作品タイトル不明
第二十五話 濁流の後始末
翌朝のミレイユは、泥の匂いで目を覚ました。
雨は上がっていた。山の端には薄い光がかかり、濡れた草の先から雫が落ちている。けれど小川はまだ低く唸り、橋の下には折れ枝と藁束が絡まっていた。
白楡館(しらにれかん) の玄関前には、夜明け前から人が集まっている。
眠っていない顔ばかりだった。子どもを抱いた母親、長靴の泥を落とす暇もない農夫、濡れた帳簿箱を胸に抱えたメイ。誰も泣いてはいない。泣くには、片づけるものが多すぎた。
「まず人です」
私は広間の机に、昨夜の避難名簿を広げた。
「怪我人、病人、薬が必要な家。次に水をかぶった畑と家畜。橋と水路は最後にまとめます。順番を間違えると、手の足りない家から潰れます」
ガスパルが濡れた帽子を握ったままうなずいた。
「奥様の頃は、こういうとき村ごとに聞き取りをしました。けれど今は、帳面が……」
「だから、今日作り直します」
私はペンを取り、村の名を上から書いた。ミレイユ村、谷下村、南畑、石切場、旧粉挽き小屋。
前世の夢で見た硝子の塔では、災害のあとに数字が並んだ。数字の後ろには人がいて、数字を間違えると人が見えなくなる。私はそれを、夢の中の私が叱られて覚えたことのように思い出していた。
「各村から二人ずつ、文字が読める者か、読める者の横で間違いを聞き取れる者を出してください。読み書きのできない家は、できる家が代わりに答えるのではなく、必ず本人から聞くこと」
「本人から?」
トマが目を丸くした。
「はい。代わりに答えると、遠慮や見栄が混じります」
白い布を腕に巻いた少女が、おそるおそる手を上げた。昨日、幼い弟を背負って避難していた子だ。
「私は、字を少し読めます。教会の古い祈祷書だけですけど」
「名前は?」
「サラです」
「ではサラ、南畑の聞き取りを手伝ってください。わからない字はメイに聞くこと。勝手に埋めないこと」
サラは胸を張った。たったそれだけで、広間の空気が少し動く。
人は、役目を渡されると背筋を伸ばす。
それは私も同じだった。
◇
昼前、セドリック様が到着した。
彼は馬から降りるなり、私の手元ではなく、水路図を見た。泥をかぶった外套のまま広間へ入り、机に置かれた聞き取り表を一枚ずつ確かめる。
「欄が細かいですね」
「細かすぎますか」
「いいえ。あとで誰が見ても追える」
その言い方に、胸の底が温かくなった。
父なら、まず費用を聞いただろう。王宮なら、誰の責任かを先に決めただろう。セドリック様は、先に仕組みを見た。
「アシュフォード領から大工を十人出します。橋の欄干は今日中に仮留めを。南畑の水引きは、うちの水路番を二人貸せます」
「費用はミレイユで負担します」
「隣領協定に基づく災害時支援です。半分は共同費で落とせる」
「そんな協定が?」
「三十年前にありました。あなたの母君と、私の父が結んでいます」
セドリック様は革袋から古い写しを出した。羊皮紙の端は擦り切れていたが、下部には母の署名があった。
レティシア・ローウェン。
今の私と少し似た、けれどもっと伸びやかな筆跡だった。
「母は、ここで何をしていたのでしょう」
「少なくとも、橋と水を隣領任せにはしなかった」
やや無愛想な返事なのに、不思議と励まされた。
母は、公爵家に嫁いでも、ここを捨てていなかった。
なら私は、ここで始め直せる。
◇
午後、旧粉挽き小屋から黒い荷札が見つかった。
水に濡れて文字はにじんでいたが、刻印だけは残っている。ボルマン商会の印。昨夜、水門の脇で拾ったものと同じだった。
ノエがそれを布に包み、私の前へ差し出した。
「奥様、裏に釘で打った跡があります。荷札だけ流れたんじゃありません。木箱につけて、小屋の床下に隠していたんだと思います」
「中身は?」
「空でした。でも、床板に薬草の粉が残ってます。匂いは、温室にあった解熱草に似てる」
昨年、王都からミレイユへ送られた救恤用の薬草。その一部が届いていないことは、帳簿で見つけていた。
やはり、途中で消えている。
「濡れた床板ごと外してください。証拠として乾かします。誰が触ったか記録を」
「はい」
ノエが駆けていく。
セドリック様が、低く言った。
「これで王都を動かせます」
「動かす前に、ミレイユを乾かします」
私は広間の窓から、泥を掻き出す人々を見た。
「証拠も大切です。でも今、目の前で冷えている人がいます」
セドリック様は少し黙り、それからうなずいた。
「その順番でいい」
私は安堵した。
正しい順番を選ぶたびに、過去の私が少しずつ遠ざかっていく。誰かに認められるためではなく、誰かが今日を越えるために、私は決める。
夕方、サラが泥だらけの聞き取り表を持って戻った。
「奥様、南畑は、種籾が足りません。みんな言いにくそうにしていましたけど、聞いたら出ました」
「よく聞きました」
サラの頬が赤くなる。
「私、役に立ちましたか」
「はい。南畑の春を守りました」
その瞬間、広間の片隅で、誰かが小さく息をのんだ。
私も同じ息を胸にしまった。
領主の仕事は、冠をかぶることではない。
人の名の横に、明日の印をつけることだ。