作品タイトル不明
オレンジの味と雪の夜
黄昏時の空がしっとりとした冬の重さを纏い、はらはらと雪が舞い散っていた。
「姉さま、そんなに食べて大丈夫ですか?」
フェリクスの問いにアマーリエは、平気と笑うとオレンジを口へと運ぶ。
「つわりのときは食べられなかったけど、今はしっかりたべないとね」
アマーリエの腹部ははち切れそうで怖いとフェリクスは思う。布団の上からでも、急な曲線を描いているのがわかる。
ぱちぱちと、暖炉の火が爆ぜる音が静かな部屋に響く。フェリクスは手帳に目を落とした。
「姉さま、陣痛が始まったら何分おきに来てるのか計測します」
「うん、わかってる」
「あと本で読んだのですけど破水というのもあるそうです」
「……パシャって感じ?」
「そうです、姉さま。よく分かってるじゃないですか。姉さま?」
アマーリエが首を傾げた、その瞬間だった。彼女の瞳から光が消え、代わりに深い泥のような痛みが這い上がってくる。
「姉さま?」
フェリクスの問いかけは、アマーリエが必死に鳴らしたベルの、高く鋭い音にかき消された。
「破水したかも……」
「え、ええ……い、今すぐ産婆を! いえ、お医者様も! 誰か、誰か来てください!」
先ほどまで冷静に計測の重要性を説いていた弟の面影はなかった。フェリクスは弾かれたように立ち上がり、廊下へと飛び出した。
こうして、ローゼンブルグ邸は、出産という嵐の幕を明けたのだった。
「姉さま、大丈夫です。すぐにエルヴィスさまも来ます」
「うん……なんか腰痛い。割れるみたいに痛い……フェリクス、悪いけど腰押してくれない?」
「ええ……こ、こうですか?」
「うん……もっと……もっと強く押して」
アマーリエの言葉にフェリクスは、はい!と生真面目に返事をする。
アンネをはじめとするメイドたちも慌ただしく動き回っている。清潔なタオルとお湯が張られ、室内の熱気が高まっていく。
外では雪が強くなり、静かに降りしきっていた。
「アマーリエ……!」
扉が開いてエルヴィスがアマーリエの枕元に駆け寄ってくる。外套も脱がず肩には雪が溶けたあとがある。その顔は真っ青だった。アマーリエの手を握ると、彼女は軋むような強い力で握り返してきた。
「大丈夫か、アマーリエ」
「ダメ……」
その言葉に男ふたりが言葉もなく立ち尽くす。
「吐く……気持ち悪い……」
アンネが迷いなく差し出した桶に、アマーリエはぐったりと身を委ねた。先ほど食べたばかりのオレンジの甘い香りが、胃酸の酸っぱい臭気へと混ざり合い、室内に生々しく広がる。
涙目で息を切らすアマーリエは、夫と弟を気遣うように、かすれた声で呟く。
「大丈夫……だから……心配、しないで」
振り絞るようなその声に、エルヴィスとフェリクスの顔色が一気に青ざめた。冷静に時計を見ていたアンネが、恭しく頭を下げる。
「エルヴィスさま、フェリクスさま。廊下でお待ちください」
「ああ……しかし、でも」
躊躇するエルヴィスに、アマーリエが懇願するように言葉をかけた。
「エルヴィスさま……大丈夫……だから……お願い、出ていって……」
「それでは外へ」
アンネが恭しくも、きっぱりと言い、扉を開けた。ふたりを扉の外に出して、固く扉は閉まった。エルヴィスとフェリクスは呆然と、お互いを見つめ合った。