作品タイトル不明
懐かしい子守唄
「つ……疲れた……」
アマーリエの心からの言葉だった。バスルームで磨き上げられ、美容マッサージをされ、パックをされて、頭の先から爪の先までぴかぴかだ。鏡に映る自分はとても美しく見えるが、浴槽にはひとりでゆっくり浸かりたい。その方が絶対に気持ちが良いと、アマーリエは思う。
「やっぱり結婚式もありましたしお疲れですよね」
アンネの言葉に、アマーリエは返す言葉も見つからない。ドレッサーに座って髪を梳かされていたアマーリエは、うとうとと、眠気が本当に襲ってくる。
(うう……まずい。エルヴィス様とも会ってないのに)
そう思うが、眠気は確実に襲ってくる。
「アンネ、なにか飲み物をくれる?」
「冷たいもののほうがよろしいですか?」
「そうね、お願い」
至れり尽くせりである。冷たい果実ジュースを飲んで、アマーリエはふうと、一息をついた。
「奥さま。これで私は下がらせていただきます」
「え? あ、そう。ありがとう、助かったわ」
やっとひとりになれるのか、とアマーリエは内心で喜んだ。
「旦那様はお隣の部屋にいらしているそうでございます」
「……わかったわ」
そうですよね、新婚初夜ですものね、とどこか他人事のようにアマーリエは考えた。
(フェリクス……これって行かなきゃダメ……?)
だって抱く気になるか分からないってあなた言ってたじゃないの……とアマーリエはもう何度目か分からない心の声を弟に向けたのだった。
白いドアの前でアマーリエはごくりと喉を鳴らして立ち止まった。コンコンと控えめにノックをすると、どうぞという声がかかった。
「し、失礼します……」
部屋は深い青色で統一されており、大きな寝台が目に入った。寝間着にガウンを引っ掛けたエルヴィスがソファから立ち上がった。
その姿を見て。アマーリエも覚悟を決める。どんな年上のやもめ男でも構わないと思っていた。実家が助かりさえすれば。そう思えばエルヴィスは、これ以上のないほどの優良物件だ。
エルヴィスは少し困ったような顔をした。あ、これはしなくても済むかも……そう思ったときに、エルヴィスが歩いてくる。
(嫌……怖い……)
アマーリエは自分の手をぎゅっと握りしめた。
アマーリエの前で立ち止まると、アマーリエの頬に手をやった。手は驚くほど熱くて、そして少し震えていた。しかし、そのまま動かない。
それは前妻への思慕故か。
迷っているのだなと察したアマーリエは、エルヴィスの手にそっと触れた。
「エルヴィスさま、無理なさる事ないんですよ」
「え」
「ほら、私との結婚てクラウスさまのためみたいなものですから。クラウスさまという後継もいらっしゃるし、私にむりに気を遣うことはないんですよ」
そう努めて明るく言うと、手を引かれて抱きしめられた。エルヴィスのシトラスの良い匂いが微かにする。それは、なぜか安心できる匂いだった。
「アマーリエ……君はそんな風に割り切れるのか」
その抑えきれない低い声に、アマーリエの鼓動が跳ね上がる。流されそう…アマーリエは目を閉じた。
その時、コンコンと控えめなノックがする。アマーリエは急いでエルヴィスから離れた。
「どうした?」
こちらは幾分、苛立ちを含んだような声をエルヴィスが上げた。
「旦那様。申し訳ございません。アンゼルムです。クラウスさまがお目覚めになりましたが、いかがなさいますか?」
「クラウスが? しかし……」
「連れてきて……!」
アマーリエは思わず声を上げた。見れば夕方に会った執事だった。アンゼルムと言うのね、とアマーリエは思う。
「クラウスさまは、エルヴィスさまと離れて眠ったことがないのでしょう? 連れてきて……いいえ、もしダメというなら私が連れに行くわ」
「アマーリエ……君は」
「連れてきても、もちろん良いでしょう? エルヴィスさま。急に離されてはお可哀想だわ」
その言葉にエルヴィスも頷くと、アンゼルムに向き直った。
「連れてきてくれ」
「畏まりました」
アンゼルムは静かに扉を閉めて出ていくと、少し後にクラウスを抱いて連れてきた。クラウスの頬には涙のあとがあって、アマーリエの心が痛む。アンゼルムからクラウスを受け取ると、高く抱き上げた。クラウスが高く上げられるたびに、きゃっきゃっと笑う。
「あー、良かった。ご機嫌になりましたね、クラウスさま。お父さまはここにいますよ」
エルヴィスにクラウスの顔を見せれば、クラウスは嬉しそうに笑った。
「クラウスさまは、お父さまがお好きなんですね」
「ああ……」
クラウスがエルヴィスに手を伸ばして、エルヴィスはクラウスを受け取るとぎゅっと抱きしめた。
「3人で寝ようか」
「そうしましょう」
広い寝台は3人余裕で横になれた。クラウスを挟んで、エルヴィスとアマーリエは横になる。クラウスはご機嫌だ。
「エルヴィスさま、いま、クラウスさまって夜まとまって眠られますか?」
「ああ。最近やっと良く眠るようになった。しかし、夜明け前に起きることが多いかな」
「それはたいへん。早く寝ましょうか」
「そうだな……」
エルヴィスは目を細める。アマーリエはそれに気づかず、子守唄を歌い始めた。
「懐かしい歌だ……エリーも歌ってくれた」
アマーリエは目線で微笑む。ぽんぽんとクラウスの胸を叩けば、すぐにうとうとと、クラウスはし始めた。
「エルヴィスさまもおやすみなさい。あなたも休息が必要よ」
ふいに大きな手がアマーリエの手を包んだ。アマーリエの胸が少しだけ高鳴る。アマーリエはそれからしばらく、ふたりが眠るまで歌を歌っていたのだった。