作品タイトル不明
消えない匂い、解けない絆
その夜。
ノイエラグーネ伯爵邸の裏庭。剣戟の音が鳴り響く。
月明かりの下、返り血を浴びたエルベアトとフェリクスが背中合わせに立っていた。
足元には、ブラウヴァルト侯爵が放った私兵たちが転がっている。
殺した。初めて人を殺した。
喉が熱くなり胃の腑がかっと熱くなる。今更になって手が震える。込み上げてくるものを、フェリクスは辛うじて押し止めた。
「……洗わなきゃ」
フェリクスはうわ言のように呟いた。
「この返り血を、洗わなきゃいけない。姉さまに見られたら、悲しませる。……この匂いが、消えないんだ。エルベアト、僕は……」
フェリクスが顔を上げると、エルベアトが、今まで一度も見せたことのないような、痛みを分かち合う眼差しで自分を見つめていた。
エルベアトは何も言わなかった。「大丈夫だ」とも「仕方なかった」とも言わなかった。ただ、血に汚れた自分の掌を、フェリクスの震える拳の上に重ねた。
どのくらいの時間が経ったろうか。夜鳥の鳴き声が聞こえる。エルベアトがわざと明るい声を上げた。
「……フェリクス。お前、ヒドイな。本当に死ぬかと思ったぜ」
エルベアトが息を荒げながら木剣ではなく本物の剣を握りしめて笑う。
「……言っただろう。僕は記憶力がいいんだ。……敵の顔も、味方の顔も、絶対に忘れない」
フェリクスの翡翠色の瞳がのろのろと真っ直ぐ前を向く。
彼は、自らの手で「光」を掴み取るために、真っ黒な闇の中へと深く、一歩を踏み出した。
静寂が戻った庭園に、夜の冷気が染み込んでくる。
フェリクスの手にある短剣は、その役目を終えてなお、月の光を冷たく弾いていた。
「……終わったのか?」
エルベアトが膝をつき、剣を杖代わりにして身体を支える。彼の肩は浅く切られ、上質なシャツが赤く染まっていた。
「……いや、これは始まりだよ。エルベアト」
フェリクスは震える手で短剣の血を拭い、鞘に収めた。
「ブラウヴァルト侯爵は、私兵を動かした。これはもはや貴族同士の暗闘ではなく、明白な反逆の証拠だ。……君の父親は、今どこに?」
「……地下の書庫だ。お前に言われた通り、あそこで物流網の書き換えを急いでる。明日、王都の関税局に持ち込むためにな」
その時、邸宅の正面から馬蹄の音が響いた。
一台、二台ではない。地響きのようなその音に、エルベアトが顔を強張らせる。勘弁してくれよ、と彼はつぶやく。
「おい、まさか新手か!? まだいるのかよ!」
「……違う。この足音は、もっと統制が取れている」
フェリクスが門の方へ視線を向けると、そこには漆黒の騎馬隊が整然と並んでいた。
先頭で馬を止めたのは、ローゼンブルグ公爵家の家紋を胸に刻んだ騎士。そして、その背後から音もなく現れたのは、夜の闇に溶け込むような黒い外套を纏ったエルヴィスだった。
「……片付いたようだな」
エルヴィスは馬から降りることなく、転がっている刺客たちの死骸を一瞥した。その声には、称賛も落胆もなかった。ただ、事実を確認するだけの冷徹な響き。
「エルヴィスさま……。どうしてこちらへ?」
「後始末だ。君が戦場を作ったのなら、私はその領土を確定させに来たに過ぎない」
エルヴィスは手綱を握り直し、フェリクスを見下ろした。
「ブラウヴァルト侯爵は、先ほど王宮騎士団によって拘束された。罪状は『物流独占による国家反逆』および『貴族邸宅への不法侵入と暗殺未遂』。……フェリクス、君がエルベアトに渡したあの『穴』のデータ。あれは、元々私がブラウヴァルトを釣るために用意していた餌だ」
フェリクスは息を呑んだ。
(……僕がエルベアトを救うために動いたことすら、エルヴィスさまの盤上の上だったのか?)
「けれど」
エルヴィスが言葉を続ける。
「その餌をいつ、誰に、どう使わせるか。それを選んだのは君だ。結果として、ノイエラグーネ家は救われ、ブラウヴァルトは自滅した。……君の情が、今回は正解を引き寄せたということだ。私ならノイエラグーネごとプラウヴァルトを潰しただろう。ブラウヴァルトが動くことは読んでいたが、まさか君がノイエラグーネを救うという非効率な選択で勝つとは思わなかった。計算外だったな」
(……僕は、僕の友を失いたくなかったんだ)
エルヴィスは一瞬だけ、ふっと笑った。瞳に僅かに温かい色が宿る
「エルベアト・フォン・ノイエラグーネ」
名を呼ばれ、エルベアトが背筋を正す。
「……は、はい」
「君の家は、これよりローゼンブルグの直轄傘下に入る。不満はあるか?」
「……いえ。望むところです」
エルベアトはフェリクスを見やり、少しだけ苦笑いを見せた。
「『鎖』が『絆』に変わるなら、悪くない」
翌朝、アカデミーの門をくぐるフェリクスの足取りは、昨日までよりもずっと重く、そして確かなものになっていた。瞳にはわずかな翳りがあり指先はまだ震えている。フェリクスは拳を握って必死にそれを隠した。
(匂いが……消えない)
すれ違う生徒たちは、ブラウヴァルト侯爵家の一夜にしての没落を知り、恐怖に震えている。
「よぉ、フェリクス。おはよ」
いつもの場所で、肩に包帯を巻いたエルベアトが欠伸をしながら待っていた。
エルベアトの笑顔が、昨夜返り血を浴びた瞬間の顔と重なってフェリクスは少しだけ瞳を伏せた。
フェリクスが小さく拳を握りしめると、エルベアトはその震えを見透かしたように、わざとらしく笑ってフェリクスの肩をぽんと叩いた。
「おはよう、エルベアト。……レポート、書けた?」
その言葉にエルベアトはふにゃりと笑う。
「まさか。昨晩はそれどころじゃなかっただろう? 1限目の経済学、また教授に怒られるな」
エルベアトの目が赤い。彼もまた、眠ることができなかったのだろうとフェリクスは察する。
「……ふふ。仕方ないね。僕のを写させてあげようか?」
「えっ、本当に!? やった…! 恩に着る」
笑い合う二人の背後。
遠く離れた公爵邸の窓から、エルヴィスは静かにアカデミーの方角を眺めていた。
その隣では、アマーリエが心配そうに夫の腕に手を添えている。
今朝のフェリクスはどこか変だった。食欲もないようだった。姉としての直感がおかしいと、それを告げている。
「フェリクスに無理はさせてませんよね……? エルヴィス様」
「……ああ、まあ。君を守るために立派だったよ」
「……お願いですからあまり無理をさせないでくださいね……!」
「はは……すまない。わかったよ」
エルヴィスはそう言って笑うと、アマーリエを引き寄せた。
新しい光と影が混ざり合い、フェリクスの最終学年は、波乱の幕を開けたのだった。