう。新しいのを枕元に置いておくから小まめに着替えるんだぞ」
「水差しは新しいのに変えておくからな。水分はしっかり取れよ」
「毛布も新しく何枚か持ってきたから、自分で調節するんだぞ。そうだ、敷布だけ替えてやろう」
ナハスの面倒見の良さが無双している。
看病など十数年以上前に母親にしたきりのジルと、他者の看病などした事も無いイレヴンでは手の届かない細かい所まで届く気遣いだ。リゼルの人選に間違いは無い。
やはり喉に沁みるなぁと、時々ジルに持ち上げられたりしながらリゼルは薬を飲み終えた。体がぽかぽかする感覚には覚えがある。
「リーダー起きたばっかじゃん、寝れんスか」
「不思議と寝れそうです」
「病人ならそんなものだ」
背もたれのクッションが取り払われ、リゼルはその身を横たえた。
ぽすりと頭を枕に預けると、少し勢いがついてしまったのか脈打つ痛みが強まる。目の奥が痛み視界が白く染まりかけ、深く息を吐きながら瞼を閉じた。
その痛みを和らげるように、目元を覆う掌がある。誰の手なのかは、考えずとも分かった。
「俺は少し離れるが、静かにしていろよ」
「はいはい」
リゼルは少し音量を落として交わされる会話を寝物語に、深く深く夢も見ない眠りへと意識を沈めて行った。
そこは、幾つもの牢屋が並ぶ薄暗い通路だった。
壁の所々に備え付けられた松明が唯一の光源で、それは時々パチリと小さな音を立てる。普段はその音さえ聞こえる静寂の空間に、ゴツリ、ゴツリと重い足音が響いていた。
「……ったく、とんでもねぇな」
男は短く刈り込まれた髪から覗く丸みを帯びた三角の耳を、がりがりと掻き毟った。
虎の獣人らしく橙と黒が美しいそれは、今もなお不快な音を捉え続けている。耳が良すぎるのも問題だと、縞の長く太い尻尾をしなやかに揺らしながら首だけで振り返った。
視線の先には、今出て来たばかりの鉄の扉がある。牢屋の一番奥で重厚に佇むそれは、音すら通さない程に厳重だ。
「うるっせぇえ」
苛立ちながら扉から離れていく。
がんがんと、頭の中に響くのは幾重にも重なる笑い声だった。喉が裂けようが彼らは笑い続け、許しを請い続け、謝り続け、そして死を望み続ける。
「牢屋番なんざ下っ端の仕事だろうが……地下通路さえ関わってなけりゃぁな」
下っ端仕事を懐かしむ気分にもなれない。憲兵団の中でもエリート中のエリートが集まる王宮守備兵隊長である彼は、そんな事を呟きながら昨日目にしたばかりの光景を思い出した。
思い出すのはズタボロの服を身にまとい木々に吊るされる男達。その体に傷は一つもついていないと言うのに、地面には夥しい程の血の跡があり、彼らの真下では未だ血だまりがゆっくりと地面に吸収されていた。
『こいつら引き取りに来たヒト? じゃ、頼んだ』
ただ一人地面に立っていた獣人は、異様な光景の中で余りにも普通にそう言い残して去って行った。濃い血の匂いが、今でも鼻にこびりついている気がする。
「アイツしょっぴいた方が良いんじゃねぇか」
鋭い牙を露出させながら口元を笑みに歪める。ただの冗談だ。
唯一助かったのは男たちの手足が拘束され、猿轡までしっかりとされていた事か。場所が場所だけに部下を連れていく訳にもいかないので荷車を持って行ったのだが、積み上げるだけで済んだので楽だった。
「(しっかしなぁ……)」
今回の件に一人の冒険者が関わっていることを、彼も知っている。
リゼルの事は初めて王宮に招かれて訪れた時に、一応の確認として遠くから眺めて知っていた。逆恨みにより誘拐されていたらしいが、それを聞いた時は“冒険者の癖におっとりしているからだ”と呆れすらしたものだ。
しかし、その考えも改めなければいけないらしい。
「(自分を攫った相手ぶっ壊して)」
地下通路の中で原型を留めぬ程に切り刻まれていた死体はすでに確認している。
笑い狂っている男達が生きているのは、ただ此方への配慮なのだろう。彼らの死を請えば容易に叶えられる人間を二人も隣に並べているのだから。
「(奴らの思惑ぶっ潰して)」
アリムへと流した情報の中には、彼らが用いた魔法陣の事もあったという。
何故捕らえられていたリゼルがそれを知っているのか。まさか親切に教えられた訳ではあるまい、自ら手に入れたのだ。
「終いにゃ」
ゴツリゴツリと鳴っていた靴音が止まる。
其処は、ある一つの牢屋の前だった。他の牢屋と違うのは、鉄格子に閉ざされている事を除けば最低限の物が置かれた普通の部屋に見える事だ。
中には一人の男がいる。褐色の肌と、そこに刻まれた刺青。鈍色の髪と瞳が小さな窓から差し込む光を反射し、刃物のように鈍く光っている。
「奴らからてめぇを奪い取るんだもんなぁ」
檻の中から向けられる視線に、牙をむき出し獰猛に笑う。
大人しく助けを待つ人間など、彼にしてみればただ怠惰なだけだった。例え蔑まれようと自らの持つ力すべてを使い足掻くのが当然で、檻の中にいる事を甘受している自分こそを恥じるべきだ。
だからこそリゼルへの印象を改めるべきだと、彼は叩きつけるように檻を握りながら猛々しく吠える。
「品の良いツラしてあがくじゃねぇか、なァ!!」
その後、牢屋中に響いた音に驚きもしないクァトに物凄く不思議そうな目で見られ、彼は気が抜けたように檻から手を離すのだった。