作品タイトル不明
116:そして肖像画に噴き出す
宿主は朝の早い時間に一人、宿の食堂で考える。
「誰もおらんて何これどういうこと?」
椅子に座り肘をついて両手を組み、これでもかと言うほど真剣な顔をして呟いた。
別に帰って来ないのは良い。いや良くは無い。一言ぐらい言っておいて貰わないと食事をどうしたら良いか分からない。だが先に進めておくのを仕込みだけにすれば次の食事に使い回せば良いだけなのでやっぱり良い。
問題なのは、一昨日の晩からリゼルがいない事だ。正確に言えば一昨日の朝に迷宮に送り出したのが姿を見た最後なのだが、おおよそ帰って来る予定の時間が晩だったので晩で良いだろう。
「…………夜遊びする貴族なお客さん」
ぼそりと呟き、直後ガンッと額を机に打ちつける。呟いただけで罪悪感が半端無かった。
ジルやイレヴンなら別に疑問も覚えない。二人は度々帰って来ない事があるし、せめて一言欲しいとは思うものの大抵はリゼルに聞けば何とでもなる。
『今日ってあの人達夕飯いるんですかね夜食ぐらい作っておきましょうか』
『放っておいて良いですよ』
大体こんな感じだ。放っておいて良いなら喜んで放っておく。あの二人怖いし。
それでも一応リゼルへとお伺いを立てるのは予防線でもある。もし遅くに帰って来た二人に何で飯が無いんだと思われようと、彼らが唯一言う事を聞く人間の許可があったのならば不満もないだろう。文句など言われたことは無いが。
そんな小心者の意図を汲んで、何度同じ質問をしようと微笑んで答えてくれる優しさに平伏したい。そんな事を思いながら宿主は打ちつけた額を上げる。
「貴族なお客さんがおらんなら他の二人がおらんのも微妙にラッキーな気がする」
リゼルがいない時のジル達に接しようとすると怖いのだ。
ならば問題は無いのではと思うが、そんな事は無い。何故ならリゼルは夜帰らない時には必ず一言くれるからだ。一昨日はそれが無かった。
時々リゼルも夜に何処かに出掛ける時がある。本人から「今日の夜は出掛けますね」と綺麗な微笑みで告げられたり、ジルやイレヴン経由で投げやりに伝えられたりもする。
ちなみに何処に行っているのかは知らない。とてつもなく気になるが聞いた事は無い。ジル達が気にして無いので危ない事では無いのだろうし、話に聞く限り前の国でも似たようなものだったので夜の散歩にでも行ってるんじゃないだろうかと宿主は思っている。そうであって欲しい。
「でも二晩連続って今まで無いしやっぱり何も伝言ないしこれが反抗期……!?」
嫁も貰って無いのに客の反抗期に翻弄される日が来るとは。
リゼル達と出会ってから何故か母親発言をするようになった友人に言いつけてみようか。彼は一体何があってああなってしまったのか。確かに昔から面倒見は良かったけどあそこまでじゃなかった。
いや落ち着け、と宿主は首を振る。あのリゼルに限って反抗期という訳が無い。ジル達もいないのだし、この宿に嫌気がさして三人で別の宿に移ったという方が余程有り得る。泣けてきた。
「(でもなぁ……何かなぁ……)」
組んだ両手にがくりと額を乗せたまま、宿主は机を見つめる。
イレヴンはリゼルが帰って来なかった一昨日の晩から姿を消している。いや何時出て行ったかなど全く分からなかったが、朝にはいなかったのでそうなのだろう。
そんな彼が唯一最後に目にしたのは、昨日の早朝に宿を出て行ったジルだった。
すれ違う瞬間に挨拶しようとしたが声が出ないばかりか一切の身動きも取れず、人が首から下を地面へと埋められた状態で最強と言われる竜と出会うならこんな感じなのだろうレベルの恐怖を宿主へと与えながら宿を出て行った。怖いを通り越してちょっと意識がとんだ。
だからと言っては何だが、彼らが出先でリゼルと一緒にいる訳では無いようだ。宿主の勘。
以前宿主はリゼルといるジルとイレヴンの事を“凶暴な魔物が鎖付けられたから一定距離までは近付いても大丈夫”と称したが、それに倣って言うならば鎖が失われた状態なのだろう。解放されたと言うよりは、今の状況を思えば鎖の向こう側が消えてしまったと言うのが近いのかもしれない。
自らを制御する気もない相手に自ら鎖を差し出していた魔物は、差し出す相手がいなくなってどうなるのか。それは恐らく自由であった鎖を付けられる前より恐ろしいのだろう、無差別に喰らい尽くすような人達じゃなくて良かったと宿主はしみじみと思う。
いなくなるどころか奪われでもすればジル達によって国の一つや二つ滅ぶんじゃなかろうか。絶対滅ぶ。そこまで考え、ハッと顔を上げた。
「誘拐だったらどうしよう!!!! ……な訳ないか貴族なお客さんがそんな簡単に攫われる訳ないし周りが怖すぎるし」
喧嘩でもしたのだろうかと呟きながら立ち上がり、さて今日も元気にシーツでも干しておくかと宿主は食堂を後にした。
何処かの地下酒場で一人、イレヴンは考える。
「森族が放棄した集落とかの使いやすそうなトコ中心に探したんですけど居ないですね。ただ森に何かあるのは確かみたいで、自称呪術師曰く隠蔽魔法が使われてるなら単独じゃ無理なレベルっぽいし相手は複数人かと」
扉の前に立ち決して此方には近寄らず、流れるようにそれだけ告げて去って行った前髪の長い男を一瞥する事無く情報だけを耳に入れる。つい先程、別の用事を与えていた者も報告に来たがやはり近寄っては来なかった。別にどうでも良い。
「(アタリ無し……ね)」
椅子を傾け机の上に足を組みながら乗せ、分厚い紙の束を手に取りパラパラと捲る。
それはアスタルニアの憲兵団が管理している入国審査記録だった。ここ一月の間にアスタルニアを出入国した者達の名前(あるいは団体名と人数)・職業・目的が簡易に纏められている。
とあるルートから手に入れたそれは流石に原本ではないようだが、違いもないようなので問題は無い。一覧に目を通し、目についた所をリゼルが精鋭と呼ぶ彼らを使って探らせたが空振りに終わった。
しかし、全くの無駄だった訳では無い。バサリと希少な資料を机へと投げ捨て、水の入ったグラスへと手を伸ばす。
「(ワルイのが相手じゃねぇワケだ)」
ぬるくなった水が喉を通り抜ける感覚が不快で、小さく舌打ちを零す。
イレヴンが精鋭らを送り込んだ所は確かにリゼルには何も関係は無かったが、かと言って善良な入国者達でも無い。密輸品を扱う商団など後ろ暗い理由を持つ者ばかりだ。
同類だからと言われては不愉快だが、そういった奴らが取りそうな手段や使いそうな言い訳など容易に分かる。彼らは価値の高いものばかり扱う癖に正規に護衛を雇う事も出来ないので、楽な相手だと盗賊時代は良く狙っていた。
まるで選択肢を潰すように、リストの中のそういう分かりやすい相手は全て当たった筈だ。元々ハズレだとは思っていたが、やはりリゼルは何処にもいなかった。
「…………」
しかしイレヴンは微かに安堵の息を零し、無意識にグラスの縁へと歯を立てる。
それはつまり、自分への恨みからリゼルが手を出された訳ではないという事だ。盗賊をしていた事を後悔した事など無く、だからこそリゼルに出会えた事を思えば後悔する意味が分からない。
それは例え復讐者が現れようと変わらず、そもそもリゼルが逆恨みで襲われる可能性を考える事無く自身を迎え入れる事は決して無い。ならばリゼルにとってその程度の事は微笑み流すような些事だという事で、それより強いメリットがあるという事だろう。
そうだとしたら自分の所為などと気に病んでも鬱陶しいだけだろうし、そんな人間を前にして「迷惑かけている自覚があるなら何で居んの?」と当たり前のように言い放つイレヴンが何を気にする事も無かった。勿論リゼルへと実害が出るならば、色々と話は別だが。
「(だからって笑えねぇけど)」
歯を立てられたグラスが、パキンと音をたててひび割れる。
可能性を総当たりで潰していった今、残る選択肢は多くない。だがリゼルを攫った相手に見当がつこうと、攫った目的が分からなければ決定打が打てない。
「(情報足りない内に動いてリーダー危なくなると嫌だし)」
リゼルを欲しがる人間など山程いるだろう。あちらの世界ならば、だが。
会話の節々から伝わるリゼル曰く元の世界の王国は相当強大な国だ。幾多の国を従え君臨し続ける王者の如き国の中枢中の中枢に存在し、そんな国に於いて過去最高の呼び名を持つ国王に一番近い位置に立つ若く優秀な宰相を、何としても手に入れたい人間は多いだろう。
リゼルから聞く話は大抵がほのほのと語られる身近なちょっとした出来事(大抵は国を揺るがす大騒動)なので彼が貴族としてどう振舞っているかなど知らないが、あの清廉な姿を晒しているのならば間違ってはいない筈だ。
ただ、今のリゼルはただの変な冒険者だ。どれ程清廉だろうと品があろうと貴族然としていようと、冒険者である事に変わりはない。ならば今回の誘拐は営利目的というよりは、やはり恨み辛みが関係するか。
「(今んトコ俺らにコンタクト無ぇし、あの人に用。恨み買ってねぇとは言わねぇけど害がありそうなら手ぇ打つから……逆恨みに近ぇか)」
ひび割れたグラスを気にせず水を飲み干し、無造作に放る。割れたガラスの音など今のイレヴンの耳には入らない。
傾いた椅子の上、仰け反る様に背もたれに体重をかけ天井を仰ぐ。唯一人を映そうと飢える瞳を誤魔化すように両手で覆い、ゆっくりと深く息を吐いた。
「つまんねぇ理由で手ぇ出しやがって」
笑みの浮かばぬ唇から零れた呟きは、誰にも届く事なくぽつりと落ちた。
リゼルが消えた路地で一人、壁に凭れ煙草を吸いながらジルは考える。
路地の奥は早朝の活気のあるざわめきも何処か遠い。路地の外へと視線を向ければまるで通りを切り取ったかのように人々が現れては直ぐに通り過ぎ消える。
それ程奥まってはいないとはいえ音も光景も遠く思えるこの感覚を、リゼルも攫われる直前まで感じていたのだろうか。人によっては早く通り過ぎてしまおうという別空間のような路地裏を恐らくゆっくりと堪能しながら歩いていたのだろう。
口元を覆う様に指で煙草を挟み、深く息を吸う。この香りを好きかもしれないと称した男は一体何処で何をしているのかと、ふと思う。
「(不快になってなけりゃマシか)」
ふ、と煙を吐き出しながらジルは内心で呟いた。
何処にいるのかと思いながら動かないのは、動いても意味が無いからだ。イレヴンが持ちうる手段全てをもって捜索をしているのならばジルの出番など無い、動くにも目立ち過ぎる。
此方を監視する目は無いものの、今は待つしか無いだろう。
「ちょっとスンマセンね」
ふいに、音の遠い路地へと鮮明な声が落とされた。
何処かの角にでも身を潜めているのか、その姿は何処にも無い。しかしリゼルが攫われたと告げた声と同じそれに、ジルは特に言葉を返す事も無く視線だけを一瞬投げただけだった。
現在分かっている範囲の情報を一通り、独り言のように言葉にした男の気配は声が止むと共に途絶える。また何処かへと行っただろう男を今度は視線で見送る事も無く、流れるように告げられた情報の数々を脳内で反芻した。
「(相手は複数、ね)」
しかも同じ魔法使いを欺けるような隠蔽魔法を扱える人間が複数。そもそも優秀と言える魔法使いなど多くは無いというのに此処に集い、更にリゼルを狙う理由があると来れば相手は想像に難くない。
リゼルは基本的に恨みを買わない男だ。しかし買っても些事だというなら時々戯れているし、それ以上のメリットがあるならば買う事には躊躇しない。
しかしそういう時には極力自らが非を持たないようにしているので、恐らく逆恨みによる誘拐なのだろう。イレヴンと同じ結論に達しながら、ジルは咥えた煙草を噛み潰した。
逆恨みだとしたら、リゼルの安全は保障されない。
「…………」
口内に広がる微かな苦みに舌打ちを零す。
そして自身を落ち着かせるよう深く息を吐きながら、直ぐに自らの考えを否定した。
「(……あいつ相手に憂さ晴らしなんて勿体ねぇ使い方は無ぇか)」
それに、問答無用で殺されさえしなければリゼルは全力で保身に走るだろう。直ぐに殺さず誘拐という手段に出たのならば自力で何とかする余裕もある筈だ。
誘拐されて楽しめるとは思わない、今の所確実に助かる手立てというのは無いのだから。だからせめて不快な思いをしていなければと思う。そうであってくれないと、困る。
冷静さを失いかけた思考に気付き、ジルは寄りかかる壁に後頭部を押し付けた。本当に、リゼルを知り今この現状を知る全ての人間が思う様に、リゼルが居てくれたのならどれだけ楽なのだろうと思う。
「(居ると便利だからな、あいつ……ただ、それが目的って訳でも無ぇだろ)」
便利というだけで、リゼル自身が特別何かが出来るという訳では無い。
魔力も多いとはいえ、とある魔法学院に行けばリゼルより多くの魔力を持つ人間がゴロゴロいるだろう。守られて当然な魔法使いに比べれば動けるとはいえ、剣を振り回す一般的な冒険者に比べれば当然劣る。元の世界では持ち得た地位も今は無い。
リゼルの真価はただ一つ、動かせる手足を得た時に発揮される。その手足が優秀ならば優秀な程に発揮される真価は、流石は人の上に立つ貴族だと思わせるに十分だ。
「手足志望……だと逆に怖ぇな」
有り得ないだろうが、想像してみると恐ろしい気がする。
ならば何の為に攫ったのだろうか。今の所不審な者達がアスタルニアを出たという話は来ない、此処でリゼルを捕らえ続ける事に何の意味があるのだろうか。
いや、意味など無いのかもしれない。全くの無関係とは言わないが相手の目的がリゼルでは無い可能性もある。何にせよ、ふざけた理由で手を出してくれたものだ。
得られた情報からイレヴンも捜索の手を変えるだろう、大規模な捜索などしたくは無いのだから早く見つかれば良い。
「……じゃねぇと」
ジルは短くなった煙草を唇から離し、握りつぶす。
思わず言いかけた言葉は、自身でさえ何を言おうとしたのか分からず続きが紡がれることは無かった。
檻を越えられる人間が一人しかいないので、リゼルの食事はいつも彼と一緒にとる。
「多分、三日ぐらいでジル達が動くと思うんですよね」
「動く」
「色々な人に協力して貰って、俺を探してくれるって事です」
リゼルは相変わらず牢から少し離れた位置に、毛布を体に触れない面を下にして敷いていた。その上に座り込み、静かに並ぶ無骨な金属の向こう側で此方を向く奴隷の男へと話しかける。
胡坐をかいて座る彼の手には残り一切れのパンがあり、それも直ぐに口の中に放り込まれてしまう。しなやかな筋肉のついた体がそれだけで維持出来るなど何とも羨ましい事だ、とリゼルもまだまだ残る手元のパンを千切った。
「でも、俺としては出来るだけ避けたいんです」
「…………助かる、嫌?」
「そうじゃないですよ」
ぱくりとパンを食み、空いた手で果物が乗る皿を前へと差し出してやる。
男はそれをじっと見下ろし、どうぞと掌を向けられてようやく手を伸ばした。唯人ならば激痛に襲われる牢へと容易に腕を差し込み、一切れだけ手にとっていく。
「だって怒られそうですし」
有難い事に面倒見が良く少し心配性な人が、恐らく捜索にあたり真っ先に駆り出されるだろう魔鳥騎兵団にはいる。絶対怒られる。
何せ以前に「暗くなり始めたら細い道は使うなよ、危ないから」と言われているのだ。冒険者相手に一体何をと思わないでもないし、むしろ冒険者だと思われていないんじゃないかとも思ったが、実際にこうなってしまえば何も言えない。
「でも君なら大通りでも俺のこと攫えますから、不可抗力ですよね」
「攫える」
何処か得意げに頷いた姿に笑い、再びパンを千切る。両手を拘束する手錠がチャラリと小さく音を立てた。
リゼルと奴隷の男との会話は、彼から信者たちに伝わっても問題の無い話題しか出されない。今もそうだ、三日で仲間が動くと知らされても問題が無いからこそ話している。むしろ有益な情報を得られると、彼との会話を黙認してくれれば有難い。
何にせよ牢屋内で身動きが取れない身としては、良い悪い問わず相手に動いて貰わない事には何も出来ない。敢えて伝えろとも言わないので、聞かれた事しか話さない奴隷から信者に伝わるかどうかは五分五分だが。
「(伝わらなくても別に良いけど)」
打てる手は打っておくだけで、効果的かどうかは二の次だ。何せ他にやる事も無い。
「筋肉痛には果物が良い、とか無いんでしょうか」
「筋肉痛?」
「普段しないような運動をして、体が痛くなる事です。なったこと無いですか?」
「無い」
予想はしていたがあっさりと首を振られた。羨ましい事だ、リゼルは未だに痛みを引き摺っているというのに。
手錠を付けられた上に牢屋の中ではジルが言っていた適度な運動も出来ず仕方無いといえば仕方無いのだが、昨日はほとんど動いていないのに痛みが増している気がするのは何故なのか。
「お……貴方、筋肉痛?」
「そうなんです、体中が痛くて。筋肉痛だけって訳じゃ無いんでしょうけど」
苦笑したリゼルを男は心配しているのか興味深いのか、鈍色の髪をさらりと揺らしながら覗き込む。
彼自身にリゼルへの恨みが無いからだろう。攫った事への罪悪感が無い代わりにリゼルに対する不信感も無く、従順さは強いものの思うままの素直な反応が返って来る事が多い。
だから此方に興味を示し始めたのも彼の本心なのだろう。じっと向けられた視線に優しく微笑みを返し、皿に残る果物の最後の一切れを口に含んだ。
「…………ん、ご馳走さまでした」
空になったトレーを檻に寄せる。
魔法の影響を受けず出入り出来るとはいえ、自由に檻を開け閉めする事を奴隷は許されていない。檻に手を入れ皿などを回収していく姿を眺めながら、さてとリゼルは痛みに耐えつつ立ち上がった。
手錠の所為で動かしづらい手で簡単に毛布を払い、その内側の面を巻き付けるように肩へとかける。皿を雑多にトレーに積み上げている男が此方を見上げたので、すいっとベッドを指差してみせた。
「昨日、ちょっと気になる箇所があったので本を読んでますね」
「本……」
にこりと笑い、ベッドへと向かう背を奴隷は見つめる。
そしていそいそとトレーを片付け、いつもの定位置へと再び胡坐をかいて座った。命令と罵倒の中で生きて来た彼にとって本とは縁のないもので、実際にリゼルが読み上げた文章は何を言っているのか良く分からない事も多い。
しかし柔らかな声で紡がれるそれも、時折投げかけられる質問も。そして質問に応える度に向けられる褒めるような瞳も、知らないものばかりを与えてくれる時間が心地良くて気に入っていた。
「……?」
しかし、いつもなら近くに座って本を開くリゼルがベッドに腰かけている。
開いた本を膝に乗せて表紙を開く姿に男は首を傾げた。本は読み始めているのに、その唇は動かない。
「昨日、一緒」
「ちょっとじっくり考えたいので、一人で読ませて下さい」
「……本、読む」
「いけません」
向けられる視線をリゼルは一切気にせず読書に集中した。読みたいのは研究書なのだ、読み上げられるものでも無い。
そのまま暫くパラパラとページを捲るリゼルをじっと見ていた男だったが、ふいにピクリと顔を横へ向けた。視線の先は牢屋へ繋がる唯一の道で、暫くそちらを見ていた男はごそりと体を反転させる。
檻に背を預けたその姿に気付いたリゼルがちらりとそちらを見て、しかし何事も無かったかのように本へと戻った。少しの後、静寂が落ちた牢屋に靴音が一つ近付いて来る。
「師の書物を読み、少しは己の罪を思い知ったか?」
檻の前で止まった靴音に、どうやら何も言わず去ってくれないようだとリゼルは顔を上げた。
「決して触れてはならぬ偉大な人の御業を踏み荒らした、大罪を」
この手のタイプの信者って意外といる、そう思いながら本を閉じた。
二時間ごとに巡回に来る信者たちは多種多様だ。期待したように一瞥して去って行く者は少数派で、大体は何かしらの恨み言を残していく。
目の前の男は今までで一度も見た事が無い顔だった。しかし何度も顔を出す者もいるので、順番という訳では無いのだろう。
全体数が把握しづらいなと、呪詛を吐くように鬱々と恨み辛みを語り続ける信者へと相槌を打つように頷きながら考える。無視すると余計に長引くし、反感を買わないに越したことは無い。
「我々の使命は師へと不快を与えるものを取り除くという一点のみ……この国の、師の魔法を冒涜するような魔法を使用している、ふざけた輩を排除するのが使命なのだ」
魔法技術の発展が著しく遅れそうだけど、と思うものの口には出さない。彼らにとっては支配者が頂点であり唯一であれば良いのだから。
しかしそんな信者達だからこそ、魔鳥騎兵団の排除に実際どういう手段をとるのか想像に難くない。ようは敬愛する師の魔法が騎兵団より優れていることを証明したいのだろうと、膝の上に乗せた支配者の研究書へ掌を滑らせる。
「良いか、勘違いをするな。お前はただ使命の邪魔になるというだけの“ついで”に過ぎず、師にとって一切の価値が無い。それなのに師に捧げられるという名誉を何故与えられるのか……私には理解し難い」
その時、ふいにリゼルが口を開いた。
「貴方達って、俺が邪魔することが前提なんですね」
その言葉は穏やかに微笑む顔から出るには違和感が有り過ぎて、延々と恨み嫉みを吐き出し続けるだろうと思わせた信者の唇が止まる。
例え檻の中だろうと変わらず清廉な空気を纏う男から出る言葉ではない。信者達が何をしようと邪魔をしないと言うような、むしろ攫われなければ関わりもしなかったのではと思わせるそれが信者には一瞬理解が出来なかった。
「お前は」
「だってそうでしょう?」
信者の言葉を遮るように、リゼルは微笑み目を伏せた。
「魔鳥騎兵団は国の象徴ですよ。彼らの問題は国の問題ですし、一々顔を突っ込んだら内政干渉になりますし」
「……何を」
「そもそも冒険者には関係無いことでしょう? ギルドに怒られちゃいます」
そう言いながら、リゼルはベッドから立ち上がった。落ちかけた毛布を手で押さえながら、ゆっくりと信者に近付いて行く。
信者はその姿を目で追うが何も言わない。何も言えない。そして今更ながらに気付く。向けられた瞳に、囚われた者が当然持つべき怖れや焦燥が存在しない事を。
そして目の前で立ち止まったリゼルが全てを見通すような瞳を細め微笑むのを、さらりと音が聞こえるように流れた髪さえ鮮明に、見た。
「だから、貴方が正しいと思いますよ」
投げかけられた言葉に、信者は無意識に後ろに下げかけた足を止めた。
魔法という分野において優秀である筈の彼の思考は未だに動揺を孕んでいる。ただ目の前の穏やかな男から零された言葉をただ聞き続けることしか出来ない。
「関係の無い俺を捕まえる事に賛成する人は、きっと貴方の言う 使命(・・) を理解出来ていないんでしょう。それって、支配者さんの事も理解してないって事だと思いますけど」
「だから私は反対した!!」
「そう。だから、正しい」
リゼルは手に持っていた研究書を持ち上げ、にこりと笑った。
「支配者さんのこと、一番理解しているのが貴方なんですね」
当たり前だと、愚弄するなと普段の彼ならば吐き捨てただろう。
今更命乞いかと、逃げられるつもりかと嘲り笑ったかもしれない。
しかし信者の思考にそれらは一切浮かばなかった。今まで比べた事など無かったが、自分だけが師を理解出来ているという圧倒的な優越感に身を震わせる事しか出来ない。
「そんな貴方だから、聞きたい事があるんです」
トントン、と翳した研究書の表紙を指でノックするリゼルに信者は浸りきった意識を取り戻す。
「この本の中に幾つか分からない所があったので、教えて欲しいんです。俺じゃ支配者さんの意図を掴み切れなくて……駄目ですか?」
「……こちらも忙しい」
パラリと開かれた本へと視線を落としながら、信者が唇を笑みに歪める。
何度も繰り返し読みこんだ本だ。何ページの何処に何が書いてあるかすら覚えている。理解出来ぬなど所詮は師に逆らった者だと思いつつも、しかし師の意図を汲む自分だからこそと望まれるのは悪くはない。
その背筋を這い上がるほどの優越感を、師への理解を認められた事に加え、目の前の存在に“自分だから”という理由で選ばれた事に対して感じているなど彼は決して気付かないだろう。
「檻の中で望むのが本の解説とはな……師の著書の素晴らしさを思えば無理も無い。師の偉大さを噛みしめさせる為ならば、少しだけならば時間をやろう」
「無理を言ってしまいすみません、有難うございます」
目を細め微笑みながら檻の近くまで差し出された敬愛する師の本を見下ろし、彼は変わらず鬱々とした声で隠された自分にしか分からない真の意図を説明し始めた。
「絶対支配者さんは其処まで考えてないって所まで深く教えてくれましたね。ちょっと面白かったです」
およそ二十分後、忙しいというのは確かなのか信者は話し足りないという様子を隠すことなく去って行った。あの手のタイプの信者たちは何も言わずとも同じ時間だけ恨み辛みを語ってくる、刺激しないよう黙って聞いているよりは為になる本談義の方が良い。
その場に立ったままペラペラと手に持つ本を捲っていると、ふいに視界の隅で鈍色が動いた。隅の方でずっと向こうを向いたまま胡坐をかいて座っていた奴隷の男が、此方を振り返っている。
「凄い」
「あんなの屁理屈ですよ、褒められると恥ずかしいです」
苦笑するリゼルに、男はぱちぱちと目を瞬かせていた。
彼は知っている。見回りに来る信者達の内、ああいった此処に居座り恨み辛みを零すような信者に対してリゼルは一人残らず最終的に本談義へと持ち込んでいる事を。
もちろん交わす会話も一人一人違うし、必要ならば相手に合わせて上から行ったり下から行ったりと立ち位置を変えてみたりもする。それなのに全員同じ展開に持って行くのだから凄いとしか言いようが無い。
「それにしても支配者さん、モテモテですね」
「?」
想像通り支配者を軸に纏まってはいるのだろうが、信者同士に仲間意識は無いようだ。
周囲への反感を増してみせても内部分裂までは望めないだろうが、元々弱い団結力を更に弱める事が出来れば上出来だろう。おだてた甲斐があるものだと、リゼルは一つ頷いた。
拘束された牢屋の中で出来ることは酷く少ないが、ジルやイレヴンも頑張って探してくれているだろうから出来ることはしておく。
「(とはいえ突破口が見つからないしなぁ……時間が無いのがネックなのかも)」
信者達からさり気なく聞きだしている話を纏めてみると、どうやら計画の準備はほぼ終わっているらしい。
信者にはああ言ったが騎兵団にはこの国まで運んで貰った恩がある。それに加えて誘拐された事で立派な当事者になったのだし、信者たちが騎兵団排除に動きだす前に出られたなら騎兵団にチクろうかと思っていたが無理そうだ。
「(信者さん達がアスタルニアを離れようとすればイレヴン達が気付くし、それが最短なのかな)」
出来るだけ早い方が良いなと、手に持つ本をパタンと閉じる。
毛布を肩に引き寄せながらベッドへと近付き、持っていた研究書を他の本の上に置いた。そして、ふと振り返る。何処か期待を込めたような眼差しがじっと此方を見ていた。
「本、読みますか?」
「読む」
すぐにこくりと頷いた男に微笑み、リゼルは“異形の支配者と呼ばれる人”を手に取る。
焦ってもどうにもならないものはどうにもならないのだ。ならばジル達が望むように好きなようにしていようと、毛布を敷いて奴隷の男の前へゆっくりと腰を下ろした。