軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

逃げるように帰宅

足早にザルムホーファー侯爵家の玄関から出ると、背後より声が響き渡る。

「ベアトリス! やはり今から話を――」

「イーゼンブルク公爵、困ります! お客様を追いかけるのはお止めください!」

使用人の制止するような声も聞こえた。

今日はこれ以上、オイゲンと言葉を交わしたくなかった。

彼が私に追いつく前に、グリちゃんを呼ぶ。

『ぴい!』

グリちゃんはオイゲンの声を聞いて緊急事態だと思ったのか、すぐに飛んできてくれた。

使用人達がオイゲンを止めている間に、急いで鞍や手綱を付けて跨がる。

「グリちゃん、お願い」

『ぴいいい』

グリちゃんが飛び立とうとした瞬間、オイゲンが玄関に現れる。

「ベアトリス、待ってくれ!!」

待つわけがなかった。

グリちゃんの首回りに顔を埋め、オイゲンの姿が視界に入らないようにする。

空高く飛び、厚い雲でザルムホーファー侯爵邸が見えなくなった途端に、ホッと安心することができた。

まさか今日、オイゲンと会うなんて、誰が想像できただろうか。

ザルムホーファー魔法薬師長は私を心配するのと同様に、オイゲンについても気にかけていたのだろう。

それがこのような最低最悪の事態を招くことになるなんて……。

オイゲンが自らの行いを反省し、私との離婚を後悔、真実の愛に目覚めたのでヒーディと別れるなど、嘘に決まっている。

きっと、都合よく家を盛り立ててくれた私と魔法薬師達がいなくなり、不便を強いられたので、一芝居打ったのだろう。

心優しいザルムホーファー魔法薬師長を騙してまで、そのような行動に出るなんて、信じられなかった。

オイゲンについては考えても不快になるだけなので、頭の隅に追いやろう。

もう二度と会いませんように、と今は神頼みをするしかない。

帰宅後――お風呂に入って気持ちをスッキリさせる。

苛立ちを抑える薔薇のバスボムを浮かべ、心身の不安解消に効果があるカモミールの薬草茶を飲む。

リンゴみたいに甘酸っぱい匂いが漂うカモミールの薬草茶は口にすると爽やかな気分になり、心地よい薔薇の香りは私のささくれた心を癒やしてくれるような気がした。

その後、なんだかぐったりしているので、お昼寝をすることに決めた。

普段、昼間に寝ることなどないので、アライグマ妖精の姉妹が心配してくる。

お風呂上がりは冷えるから、とお祖母様が愛用していたモコモコしたガウンを持ってきてくれた。

『辛いの?』

『苦しい?』

『元気な~い?』

「少し眠ったらよくなりますので」

そんな言葉を返しても、彼女らは心配そうに私を見つめてくるばかりだった。

『パン粥作る?』

『それとも果物がいい?』

『薬草茶を淹れようか?』

「大丈夫。少し寝たら、しっかり夕食をいただきますので」

アライグマ妖精の姉妹は私が元気になるよう、おいしい料理を作ると言ってくれた。

どんな料理を作ってくれるのか、楽しみにしておこう。

ムクとモコ、モフが去ったあとの部屋で、壁にかけてあったお祖父様の王室典薬貴族の証である外套が目に付く。

処分するようにと頼まれていたのだが、実行できずにいた。

お祖父様は十年前、オイゲンの父親が死んだあと、王室典薬貴族の座を国王陛下に返上した。

今思えば、どうしてそのタイミングだったのか、謎でしかない。

心神喪失状態だったのだろう、と周囲の者達は話していた。

けれども責任感の強いお祖父様が、息子の死に耐えきれず、大切な役目を手放すなんてことをするのだろうか?

今日、ザルムホーファー魔法薬師長と会話をして、彼を後継者にするために王室典薬貴族の座を明け渡したのではないか、と思った。

けれどもそうだとしたら、別のタイミングでもいいだろう。

すでにお祖父様は亡くなっていて、真実を知る術はない。

ザルムホーファー魔法薬師長以外でお祖父様を知る人は――と考えた瞬間、エルツ様がいたと思い出す。

すぐさま背後を振り返り、ドレッサーの引き出しの中にしまっていた、通信魔法に使用する魔法の手鏡を取り出した。

今日、エルツ様も休日だったはず。

藁にもすがるような気持ちで、私は魔法の鏡に向かって声をかけた。

「――エルツ様!」

「ん?」

鏡の向こうに、眼鏡をかけて鏡を覗き込むエルツ様の姿が映った。

「ベ、ベアトリスか!?」

「はい」

返事をすると、エルツ様の姿は見えなくなって、ドサドサと何かが落下するような物音だけが聞こえる。

待つこと一分ほどで、再びエルツ様の姿が映った。

先ほどの眼鏡は外されていて、いつものエルツ様である。

「すまない、ぼんやりしていたゆえ、変な姿を見せてしまった」

「眼鏡をかけた姿、とても素敵でした」

「そうか?」

「はい」

なんでもエルツ様は目が悪いらしく、普段は視力を矯正する魔法をかけているらしい。

休日の日は目を休ませるために、眼鏡でいるようだ。

「実を言えば、あまりベアトリスの姿が見えていなくて」

「どうぞ、かけられてください」

「わかった」

再び、エルツ様は眼鏡をかけた姿で現れた。

「普段はどうして眼鏡ではないのですか?」

「一度クルツに、老眼鏡のようだと言われてから、腹を立ててかけなくなった」

「そ、そうだったのですね。とてもお似合いですよ」

「これからはベアトリスの言葉だけを信じ、生きるようにする」

先ほど、オイゲンが私の意見を聞き入れることに対して不快感しか覚えなかったのに、こうしてエルツ様が言ってくれることは嬉しく感じる。

不思議なものだ、としみじみ思ってしまった。

「それよりも、何か話があったのではないか?」

「ええ、そうなのですが、今、お時間は大丈夫ですか?」

「問題ない」

感謝の気持ちを伝えたのちに、お祖父様についての話をエルツ様に聞いてみた。

「何から話せばいいのかわからないのですが、今日、ふと、祖父はどうして王室典薬貴族の座を明け渡したのか、と気になってしまいまして」

「ああ、その件か」

「祖父は何か、周囲の者達に辞める素振りなど、見せていましたか」

エルツ様は顎に手を添え、しばし考えるような素振りを取る。

「――いいや、そのようなことは一言も申していなかった気がする。それどころか、グレイの息子は病弱だから、次の代は孫であるオイゲンになるかもしれない、とも言っていた記憶がある」

そんな話をしていたのは、今から十五年ほど前の話だったらしい。

「まだ、オイゲンの父である伯父が生きていた頃の話ですね」

「そのようだ」

かつてのお祖父様は、オイゲンが将来、王室典薬貴族となることを意識していたようだ。