作品タイトル不明
44 侯爵様は恋を知る
ジェレミーはその朝、いつもよりも早くダイニングルームへと向かった。
朝食用のパンが焼ける香ばしい香りが漂うダイニングに入ると、一足早く着席して新聞を読んでいたクリストフが顔を上げる。
「おはよう。今日はいつもより早いな」
「おはようございます」
新聞に視線を戻し、コーヒーを飲んでいる父を眺めながら、ジェレミーは話を切り出すタイミングを窺っていた。
朝食を取るには少し早いこの時間に来たのは、父と男同士の話をする為。
まだミシェルは祭壇に朝の祈りを捧げている頃なので、暫くは父と二人きりだ。
「あの……」
「ん? どうした?」
「父様は、母様の事が好きですか?」
「ングッッ!?」
突然の質問に動揺したクリストフは、吹き出しそうになったコーヒーを、無理やり飲み込んだ。
クリストフとミシェルが普通の夫婦関係では無い事は、箱入りの五歳児ジェレミーでも、なんとなく気が付いていた。
クリストフの社交嫌いのせいもあり、侯爵邸から外に出る機会の少ないジェレミーは、少々世間知らずな所がある。
だが、侯爵家の使用人や騎士達とのお喋りに恋人や妻の話題が出て来る事は多いし、物語の中にも恋人同士や夫婦は頻繁に登場する。
それらと比べると、クリストフとミシェルには親密さが足りない様に見える。
決して仲が悪い訳ではないが、二人の間には見えない壁が存在するのだ。
「コホッ……。急にどうしたんだ?」
「急ではありませんよ。
ずっと不思議に思っていたんです。
母様みたいな素敵な人と結婚出来たのに、どうして父様は母様とあんまり仲良くしないのかなって」
「ミシェルを妻に迎えた事は、私も僥倖だと思っているよ」
当たり障りの無い答えを聞いて、ジェレミーは少し拗ねた様に眉根を寄せる。
「ずるいよ、父様は。
僕だって、もう少し早く生まれていれば……」
ジェレミーがどんなに努力しても絶対に手に入らないであろう『ミシェルの夫』という立ち位置を、クリストフは簡単に手にした。
(父様は、もっとちゃんとその幸運を理解するべきだよね)
と、いつもジェレミーはもどかしく思っているのだ。
「……」
クリストフは短い沈黙の後、微かな不快感を顔に出した。
それは、ジェレミーが自分よりもミシェルに懐いている事への不満の表情なのか、それとも───。
「旦那様、五歳の息子の無邪気な発言に、なんて顔をしてるんですか」
壁際で話を聞いていたフィルマンが呆れた声で呟き、クリストフはハッと我に返った。
「……ジェレミーの初恋の相手は、ミシェルなのだな」
「もしかしたら、そうなのかも。
だけど僕は、母様だけじゃなくて父様も大好きですよ。
だから二人が仲良くしてくれて、母様がずっとここに居てくれるなら、それが一番嬉しいんです。
でも、可愛くて優しい母様の事を好きになる人は、きっと沢山いるでしょ?
いつか母様が、その人と一緒に何処かへ行っちゃうんじゃないかって心配で……」
「…………お前の気持ちは、分かった」
クリストフがそう言った瞬間、ダイニングの扉が開いた。
「おはようございます」
二人に笑顔で朝の挨拶をしたミシェル。
男同士の話は、そこで敢え無く終了となった。
ミシェルはジェレミーをとても大切にしてくれる。
今迄は、それで充分だと思っていた。
でも、先日シルヴィが起こした事件で、ジェレミーは気が付いてしまった。
侯爵夫人という立場は、決して良い事ばかりでは無いのだと。
逆恨みされたり妬まれたりして、面倒な事件に巻き込まれる事は、きっと想像以上に多いのだろう。
そんな生活に嫌気がさして、いつかミシェルが出ていってしまうのではないかと考えたら、怖くなった。
安定した生活や高い身分などのメリットも勿論あるけれど、ミシェルがそれを望んでいるとも思えない。
では何で彼女を繋ぎ止めれば良いのか……。
ジェレミーが出した答えは、『愛情』だった。
ジェレミーとミシェルの間だけでなく、クリストフとミシェルとの間にも愛情が芽生えたのなら、きっとミシェルは自分達を捨てないと考えたのだ。
クリストフはその日、ジェレミーとの会話が気になって仕事に集中出来なかった。
夜になり、自室に戻ったクリストフは、ウイスキーを片手に深い溜息を吐き出す。
『父様は、母様の事が好きですか?』
……好き………、なんだろうなぁ、多分。
先日、意識を失って倒れてしまった時。
目覚めたクリストフの顔を心配そうに覗き込むミシェルは、まるで女神の様に見えた。
最初は自分と同じ様に、事実無根の不名誉な二つ名を持つ彼女に対する少しの同情と、自分が投げつけてしまった暴言に対する罪悪感から、他の女性と接する時よりも警戒心が薄まっただけだった。
だが、適度な距離を保ちつつも、自然体でクリストフと接してくれる彼女との時間は、意外と心地良い物であった。
彼はいつの間にか、自分よりも親し気にミシェルと接する男達に苛立ちを感じる様になる。
それが、世間一般で言うところの『嫉妬』であると気が付いたのは、つい最近の事。
それに気付いてしまえば、後はとても単純な話で───。
ああ、これが恋なのか。
クリストフは漸く自分の想いを自覚したのだ。
だが、それを自覚したからって、どうすれば良いと言うのか。
だって恋をしているのは、クリストフ一人なのだ。
『私も契約結婚の方が、都合が良いです』
『二年を目処に、別居を考えましょう』
結婚の契約を結んだ際に、彼女が微笑みながら発した言葉を思い出すと、胸がギュッと苦しくなる。
『母様がずっとここに居てくれるなら、それが一番良いです』
ジェレミーのその望みは、今となってはクリストフ自身の望みでもある。
だが、このままでは、それが叶う事は無いだろう。
ミシェルに無理強いはしたくないが、だからと言って諦める事も出来そうにない。
さて、どうするべきか……。
そう思案しながらウイスキーのグラスを呷ると、氷がカランと音を立てた。