作品タイトル不明
113:一切の容赦はなし
そこは見上げた先に果てのない書庫だった。
隠し通路で見たように塔を思い出させるような作りをしている。隙間なく壁を覆う本棚には色も形も大きさも違う本が並んでいるが螺旋階段は無く、足元を覆う石畳が空気を冷たく感じさせた。
数多存在する炎を抱くランプだけが光源の空間は、空気が揺れる度に光も揺れる。何かが息を潜めて此方を見ているような、そんな歪な空気を孕んだ空間だった。
其処に音は一切無い。そんな耳が痛いほどの静寂の中へ、リゼル達は靴音を反響させながら足を踏み入れた。
「何もいませんね」
穏やかな声が広い空間へと零される。
壊しがたい静寂を容易く終わらせたその声には一切に気負いが無い。
「此処がボスなのは間違いねぇんスけど」
辿りついた四十五階層、そこにあったのはこの部屋へと続く大きな扉一つだったのだから。
迷宮では大抵最深部にはボスへ続く扉と魔法陣以外には何もない。例えば此処から更に道が続いているのなら迷宮はまだ先に続くのだろうが、その様子も無いので間違いは無いはずだ。
イレヴンは舌を唇へと這わせながらスッと視線を滑らせた。何かを探るように書庫を巡った視線は何も捉えることなく、何処にいるのかと見えない天井へと向ける。
「未知の魔物なんて少し緊張するけど楽しみですね」
「お前緊張なんてすんの」
「しますよ」
全く緊張など感じられない穏やかな微笑みを浮かべる相手に、ジルは呆れたように溜息をついた。
ボスというのは一つの迷宮に一匹、普通の魔物ならば他の迷宮でも外でも出る事があるがそうではない。つまり未踏破の迷宮でこれから相見える魔物はリゼルの言う通り未知の魔物だ。
それは以前の“人魚姫の洞”のボスにも当てはまる。しかし前回のように長年ボス以外は攻略され尽くされていた迷宮ではなく、今回はリゼルにとって真新しい迷宮を初めて一から攻略してきただけあって地味に嬉しいのかもしれない。
「お前、時々冒険者らしいよな」
「冒険者ですから」
可笑しそうに笑うリゼルに、多少浮足立とうと冷静さを失わない男なのだから良いかとジルは頷いた。戦闘に支障が出そうならば一言二言声をかけるが、そうでないならば楽しめば良いし好きにすれば良い。
「今日ボスを倒せたら俺達が初踏破なんでしょうか」
「他が踏破したっつー話は聞かねぇッスね」
「入れ違いで踏破されてなけりゃそうなんじゃねぇの」
リゼル達はゆっくりと歩を進め、部屋の丁度真ん中で足を止めた。
見回しても視界は本に埋め尽くされる。リゼルには落ち着くと同時にまた書庫らしくない緊張感を孕んだ空気を、ジルとイレヴンには居心地が悪いが何処か煽られる空気を感じさせた。
何かいるのは、きっと確かなのだろう。
「何でしょう、透明な魔物とか。ほら、前にも居たじゃないですか」
「ならもう攻撃されてなきゃおかし……ッ」
ふいに言葉を切ったイレヴンが弾かれるように上を向き剣を振るう。その時には既にリゼルは彼の手によってジルの方へとトンッと肩を押されていた。
それに逆らうこと無く身を任せ、自らの体に腕が回されるのを甘受しながら魔銃を操作する。音も無く三人の上へと落ちて来た巨大な影が何かすら判断出来ない一瞬でリゼルはそれを撃ち抜いた。
剣が弾かれる音と、魔力が霧散する音。ズンッと地を震わせるような巨体の落下音に掻き消されたが、それらは確かに後方に飛びすさったリゼル達の耳へと届いた。
「ん」
「有難うございます。あ、魔力も剣も弾かれちゃいましたね」
「腹側も通んねッスよ」
其処にいたのは見上げんばかりの巨大な蜘蛛だった。長く巨大な刺が角のように二本、背中から曲線を描き天井へと向いている。
巨大蜘蛛はその体長よりも長い幾本もの足をゆっくりと動かし、漆黒の体を蠢かせ此方へと振り返る。顔の部分が露わになるごとに不思議な光彩を放つ丸い四つの大きな眼が姿を現し、その下には鋭く鋏のような牙が見えた。
その体は鈍く光を反射し、まるで殻を纏う様にいかにも硬そうに思える。音も無く足を動かしていた巨大蜘蛛が完全に正面を此方に向け、ぴたりと動きを止めた。
「毒、ありそうですか?」
「今んトコ匂いしねぇけど。口元は危ねぇかも」
「来るぞ」
まるで助走をつけるようにその場で複数の足を動かしていた蜘蛛が、直後三人へ向かって襲いかかった。硬い足が激しく石畳を踏み鳴らす音が、書庫の静寂を完全に破壊する。
「ジル、一本潰せるか試して下さい」
「自信は無ぇな」
八本の足で迫りくる蜘蛛はその勢いを三人の寸前でピタリと止め、高く持ち上げた前足を振り下ろした。石畳が砕ける程のそれを、リゼル達は寸前でかわす。
数歩後ろに下がるだけで容易にそれを避けたジルが、同時に構えていた大剣を振り抜いた。大抵の魔物ならばそれだけで地に伏せる一撃は、しかし蜘蛛の足の表面を削るだけに終わる。
それに舌打ちをし、すぐさまその場を飛びのいた。直後寸前までジルがいた場所をもう一本の足が抉る。
「削ってくのは時間かかりそうだ」
「みたいですね」
ボスならこんなものだろう。一撃で決定打が与えられるなど滅多にない。
蜘蛛の真後ろに逃れ距離をとるリゼルの隣に並びながら、しかしジルは彼の考えを理解しているので無駄な攻撃をさせるななどとは決して言わない。理由など明らかだ。
「あの機動力は早めに削っておきたかったんですけど」
相当な勢いと速度を出していた筈なのに攻撃の寸前名残すら残さず静止した巨大蜘蛛は、リゼル達の立つ後ろを振り返ることなくそのまま直進を始めた。静止直後とは思えぬトップスピードを落とすこと無く書庫の壁へと向かい、そしてその速度のままに壁に敷き詰められた本棚を登り始める。
やっぱりとそれを眺めるリゼルと、呆れたように口を開けているジルと、引き攣った顔でそれを見上げるイレヴンの前で巨大蜘蛛は急激な動作で方向転換し再びリゼル達へと襲いかかった。今度は攻撃の為に止まる気配も無い、そのまま突っ込んでくる。
「何これどうやって攻撃すんスか!」
「いっそ足元に張り付いた方が良いんじゃねぇの」
「それだと俺が間違いなく避けきれません」
「危ねッ!」
踏みつけられれば確実に何処かが砕け、跳ね飛ばされれば骨ぐらいは容易に折られそうな足が八本、隙間なく地面を叩きながら通過していくのを何とか避ける。
しかし直ぐに別の方向から襲いかかって来るだろう。早めに対策を練らなければならない。
「ジル、ガッとあの足を掴んで動きを止めれませんか?」
「アホ」
「リーダー魔法は?」
「あんな大物だと足止めも満足に出来ないかもしれません」
リゼルは魔力が多い方とはいえ特別多い訳でも無い。応用を利かせれば実戦で通用するが、巨大な一発というものは無いので決定打には欠けてしまう。
「どうしましょう。俺は少し離れて援護に回って、やっぱり地道に……」
「えー! そういう面倒なの俺すっげぇイヤ」
ジルの言う通り足元に潜り機動力を落とせば縦横無尽に書庫を駆けまわる事は無いのだろうが、そうなると突如上から横から不規則に叩き付けられる足を常に避け続ける必要がある。
そもそも足には大して攻撃が通らないのは確認済みだ。ちまちま削ればいつかは潰せるだろうが、他に楽な方法があるならそれに越したことは無い。
イレヴンも嫌がっているし、それは最後の手段になるだろう。その際にはリゼルが全力で強化魔法をかければ少しは攻撃が通るようになって多少は楽になる筈だ。
「じゃあやっぱり弱点狙いで、とりあえず目とか狙ってみましょうか」
「あのモノクル絶対弾かれんぞ」
「やっぱりですか?」
巨大蜘蛛の頭に四つならぶ目は、内側の二つが大きく外側の二つがやや小さい。
その中心寄りの二つには何故かモノクルが被せられている。金縁のモノクルは人の頭より大きな目に合わせて相当な大きさをしており、まさか視力矯正とは思えないので防御の役割が有るのだろう。
「二つ並べんなら眼鏡じゃ駄目なんスかね」
「引っかける耳が無いからでしょうか。あれもどうやって付いてるのか分からないですけど」
とりあえず剥き出しにされた外側二つの目を狙った方が良いだろう。
ちなみに誰も何も言わないが、三人共モノクルを見た時にジャッジの事を思い出していた。巨大蜘蛛で自分を連想されたなどと知れば彼は間違いなく泣く。
「次に壁に上ったら狙います」
そう言うと、リゼルはもう一つ別の魔銃を取り出した。
左右に並ぶように浮かぶ魔銃と共に向かって来る蜘蛛をぎりぎりで避ける。直ぐそばを通り過ぎた足から巻き起こる風が髪を揺らすのを感じながら、更に立て続けに襲いかかるそれらから距離をとった。
通り過ぎ壁へと激突する勢いで走る蜘蛛がスピードを落とすことなく本棚を直角に上り、隙を狙う様に走り回る。その時、ふいに別の大剣を取り出したジルがそれを振り被った。
「止めるぞ」
「お願いします」
風を切り裂く音を立てながら放たれた大剣がガァンッと音をたて蜘蛛の目前で突き刺さる。
本と本との隙間を縫う様に余りにも強烈に突き立てられた剣に、蜘蛛は一瞬動きを止めた。その瞬間を逃す事なく二丁の銃が同時に引き金を引かれ、パァンッと不思議な光彩を帯びた眼球が二つ弾ける。
「そのまま突っ込んで下さいね」
リゼルが言葉を言い終わる頃には、ジルとイレヴンは壁面で蠢く巨大な蜘蛛の下へと駆けていた。
蜘蛛は上体をのけぞるように前足を振り上げながら、酷く不快な鳴き声を上げガチガチと鋏のような牙を打ち鳴らす。その前足が本棚へと叩き付けられる寸前、リゼルは普段の数倍の魔力を魔銃へと注ぎ足元目がけて撃ちこんだ。
込めた魔力の属性は火。魔力は壁にぶつかり爆発を起こし、荒れ狂う爆風が巨大な蜘蛛を無理矢理本棚から引き剥がす。
「燃えないとはいえ、書庫で火って嫌ですね」
「リーダーナイス!」
その巨体を硬直させ落下した蜘蛛にジル達が肉薄した。至近距離で地面に崩れ落ち、直ぐにでも立ち上がろうとギシギシと体を蠢かせる蜘蛛は視界を埋め尽くす程に巨大だった。
歪に足を伸ばし地面を掻いているその関節の前でジルが大剣を振り上げる。イレヴンも傾いた頭に飛び乗り、残った目を潰そうとモノクルを掻い潜るように双剣を振るった。
「一本目」
ジルの大剣が足を一本破壊する。
「げッ、変な感触する」
イレヴンの双剣が抵抗なく眼球を抉る。
そして深追いせず二人が直ぐにその場から離れると、直後蜘蛛はブンッと邪魔なものを振り払う様に頭を振りながら立ち上がった。その足は一本が途中でへし折られ、ピクリピクリと力無く上下に動いている。
ふいに巨大蜘蛛はそのまま後ろを向いた。真っ直ぐに本棚の壁へと走りザカザカと天井へと登って闇へと消えてしまう。
それを見上げるリゼルの元へ、剣を拭ったり回したりしながらジルとイレヴンが歩み寄った。
「何スかあれ、逃げた?」
「それは無いと思いますけど……でも一本使えないぐらいじゃ全然問題無いんですね、半分は潰さないといけないかもしれません」
「そうそう転んでくれりゃ良いがな」
再び静寂の戻った書庫で、リゼル達は上を見ながらそんな事を話している。
イレヴンに言わせてみれば“何かカサカサ聞こえる”らしいので居る事は確かなのだろう。また落下してきたらどうしよう、などと思いながらリゼルは魔銃を真上へと向けてみた。
「撃っても良いと思います?」
「止めとけ。変な反撃食らっても面倒だ」
「分かりました」
数多のボスと戦ってきたジルが言うならそうなのだろう、リゼルは素直に銃を下ろした。
しかしそうなると打つ手が無い。相手の出方を窺うのは趣味では無いなぁと考えながら、髪を耳に掛ける。
「そういえばイレヴン、目ってどうでした?」
「手ごたえは無ぇッスね、かったいスライム斬ったみてぇな感触。虫系って毒効かねぇヤツ多いから嫌だよなァ」
最後に一瞬だけ見えたモノクル越しの眼球は、確かにそのままの形を残していた。
物理攻撃は効かないのだろうか、それとも破壊が不可能なのだろうか。そうなるとモノクルの意味が無い。
しかしそんな中、確かに一つ変化していた事があった。それ以外の不思議な光彩を持つ二つの目が、鈍く光る様に色を変えていたのだ。
「赤くなってましたね、目」
「怒ったんだろ」
「怒ったんじゃねッスか」
真っ赤に染まった目が何を示しているのかなど今の段階では分からないが、見た目には怒ったようにしか見えない。それもそうだろう、目を抉られれば誰だって怒る。
それとも今の状況へと移る合図なのか、実は攻撃が効いていたのか。そんな事を話している時だった。
ふいに言葉を切ったイレヴンが、何かに気付いたように上を向く。
「あ、来た」
「え? あ、本当ですね。出てくる時も途中までこうして降りて来たんでしょうか」
そこには本来の蜘蛛らしく頭を下に糸からぶらさがり此方を見下ろす巨体があった。闇に覆われた天井からスゥ、と姿を現すその姿は仄かに光る丸く大きな眼球も相まり不気味な様相を醸している。
一切の音もなく近付く相手に良く気付けるものだと感心しながら、リゼルは改めて銃を真上に向けた。一定距離まで降りて来て動きを止めてしまった蜘蛛はキシキシと全ての足を動かしてはいるが、何故か此方に攻撃をしかけようとはしない。
「何スかあれ。何か魔法の準備?」
「いえ、特にそんな感じはしないです。ぶらさがってる糸とか撃ってみましょうか」
「良いんじゃねぇの。あそこから落ちりゃ足二本ぐらいは潰す余裕が出来んだろ」
ならそうしようと、リゼルが銃の引き金を引こうとした瞬間の事だった。
「リ、ッニィサン!」
滅多に聞く事の無い焦燥感を孕んだイレヴンの声が書庫に響く。
直後、リゼルが見たのはイレヴンの剣の切っ先だった。それは確かに自分へと向けられて今にも貫かれようとしていたが、リゼルが思ったのは以前にも似たような事があったとそれだけだ。
ガキンッと剣同士がぶつかる音がする。
「お前遅くなってんぞ」
「だって俺がやってんじゃねぇし! コレ気持ち悪ッ、体無理矢理動かされんの気持ち悪ッ! つか死ぬかと思った!」
「俺がですか?」
「俺が!!」
リゼルの前に立ったジルが、その剣でイレヴンによる攻撃を防いでいた。
全力で嫌そうな顔をしたイレヴンが動きだけはやけに軽快に二人から離れる。ジルの後ろから出たリゼルがそれを見て、そして上でやはり足を動かし続ける蜘蛛と見比べながらも疑問を口にした。
「イレヴン、何で途中で言い直したんですか」
「だってリーダーじゃ避けらんねぇと思って」
「確かに本気の君の攻撃は避けられないですけど、今くらいなら多分七割ぐらいでギリギリ避けられました」
「三割死ぬじゃねぇか」
ジルは呆れたように溜息をついた。十割以外は不十分だと見なす男が一体何を言っているのか。
例えそれが九割だって九割五分だってリゼルは一切動かずジルに任せたのだから、言い直されたことに特に不満は無いのだろう。ほのほのと笑いながらイレヴンを見ている。
「蜘蛛だから糸で操ってるって事なんでしょうか……それにしては糸なんて見えないですけど」
キシキシと何かを手繰る様に動かされる蜘蛛の足、そして実際に意識は持ちながらも体の言う事が聞かないイレヴンを見れば蜘蛛に操られているのは明白だった。しかし糸が降りてくれば流石にイレヴンやジルが気付くだろう、太陽光が入らずランプの光だけの空間で見えにくくなっていても二人ならば反応する筈だ。
見ていると、ふいにイレヴンの上体が沈む。構えられた双剣に、再び攻撃が来るのだろうとリゼル達は身構えた。
「イレヴン、どんな感じですか? 糸が繋がってる感覚とかありますか?」
「あー……抵抗しようと思えば出来るけどイミ無ぇで勝手に動く感じ? 何か触りゃ分かるけど全然無ぇし、糸に引っ張られてるっつー感覚も無ぇッス」
抵抗しようと思えば出来る、という事は先程リゼルを狙った攻撃も全力で抵抗したのだろう。だからこそジルには遅いと言われ、リゼルを以って七割避けられる程度までは動きが落ちていたらしい。
しかし今は抵抗らしい抵抗はしていなそうだ。ジルへと剣を振るう動きは普段のイレヴンの動きに酷く近い。流石は迷宮だろう。
「危ねッ! 動かし方ヘッタクソでマジ怖ぇ! 俺の視点で見るとニィサンの攻撃凄ぇ怖ぇんだけど!」
「俺からはいつもと余り変わらないように見えるんですけど、やっぱり違うんですね」
「んな無様な動き方した覚え無ぇし! あ、右抜けてリーダーんとこ行こうとしてる。極力俺に影響が出ねぇように止めて」
イレヴンも操られている分、次にどう動くのかが分かるらしい。
リゼルへと攻撃が向きそうになった時は口にも出すし抵抗もしているが、何故自分への攻撃にそれが一切無いのかとジルは内心で呟いた。信用していると言えば聞こえは良いが確実にそうではない。
言葉通り体勢を低くして後ろへ抜けようとするイレヴンを、ジルはその腹を蹴り飛ばすことで止めた。散々文句が飛び出るが、言われた通り止めてやったのだから文句を言われる筋合いは無い。
「くっそ、衝撃は来んだから加減しろっつの」
「してやっただろうが」
「あれ、イレヴン動けるんですか?」
膝をつき、地面へ触れる髪をピンッと弾きながら立ち上がるイレヴンにリゼルは首を傾けた。見慣れたその仕草まで操られているという訳ではないだろう。
イレヴンは言われてようやく気付いたように剣を持つ手を握ったり開いたりする。完全に支配からは解放されていた。
「あ、ホントだ動ける」
「良かった、なら今の内に」
ぴたり、とリゼルの言葉が止まる。
それに嫌な予感を感じ、ジルとイレヴンは浮かんだ予想が是非外れろと思いながらそちらを向いた。
「すみません」
浮かべられた穏やかな苦笑とは裏腹に、リゼルの足が地を蹴った。
「誰も操られてない内に引き摺り下ろしておきたかったんですけど、思ったより直ぐ標的を変えられるんですね」
「リーダー冷静な事言ってっけど何!? 肉弾戦出来んの!?」
「いえ、全然出来ません。だから今、ちょっと嬉しいです」
言葉通り何処か嬉しそうな穏やかな顔が、イレヴンへと掌底を繰り出した。
勿論体はリゼルなので全く以って手強くは無いのだが、下手に払って傷をつけるのも嫌だし勿論反撃も出来ないしでイレヴンは顔を引き攣らせながら避ける。思ったよりはサマになった動きをしているし、一見護身術でも齧っていたのかと思うような動き方をしているがそういう問題じゃない。
「「(劇的に似合わねぇ……!)」」
「あ、何か失礼な事を思われてる気がします」
自らの体を操られながらリゼルはちらりと巨大な蜘蛛を見上げた。
最初、糸を千切らんと銃を向けたリゼルをイレヴンを操り攻撃する事で止めた。そしてジルによりリゼルへの攻撃を阻まれ、敵わないと分かるや否やリゼル本人を操り始めた。
偶然かもしれないが、意図しての事だったならあの巨体を地面へと引き摺り下ろすのは最も効果的な手段なのだろう。蜘蛛にとってみれば、最も危機的な状況だ。
「(もし操ってる手段が糸じゃなくて精神感応とかだと、誰かが操られてる時は影響でるから攻撃出来ないし)」
「リーダーの回し蹴り! 貴重過ぎる! そして似合わない!」
「(それなら意識ごと乗っ取るだろうから、やっぱり糸かな。ジルが剣を投げて糸を切る……とかだと、もし真下に引き摺られたら潰されるし)」
「こいつ明日筋肉痛になんじゃねぇの。似合わねぇ上に筋肉痛とか散々だよな」
「(絶対何発か撃ちこまないと糸は切れないだろうなぁ。標的変えの瞬間を狙ったんじゃ間に合わなそうだし)」
「リーダーも運動神経悪いわけじゃねぇのにこの違和感! 凄ぇ違和感!!」
ひたすら失礼な事を言われている。
そんな似合わないことは無いんじゃないかと、リゼルはジルの胸倉を掴もうとして避けられている自らをちらりと見下ろした。ここでもし掴んで、投げ飛ばしでもすれば結構見栄えするんじゃないだろうか。
投げ飛ばすには恐らく自分の筋力では足りないが、ジルなら上手く空中でグルッと回転してやられたフリが出来そうだ。是非やってくれないだろうか。
「お前何か変なこと考えてんだろ」
「まさか。それよりジル、そろそろ止めて貰って良いですか?」
ジルは呆れた顔をしながら近付いて来た体に手を伸ばした。
すかさず顔面へと迫る掌底を受け止め、その手を握り締めることで捉える。その手に伸ばされたリゼルのもう片方の腕を手首を掴むことで此方も止め、両手を塞いだ。
「あ」
「あ?」
「げっ」
直後、リゼルの体から繰り出されたのは膝による金的だった。
それを足で防いだジルは容易に止められはしたが盛大に顔を顰め、イレヴンは盛大に顔を引き攣らせ、リゼルは申し訳なさそうに苦笑する。操られているとはいえ同じ男としては流石に悪びれずにいることは出来ない。
「……止めたぞ」
「すみませんってば。でもこれで、次はジルが操られる筈です」
リゼルの言葉に、ジルの顰められた眉がピクリと上がる。
何故蜘蛛は最初にリゼルを操らなかったのか。それはリゼルを操作し糸を切らせないより、リゼルを排除し糸を切れる者を消す方を優先したからだ。
イレヴンを操りジルに妨害され、ならばとリゼルを操ったがジルに容易に止められた。ならばジルを操作すれば、障害を消し去る事が出来る。
「リーダー、大侵攻の時はニィサン操られんの最悪っつってたのに良いの?」
「あの時は意識ごと持って行かれる可能性があったから。でもこれって、まず無理だけど抵抗は出来るでしょう?」
ジルを敵に回すなんて随分と分の悪い賭けに思えるが、リゼルがとる手段ならば問題は無いのだろうとイレヴンも焦らず問いかける。そして返って来た言葉に酷く納得した。
つまり、ジルに頭上で高みの見物をかますアレを引き摺り下ろせと言っているのだ。
当然のように言ってくれるものだと、ジルは目を細め酷く好戦的に笑う。そして決して傷つけぬよう加減された手に両手を拘束されながら、リゼルはゆるりと微笑みを返した。
「頑張って下さいね」
贈られた何処までも穏やかな命令と共に、リゼルの腕からふっと力が抜けた。
直後、ジルは自らの意思でその場から大きく離れる。同時に同じくイレヴンがリゼルを自分から引き離したのを見た。
すぐに感じたのは自らの体が強制的に動かされる感覚で、腕が勝手に剣を持ち上げるのを見ながら確かに気分が悪いと小さく舌打ちを零す。そして何となく見下ろしていた視線を上げた。
「おい」
書庫のほぼ真反対に立った二人が、物凄い臨戦態勢で此方を窺っていた。
それは当たり前だ。当たり前だが、本気過ぎる。確実に殺しに来ている。
「てめぇそれ毒用のナイフじゃねぇか。奥の手堂々と出してんじゃねぇよ、零れるほど仕込みやがって」
「だってニィサン相手にリーダー守ろうと思うと殺す気で行くしかねぇし!」
確実に致死毒だ。普段は滅多に使わない特注品を惜しむ事なく晒している。
先程極力自らに影響が出ないように止めろと言ったのはどの口なのか。
「お前に限ってはそれガチじゃねぇか。見せたくねぇっつってたのに全部出しやがって……おい、七あんぞ。ガチすぎて怖ぇよ」
「だってジル相手に生き残ろうと思うと本気出しても足りないぐらいですし」
大侵攻の時、確かに六丁だった魔銃が何故か一丁増えている。
奥の手を隠したがる男がまさかこう来るとは。もっと有っても不思議ではない。
それらの魔銃に詰められた魔力の量は一体どれくらいなのだろうか。気になるが知りたくは無い。
「大丈夫ですよ、ジル。これはこれから落ちてくるボスに使うやつです」
「ニィサン頑張れー」
先程の言い訳を聞いた後では説得力など無いが、そもそも少しでもジルが操られる可能性があるのならばリゼルはこの手段を取らない。そう知ってはいても思う所はあるが。
ジルは二人に向かおうと動かされる体に力を込めた。ぐ、と足を地面へと押し付けながら剣を構える手を引くと頭上の蜘蛛が不自然にグラリと揺れ、操る手足をピタリと止める。
後ろ半分の足が自らの体重を支える糸を手繰ろうとするのを、遅いと吐き捨て腕を持ち上げた。頭を潜らせるように腕を薙ぐと、目には見えないが数えきれない程の細い糸を押しのける感覚がする。
蜘蛛がズルリと体勢を崩した。ジルはそのまま押しのける腕をずらし糸をまとめて握りこむ。ここまで来ると既に、透明な糸が蜘蛛の手足からジルの手を繋いでいるのが見えた。
「落ちろ」
口元に嗜虐的な笑みを浮かべ、糸を握り込んだ手を思いきり引き巨体を引き摺り落とした。
ドォンッと地面を微かに振動させながら黒く巨大な蜘蛛が石畳の床へと落下する。裏返り不規則に足を動かす姿はかなりのダメージを負った事を訴え、その目からは赤が消え不思議な光彩を取り戻していた。
「よっしゃ落ちた!」
「フルボッコです、フルボッコ」
「お前それ何処で覚えた」
三人はわーっと巨大蜘蛛へと走り寄り、リゼルの言葉を借りるならば滅茶苦茶フルボッコにした。勝った。
リゼル達がギルドにて踏破宣言をした時の反応は、「やっぱりな」と遠い目をしていたのがギルドの職員たちで、「やっぱりな」と初踏破の名誉を逃し喚いていたのが冒険者達だった。流石に初踏破を目指す冒険者達に溢れている中、踏破を告げずに彼らを悠々と眺める事など憚れる為に今回はちゃんとギルドに報告したのだ。
しかし冒険者達は“人ならざる者達の書庫”への挑戦を止める事なく、むしろ全く勢いを落とすこと無く迷宮へと挑むだろう。その理由の一つに、もはやリゼル達ならば仕方無いという例外的な扱いとされ、三人を除いて次の踏破を成し得た者達が本来のものと一切変わらない名誉を得られるだろう事は想像に難くないことにある。
もう一つは、リゼルがギルドで何気なく言った言葉が原因だった。
『情報提供は止めておきますね。あの迷宮は是非自分達で楽しんで欲しい仕掛けがたくさんあったんです』
ほのほのと微笑んで告げたリゼルの言葉により、新迷宮は踏破報酬が無いだけの新迷宮のままとなったのだ。元々迷宮の踏破を果たせる者などほとんどおらず、情報提供料目当てに潜るものも多い。
勿論出来る出来ないを抜かせば誰しも踏破を目指す事に変わりはないが、大体の者にとっては踏破前と一切変わりが無い。
これでリゼルが貰い過ぎは悪いと変に遠慮したなら冒険者の風上にも置けないと周囲は不快感を抱いただろうし、上から目線で施したつもりならば舐めるなと乱闘が始まっただろうが、ひねくれ反発する者以外は決してそうは思わなかった。
『特に中層の隠し部屋の仕掛けなんて、気付いた方は絶対嬉しいと思うんです。それに隠し通路の書架は……あ、言い過ぎですね。実際に初見で見た方が感動します』
リゼルは心から仕掛けを楽しんで欲しいと思っている。
なんというか微笑みが本を読んでいる時の微笑みになっているなと誰もが納得した。ギルド内で魔物図鑑を読むリゼルを見た事がある者は多い、露骨に幸せそうではないにしても普段と何かが違うことは分かる。
「まぁ新迷宮があると奴らは活気付くし、ギルド職員としては感謝のしどころだな」
「情報提供は任意なんですし、感謝の必要は無いですよ」
可笑しそうに笑うリゼルに、ギルド職員は気の抜けた笑みを浮かべる。
場所は別室、冗談交じりに踏破報酬を手に入れたら見せてくれと言っておいたお陰で情報提供をしないと宣言したリゼルが踏破報酬を見せてくれるのだから、言っておいて良かったと心底思う。
そもそも踏破報酬は各々の迷宮史上初踏破しか出ないのだから、他の冒険者にはそれこそ何も関係が無い。ならば見せろと言われてリゼルに見せない理由は無かった。
「しかしあれから二日後に踏破宣言されるたぁな……」
「その踏破の確認した日って、初めて潜った翌日だったと思うんですけど」
「アレはお前、アレだろ。……アレだ、ギルド職員の義務だろ」
どういう意味なのかと考えるリゼルの前で、職員は勝手に納得してしまった。
後は情報提供だけだからとそのまま解散し、今部屋にいるのはリゼルと職員だけだ。もし他にギルドの職員が居れば目の前に座る職員へと全力で同意するだろうし、ジルやイレヴンがいれば訳が分からんとリゼルに同意してくれただろう。
「それで踏破報酬がこれか」
「はい」
机の上に置かれているのは漆黒の掌大の大きさをした魔石だった。ついでにボス素材である大きなモノクル二つと酷く透明感のある細い糸の束も並べられている。
魔石はただ漆黒としかいえない完全な球体で、透ける事もなくただ闇を孕んでいる。唯一魔力を流しこめる事が魔石の証明だったが流し込んだ所で何がある訳も無く、何に使うのかはリゼルには分からなかった。
「知り合いに凄く優秀な鑑定士がいるので、その子に見て貰おうと思ってます」
「あー……そうだな。ギルド付の鑑定士でも分かりそうにねぇ」
いつになるかは分からないけど、と微笑むリゼルに職員は頷いた。
個人的な感情としては正体を知りたいが、持ち主がそう言っているのならば納得するしかないだろう。本当にただの黒い魔石と言う事は無いだろうし、何か凄いものだったら是非教えて欲しいものだ。
リゼルと職員はそれから王宮の書庫利用についてや問題無い範囲での新迷宮のことを話し合ったが、職員にも仕事があるのだからと然程たたない内にリゼルはギルドを出た。ギルドの出入り口で顔を合わせた冒険者に踏破を祝われ、微笑んで礼を返してそのまま歩き出す。
外はもう日が沈みかけていた。薄らとしか光が残らない中を、宿に向かい足を進める。
「(夕食はどうしようかなぁ……)」
とりあえず装備から着替えたい為に宿には帰るが、夕食は外で食べても良い。ジルとイレヴンはどちらにするのだろう。
そんな事を考えながら、宿への近道である路地へと入る。少しだけ狭い道はそとの明るさと対比すると酷く暗く感じ、しかし隙間から大きな通りを見やると逆に薄い光しかなかった通りが酷く明るく見えてリゼルは少しだけ微笑んだ。
そして直角の角を曲がり、短い路地を抜けようとした時だった。
「…………」
一人の男が目の前に立ち塞がっていた。リゼルは足を止め、何も言わず目の前の男を見る。
体格の良い体を露わにただ立つ男は、浅黒い肌も相まって一見普通のアスタルニア国民のように見えた。いや、本当にアスタルニアの民なのかもしれない。
ただ、その意識は真っ直ぐに此方へと向けられている。それは敵意ほど強くも無いし、殺意ほど鋭くも無いが、決して友好的とは言えないものだった。
「うーん……」
まいったなぁと、リゼルは苦笑した。歴戦の勘は持ち得ないし強さの所以も分からないが、リゼルも向き合った相手が強者かどうかぐらいは分かる。
目の前の男が小細工の利かない相手だと、すぐに判断出来た。
それはつまりジルやイレヴンのように、戦闘においてはどれ程の奇襲をしかけようと一切の勝ち目が無い人種。精鋭が出てこないという事はそういう事なのだろう、出て行っても敵わないのだから姿を現す事に意味など無い。
ざ、と相手が裸足の足を一歩踏み出した。リゼルは下がる事無く、普段と変わりの無い微笑みを浮かべる。
「抵抗もしませんし、可能な限り貴方の言う事にも従います」
リゼルはまるで、連れて行ってというように手を差し出した。
「お手柔らかに」
浮かべられた穏やかな微笑みに、男が何を思っているのかは分からない。
しかし近付いて来た彼から聞こえた息の音は、不思議と何かの金属を擦り合わせるような硬質的な音をしていた。