作品タイトル不明
鏡合わせの境界線
放課後、フェリクスは図書室で領地経営学の資料を漁っていた。エルベアトの言葉が、トゲのように胸に刺さって抜けない。
『足元の影に足を掬われるぜ』
万年次席の、いつも飄々としている友人が見せたあの暗い瞳。
(エルベアト、君は何かを知っているのか? それとも……)
ふと、自分の手元を見る。最高級の羊皮紙、義兄から与えられた質の良い羽ペン。今の自分を構成するすべてが、ローゼンブルグ公爵家という巨大な「光」――そして義兄エルヴィスによってもたらされたものだ。
もしこの光が消えれば、自分はまた、あの冷たい石畳の上で震えるだけの存在に戻るのだろうか。
「……いや、そうはさせない」
フェリクスは自嘲気味に呟き、本を閉じた。
リーヴェスヴィンセン家を再興させる。それは単に爵位を維持することではない。姉アマーリエが、そしてエルヴィスが、自分を助けたことを後悔しないだけの価値を証明することだ。
校門へ向かうと、そこには朝と同じ、見慣れた公爵家の紋章が入った馬車が待っていた。
しかし、今日そこに立っていたのは、いつもの馭者だけではなかった。
「……エルヴィスさま?」
馬車の傍ら、周囲の空気を支配するような絶対的な威圧感を放つ男――エルヴィス・フォン・ローゼンブルグが立っていた。
ライヘンベルグ伯爵家を一夜にして葬り去ったその冷徹さを知る生徒たちは遠巻きに去っていく。
「帰るぞ、フェリクス」
エルヴィスの声は低く、淡々としている。だが、その視線は一瞬、フェリクスが歩いてきた校舎の二階――エルベアトがいたはずの教室の窓を射抜くように向けられた。
「はい。……あの、エルヴィスさま。今日はどうしてこちらへ?」
「アマーリエが、君の好物の林檎の菓子を焼いて待っているよ。少しでも早く連れ戻せと」
その言葉の端々に、姉への深い情愛と、フェリクスへの彼なりの配慮が滲む。フェリクスは少しだけ表情を緩め、馬車に乗り込んだ。
豪華な車内、向かい合わせに座るエルヴィスは、一通の手紙に目を通しながら告げた。
「フェリクス。ノイエラグーネの嫡男とは、距離を置け」
心臓が跳ねた。
「……エルベアトのことですか? 彼は、僕の数少ない友人です」
「友、か」
エルヴィスは手紙を閉じ、翡翠の瞳を見つめ返した。そのブルーグレイの瞳は、すべてを見通すかのように冷ややかだ。
「ブラウヴァルト侯爵の影が動いている。あそこは『鎖』を使い、他家の弱みを握って縛り付けるのが常套手段だ。ノイエラグーネが自らその鎖に首を通したのなら、それはもはや救うべき対象ではない」
フェリクスは拳を握りしめた。
エルベアトがノートに描いていた、あの複雑な鎖の紋様。
(エルベアト、君は……あえてその鎖を選んだのか?)
「お前がリーヴェスヴィンセン家を背負うというのなら、情で目を曇らせるな。光が強い場所には、必ずそれを飲み込もうとする闇が潜んでいることを忘れるな」
馬車が走り出す。
夕闇に染まるアカデミーを背に、フェリクスは深く背もたれに身を預けた。
窓に映る自分の顔は、かつての無力な少年ではなく、冷徹な義兄の背中を追う、一人の貴族の貌を成し始めていた。
馬車がローゼンブルグ公爵邸の重厚な門をくぐる。
車内には沈黙が流れていた。エルヴィスの放つ威圧感は、決してフェリクスに向けられたものではないと分かっていても、その鋭利な思考の余波に触れるだけで肌が粟立つ。
「……エルヴィスさま」
「何だ」
「エルベアトは、僕に『肩の力を抜け』と言いました。まるで、僕が無理をしていることを見透かしているように」
エルヴィスは視線を窓の外へ向けたまま、短く笑った。
「弱者ほど他人の変化に敏感だ。生き残るための本能だろう。だがフェリクス、そいつが言った『影』という言葉……それは奴自身の絶望だと思わなかったか?」
フェリクスは息を呑んだ。
ノイエラグーネ家は、領地経営学で次席を取るほどの秀才を出しながらも、家格としては中堅に甘んじている。ブラウヴァルト侯爵家という巨大な「鎖」を自ら受け入れざるを得なかったエルベアトの、あの深い諦念。
「奴は、君という光に惹かれたのだ。ローゼンブルグの庇護を受け、再生へと突き進む君の眩しさに」
馬車が止まる。扉が開くと、そこには温かな灯りとともに、姉アマーリエの姿があった。
「おかえりなさい、エルヴィス様、フェリクス」
姉の微笑みを見た瞬間、車内の凍てつくような空気はやわらかく溶けた。エルヴィスの表情からも険が取れ、彼は自然な動作でアマーリエの肩を抱き寄せた。
「ただいま、アマーリエ。……フェリクスを無事に連れ戻したよ。少しばかり、遅れてしまったかな」
「あら、エルヴィス様、ありがとうございます。フェリクス、いい? 無理はダメよ。今日はとびきり美味しい林檎のタルトを焼いたからね」
「おとーしゃま、フェリクスにいしゃま。おかえりなさい」
温かな食卓。笑い合う姉夫婦。そして嫡子のクラウス。それはフェリクスが命に代えても守りたい光景だった。
しかし、銀のカトラリーが皿に当たる小さな音さえ、今のフェリクスにはエルベアトの描いた「鎖」が擦れ合う音に聞こえてしまう。
(エルヴィスさまは、あの時、迷わなかった)
ライヘンベルグ伯爵家を潰した時、義兄は一欠片の情も挟まなかった。それが姉を、そして自分 を守る唯一の手段だと知っていたからだ。
自室に戻ったフェリクスは、机の上に広げた領地経営学のレポートを見つめる。
ふと、ノートの隅に自分の指が触れた。
そこには、エルベアトの癖に似せて、無意識に描いてしまった小さな鎖の輪があった。
「……僕は、甘いんだろうか」
翡翠色の瞳に、決意と苦悩が混ざり合う。
翌朝、アカデミーの教室でフェリクスを待っていたのは、いつもと変わらない、ふにゃりと笑うエルベアトだった。
だが、その机の上には昨日までなかった、ブラウヴァルト侯爵家の家紋が刻印された封蝋の付いた手紙が置かれている。
「よぉ、フェリクス。……昨日の続きだけどさ。俺、やっぱりレポート見せてほしいな。最後くらい、お前の正解を拝んでおきたくなって」
エルベアトの言葉は軽かった。
しかし、その目は笑っていない。
フェリクスは背筋を伸ばし、真っ直ぐに友人を見据えた。
「いいよ、エルベアト。……その代わり、放課後、僕に少し付き合ってくれないか。君に、見せたいものがあるんだ」
それは、ローゼンブルグの庇護を受けた「弟」としてではなく、リーヴェスヴィンセン家次期当主としての、初めての賭けだった。